霜月(秋月型駆逐艦)単語

シモヅキ
1.2万文字の記事
  • 0
  • 0pt
掲示板へ

霜月(秋月型駆逐艦)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した秋月型駆逐艦7番艦である。1944年3月31日工。マリアナ沖海戦とエンガノ戦を生き延び、敵機12機撃墜、協同撃墜3機の戦果を挙げた。同年11月25日シンガポール東北東で敵潜の雷撃を受けて沈没

概要

霜月とは陰11月異名、あるいは霜が降りるほど寒い日のす。

秋月型()とは帝國海軍最大の巨を誇る大駆逐艦である。1920年代から急存在感を出し始めた空母航空機に対抗するべく、イギリス海軍は旧式のC級軽巡洋艦を防艦化し、アメリカ海軍では防に特化したアトランタ級の建造に着手。仮想敵が続々と防艦を作り出すのを見て帝國海軍も防艦を意識するようになり1937年頃より本格的な検討を開始、軽巡洋艦の量産は厳しいので駆逐艦サイズで防艦を作る事とし、1938年のマル四計画において初めて「駆逐艦」の言葉が出された。1939年4月頃には基本設計がまった。当初は空母の護衛を主任務に定め、対潜・対に優れた直衛艦になる予定だったが、直衛以外にも使用出来るよう雷装を追加して八面六臂の活躍をする駆逐艦となっている(ただし魚雷を放ったのは新月のみ)。

体は長首楼を採用、舷側は垂直であり、巧みな兵装配置により高い火力を保有、他の駆逐艦満足に電探を装備出来ない中、秋月型は70km先の敵機を探知出来る21号水上電探を装備し、また2基の九四式高射装置が2つの標に対する同時管制射撃を可とする。何から何まで新しい秋月型だが、さすがに機関まで新しくするのは難しかったようで、陽炎型に採用されたロ号艦本式3基5万2000力を流用した。

こそ優れていたものの、工程の複雑化と大なのが災いし、大量生産しにくい欠点を抱えていたため、後期になるほど体が簡略化されていった。秋月型は大別して初期の秋月型、中期の冬月、後期の満月の3つのグループに分けられ、霜月秋月型グループの末っ子にあたる。

排水量2701トン、全長132.4m、全幅11.6m、最大速力33ノット、重1080トン、乗組員263名。武装は65口径10cm連装高4基、九六式25mm三連装機5基、同単装機14丁、次発装填装置付き61cm四連装魚雷発射管1基、九四式爆雷投射機2基、爆雷投下軌条2条、九五式爆雷54個。電測装備として21号水上電探、13号電探、九三式探信儀を装備。

約8ヶという短い艦歴ながらマリアナ沖海戦で2機、エンガノ戦で10機撃墜し、団護衛や輸送任務にも従事した武勲艦である。

艦歴

長姉のために身を削った苦労艦

1941年に策定された戦時急造計画(通称マル急)において一等駆逐艦360号艦の仮称で建造が決定。1942年7月6日三菱重工長崎所で起工し、1943年3月5日霜月と命名、4月7日進水式を迎える。

しかし、機関の新造が遅れたため建造スケジュールに狂いが生じ、更に装作業中の7月5日長崎所に艦首を喪失した姉妹秋月が入渠。秋月修理には翌年1月まで掛かると見積もられていたが、修理期間短縮のため、建造が遅れている霜月艦首を流用する事になり、文字通り霜月は身を削って長艦首を差し出した。この献身により秋月は僅か3ヵ修理で戦線復帰する事が出来た一方、霜月の工事は遅延。それでも工員の不断の努力によって12月には新たな体が完成したという。

そして1944年3月31日にようやく工。実に進から1年近くが経過していた。初代艦長に野健二少佐が着任、佐世保鎮守府に所属するとともに訓練部隊の第11戦隊へ編入された。

1944年4月3日瀬戸内海西部にいる第11戦隊と合流するべく生まれ故郷の佐世保を出港し、翌4日にへ入港。ところが工時からが過重で旋回が他の秋月型より遅い事が発覚。いきなりでの修正工事を強いられてしまい、乗組員の錬成に悪が生じた。第11戦隊からは「乗員ノ錬度極メテ幼稚ニシテ警トシテ不適ト認メラルルニ付 前線進出ハトモ五月中旬以降」と辛辣な評価がなされている。4月9日午前8時を出港し、2時間後に柱島泊地へ到着して姉妹秋霜早霜と合流、4月19日午前8時に柱を発って、同日23時30分に八泊地に投錨した。

