霜月(秋月型駆逐艦)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した秋月型駆逐艦7番艦である。1944年3月31日竣工。マリアナ沖海戦とエンガノ岬沖海戦を生き延び、敵機12機撃墜、協同撃墜3機の戦果を挙げた。同年11月25日にシンガポールの東北東で敵潜の雷撃を受けて沈没。
概要
霜月とは陰暦11月の異名、あるいは霜が降りるほど寒い日の月を指す。
秋月型(乙型)とは帝國海軍最大の巨躯を誇る大型防空駆逐艦である。1920年代から急激に存在感を出し始めた空母と航空機に対抗するべく、イギリス海軍は旧式のC級軽巡洋艦を防空艦化し、アメリカ海軍では防空性能に特化したアトランタ級の建造に着手。仮想敵が続々と防空艦を作り出すのを見て帝國海軍も防空艦を意識するようになり1937年頃より本格的な検討を開始、軽巡洋艦の量産は厳しいので駆逐艦サイズで防空艦を作る事とし、1938年のマル四計画において初めて「乙型駆逐艦」の言葉が出された。1939年4月頃には基本設計が纏まった。当初は空母の護衛を主任務に定め、対潜・対空に優れた直衛艦になる予定だったが、直衛以外にも使用出来るよう雷装を追加して八面六臂の活躍をする駆逐艦となっている(ただし魚雷を放ったのは新月のみ)。
船体は長船首楼型を採用、舷側は垂直であり、巧みな兵装配置により高い火力を保有、他の駆逐艦が満足に電探を装備出来ない中、秋月型は70km先の敵機を探知出来る21号水上電探を装備し、また2基の九四式高射装置が2つの目標に対する同時管制射撃を可能とする。何から何まで新しい秋月型だが、さすがに機関まで新しくするのは難しかったようで、陽炎型に採用されたロ号艦本式缶3基5万2000馬力を流用した。
性能こそ優れていたものの、工程の複雑化と大型なのが災いし、大量生産しにくい欠点を抱えていたため、後期になるほど船体が簡略化されていった。秋月型は大別して初期の秋月型、中期の冬月型、後期の満月型の3つのグループに分けられ、霜月は秋月型グループの末っ子にあたる。
要目は排水量2701トン、全長132.4m、全幅11.6m、最大速力33ノット、重油1080トン、乗組員263名。武装は65口径10cm連装高角砲4基、九六式25mm三連装機銃5基、同単装機銃14丁、次発装填装置付き61cm四連装魚雷発射管1基、九四式爆雷投射機2基、爆雷投下軌条2条、九五式爆雷54個。電測装備として21号水上電探、13号対空電探、九三式探信儀を装備。
約8ヶ月という短い艦歴ながらマリアナ沖海戦で2機、エンガノ岬沖海戦で10機撃墜し、船団護衛や輸送任務にも従事した武勲艦である。
艦歴
長姉のために身を削った苦労艦
1941年に策定された戦時急造計画(通称マル急)において一等駆逐艦第360号艦の仮称で建造が決定。1942年7月6日、三菱重工長崎造船所で起工し、1943年3月5日に霜月と命名、4月7日に進水式を迎える。
しかし、機関の新造が遅れたため建造スケジュールに狂いが生じ、更に艤装作業中の7月5日、長崎造船所に艦首を喪失した姉妹艦秋月が入渠。秋月の修理には翌年1月まで掛かると見積もられていたが、修理期間短縮のため、建造が遅れている霜月の艦首を流用する事になり、文字通り霜月は身を削って長姉に艦首を差し出した。この献身により秋月は僅か3ヵ月の修理で戦線復帰する事が出来た一方、霜月の工事は遅延。それでも工員の不断の努力によって12月には新たな船体が完成したという。
