雲鷹単語

ウンヨウ
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雲鷹(うんよう)とは、大日本帝國海軍の商船改造空母である。

概要

前身は日本郵船客船八幡丸。大東亜戦争の勃発で姉妹船ともども帝國海軍に徴用され、空母へと装される。空母に転身した後は航空機輸送に従事し、各拠点に届けて回った。

姉妹船の中では最も長生きしたが、1944年9月17日台湾潜水艦バーブの撃を受けて沈没した。

排水量1万7830トン、全長180.24m、全幅22.5m、喫8m、出2万5200、最大速21ノット。武装は12cm単装高4基、25mm三連装機2丁、25mm連装機4基。

艦歴

八幡丸時代

1940年に東京オリンピックが開催される事が決まり、多数の訪日客が来る事を見越した日本郵船は、旧式船が多かった欧州航路を刷新する意味合いも込めて新たに3隻の大客船を発注した。このうちの1隻が八幡丸であった。春日丸は奈良春日大社から、新田丸は東京新田神社から、そして八幡丸は京都の石清水八幡宮からそれぞれ取られた。建造には優秀船舶建造助成施設を適用し、軍から建造費を助成してもらった。ただし有事の際は軍に徴用される条件が課せられた。

1937年9月三菱重工長崎造船所に発注751番船として1938年12月4日に起工した。1939年10月31日に進し、1940年7月31日工。八幡丸が工した時には既に第二次世界大戦が勃発しており、照丸の触沈没の件もあって欧州航路は閉鎖されていた。このため北航路に就役し、まずシアトル線に加わった。さっそく8月21日から航を始めた。しかし日関係の悪化と戦争の足音が次第に大きくなり、八幡丸が客船でいられたのは1年程度だった。

第6次航を終え、1941年8月27日横浜へ入港。10月21日軍が徴用し、11月25日には呉鎮守府所管の特設空母定される。客船の身分を捨て、戦うための軍艦へと転身する運命が定まった。この工事は客船に戻す事が不可能なくらい底したものだった。

大鷹型空母雲鷹

1942年

大東亜戦争戦後の1942年1月装工事に着手。プロムナードデッキより上の構造物は撤去され、航空機用の格納庫となった。更にその上には飛行甲が設置された。船体前後の船倉は弾薬庫やガソリンタンクに改造機関は客船時代のものを流用したため、速21ノットに留まった。八幡丸に先立って春日丸の装が行われていたため、スムーズに工事は進んだ。5月28日試を行い、同31日に工事了。連合艦隊に編入され、初代艦長として慶譲大佐が着任。自前の航空隊が配備された。6月ミッドウェー海戦の戦訓から25mm三連装機3基を追加装備。7月14日航空機を搭載した。

正規空母にも劣らない装備を持っていたが、21ノットで低速だったのと零戦や九七式艦攻の運用に制限がある事から一線級空母とはなりえなかった。その一方で航空機輸送艦として見れば優秀な艦だった。ゆえに航空機輸送の任務が与えられた。

7月25日駆逐艦潮とに護衛されて瀬戸内海西部を出港、横須賀へ回航された。最初の任務はラバウルへ進出する第2航空隊を輸送する事だった。サイパンを経由し、トラックで機材と基地員を降ろした。事任務を遂させ、8月14日に帰投。その後、瀬戸内海西部に回航されてで艦載機の発着艦訓練に使用された。同27日、機の装備命が下った。

少し遡って8月1日軍が船体を購入。8月31日軍艦雲鷹と命名され、呉鎮守府に編入。大空母に定められた。艦内にあった麗な調度品や美しい内装は撤去され、正式に軍艦となった。9月2日横須賀へ回航し、航空機弾薬55トンを積載。4日に出港し、駆逐艦雪風に護衛されながらサイパントラックラバウルに寄港して9月18日へ帰着した。第二次ソロモン戦で損耗した第一航空艦隊用の補充機を積載し、トラックに運び込んだ。次の輸送では第11航空艦隊用の艦戦を横須賀で積み込み、10月16日トラックへ送り届けた。この頃に自前の航空隊を降ろされ、輸送に特化した。

今度は南西方面に進出し、パラオダバオ、スラバヤ、バリクパパンの輸送任務に従事するが、中の11月11日潜水艦シーウルフに発見され、攻撃こそ受けなかったが危機が迫った。12月2日夕刻、スラバヤに到着。ニューギニアに進出する陸軍第11飛行戦隊45機を積載し、バリクパパンで燃料補給。12月13日トラックへ寄港して資材を降ろした後、スラバヤで第1飛行戦隊33機を積載した。

