雲龍(航空母艦)とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍(旧日本海軍)が建造・運用した雲龍型航空母艦1番艦である。1944年8月6日竣工。輸送任務に励んでいた12月19日、東シナ海で米潜レッドフィッシュの雷撃を受けて沈没。
概要
空母戦力を早急に拡充するべく、新規設計ではなく飛龍型の設計を流用した。このため飛龍型に準じているが、所々改良が施されている。まず問題化した左艦橋を従来通り右舷前方に是正。ミッドウェー海戦の戦訓により消火装置を炭酸ガス方式から泡沫式に変更し、ガソリン漏れに備えて通風機能も強化された。機関部と煙突の配置は飛龍型とほぼ同一となった。このように様々な改良を受けているため、改飛龍型とも呼称される。量産性の向上も視野に入れられており、量産型空母の決定版となった。要目は全長227.35m、全幅22m、排水量1万7150トン、出力15万2000馬力、最大速力34ノット、重油積載量3750トン、乗員1100名。搭載機は零戦15機、九七式艦攻20機、九九式艦爆30機。
艦歴
期待の新型空母は国難を祓えるか
1941年11月、アメリカとの戦争が秒読み段階に入っていた帝國海軍は戦時建造計画(マル急)を策定し、空母第302号艦の仮称で建造が決定。
開戦後の1942年8月1日に横須賀工廠で起工、1943年7月31日に軍艦雲龍と命名され、9月25日に進水し、1944年7月16日に竣工直前の雲龍を写した写真が撮影された(残されている唯一の写真)。そして8月6日に竣工を果たした。艦長に小西要人大佐が着任するとともに佐世保鎮守府に編入される。8月10日、就役した2番艦天城と第3艦隊第1航空戦隊を再編、横須賀を出港して東京湾で試運転を行う。
雲龍が就役した頃、米機動部隊は小笠原諸島と硫黄島を立て続けに空襲。これに対処するべく連合艦隊は雲龍を基幹とした急襲部隊を編制する。内訳は雲龍、軽巡五十鈴、第41駆逐隊(霜月、冬月)の計4隻。出撃に備えるため東京湾で訓練を続け、また流星艦爆のロケット発艦実験にも協力している。しかし米機動部隊は通り魔的な空襲だけに留めて退却し、出撃の機会を逸したため急襲部隊は解散となった。
9月26日、駆逐艦霜月と冬月に護衛されて横須賀を出港し、27日から30日にかけて呉に寄港した後、柱島泊地に回航。瀬戸内海西部で猛訓練を実施して乗組員の錬成に注力した。しかしマリアナ沖海戦で壊滅した空母機動部隊の再建に目処が立っておらず、艦載機と搭乗員は配備されなかったという。10月1日に3番艦葛城が竣工して戦列に加わる。10月30日から11月7日まで小沢治三郎中将が座乗する機動部隊旗艦を務めるが、11月15日に第3艦隊そのものが解隊されてしまったため第1航空戦隊は連合艦隊に属する。
航空機も搭乗員もいない雲龍型は瀬戸内海から出る事すら叶わず、一時は大鷹型のように航空機輸送艦として運用する計画もあったようだが、神鷹と信濃を失った事で断念された。しかしここで一つの転機が訪れる。
12月7日、雲龍は戦況が悪化の一途を辿るルソン島へ補給物資を輸送する任務を命じられ、12月10日に呉へ入港する。ところが12月13日朝、スールー海にて米第24師団を乗せた輸送船団が発見され、敵の狙いは首都マニラの攻略だと判明。これを受けて神雷部隊の桜花30基と滑空飛行第1戦隊及び陸軍滑空歩兵第1連隊約1000名とその資材をマニラへ緊急輸送する事が決定。12月16日、雲龍の周りを無数の艀が取り囲み、物凄い熱気を帯びた港湾労働者によって物資や弾頭を抜いた桜花を格納庫下部デッキへ次々に積載していく。緊急輸送には龍鳳も参加予定だったが出港準備が遅れたため雲龍が先行する形となった。驚異的な速さで1500トンの物資と人員を積み込んで作業完了。一方、米第24師団はルソンではなく南部のミンドロ島へ上陸している事が分かり、マニラへの攻撃は一先ず無いとして出発予定日が一日繰り下がった。
12月17日午前8時30分、ダズル迷彩に塗装された雲龍は駆逐艦時雨、檜、樅に護衛されて呉を出港、今や敵潜水艦の巣窟と化している豊後水道ではなく下関から外洋へ出るルートを選択し、夕刻に下関海峡の入り口に到着して一晩明かす。そして翌日午前7時、関門海峡を通過する際に下関の人々が手を振って見送ってくれた。外洋に出た雲龍は第52駆逐隊(檜、樅)と時雨を引き連れて朝鮮半島南岸へ向かう。そこから東シナ海を通って上海方面へと航行する大陸接岸航路を取ろうとするが、済州島の北西で台風に襲われて予定に遅延が発生。12月18日、どうにか辿り着いた朝鮮海峡で水中聴音で敵潜らしき音を2回探知し、これを回避。夜になると敵潜のものと思われる英会話が傍受され、また敵のレーダー波も2回探知された事から予定の航路を変更するとともに対潜見張りを厳重にする。
12月19日午前9時、速力18ノットにて一斉回頭と之字運動を実施、正午頃に舟山列島東方に到達した。折からの台風で空は暗く、海は大荒れの状態だったが、徐々に落ち着き始めていたため対空及び対潜見張りを再開。14時頃、雲龍が南に舳先を向けた瞬間、浮遊機雷を発見して慌てて回避運動を実施。また15時頃になると再び天候が悪化して激しい波浪が船体に打ち付けるようになり、小西艦長は見張りを止めさせて水中聴音器による索敵に切り替える。同時に隊形変更が行われ、時雨は雲龍の左舷前方、樅は左舷中央、檜は右舷前方に占位。16時に針路を南へ向けるがこれがまずかった。その先には敵潜水艦が待ち伏せていたのである。
