陳登(ちんとう)とは、中国の後漢末期(三国時代)に活躍した武将・政治家である。字は元龍。孫呉絶対追い返すマン。
概要
徐州の平和を守りたい(守れてない)
陳登は徐州太守の陶謙に仕えていた人物で、同じく仕えていた父・陳珪とセットで語られることも多い。
後漢末期、というか三国志序盤の徐州は激動の地であった。最初のきっかけは曹操の父親が徐州で殺された(陶謙が指示したとも、部下が勝手にやったとも言われる)ことで、これに激怒した曹操は大軍をかき集めて徐州に攻め込んだ。徐州のいたるところで大虐殺が繰り広げられるも、陶謙や陳珪・陳登では太刀打ちできず、援軍として来た劉備も防戦がやっとであった。
そんな折に三国一の暴れん坊・呂布が曹操の本拠地に出現、徐州の虐殺に叛意を抱いた陳宮・張バクらとともに城を乗っ取ろうとした。曹操が慌てて呂布に矛先を向けたため、徐州はなんとか陥落しなかったものの、陶謙はほどなく病没してしまった。この陶謙が後継者に劉備を指名し、陳珪・陳登もこれを支持したので、徐州は劉備の支配下となった。
しかし、その劉備が呂布を招き入れると、間もなく呂布の支配下になってしまい、陳珪・陳登もやむなく呂布に従った。呂布支配下の徐州に袁術・楊奉・韓暹の連合軍が攻め込んでくると、陳珪・陳登はかねてから誼を通じていた楊奉・韓暹を寝返らせることに成功、逆に袁術を叩きのめした。
徐州の当主は週替わり
陳珪も陳登も呂布一派のことはよく思っておらず、これを徐州から追い出すために、曹操と裏で連絡を取ったり、袁術と同盟しないよう働きかけるなど、裏工作を行っていた。呂布も陳登が心から従っていないことはわかっているが、かといって地元の有力者なので簡単に除くこともできないので、彼の弟3人を人質として確保していた。
そしてついに曹操軍が呂布討伐に動くと、陳登はその先軍に加わり、人質なんか知るかとばかりに果敢に攻め立てた。これには呂布の部下も「アレを敵に回すと後が危ない」と思ったのか、人質を連れだして投降している。呂布が滅んだのち、陳登は伏波将軍の位を与えられ、広陵太守として以後も徐州の統治に携わった。
のちに(曹操のもとから逃げてきた)劉備が再び徐州の支配権を得るが、あっさり曹操に奪い返されてしまった。そんなこんなで劉備と呂布と曹操と、と徐州の支配者がコロコロ変わり、それに伴って人の出入りも多かったが、陳登はずっと徐州の地に留まり続けたのであった。
孫呉立ち入るべからず
その陳登が本当に目を向けていたのは南方、長江の先の孫策であった。陳登の親族には陳瑀(チンウ)という揚州刺史がいたのだが、彼は袁術や孫策にボコボコにされて揚州を追い出されている。このため、陳登も孫策や袁術を嫌っており、孫策が滅ぼした厳白虎の残党を扇動して反乱を起こさせたりしていた。
これに怒った孫策は陳登討伐の軍を起こし、陳登の治める広陵に大兵力差をもって攻め込んだ。これに対し、陳登は居城の匡埼城に立て籠もり、反撃を仕掛けず、まるで人がいないかのように静寂を装った。そして油断した頃に背後から夜襲を仕掛け、混乱させたところに総攻撃、見事に孫策軍を撃退した。
その後も孫策軍(もしくは孫権軍)が攻め寄せたときには曹操に援軍を要請し、一方で自身は敵軍の退路に伏兵を仕掛け、撤退する敵に大損害を与えている。
この「孫策軍」は、孫策本人が采配をとっていたわけではない(『陳矯伝』だと二度目の侵攻は孫権軍になっている。また、孫策はいずれかの行軍途中で刺客に襲われている)が、それを含めても寡兵で大軍を破る大戦果と言えよう。
陳登は長江・淮水の住民とも親しく、海賊を多数帰順させるなど地盤を固めていた。そこから江南進出を夢見ていたが、その夢は実現することなく39歳の若さで病没した。陳登は以前から孫家の危険性を曹操に進言しており、曹操は長江を望むたびに「陳登の言ったことをもっと早く対処していればなぁ」とつぶやいたという。
エピソード
正史では呂布伝の付記に陳登の話がある程度で、「孫策の軍勢に勝った」という大事があるにも拘らず、意外にも独立した伝が立てられていない。しかしエピソードは豊富で、結構変な人物だったことが窺える。
- 高く評価する人物もいる一方、一部では「傲慢な奴」と評されていた。
- 劉備が劉表のもとに身を寄せていたとき、劉備とともに荊州に来た許汜という人物がいた。劉表が劉備や許汜と天下の名士について歓談していたとき、陳登の話題になると許汜は「あいつは傲慢な奴です。以前私があいつのところに訪問したとき、碌に話もせず、寝るときにはあいつは寝床の上に、私を下に寝かせたのですよ」と語った。
これに対して劉備は「きみはじつにばかだな。そうやって自己中心的で救国の大志も抱かない奴だからそう対処されたんだぞ。俺だったらもっと雑に扱ったぞ」と言い伏せた。