5月3日19時32分、大本営は西カロリン方面で敵機動部隊決戦を挑む「あ」号作戦を発動し、霜月隊へ編入。軽巡長良名取駆逐艦秋霜時雨給油速吸と諸訓練に従事する。5月4日午前8時1分、駆逐艦松風とともに横須賀停泊中の軽巡大淀と合流するよう連合艦隊から命じられ、5月8日午前8時を出港、中何事もなく翌9日18時横須賀へと入港した。5月12日横須賀を出発して木更津で行われた僚艦との合同訓練に参加、5月15日にも同様の訓練に参加するため木更津泊地を出発するも、荒により中止となっている。

第11戦隊はやたらと練度が低い霜月秋霜に気を揉んでいたらしく連合艦隊や第2艦隊に「秋霜 霜月ハ当隊編入期間中幾多ノ支障アリテ 所期ノ訓練成果ヲ得ルコナク出撃ノ運(はこび)トナリタル(以下略)」と訓練導に配慮をめていた。だが戦隊の心配をよそに霜月大淀の護衛と瀬戸内海回航に成功し、5月23日に柱へ帰着。その後、駆逐艦夕凪を率いて徳山にて燃料補給を受け、機動部隊と合流して慣熟訓練に従事。5月29日午後12時30分、軽巡長良名取駆逐艦清霜冬月とともに室積を出港して八に向かいながら諸訓練を実施、5月31日17時に八を出発してまで戻り、入渠整備を受ける。


6月3日午前11時49分、霜月軽巡洋艦矢矧率いる第1機動艦隊第3艦隊第10戦隊に転属。空母の直掩を担当する事に。続いて6月5日21時26分、佐世保に寄港してタウイタウイ泊地に進出中の機動部隊向け物資を積載して輸送するよう命じられ、翌日佐世保に入港。工で対の増備を受けるとともに第1機動艦隊向けの機と物件を積載し、6月10日午前8時に出港してフィリピン方面へ向かった。

しかし戦局は予想以上に逼迫しており、6月14日16時57分、アメリカ軍マリアナ諸侵攻を迎撃するためタウイタウイ泊地から出撃していた小沢機動部隊と前進拠点マラスにて合流、燃料補給を受けると同時に持ってきた機や物件を移した。

6月15日午前7時、補給を終えた小沢機動部隊とともにギマラスを出港。その17分後、アメリカ軍サイパン上陸を受けて「あ」号作戦決戦準備が発され、対潜警を厳重にしながら航行、やがてフィリピンへと繋がるサンベルナルジノ峡に差し掛かり、大小の艦艇が一列縦隊を組んで狭い峡を通過していく。幸い予想された敵潜の襲撃はく、17時30分に峡を突破してフィリピンに進出し、日後は間警航行隊形へ移行。6月16日15時30分、渾作戦から復帰した戦艦大和武蔵能代(軽巡洋艦)等の別動隊と合流して戦力を拡充させ、翌17日17時30分に燃料補給を了。一路マリアナ諸方面に向かう。

6月18日午前5時より各空母から索敵機が飛び立って敵機動部隊の捜索を開始。15時40分に敵空母群が発見されたが、今から攻撃しては帰投が間になって着艦が大変危険だとして攻撃は明日に定められた。

機動部隊の墓標マリアナ沖海戦

6月19日午前3時小沢中将は旗艦大鳳が属する力の本隊、龍鳳隼鷹飛鷹を中心とした部隊、本隊の前面に立って敵機の攻撃を弱める前衛部隊の三つのグループに分け、霜月大鳳する本隊の護衛に回る空母から次々に攻撃隊が飛び立つが、午前8時10分に大鳳が敵潜の雷撃を受け、午前11時20分に翔鶴も被雷。弾薬への誘爆を繰り返して14時10分にまず翔鶴沈没し、16時28分にはガス爆発による致命傷で大鳳沈没100機に上る航空機を失う痛打となってしまった。また出撃させた攻撃隊の大半は戻らず、一度体勢を整えるべく17時10分に北上を開始、22時45分に西方への退避を行った。速な退避が功を奏したらしく機動部隊は丸一日小沢機動部隊を捕捉する事が出来なかった。