そして1944年3月31日にようやく竣工。実に進水から1年近くが経過していた。初代艦長に畑野健二少佐が着任、佐世保鎮守府に所属するとともに訓練部隊の第11水雷戦隊へ編入された。
1944年4月3日、瀬戸内海西部にいる第11水雷戦隊と合流するべく生まれ故郷の佐世保を出港し、翌4日に呉へ入港。ところが竣工時から主砲塔が過重で旋回が他の秋月型より遅い事が発覚。いきなり呉工廠での修正工事を強いられてしまい、乗組員の錬成に悪影響が生じた。第11水雷戦隊からは「乗員ノ錬度極メテ幼稚ニシテ警戒艦トシテ不適ト認メラレルルニ付 前線進出ハ早クトモ五月中旬以降」と辛辣な評価がなされている。4月9日午前8時に呉を出港し、2時間後に柱島泊地へ到着して姉妹艦秋霜や早霜と合流、4月19日午前8時に柱島を発って、同日23時30分に八島泊地に投錨した。
5月3日19時32分、大本営は西カロリン方面で敵機動部隊に決戦を挑む「あ」号作戦命令を発動し、霜月は主隊へ編入。軽巡長良、名取、駆逐艦秋霜、時雨、給油艦速吸と諸訓練に従事する。5月4日午前8時1分、駆逐艦松風とともに横須賀停泊中の軽巡大淀と合流するよう連合艦隊から命じられ、5月8日午前8時に呉を出港、道中何事もなく翌9日18時に横須賀へと入港した。5月12日に横須賀を出発して木更津沖で行われた僚艦との合同訓練に参加、5月15日にも同様の訓練に参加するため木更津泊地を出発するも、荒天により中止となっている。
第11水雷戦隊はやたらと練度が低い霜月と秋霜に気を揉んでいたらしく連合艦隊や第2艦隊に「秋霜 霜月ハ当隊編入期間中幾多ノ支障アリテ 所期ノ訓練成果ヲ得ルコトナク出撃ノ運(はこび)トナリタル(以下略)」と訓練指導に配慮を求めていた。だが戦隊の心配をよそに霜月は大淀の護衛と瀬戸内海回航に成功し、5月23日に柱島へ帰着。その後、駆逐艦夕凪を率いて徳山にて燃料補給を受け、機動部隊と合流して慣熟訓練に従事。5月29日午後12時30分、軽巡長良、名取、駆逐艦清霜、冬月、松とともに室積を出港して八島に向かいながら諸訓練を実施、5月31日17時に八島を出発して呉まで戻り、入渠整備を受ける。
6月3日午前11時49分、霜月は軽巡洋艦矢矧率いる第1機動艦隊第3艦隊第10戦隊に転属。空母の直掩を担当する事に。続いて6月5日21時26分、佐世保に寄港してタウイタウイ泊地に進出中の機動部隊向け物資を積載して輸送するよう命じられ、翌日佐世保に入港。工廠で対空機銃の増備を受けるとともに第1機動艦隊向けの機銃と物件を積載し、6月10日午前8時に出港してフィリピン方面へ向かった。
しかし戦局は予想以上に逼迫しており、6月14日16時57分、アメリカ軍のマリアナ諸島侵攻を迎撃するためタウイタウイ泊地から出撃していた小沢機動部隊と前進拠点ギマラスにて合流、燃料補給を受けると同時に持ってきた機銃や物件を移した。
6月15日午前7時、補給を終えた小沢機動部隊とともにギマラスを出港。その17分後、アメリカ軍のサイパン上陸を受けて「あ」号作戦決戦準備が発令され、対潜警戒を厳重にしながら航行、やがてフィリピン海へと繋がるサンベルナルジノ海峡に差し掛かり、大小の艦艇が一列縦隊を組んで狭い海峡を通過していく。幸い予想された敵潜の襲撃は無く、17時30分に海峡を突破してフィリピン海に進出し、日没後は夜間警戒航行隊形へ移行。6月16日15時30分、渾作戦から復帰した戦艦大和や武蔵、能代(軽巡洋艦)等の別動隊と合流して戦力を拡充させ、翌17日17時30分に燃料補給を完了。一路マリアナ諸島方面に向かう。
