電撃戦(Blitzkrieg:ブリッツクリーク)とは、戦争における戦闘教義または戦術。
概要
目的としては、戦車を中心に機械化・装甲化された部隊を集中運用し敵戦線を突破。塹壕やトーチカなど強力な敵拠点は迂回し、後背に浸透した上で弱点である補給部隊や敵司令部を攻撃。混乱を誘発し敵戦線を崩壊に追い込むと言うもの。
第二次世界大戦初期に確立し、部隊運用の花形となったが理論通りに成功させた事例は少ない。
いくつかある一般化した軍事由来の用語の一つでもあり、素早い動き(特に解任などの人事)をしばし電撃的だと表現することがある。
「電撃戦」という言葉をいつ、誰が使い始めたのかは明確ではない。ヒトラー、あるいはタイム誌、ないしはリデルハートだとされている(レン・デイトン「電撃戦」p.142)が、定説が存在せず、ヒトラーでさえ「イタリア人が言い出したものでそれを新聞から拾い上げたに過ぎない」としている(バリー・リーチ「独軍ソ連侵攻」p.22)[1]
歴史
戦車の登場
1914年に口火を切られた第一次世界大戦は、ドイツ側の短期決戦計画シュリーフェン・プランが9月のマルヌ会戦で敗れたことにより失敗。双方が防御に回り塹壕を掘り進めた結果、わずか二カ月で英仏海峡からスイス国境に渡る遠大な塹壕線が築かれ泥沼化した。
大戦三年目の1916年9月15日、イギリス軍はソンム・フレールにおいて塹壕を突破するための機械であるタンク(初の近代戦車・MK-Ⅰ)を投入。装甲化された車体は機関銃弾を受け付けず、履帯を装備した足回りは従来の自動車では突破できなかった悪路や塹壕を乗り越えて行った。しかし、投入された数が少なく、機械的信頼性もほとんどなかったため故障により次々に落伍。戦局の打開には至らなかった。
それから一年後の1917年11月20日、イギリス軍はカンブレーのドイツ軍防御ライン「ヒンデンブルク線」へ攻撃を開始。ソンムから続いた一年間の戦車運用の教訓から、戦車の小規模導入は諦め集中運用による突破を画策。MK-Ⅰの改良版であるMK-Ⅳを中心に、ほぼ全ての手持ちに当たる476両の戦車を導入し作戦に当たった。
結果は成功であり、12km正面で9km前進し、それまでは難しいと言われていた三線目の塹壕までをも突破した。しかし、戦車側の損害も大きく、特にフレスキエルと言う高台にある小村での戦いではドイツ軍の77mm野砲による直接標準射撃により39両が撃破されてしまう。歩兵の支援がない戦車運用の危険性が明らかになり、歩兵を随伴していては機動戦は成り立たないため、ここでも機動戦の復活はならなかった。
浸透戦術
また、塹壕を超えても、後背地には無傷の敵予備隊が潜み、戦果の拡大も難しかった。そこで一方のドイツ軍では、エリート歩兵部隊による戦線への浸透と防衛拠点の迂回により敵司令部や予備隊集結地を破壊、前線部隊を麻痺させ予備隊の反撃を防ぐことで戦線を崩壊させる戦術をあみ出す(浸透戦術)。
浸透戦術は実験的に1917年ロシアのリガ、ついでイタリアのカポレットにおいて導入され大戦果を挙げた。ロシアの離脱により東部戦線から兵力の引き抜きが可能となったことにより、1918年3月には西部戦線においてこの戦術を使った乾坤一擲の春季攻勢を挙行(カイザー戦)。
カイザー戦は当初こそ順調に突破を成功させたが、占領・攻撃目標が定かではなかったことや人力に頼る補給部隊が突破部隊の進軍速度に追いつけなかったため開始三か月後に再び戦線は停滞。5月にはアメリカ軍が前線に到着し出したことや、7月から始まったフランス戦車ルノーFT-17の大量導入の前に圧迫され脆くも敗れ去った。
最終攻勢
カイザー戦に敗れたドイツ軍には再び浸透戦術を決行する余力はなく、英仏米(協商国)の戦車を中心とした反撃の前に瓦解。特にアミアンでは戦車と装甲車、急降下爆撃機の攻撃に自動化された補給部隊が随伴。ドイツ軍第51軍団は戦闘指揮所に浸透された装甲車の奇襲を受け大混乱に陥り、指示を受け取ることが出来なくなった前線兵士は自発的に降伏してしまいそのまま壊滅した。補給車はそれまでの常識ではあり得ないスピードで遠隔地の兵に補給を行い戦果も拡大した。