6月20日午前7時5隻が到着し、午前11時より各艦へ燃料補給を開始。旗艦を瑞鶴へ移して更なる攻勢計画を練っていた。しかし敵機から執拗な触接を受けたため、14時45分に更なる西方への退避を行うも逃げ切れず、15時5分に傍受した敵の通信によると既に小沢機動部隊は発見されている事がえ、16時頃に敵の偵察機が出現して正確な位置を通報される。重巡摩耶の電探が200km先にいる敵機の編隊を探知した事で75機の零戦が上待機、加えて摩耶水上偵察機が敵機動部隊発見の報を出すなど決戦の時は刻々と近づいていた。

そして17時30分、敵空母から放たれた216機が小沢機動部隊東方より接近。迎撃に向かった零戦75機は多勢に勢で23機が撃墜、エアカバーを破った敵艦上機群は思い思いに獲物へ襲い掛かる。霜月力隊に残った一の空母瑞鶴を護衛するべく重巡妙高羽黒軽巡矢矧駆逐艦6隻と輪形を組み、次々に襲い来る敵機の波状攻撃を迎え撃つ。瑞鶴ホーネットベロウッドヨークタウンの敵艦上機から一斉に狙われたが、瑞鶴の巧みな回避運動と分厚い弾幕により250kg爆弾が1発命中した程度で済む。霜月対空砲火で敵機2機を撃墜して傷で襲を乗り切った(至近弾でステアリングが損傷したとも)。わずか15分程度の戦闘ながら飛鷹沈没千代田隼鷹摩耶瑞鶴等が損傷を負う。小沢中将夜戦を企図し、明朝の会敵をして水上艦艇による突撃が計画されるも、機動部隊航空兵力が払底して援護に期待出来ない事から21時5分に作戦中止。豊田大将から「あ」号作戦そのものの中止を命じられた。

日本側は虎の子の大空母3隻、航空機426機(地上機も含めると1000機以上)、搭乗員700名を喪失する大損を受け、西太平洋の制権と再建したばかりの機動部隊を失った。対するアメリカ軍中戦で20機撃墜、間の強行着艦で80機を失っている。

6月22日13時43分、小沢機動部隊沖縄中城湾に寄港。ここで負傷者の移乗や燃料補給を行い翌日午前11時10分出発、6月24日21時30分に柱島泊地へ帰投した。燃料補給を受けて次なる作戦のため待機する。

護衛任務と輸送任務に励む

6月28日午前5時53分、姉妹艦若とともに横須賀へ戻る大淀を護衛して柱を発ち、翌29日午前11時横須賀へと到着したのち、マリアナ沖海戦の戦訓から工で新たに13号電探の装備と機の増備が行われた。

7月4日19時6分、機動部隊作第29号により第10戦隊は遊撃部隊へ編入され、また方面に対警報に伴って出港予定を取りやめ、若ともども木更津で一時避泊。結局何事も7月5日午前7時、次の護衛任務に備えて若と一緒に木更津を出港し、翌日13時30分にへ回航。

7月8日午前10時30分、物資や第28師団を積載して南方へ進出する戦艦金剛長門重巡最上を第10戦隊の僚艦とともに護衛してを出発。19時37分に襲を避けるため臼杵湾で仮泊し、翌9日午前4時30分に出発して太平洋に進出する。7月10日午前4時50分から12日午前4時40分まで中城湾へ寄港し、沖縄本島に配備される陸軍部隊を揚陸して中城湾を出発、次なる的地であるマニラに向かう。7月14日19時15分マニラ入港。現地でを補給するとともに霜月冬月第41駆逐隊が新編された。7月17日午前6時マニラを出港、シンガポールへ向かっていた7月19日、敵潜水艦から発射された4本の魚雷金剛へ伸びていったが命中せず、同日中シンガポールに入港する。

7月20日16時20分にリンガ泊地へ到着。すぐ近くに外地最大のドックを有するシンガポールがあり、産地のタラカンにも近く、敵の爆撃圏外でもあるリンガは数少ない安全地帯だった。7月26日から31日にかけてリンガを拠点に出動訓練に従事。8月3日午後12時55分、第2艦隊より団護衛を兼ねての内地帰投を命じられ、8月4日午前7時リンガを出発してシンガポールに移動。