6月18日午前5時より各空母から索敵機が飛び立って敵機動部隊の捜索を開始。15時40分に敵空母群が発見されたが、今から攻撃しては帰投が夜間になって着艦が大変危険だとして攻撃は明日に定められた。
機動部隊の墓標マリアナ沖海戦
6月19日午前3時、小沢中将は旗艦大鳳が属する主力の本隊、龍鳳、隼鷹、飛鷹を中心とした乙部隊、本隊の前面に立って敵機の攻撃を弱める前衛部隊の三つのグループに分け、霜月は大鳳が伍する本隊の護衛に回る。空母から次々に攻撃隊が飛び立つが、午前8時10分に大鳳が敵潜の雷撃を受け、午前11時20分に翔鶴も被雷。弾薬への誘爆を繰り返して14時10分にまず翔鶴が沈没し、16時28分にはガス爆発による致命傷で大鳳も沈没。100機に上る航空機を失う痛打となってしまった。また出撃させた攻撃隊の大半は戻らず、一度体勢を整えるべく17時10分に北上を開始、22時45分に西方への退避を行った。迅速な退避が功を奏したらしく米機動部隊は丸一日小沢機動部隊を捕捉する事が出来なかった。
6月20日午前7時に油槽船5隻が到着し、午前11時より各艦へ燃料補給を開始。旗艦を瑞鶴へ移して更なる攻勢計画を練っていた。しかし敵機から執拗な触接を受けたため、14時45分に更なる西方への退避を行うも逃げ切れず、15時5分に傍受した敵の通信によると既に小沢機動部隊は発見されている事が窺え、16時頃に敵の偵察機が出現して正確な位置を通報される。重巡摩耶の電探が200km先にいる敵機の編隊を探知した事で75機の零戦が上空待機、加えて摩耶の水上偵察機が敵機動部隊発見の報を出すなど決戦の時は刻々と近づいていた。
そして17時30分、敵空母から放たれた216機が小沢機動部隊の東方より接近。迎撃に向かった零戦75機は多勢に無勢で23機が撃墜、エアカバーを破った敵艦上機群は思い思いに獲物へ襲い掛かる。霜月は主力隊に残った唯一の空母瑞鶴を護衛するべく重巡妙高、羽黒、軽巡矢矧、駆逐艦6隻と輪形陣を組み、次々に襲い来る敵機の波状攻撃を迎え撃つ。瑞鶴はホーネットⅡ、ベローウッド、ヨークタウンⅡの敵艦上機から一斉に狙われたが、瑞鶴の巧みな回避運動と分厚い弾幕により250kg爆弾が1発命中した程度で済む。霜月も対空砲火で敵機2機を撃墜して無傷で空襲を乗り切った(至近弾でステアリングが損傷したとも)。わずか15分程度の戦闘ながら飛鷹が沈没、千代田、隼鷹、摩耶、瑞鶴等が損傷を負う。小沢中将は夜戦を企図し、明朝の会敵を目指して水上艦艇による突撃が計画されるも、機動部隊の航空兵力が払底して援護に期待出来ない事から21時5分に作戦中止。豊田大将から「あ」号作戦そのものの中止を命じられた。
日本側は虎の子の大型空母3隻、航空機426機(地上機も含めると1000機以上)、搭乗員700名を喪失する大損害を受け、西太平洋の制空権と再建したばかりの機動部隊を失った。対するアメリカ軍は空中戦で20機撃墜、夜間の強行着艦で80機を失っている。
6月22日13時43分、小沢機動部隊は沖縄の中城湾に寄港。ここで負傷者の移乗や燃料補給を行い翌日午前11時10分出発、6月24日21時30分に柱島泊地へ帰投した。燃料補給を受けて次なる作戦のため待機する。
護衛任務と輸送任務に励む
6月28日午前5時53分、姉妹艦若月とともに横須賀へ戻る大淀を護衛して柱島を発ち、翌29日午前11時に横須賀へと到着したのち、マリアナ沖海戦の戦訓から工廠で新たに13号対空電探の装備と機銃の増備が行われた。
