陳琳とは、
ここでは1について説明。
概要
掩目捕雀
字は孔璋。広陵郡洪邑(現在の江蘇省)の出身。はじめ後漢の大将軍だった何進の主簿を勤めていた。
何進は朝廷にはびこる十常侍など宦官の勢力を退けたいと考えており、各地の群雄の力を借りようとしていたが、その時陳琳は「目隠しをして雀を捕るようなものです」(掩目捕雀)とこれに反対した。
何進の横死後は冀州に難を避け、袁紹の幕僚となった。
為袁紹檄豫州文
官渡の戦いの時、陳琳は袁紹のために曹操打倒を呼びかけるプロパガンダ文書を書いた。これが『為袁紹檄豫州文』である(当時の豫州刺史は劉備)。
簡単に説明すると「曹操はピーーまがピーーた奴(=宦官)の孫(=当時の文化で異端とされる異姓養子)で、悪逆非道の限りを尽くす極悪人である。一方、袁紹は正義の為に立ち上がり漢王朝を救おうとしている。協力してください」というもので、まさにこれでもかと言わんばかり曹操の悪行を書きまくっている。
しかし袁紹は曹操に敗れ、袁紹の跡を継いだ袁尚の降伏の使者として陳琳は曹操を訪れるも拒絶され、結局、鄴の陥落とともに曹操の元に引き出される。
曹操は「わしのことだけならまだしも、なぜ祖父や父の悪口まで書くのだ」と檄文の件を持ち出すと陳琳は「引き絞った弓矢は放たないわけにいきません」と答えたという。曹操はそのまま陳琳を許した。
建安七子の一人
陳琳は以降、軍師祭酒として曹操に仕え、様々な文書の作成に携わり「建安七子」の一人と称された。頭痛持ちだった曹操に対し自作の文章を読ませたところ、曹操は大量の冷や汗を流して気分がすっきりしたという。
217年(建安22年)に流行した疫病で、他の建安七子のメンバーと共に死去。
中国南北朝時代にまとめられた名文集「文選」には例の為袁紹檄豫州文と共に、呉の将兵に対するプロパガンダ文書『檄呉将校部曲文』が収録されている。こちらでは前者と違い曹操をべた褒めしている。
「陳琳と阮瑀の章、表、書、記は当世においてもっとも優れている」(曹丕『典論』)
各メディアにおける陳琳
三国演義(テレビドラマ)
官渡の戦いの時、例の檄文を書いたはいいが曹操の頭痛を治してしまった話は『三国志演義』と同じ展開。
また、曹操の悪口を書きまくった檄文を、曹操の命令で袁紹の墓前で読まされる。曹操が己の覇業を振り返り、この檄文があったから今があると述懐する。
蒼天航路
風来坊を思わせる容姿。こちらは曹操の子の曹丕に例の檄文を読まされそうになる。
三国志大戦
Ver2.0の頃から登場している。
Ver3.1で所有している「扇動の計」は相手の武力を上げてしまうが、毒状態にするのでかなり効果的。もっとも城に入られたら意味が無いが。
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関連項目
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