- プロ野球選手一覧 > 阿波野秀幸
阿波野秀幸(あわの ひでゆき、1964年7月28日-)とは、神奈川県出身の元プロ野球選手(投手)である。
現役時代は日本ハムファイターズの西崎幸広とともに、好成績とオシャレさから「トレンディエース」と呼ばれた。
概要
中日ドラゴンズ 一軍投手コーチ |
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阿波野秀幸 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 神奈川県横浜市 |
生年月日 | 1964年7月28日 |
身長 体重 |
178cm 75kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 左投左打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1986年ドラフト1位 |
引退 | 2000年 |
経歴 | |
選手歴 コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
亜細亜大学在籍中に東都大学リーグ通算32勝を挙げ、1986年のドラフト会議で3球団からドラフト1位指名を受ける。競合の末、近鉄バファローズが交渉権を獲得。
近鉄時代
1987年、ルーキーながら両リーグ最多の201奪三振を記録。同じく新人の日本ハム西崎幸広とともに15勝を挙げ、勝率は西崎が上回った(阿波野の12敗に対し西崎は7敗)ものの阿波野が新人王を受賞した。
1988年、プロ野球史に残る激戦となったペナントレース終盤の「10.19」のダブルヘッダーに2試合とも登板。2連勝すれば西武ライオンズを抑え優勝という状況で、1試合目に勝利した(阿波野にセーブが付いた)が、2試合目に同点ホームランを浴びる。規定時間を超えたため延長10回引き分けとなり、西武の優勝を許した。
1989年、前年の終盤戦をなぞるように優勝争いがもつれる。「10.12」のダブルヘッダー第2戦に先発登板し、大量リードにも恵まれて勝利を挙げる。シーズン19勝を挙げ最多勝となり、二年ぶりのタイトルを獲得した。日本シリーズは3連勝から加藤哲郎の「巨人はロッテより弱い」発言をきっかけにまさかの4連敗で日本一を逃すも、阿波野は優秀選手に選ばれた。
1990年に2桁勝利(10勝)を挙げたのを最後に、以降は成績が低迷する。
1994年にはプロ入り初のシーズン未勝利に終わり、シーズン後に読売ジャイアンツへの移籍が決定する。
巨人時代
中継ぎを担当し、長嶋監督からレフティーズと名付けられた左腕投手陣の一画にも位置づけられたが、3年間で勝ち星なく横浜ベイスターズへ移籍。
横浜時代
1998年、近鉄時代に投手コーチだった権藤博監督から中継ぎとして多用され、50試合に登板し復活を遂げる。日本シリーズにも登板し、優勝を決めた試合で勝利投手となった。
1999年は40試合に登板するが防御率が6点台と振るわなかった。
引退後
2001年から2006年まで、巨人と横浜のコーチを歴任。2007年に解説業へ転じる傍ら、社会人野球の住友金属鹿島の投手コーチにも就任した。
2012年より、巨人の二軍投手コーチに復帰、2016年より巨人三軍の投手コーチをつとめる。2018年シーズン終了をもって退団。
巨人退団後、中日ドラゴンズの来季一軍投手コーチに招聘されたことが発表された。亜細亜大学の一年後輩にあたる新監督・与田剛を支える役割を担うことになる。
成績
通算投手成績
通算:14年 | 登板 | 先発 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 305 | 148 | 70 | 11 | 75 | 68 | 5 | 0 | .524 | 1260.0 | 410 | 985 | 563 | 519 | 3.71 |
タイトル・表彰
タイトル | ||
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最多奪三振 | 2回 | 1987年、1989年 |
最多勝 | 1回 | 1989年 |
表彰 | ||
新人王 | - | 1987年 |
月間MVP | 3回 | 1987年4月、1989年5月・8月 |
ベストナイン | 1回 | 1989年 |
ゴールデングラブ賞 | 1回 | 1989年 |
関連動画
関連項目
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