7月4日19時6分、機動部隊電令作第29号により第10戦隊は遊撃部隊へ編入され、また呉方面に対空警戒警報発令に伴って出港予定を取りやめ、若月ともども木更津沖で一時避泊。結局何事も無く7月5日午前7時、次の護衛任務に備えて若月と一緒に木更津沖を出港し、翌日13時30分に呉へ回航。
7月8日午前10時30分、物資や第28師団を積載して南方へ進出する戦艦金剛、長門、重巡最上を第10戦隊の僚艦とともに護衛して呉を出発。19時37分に空襲を避けるため臼杵湾で仮泊し、翌9日午前4時30分に出発して太平洋に進出する。7月10日午前4時50分から12日午前4時40分まで中城湾へ寄港し、沖縄本島に配備される陸軍部隊を揚陸して中城湾を出発、次なる目的地であるマニラに向かう。7月14日19時15分マニラ入港。現地で真水を補給するとともに霜月と冬月で第41駆逐隊が新編された。7月17日午前6時にマニラを出港、シンガポールへ向かっていた7月19日、敵潜水艦から発射された4本の魚雷が金剛へ伸びていったが命中せず、同日中にシンガポールに入港する。
7月20日16時20分にリンガ泊地へ到着。すぐ近くに外地最大の乾ドックを有するシンガポールがあり、産油地のタラカンにも近く、敵の爆撃圏外でもあるリンガは数少ない安全地帯だった。7月26日から31日にかけてリンガを拠点に出動訓練に従事。8月3日午後12時55分、第2艦隊より船団護衛を兼ねての内地帰投を命じられ、8月4日午前7時にリンガを出発してシンガポールに移動。
8月5日21時、輸送船8隻からなるヒ70船団を護衛して出港。護衛兵力は練習巡洋艦香椎、空母神鷹、海防艦佐渡、千振、第13号、第19号、そして霜月の計7隻であった。道中でマニラから出発してきた軽巡北上(中破)が加わり、ヒ71船団護衛のため海防艦佐渡が離脱。8月12日午前8時15分、沖縄西方で神鷹所属の九七式艦攻が敵潜水艦らしき艦影を2回発見して爆雷を投下、第13号海防艦も爆雷投下に向かっている。8月14日、有川湾へ寄港するにあたって霜月が先行して対潜掃討を行い、安全を確認してから湾内へ船団を誘導。8月15日14時30分にヒ70船団が門司に到着したのを見届けた後、神鷹は呉へ、香椎は再度船団護衛へ、北上は佐世保へ、霜月は有川湾を発って横須賀へ向かい、8月17日から24日にかけて入渠整備を実施。8月25日より東京湾での訓練を開始した。
9月15日、第41駆逐隊は第1機動艦隊第3艦隊第10戦隊に編入。アメリカ軍による硫黄島及び小笠原諸島への空襲が相次いだ事を受け、連合艦隊は就役したばかりの空母雲龍を基幹とした迎撃艦隊を編成し、第41駆逐隊も組み込まれた。東京湾で雲龍との合同訓練を行っていたが結局出撃の機会は訪れなかった。9月26日、冬月とともに雲龍を護衛して横須賀を出発し、翌日午前10時4分に呉へ到着する。9月28日に第2遊撃部隊へ編入。
10月9日、横須賀在泊中の大淀を呉へ回航するため冬月と出港。整備を終えた大淀と合流して10月12日午後12時15分に横須賀を発つが、東京湾口から19km離れた遠州灘で米潜水艦トレパンにレーダー探知され、同日19時32分、一斉発射された魚雷6本が白線を引きながら霜月たちに襲い掛かった。このうちの1本が冬月の艦首に直撃して大破。トレパンは更に艦尾魚雷発射管から追撃の魚雷4本を放つもこれは命中しなかった。幸い冬月は自力航行可能だったため霜月は先行。10月13日午後12時2分、第653航空隊の転進支援の目的で駆逐艦2隻の急派要請が入り、それに応じて霜月が大分湾へ移動する。一方、冬月は自力で呉まで辿り着いたが、損傷によって旗艦任務に耐えられなくなり呉工廠へ入渠。代役として霜月に脇田喜一郎大佐が乗艦して第41駆逐隊司令駆逐艦となる。時同じくして第41駆逐隊は機動部隊本隊に編入。