この惨劇を前にドイツ軍参謀次長であったエーリヒ・ルーデンドルフは驚倒し「ドイツ陸軍暗黒の日」と漏らし、参謀本部員たちは「戦車将軍に敗れた」とのちに述懐した。
先駆者たちの挫折
この敗勢が祟り、キール軍港での水兵の反乱を機に銃後も革命を支持。ドイツ帝国は崩壊し戦争は終結した。
勝利した協商国だったが、戦争を終結させた最終攻勢を重視はしなかった。戦後の厭戦気分もあり、フランス中心に攻勢はあきらめ静的防御中心の戦闘教義に固執。これは独仏国境を要塞線でカバーすると言う戦略に発展した(マジノ線)。
フランス軍の将軍で、大戦中に戦車運用や急降下爆撃機の導入を成功させたエスティエンヌはこれに異を唱えたが、一般の理工科大学出身で軍派閥に力を持たない彼は主流とはなり得なかった。のちの自由フランス指導者であるド・ゴールが跡を継いだがこちらも白眼視を受けた。
イギリス軍ではカンブレー戦勝利の立役者フラー将軍が強固な機甲戦論者となったが、予算不足に悩むイギリス政府に嫌われ1933年に戦果に見合わぬ少将と言う低い階級のまま軍を去った。彼の弟子であったリデル・ハートはさらに強力な論陣を張ったものの、強烈過ぎる個性が嫌われ大尉で軍を追われた。
ソ連となったロシア軍では「赤いナポレオン」と呼ばれたトハチェフスキー将軍が、強力な機甲軍団と的確な戦車運用理論を展開した。しかし、スターリンとは不仲であり1937年に幕僚ごと粛清を受け、機甲軍団は解体されたのちに分散配置に戻された。
ハインツ・グデーリアン
戦間期に理論を熟成させ、実行に耐えうる組織を作りあげることが出来たのは敗戦国のドイツであった。戦後のヴェルサイユ条約により戦車の所持は禁止されたが、様々な方法で戦車研究を極秘裏に進めた。例えば、中立国であったスウェーデンには技術者を避難させた上でドイツ資本の会社(ランズベルク社)に戦車を開発・製造させた。同じく国際的に孤立していたソ連とは秘密に結びつき(ラパッロ条約)、技術提供や人材育成で協力を行う見返りに演習地や実験場の提供を受け戦車の運用方法を磨くなどした。
1922年1月、大戦期に猟兵としての戦いを経験していたハインツ・グデーリアンは自動車輸送大隊に配属された。そこで自動車の移動力に圧倒され、これを第一次世界大戦で封じられた機動戦の復活に生かせないかと考えるようになる。
4月、自動車兵監部の部員となると自動車化部隊の設立を主張し上層部に働きかけを行った。しかし、第一次世界大戦と同様の歩兵を主力とした決戦に固執する上層部は相手にせず、「自動車は小麦を運んでいればそれでいい」と一笑に付した。
1924年より隊付となり、様々な部隊を転属したが、、装甲化部隊の創設を諦めることなく、所属した部隊で布張り人力けん引による模擬戦車を用いた演習を行うなどして将来に備えた。
1928年、前述のスウェーデン駐在武官となった際、ランズベルク社の戦車に試乗。ハードウェアについての知識を得ることに成功し、ますます自身の構想実現への意欲を高めた。
1931年10月、自動車兵監部に戻るとグデーリアンの装甲部隊創設論に理解があるルッツ自動車兵監のもと、本格的な戦車開発と運用研究を開始した。
しかし、歩兵科や騎兵科の将校が、自動車兵監部が装甲部隊の創設を図っていると言う情報を聞き及ぶと、自分たちの領分を侵犯していると反発を強めた。歩兵科は戦車は歩兵支援のための存在なのだから自分たちのものであると主張した。また、騎兵科も偵察と突破は古来より自分たちの任務なのだから戦車は自分たちのものであると同じく主張し、三つ巴の内部抗争となってしまう。
こう言った戦車は誰のものなのか論争は列強各国で発生しており、例えばイギリスでは歩兵用と騎兵用(巡航)に戦車を分けてしまい、のちの第二次世界大戦では優れた技術を持ちながら極端な性能と運用のためにアメリカ戦車に席巻されてしまった。
アドルフ・ヒトラー
伝統ある二つの兵科との派閥争いに新興で小規模の自動車兵監部が勝てる目はなく、本来は他国と同様に潰されるか誤った戦車運用に流れるかで終わるはずであった。しかし、グデーリアンはあくまで上司には恵まれていた。