1943年

長い輸送任務を終え、19431月10日横須賀へ到着。船体の整備を受ける。翌11日、にあおられて特務艦大瀬と接触事故を起こした。同18日から三菱重工横浜造船所に入渠し、艦首と艦尾に25mm三連装機をそれぞれ2基ずつ装備した。1月24日に出渠。2月1日姉妹艦大とともに九九式双発軽爆撃機36機を輸送して横須賀を出港。2月7日トラックへ到着し、そのまま横須賀へ帰投した。

その後も献身的に輸送任務に従事していた。

4月25日冲鷹とともに第25航空戦隊及び第251航空隊の零戦60機をトラックに輸送。6月16日にも冲鷹航空機輸送に臨み、横須賀トラック間を幾度とく往復。しかし戦況の悪化は、中に敵潜の出現を招いた。トラックに入港する直前の8月5日午前2時潜水艦ティールヘッドから6本の魚雷が放たれる。幸い命中しなかったが、危険な一幕だった。

11月30日ニューギニアソロモン方面から退却してきた人員や、撃沈されたスカルピンの捕虜21名を乗せてトラックを出港。伴走者は冲鷹重巡摩耶瑞鳳駆逐艦浦風であった。しかし暗号解析によって船団の動きは既にアメリカ軍に読まれており、中に3隻の潜水艦が待ち伏せていた。さっそくスケートから3本の魚雷が伸びてきたが、雲鷹は回避に成功。しかし12月4日にセイルフィッシュ撃を受け、冲鷹を喪失してしまう。姉妹最初の犠牲者が出た。翌5日、横須賀へ入港。冲鷹を失っても輸送任務は続き、12月12日から29日にかけて横須賀トラック間を一往復し、航空機を運んだ。

輸送任務中の12月15日、新たなに創設された上護衛総部の所属艦となる。

1944年

1944年1月4日瑞鳳や護衛とともに横須賀を出港。いつものようにトラックへの輸送任務を行い、帰路についた1月19日サイパン潜ハドックから6本の魚雷攻撃を受ける。そのうちの2本が前部船倉に直撃し、艦首を大破。幸いにも航行可だったので駆逐艦波に護衛されながら、何とかサイパンに寄港。湾口が狭かったので、外洋に投錨せざるを得なかった。工作明石から応急修理を受け、破損した艦首の切断と船体・甲の補強を行った。1月23日トラックから護衛の任を帯びた駆逐艦潮が到着。同27日、サイパンを出港。中で潜カジョンとソーリーが出現し、手負いの雲鷹を狙ってきたが、潮の爆攻撃で撃退された。2月7日には損傷した艦首が切断される事故が起きたが、翌8日に横須賀へ入港。一命を取り留めた。まず飛行甲板前端を10m延伸し、対兵装を強化する工事を受けた。4月1日から修理が行われ、6月28日に出渠。8月12日戦艦等とともに横須賀を出発し、に回航された。

8月15日九州シンガポール間を担当する第1上護衛隊に転属。南方航路には潜水艦跳梁跋扈しており、次々に輸送船が沈められていた。そこで上層部は大を護衛空母として運用し、対潜させる苦の策を講じた。それに伴って第931航空隊の九七式艦上攻撃機12機が配備された。8月25日午前6時30分、門を出港。タンカー9隻からなるヒ73船団を護衛。午前11時40分、潜望を発見し海防艦千振と協同で攻撃を実施。9月1日、ルソン峡にて搭載の九七式艦攻が潜水艦ニイを発見。14時35分、潜航中のタニイ60kg爆弾2発を投弾し、左舷後方で炸裂。至近弾となる。衝撃で後部発射管前方の耐圧殻が変形し、発射管のジャイロ調整装置の大半が破損した。続いて海防艦千振と特設運送船讃岐丸が爆投射を行い、タニイは中破。故障と浸によりハワイへ後退した。9月6日に船団はシンガポールへ入港した。9月10日、帰路にシンガポール発門行きのヒ74船団5隻を6隻で護衛。

9月17日午前0時40分、海南島東方潜水艦バーブが発射した魚雷2本が直撃。航行不能に陥り、午前7時30分に沈没した。乗員と便乗者合わせて約900名が死亡生存者761名は海防艦千振、第27号海防艦重巡洋艦妙高に救助された。1944年11月10日、除籍。

戦後1982年9月15日、元乗組員と遺族からの浄財によって軍艦雲鷹戦没者之碑が建立された。

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