10月17日、アメリカ軍がレイテ湾スルアン島に上陸し、翌日に捷一号作戦が発令。主力の栗田艦隊をレイテ湾に突入させるべく艦載機を失って「失業」状態の空母を囮にする事とし、瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田を基幹とした小沢艦隊の護衛に参加する。
10月20日18時、空母瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田、戦艦伊勢、日向、軽巡大淀、多摩、五十鈴、駆逐艦8隻からなる計17隻の小沢艦隊は秋色の豊後水道を出発し、敵潜水艦の待ち伏せを警戒して速力20ノットの高速で南下。戦艦伊勢や日向と艦隊の前衛を担った。しかしその前途は多難と言えた。まず10月21日午後12時6分に130度方向からの雷跡が確認され、翌22日午前5時24分には瑞鶴の右舷側に敵潜水艦を発見、同日20時13分にも右40度方向に敵潜を発見して対潜戦闘が生起。複数の敵潜水艦に追跡されながらも10月23日午前6時31分、翌日には敵の空襲圏内に入るという事で陣形を対潜警戒航行序列から対空警戒航行序列に変更。囮として主力の栗田艦隊より目立つ必要があるため、わざと目立つ行動をしたり盛んに偽電を打って敵艦隊の注意を引く。
そして10月24日午前6時に小沢艦隊は予定地点に到着。同日16時17分、340度方向に敵の偵察機が出現した事で小沢艦隊の存在は敵に知られる事となる。
絶望のエンガノ岬沖海戦
10月25日午前7時12分、艦隊上空に張り付く敵偵察機を発見したため、直掩機18機を除く全ての艦載機を地上へと退避させる。艦隊は瑞鶴、瑞鳳、伊勢を中核としたグループと千歳、千代田、日向を中核としたグループに分かれて輪形陣を組み、霜月は後者に属した。午前7時48分、米空母エセックス所属のF6Fヘルキャット4機が計算通りに小沢艦隊を発見。10隻の敵空母からヘルキャット60機、ヘルダイバー65機、アベンジャー55機からなる第一次攻撃隊が発艦した。午前7時49分に霜月は戦闘旗を掲げ、4分後に小沢艦隊は第四警戒航行序列を維持しながら速力32ノットに増速。
午前8時8分、左120度方向より敵機180機が接近してきた事によりエンガノ岬沖海戦が生起。霜月は空母千歳と千代田の護衛に回り千代田の左後方に占位、午前8時22分より雲霞の如く迫る敵機の大群に対空射撃を開始する。敵は空母と戦艦に攻撃を集中させており小型な駆逐艦や軽巡には目もくれず一心不乱に襲い掛かった。対空性能に優れた秋月型だけあって霜月の対空射撃は実に正確であり、午前8時25分に日向との連携砲火で後方から千代田に迫った3機を撃墜し、霜月の対空機銃と高角砲で5機を撃墜、更に右方向から接近する敵約30機に猛烈な対空射撃を浴びせて1機撃墜するとともに千代田の回避運動に合わせて霜月も回頭。午前8時40分には敵機を分散させて千代田への攻撃を軽減している。しかし午前8時50分、かつて霜月が身を削って助けた長姉秋月が突如爆発を起こして沈没し、最初の犠牲艦となった。