8月5日21時、輸送8隻からなるヒ70団を護衛して出港。護衛兵力は練習巡洋艦香椎空母神鷹海防艦佐渡、千振、第13号、第19号、そして霜月の計7隻であった。中でマニラから出発してきた軽巡北上(中破)が加わり、ヒ71団護衛のため海防艦佐渡が離脱。8月12日午前8時15分、沖縄西方神鷹所属の九七式艦攻が敵潜水艦らしき艦を2回発見して爆雷を投下、第13号海防艦爆雷投下に向かっている。8月14日、有湾へ寄港するにあたって霜月が先行して対潜掃討を行い、安全を確認してから湾内へ団を誘導。8月15日14時30分にヒ70団が門に到着したのを見届けた後、神鷹へ、香椎は再度団護衛へ、北上佐世保へ、霜月は有湾を発って横須賀へ向かい、8月17日から24日にかけて入渠整備を実施。8月25日より東京湾での訓練を開始した。

9月15日第41駆逐隊は第1機動艦隊第3艦隊第10戦隊に編入。アメリカ軍による硫黄島及び小笠原諸島への襲が相次いだ事を受け、連合艦隊は就役したばかりの空母雲龍を基幹とした迎撃艦隊を編成し、第41駆逐隊も組み込まれた。東京湾雲龍との合同訓練を行っていたが結局出撃の機会は訪れなかった。9月26日冬月とともに雲龍を護衛して横須賀を出発し、翌日午前10時4分にへ到着する。9月28日に第2遊撃部隊へ編入。

10月9日横須賀在泊中の大淀へ回航するため冬月と出港。整備を終えた大淀と合流して10月12日午後12時15分に横須賀を発つが、東京湾口から19km離れた遠州潜水艦トレパンレーダー探知され、同日19時32分、一斉発射された魚雷6本が白線を引きながら霜月たちに襲い掛かった。このうちの1本が冬月艦首に直撃して大破。トレパンは更に艦尾魚雷発射管から追撃の魚雷4本を放つもこれは命中しなかった。幸い冬月は自力航行可だったため霜月は先行。10月13日午後12時2分、第653航空隊の転進支援的で駆逐艦2隻の急要請が入り、それに応じて霜月大分湾へ移動する。一方、冬月は自力でまで辿り着いたが、損傷によって旗艦任務に耐えられなくなりへ入渠。代役として霜月脇田一郎大佐が乗艦して第41駆逐隊駆逐艦となる。時同じくして第41駆逐隊は機動部隊本隊に編入。

10月17日アメリカ軍がレイテ湾スルアンに上陸し、翌日に捷一号作戦が発力の栗田艦隊をレイテ湾に突入させるべく艦載機を失って「失業」状態の空母を囮にする事とし、瑞鶴瑞鳳千歳千代田を基幹とした小沢艦隊の護衛に参加する。

10月20日18時空母瑞鶴瑞鳳千歳千代田戦艦伊勢日向軽巡大淀多摩五十鈴駆逐艦8隻からなる計17隻の小沢艦隊は色の豊後を出発し、敵潜水艦の待ちせを警して速力20ノットの高速で南下。戦艦伊勢日向と艦隊の前衛を担った。しかしその前途は多難と言えた。まず10月21日午後12時6分に130度方向からの雷跡が確認され、翌22日午前5時24分には瑞鶴の右舷側に敵潜水艦を発見、同日20時13分にも右40度方向に敵潜を発見して対潜戦闘が生起。複数の敵潜水艦に追跡されながらも10月23日午前6時31分、翌日には敵の襲圏内に入るという事で形を対潜警航行序列から対航行序列に変更。囮として力の栗田艦隊より立つ必要があるため、わざと立つ行動をしたり盛んに偽電を打って敵艦隊の注意を引く。

そして10月24日午前6時小沢艦隊は予定地点に到着。同日16時17分、340度方向に敵の偵察機が出現した事で小沢艦隊の存在は敵に知られる事となる。

絶望のエンガノ岬沖海戦

10月25日午前7時12分、艦隊上り付く敵偵察機を発見したため、直掩機18機を除く全ての艦載機を地上へと退避させる。艦隊は瑞鶴瑞鳳伊勢を中核としたグループ千歳千代田日向を中核としたグループに分かれて輪形を組み、霜月後者に属した。午前7時48分、空母エセックス所属のF6Fヘルキャット4機が計算通りに小沢艦隊を発見。10隻の敵空母からヘルキャット60機、ヘルダイバー65機、アベンジャー55機からなる第一次攻撃隊が発艦した。午前7時49分に霜月戦闘旗を掲げ、4分後に小沢艦隊は第四警航行序列を維持しながら速力32ノットに増速。

