「陳祗(チンシ)」(???年~258年)とは、三国志に登場する蜀漢の政治家である。演義には登場しない。
概要
汝南出身。蜀漢の司徒を務めた許靖は祖父の弟にあたる。幼い頃に孤児となり、許靖に引き取られて養育された。
慎み深い性格、威厳のある容姿、豊かな才能を備えていた。
二十歳で名声を得て出世し、選曹郎(人事担当)に任官した。
費禕(ヒイ)に抜擢され、国政の重鎮だった董允や呂乂(リョガイ)が亡くなると後任を務めた。
費イが暗殺されると、陳祗が皇帝を補佐して国政を司った。
皇帝劉禅からの信頼は篤かったが、陳祗は「諫言を行わず、人材を推挙せず、宦官(黄皓)を用いた」と陳寿から批判されている。
陳祗の台頭に至るまで
諸葛亮の死後、蒋エンが政権を担った。
費イは、蔣エンの後を追うように昇進した。
蔣エンが録尚書事に昇進すると、費イが後任の尚書令となり、蔣エンが病気を理由に権力の頂点から身を引くと、費イが大将軍と録尚書事を引き継いだ。
蒋エンは成都へ戻らず涪城に駐屯し、姜維を昇進させるなど、最期まで北伐遂行の意欲を示した。
費イが録尚書事に昇進した際、侍中だった董允が尚書令を兼任。
費イと董允は仲が良く、皇帝劉禅が皇太子の頃から属官として共に働いた経歴があり、董允は内政・軍事いずれでも費イを補佐した。
しかし246年に蔣エンと董允が相次いで亡くなると、費イ一人に権力が集中していく。
董允が兼任していた官職の内、侍中は費イが抜擢した陳祗が就任。
尚書令は重臣の呂乂が継いだが、251年に呂乂が亡くなると陳祗が継いで侍中と兼任する。
費イは自分の腹心である陳祗を、盟友だった董允と同じ地位まで引き上げたことになる。
一方、録尚書事は費イだけでなく姜維も任命された。官職からすれば、姜維が費イの後継者である。
費イは漢中で臣下の最高権力者として内政・軍事の全てを仕切った。一度は成都に戻ったが、すぐに都を出て梓潼に駐屯し、幕府を開いた。
費イは北伐に反対の立場だったと言われており、姜維にも自重を促していたとされる。
(「丞相でさえ成し得なかったこと、我らには無理だ」という記述は『漢晋春秋』から裴松之が引用した)
しかし晩年の費イは前任者たちと同様に独裁的な権力者として漢中に留まり、孔明が北伐遂行の為に構築して蔣エンが継承した統治体制を再現している。
253年、魏から降っていた郭循に殺害された。郭循は涼州の名士だった。
※録尚書事・・・丞相に次ぐ役職。丞相は諸葛亮が務めた後は永久欠番で、録尚書事が事実上の宰相職。
※尚書令・・・皇帝が読む上奏文を事前にチェックする尚書たちの上司。
※侍中・・・皇帝の相談役。
陳祗の働き
三国志で陳祇には独立した伝がなく、具体的な事績もほとんど不明である。
侍中と尚書令に加えて鎮軍将軍の職も兼任したが、この将軍職はただの名誉職だったようである。
費イの死で政権担当の順番が回ってきた陳祗だが、尚書令の地位に留まった。
上司である姜維と衝突したという記述もない。
西暦253年~258年にかけて、姜維はほとんど成都へ戻らなかった。そしてこの期間、北伐を行った。
連年の北伐は臣民に多大に負担を強いるものだったこと、さらに段谷の戦いで蜀軍が大敗したことから、蜀臣の譙周(ショウ周)は反対運動を行った。
劉禅の信頼篤い学者だった譙周(ショウ周)は、北伐を止めるべく陳祗を相手に論戦を挑みその内容を『仇国論』に著した。
ここで陳祗が論争相手に選ばれているので、陳祗は北伐の推進者だったようである。
※仇国論において陳祗がモデルになったとされる人物は主戦論を唱えており、漢の高祖劉邦の軍師張良の言葉を借りて戦争継続の必要性を説き、敵対国に内紛が起きている今こそ攻撃すべきだと主張した。
陳祗が失脚せず、またその地位から考えて諸葛亮・蔣エン・費イほどの強権は持たなかったとすると、北伐継続には皇帝劉禅の強い意志が働いていた可能性もある。
陳祗は西暦258年に病死した。
劉禅は嘆き悲しみ、陳祇のことを思い出す度に涙を流した。
陳祗は生前の活躍を讃えられて忠侯を諡された。(具体的な事績は史書に記されなかったが)
陳祗の二人の息子は劉禅に取り立てられた。
陳祗亡き後の蜀漢
陳祗の死後、数年の間は北伐が実施されなかった。
姜維は成都に戻り、不慣れな政治に携わることになった。
その間に董厥、諸葛瞻が平尚書事(録尚書事に次ぐ重職)、樊建が尚書令に昇進して国政を担った。
彼らは宦官黄皓や対呉戦線を担う閻宇と手を組み、姜維を成都に留めることで北伐の阻止を図った。
政権の第2位、第3位を含む重臣たちがトップの姜維を失脚させようとしたわけである。
姜維の更迭は劉禅が拒否したが、黄皓排斥を訴えた姜維の上奏も取り上げなかった。北伐反対の世論の声は大きかったと思われる。
姜維が北伐を再開したのは西暦262年で、その頃には魏の鄧艾(鄧ガイ)が涼州の統治を安定させていた。
拠点を確保して長期遠征を可能とした魏軍は翌年、蜀へ侵攻。蜀漢は滅亡した。
陳祗の子供の内、兄の陳粲は没年不明。
弟の陳裕は諸葛京(諸葛瞻の子)や費恭(費イの子)たちと共に、羅憲の推挙を受けて晋国に仕官し、出世した。
死後の評価
董允伝によると、陳祗は諫言しない、人材を推挙しない、宦官を重用して災いを招いた、と何で費イに見込まれたのか理解に苦しむ無能振りである。
董允の死後に黄皓と組んで董允の悪口を劉禅に何度も吹き込んだ結果、故人の忠義に敬意を払っていた劉禅が菫允を嫌悪するようになった事件が董允伝に記されている。
自分を侮った龐宏を冷遇したという事件も龐統伝に記されている。
(ホウ宏はホウ統の子。剛直な性格で、太守在任中に船が転覆して溺死)
ただし陳祇が引き立てた黄皓を陳寿が嫌っていたという関係は、考慮した方がよいかもしれない。
また黄皓が政治に口を挟んで混乱が生じたのは陳祇の死後のことであり、その時は成都の重臣たちが協力していた。
なお陳祗の息子を晋に推挙した羅憲は、ショウ周の学問の弟子だった。
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