闞沢とは、三国時代に登場する人物である。
温厚にして博識な学者
字は徳潤。揚州会稽郡山陰県(浙江省紹興市)の出身。
貧農の出身だったが苦学して学問に励んだ。写本のバイトの傍ら余った紙や墨を使って勉強し、借りた書籍は返す頃には暗唱できるほど読み込んだ。
孝廉に推挙されて県長を務めているところを孫権の招聘を受け西曹掾に任命された。孫権が帝位につくと尚書、中書令、侍中を歴任し、孫権の子である孫和や孫覇に学問を授けた。
孫呉では「乾象暦」という暦を使っていたが、闞沢は『乾象暦注』を著して暦の誤差を修正させた。孫権は朝廷が経典のことで議論になるといつも闞沢に意見を聞いていた。孫権は世の中でもっとも優れた文書は何か、と闞沢に問いただすと闞沢は前漢の賈誼が書いた『過秦論』を勧めて国家の在り方を知ってもらおうとした。専横を極めた呂壱の悪事が発覚し誅殺される時も闞沢は酷刑を行うことに反対し、官吏の不正を防ぐためには法律や刑罰を厳しくするのでなく礼や律に則るべきと説き孫権に賞賛された。
赤烏6年(243年)冬に没。孫権はいたく悲しみ、数日にわたって食事を取ろうとしなかった。
逸話
- 闞沢は謙虚で慎み深く、人の短所を口にせず誰にでも礼儀を尽くした。容姿は威厳を欠いていたが徳行や学識は誰も及ばなかった。同僚の虞翻は闞沢のことを古の名儒を引き合いに出し賞賛している。
- 曹丕が後漢から禅譲を受け帝位につくと、孫権はまだ若い曹丕の世が長きに渡ることを憂いたが闞沢は「丕という字は不と十という字から成り立っており、これは曹丕が十年もせず死ぬ根拠です」と答えた。曹丕は在位七年、四十歳で風邪をこじらせたのが原因で病死している。
この一方で、蜀漢からの使者が来た時に闞沢の名前を漢字によるこじつけで笑い者にした時反論できなかったと史書にはある(代わりに薛綜がその方法で逆に使者をやり込めた)。
三国志演義での活躍
三国志演義に出てくる闞沢は正史とは違った活躍を見せる。
赤壁の戦い前夜、周喩から棒叩きの刑にされた黄蓋を見舞いそれが苦肉の策であることを見抜く。闞沢は甘寧と一緒に黄蓋の謀議に加わり、曹操の元へ使者に赴きその弁舌で黄蓋の降伏を曹操に信じ込ませる。
また関羽の仇討ちで攻めてきた蜀漢軍に連戦連敗し慌てる孫権に対し、陸遜を大都督に任命するよう進言し、張昭らの反対を退けている。
ニコニコ動画における闞沢
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関連項目
- 三国志の登場人物の一覧
- 孫権
- 呉(三国志)
- 苦肉の策
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