阿部正弘(1819~1857)とは、幕末に活躍した大名である。
概要
福山藩主。もっと評価されるべきと何かと言われる人。
阿部正精の6男として生まれる。天保7年(1836年)に父・阿部正精の死によって病弱だった兄・阿部正寧の養子となる。天保14年(1843年)に水野忠邦が天保の改革の失敗で失脚すると、25歳の若さで老中に任じられる。阿部正弘はその後の水野忠邦の老中首座返り咲きに強く反対したため、水野忠邦の地位を弱くし、阿部正弘の権勢を増す結果になったとも。
阿部正弘の政権では、衆議が尊重され、それまでにはなかった様々な人物が幕政に参加していった。いったんは、安政元年(1854年)に日米和親条約の責任を取って辞任を表明するも、将軍や徳川斉昭といった様々な人物に反対され、安政の改革に着手した。
筒井政憲、川路聖謨といったブレーンや、堀利熙、永井尚志、岩瀬忠震、大久保忠寛といった海防掛目付は通商条約締結の立役者となっていき。海防局の構想や蕃書調所の開設による幕臣以外に門戸を開いた教育体制等、安政の改革は進歩的な評価を受けている。しかし急死し、彼の属する一橋派は大打撃を与えられ、井伊直弼政権へと移っていく。
関連商品
関連項目
- 0
- 0pt