午前9時に一旦対空射撃を停止。午前9時37分、多数の至近弾と5発の直撃弾を受けた千歳が左舷側へ急速に傾斜して沈没。海へ投げ出された生存者を救助するため五十鈴とともに現場に向かい、午前9時42分に千歳沈没地点へ到着して漂泊、救助活動を開始する。ところが僅か2分後に電探が敵編隊の接近を探知したため、救助用のカッター2隻を降ろしながら対空戦闘の準備を整え、北方の千代田のもとへ急行する。午前9時55分、右50度方向20km先に敵機約35機を発見して第三戦速に増速、発見信号を掲げつつ対空戦闘を再開し、早速直撃弾を与えて敵機1機を海へ叩き落とす。だが霜月と五十鈴が千代田の前へ出る前に空襲が始まった事で一時的に弾幕が薄い状態が作られてしまい、午前10時に500kg爆弾を喰らって千代田が大破炎上。5分後、手負いの千代田にトドメを刺すべく右40度方向より新手の敵編隊30機が迫るが、午前10時12分に何とか千代田付近に到達、霜月は急ぎ対空防御を行って庇う。
敵機を撃退した後、日向が千代田の周囲を回って警戒を始め、それに倣うように霜月が日向の外周を、駆逐艦槇が霜月の外周を回って三重の陣を敷く。午前11時5分、今度は左方向より敵機数機が出現。日向、槇とともに対空射撃を行って危なげも無く撃退に成功した。午前11時20分に霜月は千歳の生存者救助を再開するよう命じられて全速力で南下、午前11時51分から漂泊して波間に漂う生存者たちを艦内へ引き上げる。午後12時32分に第三次攻撃隊の敵機十数機が発見されて一時救助が中断されるも、北上中の瑞鶴や瑞鳳に釣られたため千代田及び千歳周辺の小グループを無視して飛び去って行き、その間に霜月は121名を救い上げた。
救助作業を完了した霜月は午後12時39分に千歳沈没地点から離れて北上、13時20分に千代田のもとへ帰還する。そこでは日向と槇の護衛を受けながら五十鈴が千代田を曳航しようと四苦八苦していた。10分後、瑞鶴と瑞鳳を攻撃した帰りと思われる敵機十数機が北方より接近、対空射撃で追い払う。13時50分、敵機の注意を引き付ける目的で日向とともに北上を開始。14時14分に瑞鶴が、15時26分に瑞鳳が撃沈された事で空母は千代田を残して全滅。その千代田ももはや戦える状態ではなかった。幾度にも及ぶ敵機の襲来を退けてきた霜月と日向だったが、15時44分より敵機の執拗な触接を受けるようになり、いよいよ大規模攻撃の予兆が見え始めた。
17時16分、左方向から敵艦爆十数機が接近しているのを発見、17時26分より攻撃が始まった。対空機銃で1機撃墜したのも束の間、艦前方に2発の至近弾が炸裂して水柱が築かれ、1分後には1機撃墜及び1機撃破の戦果を挙げるも今度は右艦尾付近に至近弾複数を受け、右へ左へ身をよじって回避運動を続ける。最大戦速に上げながらまた1機を叩き落としたが、後部への至近弾により漏油が発生、電探と高射装置が故障する災難に見舞われる。盲目になりながらも17時28分に敵機1機を撃墜、代わりに後部への至近弾2発を受けて舷軸室に浸水被害発生、これにより左舷へ5度傾斜すると同時に最大速力が31ノットに低下。2名の負傷者を出した。
