零式艦上戦闘機とは、大日本帝国海軍によって運用されていた艦上戦闘機である。
通称は零戦、ゼロ戦。また、連合国側からはゼロファイター、ジーク(Zeke)とも呼ばれていた。
概要
主な特徴として、
などを持つ。
特に、日中戦争及び太平洋戦争前半はその運動性能と航続距離を生かし、敵戦闘機を圧倒したといわれる。操縦性もいいことから初級者にも扱いやすい機体だった。
しかし、戦争半ばになると、米軍のF6FやF4U、P-38やP-47などが登場したほか、後継機の開発の致命的なまでに遅延。零戦自体も改良を重ねたものの装甲の薄さや、エンジンの出力限界にともなう速力不足、搭乗員の技量低下、工作精度の著しい悪化、それによる稼働率低下などもあいまって、戦闘機として急速に色褪せていった。
一部の機体が米軍に鹵獲されたことによって機体特性が明らかになり、弱点を徹底的に突かれる戦い方が浸透したことが大きな原因であった[1]。米軍は日本陸海軍に比して、こういった新戦術を誰でも分かるよう、様々なマニュアルで浸透させることが巧みであり、日本軍はソフトウェアの側面でも大幅に劣後していた。
しかしF6Fヘルキャット等、敵新型機に全く通用しないわけではなく、1945年2月の関東防空戦では改めて零戦の格闘能力の脅威が報告された。ポートダーウィン戦ではイギリス軍のスピットファイアを一蹴もしている。
要は有利なシチュエーションをいかにして作りだせるか、ということである。これはどのような戦闘機にも言える条件である。そして零戦は、零戦そのものだけではなく、海軍航空隊そのものの急速な崩壊に伴い、それを行うことが極めて困難な状況に追い込まれていったのだ。故に「烈風」が間に合っても、戦況には大差なかったと思われる。
最終的に米軍機と戦うには性能不足となり、終戦間近には特攻機としても使われた。かの神風特攻第一号、関行男大尉の乗機も零戦であった。後には当初より特攻任務も想定した、戦闘爆撃型(六二型)も量産されている。
数多くの型が存在しており、微妙に細部や塗装が代わったりしている。
ちなみに後継機として『烈風』が開発中だった。もっとも開発はエンジンの選定や開発チームメンバーの病気なども相まって戦時中には間に合わず、水上戦闘機から改造された局地戦闘機である「紫電改」などが後継機の代替とされた。
単発のレシプロ飛行機(艦爆とか、終いには米軍機でも)を見ると「ゼロ戦」と言う据え置き型家庭用ゲーム機を全て「ファミコン」と呼ぶオカン的な風習は止めて欲しい…けど見た目で区別が付かないんだから仕方ないね…。ペディキュアとマニュキュアの区別、チューブトップとキャミソールの区別、サイハイソックスとニーソックスとハイソックスの区別、シャギーとレイヤーの区別、バルーンスカートとキュロットと提灯ブルマとかぼちゃパンツの区別、バルファンとオーデコロンの区別が多くの軍オタには無理な様に…。
豆知識
- 真珠湾攻撃で使われたのは二一型(ちなみに緑色ではありません)。
- 海軍が運用していた(非ミリオタの人は空軍だと勘違いしている人が多いみたいです。当時の報道で陸軍航空隊と海軍航空隊をまとめて「空軍」と呼ぶこともあったから仕方ないね)。
- ゼロというのは英語だが、国内でもゼロ戦と呼ぶことはゆるされており、軍内部でも実際そう呼ばれることも多かった。因みに公式に国民に公表されたのは、実に大戦末期の昭和19年11月。それも名前を秘してであった。
- A6Mという略称は「A」が艦上戦闘機、「6」は6番目に開発された艦上戦闘機、「M」は三菱の開発という意味である
- 皇紀2600年(昭和15年)に海軍へ正式採用された為、年号の下二桁を名称につける慣わしから零式と命名された
- 当時のアメリカ軍の規定には「積乱雲と零戦からは逃げてもよい」というものがあった。のちにサッチ・ウィーブ(2機でペアを組んで互いに援護し合う戦法。言うなれば空中戦のタッグマッチ)が考案されてからは、零戦も以前ほど脅威ではなくなった。
- 機体強度が低いことや防弾防火が不十分なことは弱点としてよく知られているが、無線機の信頼性不足により、零戦同士の連絡が取り辛い(ゆえに飛行機や操縦者の身振り手振りで連絡を取らざるを得なかった)ことも問題であった。(ただしウルトラエース、岩本徹三中尉のようにモールスを使って巧みに編隊戦闘を行った事例もあり、後には空中電話の信頼性も改善され、ある程度は実用的なレベルになったとも言われる)
- 当たらないという不評の強い20ミリ機銃であるが、その威力自体は坂井三郎氏も評価している。同時に照準機の取り付け方法の変更、弾薬信管の改善などにより、一号銃でも命中精度を高める工夫も為された。九九式20mm機銃自体の問題と言うより、華奢な零戦の機体が反動を抑えきれなかったと見る向きもある。