午前8時8分、左120度方向より敵機180機が接近してきた事によりエンガノ戦が生起。霜月空母千歳千代田の護衛に回り千代田の左後方に占位、午前8時22分よりの如く迫る敵機の大群に対射撃を開始する。敵は空母戦艦に攻撃を集中させており小駆逐艦軽巡にはもくれず一心不乱に襲い掛かった。対に優れた秋月型だけあって霜月の対射撃は実に正確であり、午前8時25分に日向との連携火で後方から千代田に迫った3機を撃墜し、霜月の対と高で5機を撃墜、更に右方向から接近する敵約30機に猛な対射撃を浴びせて1機撃墜するとともに千代田の回避運動に合わせて霜月も回頭。午前8時40分には敵機を分散させて千代田への攻撃を軽減している。しかし午前8時50分、かつて霜月が身を削って助けた長秋月が突如爆発を起こして沈没し、最初の犠牲艦となった。

午前9時に一旦対射撃を停止。午前9時37分、多数の至近弾と5発の直撃弾を受けた千歳が左舷側へ急速に傾斜して沈没へ投げ出された生存者を救助するため五十鈴とともに現場に向かい、午前9時42分に千歳沈没地点へ到着して漂泊、救助活動を開始する。ところが僅か2分後に電探が敵編隊の接近を探知したため、救助用のカッター2隻を降ろしながら対戦闘の準備を整え、北方千代田のもとへ急行する。午前9時55分、右50度方向20km先に敵機約35機を発見して第三戦速に増速、発見信号を掲げつつ対戦闘を再開し、速直撃弾を与えて敵機1機を叩き落とす。だが霜月五十鈴千代田の前へ出る前に襲が始まった事で一時的に弾幕が薄い状態が作られてしまい、午前10時500kg爆弾を喰らって千代田が大破炎上。5分後、手負いの千代田トドメを刺すべく右40度方向より新手の敵編隊30機が迫るが、午前10時12分に何とか千代田付近に到達、霜月は急ぎ対防御を行ってう。

敵機を撃退した後、日向千代田の周囲を回って警を始め、それに倣うように霜月日向の外周を、駆逐艦槇が霜月の外周を回って三重を敷く。午前11時5分、今度は左方向より敵機数機が出現。日向、槇とともに対射撃を行って危なげもく撃退に成功した。午前11時20分に霜月千歳生存者救助を再開するよう命じられて全速力で南下、午前11時51分から漂泊して波間に漂う生存者たちを艦内へ引き上げる。午後12時32分に第三次攻撃隊の敵機十数機が発見されて一時救助が中断されるも、北上中の瑞鶴瑞鳳に釣られたため千代田及び千歳周辺の小グループ無視して飛び去って行き、その間に霜月は121名を救い上げた。

救助作業を了した霜月午後12時39分に千歳沈没地点から離れて北上、13時20分に千代田のもとへ帰還する。そこでは日向と槇の護衛を受けながら五十鈴千代田航しようと四苦八苦していた。10分後、瑞鶴瑞鳳を攻撃した帰りと思われる敵機十数機が北方より接近、対射撃で追い払う。13時50分、敵機の注意を引き付ける的で日向とともに北上を開始。14時14分に瑞鶴が、15時26分に瑞鳳が撃沈された事で空母千代田を残して全滅。その千代田ももはや戦える状態ではなかった。幾度にも及ぶ敵機の襲来を退けてきた霜月日向だったが、15時44分より敵機の執拗な触接を受けるようになり、いよいよ大規模攻撃の予兆が見え始めた。

17時16分、左方向から敵艦爆十数機が接近しているのを発見、17時26分より攻撃が始まった。対で1機撃墜したのも束の間、艦前方に2発の至近弾が炸裂して柱が築かれ、1分後には1機撃墜及び1機撃破の戦果を挙げるも今度は右艦尾付近に至近弾複数を受け、右へ左へ身をよじって回避運動を続ける。最大戦速に上げながらまた1機を叩き落としたが、後部への至近弾により漏が発生、電探と高射装置が故障する災難に見舞われる。盲目になりながらも17時28分に敵機1機を撃墜、代わりに後部への至近弾2発を受けて舷軸室に浸被害発生、これにより左舷へ5度傾斜すると同時に最大速力が31ノットに低下。2名の負傷者を出した。