17時42分、不時着水機からパイロットを救助する任に就いていた米潜水艦ハリバットは水平線上から伸びる日向のマストを発見し、ハダックとツナに通報しながら潜航追跡を開始。2隻は18時30分に本隊との合流を果たすが、その11分後に伊勢型戦艦目掛けてハリバットが6本の魚雷を発射、5回の命中音が聴音されるも実際は命中していなかった。日没後の19時、小沢中将は南方で瑞鶴の生存者を救助していた軽巡五十鈴と駆逐艦初月、若月が米第38.3任務部隊と交戦しているとの報告を受け、大淀、伊勢、日向、霜月を救援のため分派し、16ノットで南下を始める。米潜水艦の襲撃は留まる所を知らず、21時32分に3本の魚雷が伊勢と日向の間を通過し、23時には再びハリバットに発見されて追跡を受けた(攻撃位置に付けず取り逃がす)。やがて北上してきた五十鈴や若月と合流。2隻から初月の最期を聞き取った事で23時30分に小沢中将は南下の中止と奄美大島への寄港を指示し、23時45分より北方への退避を始める。この時に米潜トリガーに追跡されているが攻撃を受ける前に振り切っている。
10月26日午前6時10分、小沢艦隊の左側から伸びて来る3本の雷跡が発見されて潜水艦警報が発令、魚雷は日向の艦首前方約45m先を通過した。間もなく宮古島南東90海里に差し掛かり針路を北東へ変更。午前10時より30分間最大戦速を維持して敵潜水艦の包囲網から脱しようとしたが、17時25分、霜月の40度方向に潜望鏡を発見して対潜戦闘、17時34分に東シナ海で再び左側から2本の魚雷が接近してくるのを日向の見張り員が発見・回避、20時32分には伊勢と日向の間を3本の魚雷がすり抜けていくなど緊迫した航海が続く。
奄美大島近海にまで到達してもなお敵潜の執拗な追跡が続き、10月27日午前11時、第33号海防艦が潜水艦を探知している。度重なる米潜水艦の襲撃をかわして同日正午に奄美大島の薩川湾へ到着。30分後、日向と互いに協力しながら損傷個所の応急修理を行う。霜月は一連の対空戦闘で高角砲弾595発と機銃弾8640発を発射していた。間もなく湾内へタンカーこがね丸が入ってきて燃料補給を受ける。18時50分、連合艦隊から戦力の抽出を求められ、直接マニラに向かうグループと一旦呉に帰投するグループに分離。霜月は損傷の度合いから内海西部で急速補給を命じられ、マニラへ反転進出する大淀と若月に長10cm砲弾を供給、内地での補給後は2隻と同じ行動に就く予定だった。10月28日13時、伊勢と日向を護衛して薩川湾を出発。だが敵潜の襲撃は続き、15時35分と18時6分に雷跡を確認して回避運動、21時20分にはシードックから6本の魚雷が伸びてきた他、翌29日午前4時15分にもスターレットにレーダー探知されて追跡を受けるが22ノットの高速を出して振り切り、続いてベスゴとロンクィルに発見されるも攻撃を許さぬまま脱出に成功。
そして10月29日22時50分、米潜水艦の包囲網を突き破って呉へ帰投。エンガノ岬沖海戦で敵機10機撃墜の戦果を挙げた。しかし悪化し続ける戦況は霜月が内地に留まる事を許さず、10月31日17時20分、霜月の修理を迅速に終えてマニラへ向かうよう下令され、11月5日には戦艦伊勢、日向、軽巡五十鈴、駆逐艦桐、桃、梅、桑、杉、霜月の9隻でH部隊を編制。オルモックへ緊急輸送する物資の輸送任務を受け持つ。11月7日に霜月の修理が完了して出渠。
戦艦3隻、空母4隻、巡洋艦9隻、駆逐艦8隻、潜水艦6隻が吞み込まれて戻ってこなかった地獄の戦場から生還したのだった。また霜月はエンガノ岬沖海戦から生還した唯一の秋月型でもある。
地獄を超えた先はまた地獄、決して帰れぬ多号作戦