- 大戦中の生産数は一説に10,400機あまりが生産されたが、実のところ生産数としては開発元の三菱よりライバルメーカーであった中島飛行機が同数以上生産している。但し中島製の機体は「製造が雑」という評価も多く、実際、未だに戦争中版である昭和十七年当時から、下手をすると送られた機体の半数が問題を抱えていることもあった。
- 熟練搭乗員の証言が有名となり、大戦初期の二一型こそ最良の零戦という説が強い。しかし実際のところ、二一型や二二型は特に火力が不足していた。一部で「改悪」と酷評される五二型系列は、現場の火力や機体強度向上の要望を受けて開発されたもので、大戦末期を戦った搭乗員の中には、こちらを評価する声も多い。加えて言うと、大戦初期と後期で敵機の性能が段違いであることも留意する必要がある。
- 1万機以上生産されたものの、現在に残る機体は一部部品などが失われた。あるいは残骸となったものも含めて二十機程度しかない。うち国内では静態保存された10機のみという、敗戦国の悲哀を感じさせる状況でもある。ちなみにオリジナルの栄エンジンのまま動態保存、すなわち飛行もできる状態にされているのは1機のみで、アメリカのチノにあるPlanes of Fame航空博物館にあるのみである。但し他の保存された旧軍兵器の末路を思えば、国外に任せたほうがマシなのかもしれない。これは元敗戦国という一言では片付けられない。
型式別概説
「○△型」とある場合、一桁目の○は機体のバージョンを、二桁目の△はエンジンのバージョンを表わす。例えば五二型は5番目の機体に2番目のエンジンを載せた型という意味。またそのような理由から、「ごじゅうに」ではなく「ご・に(ごーにー)」あるいは「ご・ふた(ごーふた)」と読むのが正しい。(1,2を「いち、に」ではなく「ひと、ふた」と読むのは通信時の混乱を避けるためで、通常はそのまま読む。)
余談ながら戦後開発された旅客機・YS-11の型番も、数字部分は「数ある候補のうちの1番目のエンジンと1番目の機体」を意味する。作った人が同じだから仕方ないね。
- 一一型
- 支那事変(日中戦争)で使用された初期型。長い航続距離を背景に、九六式陸上攻撃機の護衛等で旧式化した中国軍機相手に大活躍した。先行量産型という位置づけであり艦上運用装備はない。
- 二一型
- 艦載機として運用するための装備(着艦フックや帰投装置、翼端折り畳み機構など)を追加した機体。アメリカとの戦争では真珠湾攻撃からミッドウェー海戦、ラバウル航空隊によるガダルカナル島攻防戦までグラマンF4F「ワイルドキャット」等を相手に大活躍した機体。この二一型が零戦神話を作ったと言っても過言では無い。
- 三二型
- 栄エンジンを換装し、二一型における翼端折り畳み部分を省略(二一型と比べると、その部分を切り落としたように見える)した機体。最初のうちはアメリカ軍に新型機と勘違いされて「ハンプ(Hamp)」と呼ばれていた(後に零戦のバリエーションと判明し、他の派生型同様ZekeまたはZeroと呼ばれるようになった)。速度性能と横転性能は若干アップしたが、航続距離が低下してしまった。また、二一型で不満の声が多かった20ミリ機関砲の装弾数も増やされている。
- よく誤解されるが、航続力の低下は主翼形状の変化やエンジン換装(出力増大と引き換えに燃費が悪化した)よりも、燃料タンクの容積減少の影響のほうが大きい。二一型は、燃料の過積載を前提として航続距離を算出していたのに対し、三二型ではエンジンの大型化により実質的にタンクが小さくなったため過積載が不可能となり、航続距離の減少につながった。
なお、三二型は一式陸上攻撃機の設計者である本庄季郎技師が設計を担当している(当時堀越技師は病に臥せっていた)。 - 二二型
- 翼端折り畳み機構を復活させ、主翼外側に燃料タンクを増設して航続距離が回復した機体。
- 四一型
- 二一型の20mm機銃を、ベルト給弾式に変更したもの。計画のみ。「四は死に通じて縁起が悪いから『四●型』は存在しない」というのは誤り。
- 五二型
- 三二及び二二型と同じエンジンのままで速度を向上させるため、推力式排気管を採用。長銃身の九九式二号20mm機銃を搭載、翼を三二型と同じ長さにした機体(ただし翼の先端はまるく加工されている)。1番生産量が多い機体。無印・甲・乙・丙…とサブタイプも多い。13.2mm機銃を搭載、あるいは防弾装備を強化した機体もある。
- 前述の通り排気管を変えたことで、排気音はそれまでの型とは全く違うものになったという。「グラマンの相手は任せろー」バリバリ