17時42分、不時着機からパイロットを救助する任に就いていた潜水艦ハリバット線上から伸びる日向マストを発見し、ハダックツナ通報しながら潜航追跡を開始。2隻は18時30分に本隊との合流を果たすが、その11分後に伊勢戦艦掛けてハリバットが6本の魚雷を発射、5回の命中音が聴音されるも実際は命中していなかった。日後の19時小沢中将南方瑞鶴生存者を救助していた軽巡五十鈴駆逐艦初月、若第38.3任務部隊と交戦しているとの報告を受け、大淀伊勢日向霜月を救援のため分し、16ノットで南下を始める。潜水艦の襲撃は留まる所を知らず、21時32分に3本の魚雷伊勢日向の間を通過し、23時には再びハリバットに発見されて追跡を受けた(攻撃位置に付けず取り逃がす)。やがて北上してきた五十鈴や若と合流。2隻から初月の最期を聞き取った事で23時30分に小沢中将は南下の中止と奄美大島への寄港を示し、23時45分より北方への退避を始める。この時にトリガーに追跡されているが攻撃を受ける前に振り切っている。

10月26日午前6時10分、小沢艦隊の左側から伸びて来る3本の雷跡が発見されて潜水艦警報が発魚雷日向艦首前方約45m先を通過した。間もなく宮古島南東90里に差し掛かり針路を北東へ変更。午前10時より30分間最大戦速を維持して敵潜水艦包囲網から脱しようとしたが、17時25分、霜月の40度方向に潜望を発見して対潜戦闘17時34分に東シナで再び左側から2本の魚雷が接近してくるのを日向の見り員が発見・回避、20時32分には伊勢日向の間を3本の魚雷すり抜けていくなど緊迫した航が続く。

奄美大島にまで到達してもなお敵潜の執拗な追跡が続き、10月27日午前11時、第33号海防艦潜水艦を探知している。度重なる潜水艦の襲撃をかわして同日正午奄美大島湾へ到着。30分後、日向と互いに協力しながら損傷個所の応急修理を行う。霜月は一連の対戦闘で高弾595発と機弾8640発を発射していた。間もなく湾内へタンカーこがね丸が入ってきて燃料補給を受ける。18時50分、連合艦隊から戦力の抽出をめられ、直接マニラに向かうグループと一旦に帰投するグループに分離。霜月は損傷の度合いから内海西部で急速補給を命じられ、マニラ反転進出する大淀と若に長10cm弾を供給、内地での補給後は2隻と同じ行動に就く予定だった。10月28日13時伊勢日向を護衛して湾を出発。だが敵潜の襲撃は続き、15時35分と18時6分に雷跡を確認して回避運動21時20分にはシードックから6本の魚雷が伸びてきた他、翌29日午前4時15分にもスターレットレーダー探知されて追跡を受けるが22ノットの高速を出して振り切り、続いてベスゴとロンクィルに発見されるも攻撃を許さぬまま脱出に成功。

そして10月29日22時50分、潜水艦包囲網を突き破ってへ帰投。エンガノ戦で敵機10機撃墜の戦果を挙げた。しかし悪化し続ける戦況は霜月が内地に留まる事を許さず、10月31日17時20分、霜月修理速に終えてマニラへ向かうよう下され、11月5日には戦艦伊勢日向軽巡五十鈴駆逐艦、桑、霜月の9隻でH部隊を編制。オルモックへ緊急輸送する物資の輸送任務を受け持つ。11月7日霜月修理了して出渠。

戦艦3隻、空母4隻、巡洋艦9隻、駆逐艦8隻、潜水艦6隻がみ込まれて戻ってこなかった地獄戦場から生還したのだった。また霜月はエンガノ戦から生還した一の秋月型でもある。

