陳慶之単語

チンケイシ

陳慶之(ちんけいし)、字は子中国南北朝時代の梁の武将。7,000人の寡兵をもって北陽を陥落させる冒険的遠征を成し遂げた。生没年484~539年。

南北朝時代

一時は下を統一したは北からやってきた異民族され、中国北半を放棄して南半を維持した。
北の異民族は10以上のを立てて五十六時代に突入。その中でチャンピオンとなった北が最初の北国家となる。

南のは有力武将に実権を奪われて滅亡し、⇒(南)斉⇒梁⇒陳といった代々の南国家が形成された。

出自

山の出身。陳慶之少年の頃から斉の皇族であるに仕えた。好きののためにを問わずに相手を務めたのでとても気に入られたという。

陳慶之は当時幅を利かせていた名門の出身でなく、寒門と呼ばれる何ら背景のない柄であったが、君との個人的な信頼関係と才覚によって出世の糸口を掴む機会に恵まれた。の下の寒門出身者で、最も栄達した一人として自身から挙げられている。

雌伏

斉の内乱が起き、これを収めた502年に皇帝として即位して新王を開いた。後世に言う梁の武帝である。青年となった陳慶之は、当初は書・奉請という皇帝に近い文官として宮仕えをする事となる。

しかし、陳慶之は財産を散じて兵士を養い、武勲をあげたいと望んでいた。だが以後の20年間は功名を帛に垂らすほどの機会に恵まれなかったようである。

勇名を馳せる

525年

との徐州紛争から次第に陳慶之は武将としての頭をあらわし始める。徐州からの北の降将を迎える任務にあたり、代わり駐屯する事となった章王蕭綜の護衛を務めた。しかし、蕭綜は裏切って北に亡命してしまう。
変転する事態に陳慶之はすばやく兵をまとめて危機を回避した。

526年

梁から北への侵攻では侯亶に従って寿陽に兵を進め、敵将を降す。さらに52の砦を落とし、7万以上の人民を降した。

527年

宿将の曹仲宗の幕僚となって渦陽攻めに参加する。対する北軍の営は15万にも達し、名将の誉が高い中山元英も名を連ねていた。諸将が慎重になる中で、ただ一人陳慶之先制攻撃を加える事をし、わずか200騎(500との説もあり)を率いて北前軍を撃破して北兵を震え上がらせた。

戦線は1年着し、曹仲宗も撤退を考える中で、陳慶之は弱を叱し、「兵を死地において活路を見出すべき」と異論した。さらに「自分は皇帝から直接の特命をうけている」と言って攻勢をしたので、曹仲宗もその壮計に従った。渦陽には13の砦があったが、陳慶之夜襲をしかけて4つの砦を落として渦陽王緯を降し、残りの9つの砦も梁軍の攻撃によって全て陥落した。こうして徐州方面での梁の頭堡が確保されると、武帝は大いによろこんで手ずから陳慶之の功績を絶賛した。

北伐

529年

北海元顥が梁へと亡命してきた。当時の北爾朱栄という実者が専横を極めており、捲土重来を誓う元顥に感動した武帝は、陳慶之元顥を守って北に送るように命じる。だが、陳慶之に与えられた兵士は僅かに7,000人のみであった。さらに元顥皇帝に即位してしまい、北ヘイトを加算させてしまう。なお、この時の元顥から(仮)での持節・鎮北将軍・護軍・前軍大都督の官位を与えられている(梁での官位は仮節・飆勇将軍)。

丘大千は7万人の兵を擁して9つの砦を守っていたが、陳慶之は一日で砦を3つ落として丘大千を降伏させてしまう。

済陰王の元暉業が立てこもる考は、河川に守られた天然の要であったが、陳慶之水上に塁を築いて攻め込んで元暉業を捕らえた。奪い取った輜重は7,800を数えた。

睢陽戦闘では北軍の諸将が結集して、30万人を号される規模となった。恐れる部下たちに陳慶之は「敵を膾にしてしまえ」と諭して一気に攻め入り、睢陽を奪い取って敵将の一人を捕らえた。北軍は睢陽を包囲したものの、陳慶之に篭らずに3,000騎をもって迎撃して散々に打ち破り、北魯安は降伏した。残った北将軍も単騎で逃げ出すほどであった。

陳慶之の梁軍は陽にまで到達し、北皇帝孝荘は単騎で逃げ出した。さらに近郊の北軍は陳慶之に攻撃に抗せずに次々と降伏した。こうして北伐は成功し、元顥陽へと上した。陳慶之が銍県から出師して140日間に32を落とし、47回の戦闘で向かうところ敵はかったという(ただ、当時の北末期に近く、かなりの混乱状態でもあった。また陳慶之の進軍ルートは南↑北というよりは東←西である)。

洛陽占領

元顥はあまり英邁な人物ではなく、陽の後宮に入り浸って政治を顧みなかった。陳慶之は最初こそ中・大将軍・左大夫となり、一万戸を食む列侯として厚遇されたものの、次第に元顥やその取り巻きに遠ざけられて、危険視されるようになった。陳慶之元顥に梁に援軍を要請すべきだと進言したが(お前みたいなバケモンにこれ以上兵をあたえられるか、今でさえ持て余してるのに)却下される。さらに元顥陳慶之を疑うようになり、密かに武帝へには援軍は要らないと断っている。高齢と仏教への耽溺で碌してしまっていた武帝それならいいやと何ら手を打つことはなかった。

元顥や本からの冷淡さに部下たちは「いっその事、元顥を殺して自立すべきでしょう」と意見したが、陳慶之は聞かなかった。こうしてゴダゴダしていくうちに、北側も体勢を立て直して陽奪還に攻め寄せてきた。

孝荘が率いる軍勢は100万を号しており、爾朱栄高歓といった傑物も面子に入っていた。元顥陽を守ったものの敵せずに捕えられて陽は陥落した。陳慶之は北軍と交戦し、3日のうちに11度戦い、多大な損を与えて一時は退けたものの、大軍に抗しえず、さらに洪水に巻き込まれる奇禍も重なって梁軍は四散した。陳慶之は僧形となって命からがら建業へと落ち延びた。

梁の臣に復帰した陳慶之に右衛将軍。永県侯・一千五戸が与えられた。

梁の宿将

529~532年?