1933年1月、国家社会主義ドイツ労働者党の党首、アドルフ・ヒトラーが政権を掌握。グデーリアンに好意的で装甲部隊創設論者だったヴェルナー・フォン・ブロンベルクも国防相兼陸相に就任した。グデーリアンはその伝手で4月にヒトラーと面会。30分に渡り装甲部隊の有用性を力説した。第一次世界大戦で塹壕戦を経験し、身をもって機動戦の重要性を痛感していたヒトラーはその構想に魅せられ支持を約束した。
1934年にはヒトラーの面前でオートバイ狙撃兵、対戦車砲兵、戦車各一個小隊による演習が行われ、電撃戦の理論的な正しさが明らかとなった。ヒトラー自身もこのダイナミックな用兵理論に満足し、装甲部隊の創設を急いだ。
1935年3月、ヴェルサイユ条約を一方的に破棄し再軍備を宣言。10月にはついに三個装甲師団が設立された。グデーリアンは第二装甲師団長に任命され新軍の機械化に尽力することとなった。
1936年7月、スペインにおいてモロッコの軍司令官であるフランコが反乱を起こしスペイン内戦が勃発した。新生ドイツ軍に格好の実験場が与えられたと考えたヒトラーは義勇軍の派遣を決定。10月よりスペイン本土で活動を開始した。ドイツが送った非力かつ弱装甲のⅠ号戦車は共和派のソ連製戦車であるT-26やBT-5に一方的に敗れてしまったものの、戦車砲の搭載の必要や装甲についての戦訓を得た。
1938年3月、ヒトラーは領土拡張政策を本格化。オーストリアに軍を進駐させ併合した。この進駐にグデーリアンの装甲・自動車化部隊が活躍し、素早い展開を前にして周辺諸国は手も足も出ず機動力の重要さを改めて示した。
10月、チェコのズデーテンラントにも同様の進駐を開始。1939年3月にはチェコそのものに進駐し解体した。この過程でチェコ製の優れた戦車(35t、38t)を入手し、のちの電撃戦の土台を築くこととなる。
ポーランド戦(白の場合)
1939年9月1日、ドイツはポーランドに侵攻を開始(作戦名は白の場合)。3日にイギリス・フランスがドイツに宣戦布告し第二次世界大戦が勃発した。
ドイツ軍は手持ちの機械化師団15師団(装甲7個、軽機械化師団4個、自動車化4個)を全てポーランド戦に集中させ、包囲懺滅戦を決行。ポーランド軍の誤った初期配置(ドイツの作戦目標をダンツィヒ回廊奪取と考え国境に固執した)と奇襲による動員の未完了により、北部と南部から挟撃することに成功し、9日には一大包囲網が形成された。
9月17日、ソ連軍もポーランドに侵攻を開始。二つの大国による東西からの侵攻に耐えられるはずもなく、28日にワルシャワは陥落。10月6日にはポーランド軍による組織的抵抗は消滅した。
このポーランド戦は現在では古典的な包囲懺滅戦であり、戦車は第一次世界大戦型の歩兵支援が主な任務で分散配置されていたため、電撃戦とは認められないと言う考えが主流であるが、ドイツ軍機械化師団は素早く敵地深くに進攻しポーランド軍に脅威を与え真価を発揮した。短期戦の原動力となったことは間違いなくヒトラーも「これで世界の軍事用語辞典に、電撃戦という新語が付け加わるであろう」と豪語した。
フランス戦(黄の場合)
一か月ほどで片付いたポーランド戦であったが、西部戦線では双方イニシアティブをとることもなく年をまたいだ(まやかしの戦争)。ドイツ軍の作戦計画は第一次世界大戦のシュリーフェン・プランに基づいたものだったが、1940年1月10日に飛行機事故から作戦書類を連合国側に奪われてしまい、大規模な作戦の変更を余儀なくされた(メレヘン事件)。
以前よりシュリーフェンプランに反発を持ち、ベルギー北部ではなく中部森林地帯(アルデンヌ)を突破しセダンを抜いて海岸まで進撃する案を執拗に意見具申していたドイツ軍将軍エーリヒ・フォン・マンシュタインは、陸軍総司令部(OKH)から疎まれ編成途中の歩兵軍団の軍団長職に追いやられていた。しかし、陸軍大学の同期生であったグデーリアンはこの作戦案を支持。車両通行が不可能とされていたアルデンヌの突破は可能であるとお墨付きを与えた。