最期
1944年12月19日16時24分、中国沿岸冲を遊弋していた米潜水艦レッドフィッシュはウルトラ信号により重要な機動部隊が南下中との報せを受け、マクレガー艦長は大物だと小躍りした。間もなく日本軍の対潜哨戒機が飛来して爆雷を投下してきたが「これは空母の偵察機だから間もなく近くを通る」と逆に確信を抱く。そして16時27分、潜望鏡に空母の巨体が入ってきた。さっそく最大潜水戦速で接近するレッドフィッシュに更なる幸運が訪れる。雲龍は潜水艦を警戒してジグザグ運動を取っていたが、かえってそれがレッドフィッシュに右舷船腹を見せる格好となったのである。余計な位置調整の手間も無くただ進むだけで適切な雷撃位置につけた。
16時35分、中国三門湾沖東方212kmにて水中聴音員が右30度方向からの魚雷音を報告し、小西艦長は全速力で右側への回避運動を命令。新型空母だけあって満足のいく速さで巨体が動き、3本の魚雷が艦尾をすり抜けていった。しかし右前方から伸びてきた4本目の魚雷はかわし切れず右舷艦橋下に直撃。艦内に爆発音とともに激震が走り、衝撃で海図台のガラスが割れ、誰もが被雷を予期した。破孔から流入した海水により第1機関室が浸水、故障のせいで隔壁を降ろせず、そのまま第2機関室も満水となって航行不能に陥ってしまった。海水を飲んだからか右舷へ3度傾斜したため飛行甲板上のトラックを海中投棄して復元。可燃物を載せた艦尾の倉庫から出火する中、敵の潜望鏡を発見して機銃による掃射を実施。
マクレガー艦長は未だ健在な雲龍を見て第二斉射が必要だと感じたが、後方から接近してきた駆逐艦檜が艦尾魚雷発射管の射線上に乗った事に気付き、雲龍より先に檜を沈めようと考えた。だがこれは迂闊だった。16時42分、艦尾から放たれた4本の魚雷は檜に回避され、レッドフィッシュは発射管に魚雷が装填されていない状態に陥る。目先の獲物に気を取られた結果、攻撃の手段を失ってしまったのである。マクレガー艦長は己の判断ミスを呪いながら魚雷装填を命じる。雲龍でも乗組員たちが汗だくになりながら復旧作業に努めている。どちらが先に作業を終わらせるのか――。檜が対潜掃討する中、魚雷1本を装填し終えたレッドフィッシュはこれ以上は待てないと言わんばかりに突進を開始、そして16時50分に魚雷を発射する。永遠とも思える45秒間の先に爆発音が響いた。
雲龍では順調に復旧作業が進んでいた。防火壁を降ろして乗組員居住区の消火に成功し、失われていた艦内電源も復旧、8号ボイラーで火災が発生して停止しなければならなかったが、それ以外のボイラーは上手く稼働して艦が僅かに動き始める。そこへレッドフィッシュが放った1本の魚雷が右舷側から伸びて来るのを発見、機銃が火を噴いて被雷前に破壊しようとするも、右舷艦橋下に命中。ちょうど爆弾と魚雷が積載されている部分であり、それらに誘爆して大爆発が引き起こされ、雲龍の運命は一気に暗転した。火山の噴火を思わせる猛烈な爆発は雲龍の命を奪うには十分過ぎる破壊力を有しており、右舷へ大傾斜するとともに急速に艦首部分から沈み始め、逆立ちするように艦尾を空に掲げる。乗組員一同は艦が破滅の道を辿っている事を理解せざるを得なかった。ボイラー室に流れ込んだ海水は機関要員を例外なく溺死させ、数分のうちに右への傾斜は30度を超えて飛行甲板の積み荷と航空機はボトボトと海に落下していく。小西艦長は総員退艦を命じて自身は艦内に留まろうとする中、ふと飛行甲板に目をやる。そこでは慌てる事無く「天皇陛下万歳」を唱和する乗組員の姿、未だ敵の潜望鏡に向けて機銃を撃ちかけている機銃手の姿があり、艦が絶望的局面に陥ってもなお責務を果たそうとする部下の行動は、これから死出の旅に出る小西艦長にとって大いなる励ましとなったのだった。
16時57分、雲龍の傾斜は90度に到達し、海中へ引きずり込まれるように艦首から沈んでいった。60名の将校と1172名の乗組員、6名の民間人が死亡。荒れる灰色の海はカッターによる救助を拒んだため、時雨と樅は舷側に縄梯子を降ろして生存者の救助を行い、士官1名、下士官と兵87名、民間人57名のみが助かった。
駆逐艦檜はレッドフィッシュへの復讐に燃えて対潜掃討。マクレガー艦長は雲龍の最期を潜望鏡で観測していたが、あまりに激しい沈没に目を奪われてしまい、その隙を檜に突かれる事となる。檜は潜望鏡を発見して突撃を開始、一拍遅れて接近に気付いたレッドフィッシュは慌てて潜航退避を行うも、投下された爆雷により艦は激しく揺さぶられた。このうち7発は危険なほど右舷艦首付近で炸裂していて水中とは思えない勢いで左側へ吹き飛ばされる。間もなく第52駆逐隊は中国沿岸に向けての航行を再開したため、レッドフィッシュは命からがら助かった。だがこれ以上の任務続行は不可能なほど痛めつけられたので帰投するしかなかった。
1945年2月20日、除籍。雲龍の沈没により後発の龍鳳は台湾に桜花を届けた。
関連項目
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