一方で、劉備は劉表に対して「陳登のように文武と胆力、そして志を全て備えた人物なんてものは古代にしかおらず、当世で比肩する人物は探しても見つからないでしょう」と述べた。 - ある時、陳登は配下の陳矯を都に使者として送るが、その際に「どうも都では自分の評判がおかしい気がする。ちょっとよく調べてきてくれ」と命令した。そして帰ってきた陳矯は「あなたは傲慢だと思われているようですよ」と報告した。
これに対して陳登は「いやいや、私は徳と品行の陳紀殿とそのご兄弟、礼と道理の華歆殿、さらに品性・見識・義心の趙昱殿、博覧強記にして非凡なる孔融殿、そして雄才・王覇の才を持つ劉備殿を尊敬しているのですよ。尊敬している者がこれだけいる私が傲慢なワケないでしょう」などと言い放っていた。
本当に尊敬していたのか、皮肉なのかは不明である。一方で、こんなことを頼んだ陳矯には全幅の信頼を寄せていた。
- 劉備が劉表のもとに身を寄せていたとき、劉備とともに荊州に来た許汜という人物がいた。劉表が劉備や許汜と天下の名士について歓談していたとき、陳登の話題になると許汜は「あいつは傲慢な奴です。以前私があいつのところに訪問したとき、碌に話もせず、寝るときにはあいつは寝床の上に、私を下に寝かせたのですよ」と語った。
- 陳登の政治手腕は優れており、陶謙の時代から民に慕われ、畏敬を受けていた。陳登自身もそんな民を誇りとしていたのか「こいつらは役に立つよ」と語っていた。陳登が広陵太守から東城太守に配置転換されたとき、彼を慕う広陵の民が脱走してまで付いて行こうとしたが、陳登は彼らに「私は呉の侵攻を許してしまった。あの戦もたまたま勝てただけなんだ。次の主君はもっといい人なはずだから、皆は心配しなくてもいいんだぞ」となだめ、広陵に帰らせた。
- 陳登は魚の膾(なます、いわゆる刺身)を食べて、それが原因で食中毒にかかったことがある。これを治療したのが名医として知られる華佗で、陳登が彼の煎じた薬を飲むと寄生虫を吐き出し、一命を取り留めたという。
華佗はこの際に「この病は3年後に再発するでしょう」と予見しており、実際3年後に再発して、これが死因となった。
「陳登が生魚を常食していた」という記述はないが、再発したということはきっと以後も懲りずに食べていたのだろう。
このことから、「袁術といえばハチミツ」と並んで「陳登といえば刺身」というネタにされている。 - 「39歳で没した」とある一方で、実は生没年がちゃんとわかっていない。少なくとも孫策(200年没)よりは長生きし、華佗(208年没)が生きているうちに診療を受けているので、そのあたりに亡くなったと思われる。
各メディアにおける陳登
コーエー三國志
『三國志』シリーズでは1作目から皆勤賞。初代ではなぜか父と似た老人顔グラだった(39歳没なのに…)。以降も顔グラが安定しない。
初期は文官寄りの能力だったが、その後孫策撃退が評価されたのか統率・武力も上方修正、平均70台の文武両道の将軍になった。しかしやはり寿命が短い…
真・三國無双
このシリーズにおける陳登および陳珪が語り草になるのは、無双7猛将伝の「呂布伝・小沛の戦い」での脆さはなかろうか。史実通り楊奉・韓暹を寝返らせる役目を担っているのだが、目を離すとあっという間に撤退する。さっさと進んで役目を果たしてもらいたいのに、敵兵が一人でもいるとそこから動かない。2人いるうちのどちらかが撤退しても任務失敗。おまけに前方からは孫尚香などの武将が来るから始末に負えない。
その一方で、東側では工作部隊が伏兵に襲われ、呂布は弩砲に襲われ、張飛が勝手に暴れだすなど面倒この上ない。特に呂布(総大将)は放っておくと本当にやられてしまう。もちろん、総大将なのでやられたら負けである。
陳珪・陳登が撤退すると陳宮が「ああ、陳登が、陳登が」と嘆くのだが、これをイヤというほど聞いたプレイヤーも多いのではなかろうか。
三国志大戦
旧ver.1.0、ver.3.5の2枚が存在する。どちらも「陳珪&陳登」と父子セット扱いになっている。劉備に味方したためか蜀勢力扱い。
旧ver.1.0では1コストの槍兵で「挑発」計略持ち。自ら挑発して迎撃できるという強みはあるものの、同コスト同計略で機動力のある張松が「城内挑発」というバグ技で猛威を振るったため、こちらはあまり見向きもされなかった。後に「挑発」そのものが下方修正され、何もしていないのに割を食った。
ver.3.5では1.5コストの新カードとして登場、裏切り者キャラが強く押し出され、リスクを孕んだ暴乱計略「賢毒の乱」を持ってきた。使うと知力が上がる一方で、毒によって兵力がジリジリと下がっていき、最終的に8割くらい削られてしまうあまりの毒ダメージに敬遠され、修正されたが流行るほどにはならなかった。
関連動画
陳登に関する動画は特に見当たらなかったので、代わりにおいしそうなお刺身の動画を置いておきます。
関連項目
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