2月17日、軍団長就任報告の場においてヒトラーに自身の作戦案(のちのマンシュタイン・プラン)を説明。シュリーフェン・プランへの反感がもともと強かったヒトラーはこれに完全同意し、古典派の将軍たちも図上演習の結果から渋々ながらも同意した。
5月10日、西部戦線においてドイツ軍は侵攻を開始。B軍集団(中心は装甲3個師団、自動車化2個師団)がオランダとベルギー北部に侵攻し陽動をかけつつ、主力であるA軍集団(装甲7個師団、自動車化3個師団)がアルデンヌ森林地帯を突破。油断し警備程度の兵力(ベルギー軍の猟兵師団1個とフランス軍の騎兵師団1個)しか配置していなかった連合軍は1800両もの戦車に粉砕されてしまう。5月12日にはグデーリアン率いるB軍集団所属の第19軍団がセダンを抜いてマース川に到着。翌日には渡河に成功し、フランス軍は北から南に至るまで大混乱に陥り敗走局面に移行した。
5月21日、第19軍団先遣隊が大西洋岸に到着。第一次世界大戦では三か月も要した100kmの縦深をわずか10日ほどで突破した。同日、イギリスの海外派遣軍がアラス近郊で反撃を開始。性能でドイツ軍を上回る戦車を有するイギリス軍はドイツ軍戦車部隊を一蹴したが、ドイツ軍将軍で第七装甲師団の師団長だったエルウィン・ロンメルは空軍高射部隊(8.8cm砲装備)を半ば強引に自分の部隊に組み込み水平射撃による対戦車戦闘を展開してこれを撃退した。
5月26日、大陸での抵抗を諦めたイギリス軍はダンケルクより大陸からの徹底を開始(ダイナモ作戦)。撤退作戦自体は損害を恐れたドイツ軍の消極的な攻勢姿勢により成功したが、見捨てられたフランスは6月22日に降伏。戦闘はまたしても一か月弱でのドイツ軍の勝利に終わった。
このフランス戦の勝利こそが、古来の包囲懺滅戦や突破戦から電撃戦へと昇華された瞬間であったとする説も多い。
その後の電撃戦
しかし、そうであるとするなら、ドイツ軍によるものに限って言えば確立の時点こそがまさしく絶頂であったと言えるだろう。
1941年4月6日、ドイツ軍はユーゴスラヴィアへと侵攻。これ自体は前年のフランス戦の再現となったが、計画されていた独ソ戦開始の遅滞を招いた。
続く1941年6月22日、運命の独ソ戦が開始される(バルバロッサ作戦)。総計145個師団(うち、装甲19個、自動車化13個)を導入し三度フランス戦の再現を狙った。当初こそソ連軍の準備不足を背景に一日60kmもの驚異的な進撃スピードを見せたが、ソ連軍の抵抗は進撃を進めるごとに激しさを増した。アルデンヌから英仏海峡までは直線距離で400kmほどであったが、独ソ国境からモスクワまでは900km。しかも、フランスとは比べ物にならないほどの悪路であり徐々に戦線は遅滞。また、作戦目標も常に二転三転し、これは結果的にキエフでの大包囲戦を呼び込んだが、モスクワへの侵攻は二カ月ほどずれ込んだ。
9月5日、キエフで60万人もの捕虜を獲得したヒトラーはモスクワ侵攻を決定(タイフーン作戦)。この時点でも遅きに失した感があったが、さらに再編成にとまどり実行は9月30日だった。10月6日には降雪が始まり、雨も交えた泥濘も発生。装甲師団は各所で移動が不可能となった。11月6日には寒波が襲来し、凍結が始まった。これ自体は道路を固める効果もあり再び進撃が始まったが、冬季装備の不足が深刻化した。不凍液がなければ車両や航空機は動かず、冬服がなければ将兵は戦車に籠ろうとも寒さで行動出来なくなる。12月6日、モスクワ前面8kmのヒムキにまで迫ったが、ソ連軍の大規模な反撃が開始され撃退。ドイツ軍は撤退を開始し電撃戦は敗れた。
1942年には再攻勢、青の場合が発動されたがソ連軍は前年の教訓から戦術的撤退を開始。スターリングラード方面で反撃を受けドイツ軍将兵40万が捕虜となり、戦局はソ連側に傾き出す。
1943年7月のクルスク戦は敵陣(パックフロント)への強襲となり、電撃戦論者がもっとも嫌う消耗戦に巻き込まれて停滞。連合軍のシチリア上陸により東部戦線での攻勢は不可能となったため中止された。以降はソ連軍の反抗が始まり攻守は逆転することになる。