- 五三型
- 五二型をベースに、栄二一型エンジンから栄三一型エンジンに換装した機体。このエンジンは栄二一型に水エタノール噴射装置を追加して出力の向上を図ったモデルである。
- エンジン出力の向上により、武装や防弾装備の追加で低下した運動性の回復を目指したが、水エタノール噴射装置の不具合をはじめ、零戦のプロペラ飛散事故への対応や、レイテ沖海戦を見据えた五二型への生産集中等のトラブルが重なり、試作機は何とか完成したものの量産する前に終戦を迎えてしまった。
- 六二型
- 損耗の激しい九九式艦上爆撃機に代えて、五二型に250kg爆弾を持たせられるよう、機体下部に爆弾懸架装置を付け加えた戦闘爆撃機。特攻に使われたものは、500kg爆弾を搭載できるように改修された。通称爆戦。
- 六三型
- こちらは五三型をベースに戦闘爆撃機仕様としたもの。五三型同様エンジンの不具合に悩まされ、数機のみ生産され終戦を迎えた。
- 六四型
- 五二型系列にいたり、武装と装甲の強化で低下した運動性を改善。同時に、中島「栄」発動機の生産落ち込みから、三菱「金星」六二型へエンジンを換装した機体。2機のみ完成。
派生機
- 二式水上戦闘機
- 二一型にフロートを付けて水上で発進できるようにした機体。そこそこ活躍した。ちなみに開発は中島飛行機。現場では零戦の水上機版ということで「零水戦」とも呼ばれていたようである。
- 零式練習戦闘機一一型
- 二一型を複座化(前が生徒用で後が教官用)し、それぞれの席に操縦装置を設けたもの。また「概要」にあるように20mm機銃は搭載されていない。
- 生徒用操縦席は開放式、即ち風防で覆われていないので、うっかりシートベルトを締め忘れたまま背面飛行や宙返りをすると大変な事になる。生産は日立航空機。
- 零式練習戦闘機二二型
- 五二型を訓練用に複座化した機体。大戦末期の飛行機にはよくある事だが、2機試作された所で終戦を迎えた。
私案
- 堀越二郎技師による改良私案
- エンジンを大馬力の「金星」六二型に換装し、13.2mm機銃は追加せず、その代わりに防弾を強化する。戦後に書かれた手記において「こうしたら良かったんじゃないかなー」と触れられた程度で実際には開発されていない、言わば「ぼくのかんがえたさいきょうのぜろせん」なのだが、他ならぬ零戦の産みの親の案なので特にここで紹介する。因みに三菱側が当初より零戦に、自社製発動機の搭載を望んでいたのは事実である。
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模型
書籍
左:「ゼロ戦」表記が少々気になる(編集者の個人的見解)が、零戦の誕生から躍進、苦戦、凋落に至るまでが解り易くまとめられている。とりあえずこれを読んでおけば零戦について一通りの事は解る。
左から二番目:戦時中零戦に関わった様々な階層の人達が、戦後に書いた手記をまとめた一冊。二式水戦を「零水戦」と呼んだらしい事や、堀越技師の改造私案はこの本が出典。
左から三番目:漫画としてはかなり残念な出来だが、零戦五二型(と、ついでに米軍のP-51)のエンジン始動~離陸の手順を視覚化している点は評価できる。エンジンの始動について、外部からクランクを回す必要のある零戦と、コクピットのスイッチ一つできるP-51との対比が興味深い。
航空工学の専門家、加藤寛一郎先生の零戦本2冊。「秘術」は、坂井三郎氏の「左ひねりこみ」について直接のインタビューと力学的考察(単発プロペラ機の回転部によるジャイロ的な特性など)により肉薄している。表紙絵の出る文庫版にリンクしたが、図書館などには古いハードカバー版のほうが置いてあるかもしれない。「伝説」は現代のジェット機とプロペラ機が戦ったらどうなるか、とかそういうネタをぶち込んだ一風変わった現代(というか執筆時代の90年代)架空戦記を交えた考察本であるが、80年代末のいわゆる「FSX問題」に代表される、航空技術およびもっと広く航空産業についてかなり突っ込んだことなどいろいろと書いており、調べてみて面白そうだと思ったらおすすめ。
他、堀越二郎氏の筆による本も、本格的に零戦について調べるなら押さえておきたいところだろう。
関連コミュニティ
関連項目
- 軍事
- 一式戦闘機(大日本帝国陸軍を代表する戦闘機。通称『隼』)
- 烈風(零戦の後継機)
- 三菱F-2(平成の零戦、バイパーゼロの通称を持つ)
- 軍用機の一覧
- 太平洋戦争
- 大東亜戦争
- 大日本帝国 / 大日本帝国海軍
脚注
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