この頃から都督・刺史を兼ね、内政面での才覚も発揮した。梁内の賊徒の討滅にあたり、北将軍たちとしのぎを削りつつ、人民の休息にも心を砕き、大規模な開墾事業を成功させて、作物の倉庫を充足させた。
官は都督南北西四州諸軍事・南北二州刺史にまで至った。

536年

(北が内乱で東西に分裂したもの)の猛将である侯景が7万人を率いて来してきた。たちが援軍に来る中で、陳慶之は大の中でこれを迎え撃った。侯景は輜重を捨てて遁走した。

また、州で飢饉が起こったので官庫を開いて民の救済を行なった。感謝した民たちは武帝に願い出て、陳慶之の頌德を刻んだ記念(碑)が建てられた。

537年

武帝の命を受けて、建康の長干寺如来舍利レンガ造りに携わっている。

539年

55才で陳慶之は亡くなった。散騎常・左衛将軍の位と鼓吹(軍楽)が贈られた。諡は武。長男陳昭が後を継いだ。ちなみに20才年長である武帝は存命しており、侯景の乱は9年後の548年に起こっている。

人物

陳慶之は慎み深い人となりで、詔を受ける時には、必ず沐浴をして身を清めてから拝命した。また手な装や趣味を好まなかった。武将として計略にすぐれ、将才は廉頗牧・衛・霍去病に次ぐものと評された。ただ一騎士としてはに全く通じなかったという。

兵士たちに温和に接したので信望が篤く、彼らの死を良く得る事が出来た。北伐では兵士たちに装束をまとわせていたので評判となり、陽の童謡で「名師大将、千兵袍(どんな名将や大軍でも装束を避ける)」と謳われた。

反面、南人として北人に対する差別意識も持っており、陽で臣に招かれた席では酔った勢いで北人を蛮族呼ばわりし、梁の正当性を高言したので彼らの怒りを買ってしまった。同席していた北人の元慎は鮮やかに反論し、さらに病にった陳慶之を懲らしめ混じりで治療したので、すっかり陳慶之は参り、感してしまった。
梁に帰った陳慶之は北の事を褒め称えるようになり、自分も倣って身の回りを北の様式にめた。この事は模倣を生んで、世間の流行になったという。

梁(いうより日本では物語冒頭)の奸臣として知られる朱异とは面識があり、北の文化に傾倒した陳慶之をいぶかしんだ朱异に対して、陳慶之は釈明、というよりは「北は良いっすよ」と説明を行っている。

子女

陳慶之には少なくとも5人以上の子供がおり、第5子の陳昕は7才にして騎射を善くし、12才でに従って北伐に参加した勇者であった。後の侯景の乱で、侯景に殺される。

陳昕陳暄は文才に恵まれたが飲みで節操がかったという。陳の時代まで生きてに仕えた。陳秀陳慶之の孫)は叔父の素行を常々憂いていたという。

補足

コーエー三國志シリーズでは、いにしえ武将として登場する(時代的には南北朝時代は三時代より後)。

一覧 統率 政治 身体 運勢
三國志Ⅸ 96 25 91 70
三國志11 91 6 90 71 80

関連商品

かつては「南北朝通史内編」や山川出版社の「中国史〈2〉」で触れられている程度であったが。ベストセラ作家である田中芳樹の「奔流」で一躍(中国史好きや読者の間で)有名となる。

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陳慶之

1 ななしのよっしん
2015/02/12(木) 04:48:52 ID: LGb8+NpWZa
ヤン・ウェンリー元ネタという人を見かけたことがあるが、田中芳樹はだいぶ後になるまでこの人を知らなかったので、それはいだろう。
2 ななしのよっしん
2015/02/26(木) 22:42:52 ID: BkU67OonRR
んでもヤンとの共通点は多いよな。元ネタかどうかはさておき。
 ・寡兵でもって大軍を幾度となく破る
 ・軍略としては天才的ながらも、個人的武勇はからっきし
 ・上層部から才を危険視される
3 ななしのよっしん
2016/02/17(水) 23:22:43 ID: Zn5Fc2UlzW
やる気のあるヤン・ウェンリー
4 ななしのよっしん
2016/02/18(木) 20:12:30 ID: LGb8+NpWZa
でも性格的にはビッテンフェルトだよな
5 ななしのよっしん
2017/08/22(火) 23:58:22 ID: +7tM1jomIT
考えてみればこの人、白い悪魔だよな、から見れば
6 ななしのよっしん
2018/10/29(月) 04:45:15 ID: xxa+5/h+PB
田中芳樹陳慶之役とした作品『奔流』は面かったわ
本来なら陳慶之はこの小説の題材となった「鍾離の戦い」に参加してなかったそうだが、まあそこは面かったから許せる