1944年6月6日、米英軍がノルマンディーに上陸し、第二戦線がついに形成される。ドイツ軍が1940年のフランス侵攻でさえ得ることが出来なかった航空機による大量支援により、戦線は徐々に削り倒されて行く。
これを見たソ連軍は独ソ戦開始から三年目に当たる6月22日、ベラルーシア方面のミンスクにおいて大規模攻勢を開始(バグラチオン作戦)。アルデンヌでのフランス軍と同様、油断していたドイツ軍は容易に撃退されてしまう。この電撃戦理論に加え、スチームローラーにも喩えられるソ連軍の機甲師団大量導入による多点突破戦術の前に、半月ほどで50万人もの損害を出し中央軍集団は粉砕された。
以降もヒトラーは電撃戦の成功体験から攻勢に固執し、バルジ戦(ラインの守り作戦)や春季攻勢(春の目覚め作戦)を発動したが徒らに敗勢を強めるだけに終わり、電撃戦は連合国やソ連での戦術の一部基礎として生き残る歴史的存在となった。
電撃戦の虚実
一般的なイメージとして、戦車が海原を進む艦隊のごとく平原を突出して行くと言うものがあるが、これは正しくない。戦車のみでは地形を巧妙に利用した対戦車砲はおろか、歩兵が携行する対戦車兵器によっても容易に撃破されてしまう。実際にグデーリアン以前の戦車万能論者が力をもてなかった理由はこの点で机上の空論とされ、本当のところその通りであった(この戦車万能論はオールタンクドクトリンと呼ばれ、戦後も繰り返され失敗する)。
そこで、機械化または自動車化された歩兵部隊が戦車の援護に当たる必要がある(諸兵科連合)。これを支援するためには自走砲化された砲兵部隊があればなおよく、さらに理想を言ってしまえば、彼らの補給を支えるための補給部隊は運搬トラック・タンクローリーから製パン中隊まで自動車化しておかなければならない。
もちろん、貧乏なドイツ軍にこんな贅沢な戦争は不可能であり、せいぜい自動車化した歩兵旅団を装甲師団に配属するにとどまり、砲兵はけん引式、補給は大戦期間通じて例外なく馬車が主力だった。
よく言われるように、ドイツの初戦の勝利は戦車や物量ではなく、無線通信の重視による車両間の連携の強化(特にグデーリアンは通信畑でもあった)や練度の高い前線指揮官に自由裁量権を与える柔軟性(委任戦術)など、ソフト面によるものであった。
その無線通信や柔軟な部隊運用をもってしても、第二次世界大戦初期の技術では空を飛ぶ航空部隊への指示は不可能であり、相当に場当たり的であった。フランス戦では本来は大雑把な一度のみの大規模空爆しか行えないはずであったが、連絡不備や指揮系統の混乱により兵力の随時投入となり、かえってきめ細かい航空支援となったと言う珍事も起きている。ゲームなどの影響で「電撃戦の真の主役はユンカース」とされることもあるが、これは史実ではやや割引いて考える必要がある。
機械化された諸兵科連合、地上部隊の要請を受けた空軍によるきめ細かい作戦支援、圧倒的な物量はむしろ後半の連合国軍やソ連軍の得意技であり、しかしながら彼らは電撃戦を名乗ることはなかった。連合国軍が装甲化を必要としたのは人的損害を嫌ったからであり、ドイツ軍のような性急な機動戦は必要とはしなかった。逆にソ連軍は(もちろん、良しとはしなかったが)人的損害など気にすることなく、電撃戦による迂回に頼らずとも多点同時攻撃をためらうことなく実行出来た。
そもそも、グデーリアンが電撃戦を思いついたきっかけは、ドイツ軍が数も少なく脆弱なため(特にヴァイマル期)、自動車による戦線間の迅速な移動によりその不利を補うことにあったと言われる。積極的ではあるが本来的に防衛を目的としており、ドイツ軍はそれだけ弱かったのだ。弱者であるドイツ軍が電撃戦により偽りの強者となった時こそが、皮肉なことに崩壊への坂道を下り始める瞬間であった。
とは言え、影響だけに関して言うならば、20世紀のエポックメイキング的な戦術であることに疑いを持つ者は少なく、現在までの機甲化理論の直系祖先の一つであることに変わりはない。
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