レイテ沖海戦は終わったがレイテ島の戦いはこれから始まろうとしていた。アメリカ軍は東のタクロバンを、日本軍は西のオルモックを補給先とし、両軍とも増援を送り続ける。しかし潤沢な物量を持つアメリカ軍の増援は底知れず、更に無数の敵艦上機がオルモックを空襲して護衛艦艇ごと輸送船を殲滅、策源地となっているマニラですら空襲を受けており、今やフィリピン方面に安全な場所は存在しなかった。そんな危険区域へ霜月は飛び込む事になる。11月8日、オルモック緊急輸送こと多号作戦に参加するため戦艦伊勢と日向、軽巡五十鈴、駆逐艦7隻とともに呉を出港し、六連へ移動。2隻の戦艦はマニラを防衛する陸軍向けの弾薬約1000トンを航空機格納庫に搭載していた。本来であれば涼月も参加する予定だったが艦首からの漏油が激しく取り止められた。
11月9日午前2時15分、軽巡五十鈴、駆逐艦桑、桐、槇とともに六連を出発し、南方でまず戦艦伊勢と合流、午前8時30分に五島列島北方沖12海里で後発の戦艦日向、駆逐艦桃、杉、梅のグループと合流した。夕刻、単独で北上中の特設巡洋艦護国丸とすれ違い、「必勝を祈る」との信号が送られてきたため、返信は旗艦の日向が行った。不幸な事に護国丸は翌日米潜に襲われて沈没してしまっている。
11月11日14時に台湾の馬公へ寄港して翌日出発。そこから直接マニラを目指す予定だったが、11月13日20時にマニラが激しい空襲を受けているとの報告が入り、11月14日14時に新南諸島へ退避する。11月15日午前9時、第6号、第9号、第10号輸送艦が新南諸島に到着して伊勢型戦艦から人員と弾薬を引き取り、また梅と桐は内地帰投する栗田艦隊を援護するためブルネイに向かい、五十鈴は桃、杉、桑を率いてマニラへ出発するなど艦隊は次第に散り散りになっていった。11月16日17時に輸送艦への物資の移送が完了。
霜月は伊勢と日向を護衛して新南諸島北東に向けて出港、11月18日13時にブルネイから出発してきた戦艦榛名のグループと合流し、護衛任務に従事する。11月22日午前7時5分、マラヤ沖で大淀が敵潜を発見して発砲、霜月と初霜が爆雷投下を行うも効果のほどは不明。同日15時にリンガ泊地へ到着。被雷してスラバヤに回航される軽巡五十鈴に代わり、21時に第31戦隊の旗艦を継承して司令の江戸兵太郎少将が乗艦。夜遅くにリンガを発って翌23日にシンガポールへ入港する。
11月24日正午、ジョホール海峡で五十鈴から降ろされた第31戦隊の将旗を霜月に掲げ、駆逐艦桃とシンガポールを出港。多号作戦に参加するべくブルネイ湾に向かった。
神帰月の霜は静かに消ゆ
1944年11月25日未明、シンガポール東北東350kmで米潜水艦キャバラに発見されてしまう。キャバラは17ノットで航行中の霜月を那智型重巡洋艦と誤認し、午前4時25分に4本の魚雷を発射、1分40秒後に2本が右舷へ直撃して2分以内に沈没。伴走者の桃が「瞬時に沈んだ」と表現したほど急速な沈没であった。午前5時10分、桃は霜月の沈没を報告して敵潜水艦の捜索に当たったが取り逃し、海面を漂っていた乗組員46名を救助。艦長や第31戦隊司令部など290名以上が戦死した。1945年1月10日除籍。エンガノ岬沖海戦以来、霜月と行動を共にしていた日向の乗組員は沈没を嘆き悲しんだという。
沈没時に生じた爆発の激しさから搭載魚雷が誘爆したものと長らく信じられていたが…。
2002年7月6日夜、スキャンソナーによる探索で霜月の残骸が発見された。当時は悪天候だったためダイバーを投入出来ず2003年5月14日にようやく潜水調査が実現。キャバラの雷撃で誘爆したと思われた魚雷が無傷のまま残っていた事が判明し、船体の損傷具合から2本の魚雷どころか3~4本被雷していたと推測された。
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