地獄を超えた先はまた地獄、決して帰れぬ多号作戦

レイテ沖海戦は終わったがレイテの戦いはこれから始まろうとしていた。アメリカ軍は東のタクロバンを、日本軍は西のオルモックを補給先とし、両軍とも増援を送り続ける。しかし潤沢な物量を持つアメリカ軍の増援は底知れず、更に数の敵艦上機がオルモックを襲して護衛艦艇ごと輸送を殲滅、策地となっているマニラですら襲を受けており、今やフィリピン方面に安全な場所は存在しなかった。そんな危険区域へ霜月は飛び込む事になる。11月8日、オルモック緊急輸送こと多号作戦に参加するため戦艦伊勢日向軽巡五十鈴駆逐艦7隻とともにを出港し、六連へ移動。2隻の戦艦マニラを防衛する陸軍向けの弾薬1000トン航空機格納庫に搭載していた。本来であれば涼月も参加する予定だったが艦首からの漏しく取り止められた。

11月9日午前2時15分、軽巡五十鈴駆逐艦桑、、槇とともに六連を出発し、南方でまず戦艦伊勢と合流、午前8時30分に五島列島北方12里で後発の戦艦日向駆逐艦グループと合流した。夕刻、単独で北上中の特設巡洋艦丸とすれ違い、「必勝を祈る」との信号が送られてきたため、返信は旗艦の日向が行った。不幸な事に護丸は翌日潜に襲われて沈没してしまっている。

11月11日14時台湾へ寄港して翌日出発。そこから直接マニラす予定だったが、11月13日20時マニラしい襲を受けているとの報告が入り、11月14日14時に新南諸へ退避する。11月15日午前9時、第6号、第9号、第10号輸送艦が新南諸に到着して伊勢戦艦から人員と弾薬を引き取り、または内地帰投する栗田艦隊を援護するためブルネイに向かい、五十鈴、桑を率いてマニラへ出発するなど艦隊は次第に散り散りになっていった。11月16日17時輸送艦への物資の移送が了。

霜月伊勢日向を護衛して新南諸北東に向けて出港、11月18日13時ブルネイから出発してきた戦艦榛名グループと合流し、護衛任務に従事する。11月22日午前7時5分、マラ大淀が敵潜を発見して発霜月初霜爆雷投下を行うも効果のほどは不明。同日15時リンガ泊地へ到着。被雷してスラバヤに回航される軽巡五十鈴に代わり、21時に第31戦隊の旗艦を継承して江戸太郎少将が乗艦。遅くにリンガを発って翌23日にシンガポールへ入港する。

11月24日正午、ジョホール峡で五十鈴から降ろされた第31戦隊の将旗を霜月に掲げ、駆逐艦シンガポールを出港。多号作戦に参加するべくブルネイ湾に向かった。

神帰月の霜は静かに消ゆ

1944年11月25日未明、シンガポール東北350kmで潜水艦キャバラに発見されてしまう。キャバラは17ノットで航行中の霜月那智重巡洋艦と誤認し、午前4時25分に4本の魚雷を発射、1分40後に2本が右舷へ直撃して2分以内に沈没。伴走者のが「時に沈んだ」と表現したほど急速な沈没であった。午前5時10分、霜月沈没を報告して敵潜水艦の捜索に当たったが取り逃し、面を漂っていた乗組員46名を救助。艦長や第31戦隊部など290名以上が戦死した。1945年1月10日除籍。エンガノ戦以来、霜月行動を共にしていた日向の乗組員は沈没を嘆き悲しんだという。

沈没時に生じた爆発しさから搭載魚雷誘爆したものと長らく信じられていたが…。

2002年7月6日スキャンソナーによる探索霜月の残骸が発見された。当時は悪だったためダイバーを投入出来ず2003年5月14日にようやく潜調が実現。キャバラの雷撃で誘爆したと思われた魚雷傷のまま残っていた事が判明し、体の損傷具合から2本の魚雷どころか3~4本被雷していたと推測された。

関連項目

【スポンサーリンク】

  • 0
  • 0pt
記事編集 編集履歴を閲覧

ニコニ広告で宣伝された記事

(単) 記事と一緒に動画もおすすめ!
提供: ゲスト
もっと見る

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

霜月(秋月型駆逐艦)

まだ掲示板に書き込みがありません…以下のようなことを書き込んでもらえると嬉しいでーす!

  • 記事を編集した人の応援(応援されると喜びます)
  • 記事に追加して欲しい動画・商品・記述についての情報提供(具体的だと嬉しいです)
  • 霜月(秋月型駆逐艦)についての雑談(ダラダラとゆるい感じで)

書き込みを行うには、ニコニコのアカウントが必要です!


ニコニコニューストピックス