なになに?なんの話ですかぁ~~!?
青葉(あおば)とは、『艦隊これくしょん~艦これ~』に登場する、旧日本海軍の重巡洋艦「青葉」をモデルにした艦娘である。
担当声優は洲崎綾。キャラクターデザイン担当はhatsuko。
青葉取材…あ、いえ、概要を紹介しまーす!
重巡洋艦青葉型の一番艦であり、比較的手に入りやすい艦娘の一人。
モデルになった重巡「青葉」に従軍作家・海野十三(日本SF作家の嚆矢とも呼ばれ、江戸川乱歩や横溝正史とも交友があった。1942年2月~3月の約2ヶ月乗艦していた)が乗り込んでいた史実を元にしてか某烏天狗のように好奇心旺盛でインタビュー、取材をしたがる明るい元気な性格で、遠くを見渡すポーズをとっている。
同型艦の衣笠がスカートなのに対しハーフパンツを着用しており、性格同様服装も明るく活発な印象を与える。
背中の艤装に付いているいやに生活感のある煙突は、重巡「青葉」の前側煙突に這わせる形で本当に付いていたもの。史実の「古鷹」に付いている同様の煙突が烹炊室(厨房)の煙突と解説されているため、青葉のものも同じと思われる。妖精さんもカレー食べるんだろうか。
重巡洋艦の中では総じて高いステータスとは決して言えないが、元ネタの艦が何度も大破しながらも大戦を生き延びたことをふまえてか「運」のステータスが高めに設定されている。
以前はなぜかネクタイの一部(ちょうど肩掛けベルトと交差する結び目のあたり)が背景色を透過していて、秘書艦にして母港で壁紙をかえたりするとこの部分の色が変わっていたが、この不具合は2013年10月下旬のアップデートで修正された。
余談だが、声優・洲崎綾へのインタビューによると青葉を「中学生の高学年」くらいの年齢を想定していた模様。そして最も高いテンションで青葉を演じたそうな。
公式四コマでの活躍
公式四コマにも登場している。
第4話では赤城が加賀を慰めるところを「青葉見ちゃいました!!」と覗いており、後で駆逐艦たちに”面白おかしく(赤城談)”広めてしまう…。
第7話では重巡寮の近くで茂みに紛れている姿で登場。
青葉「べっ別に演習が厳しいから逃げてきたんじゃないからねっ!」
白雪「逃げ出してサボってるんですね…」
吹雪「青葉先輩がサボ…!!」
どういうわけか、吹雪のトラウマスイッチを刺激してしまったようである。
その後、探しに来た古鷹に見つかってしまい、煙幕炊いて逃げ出そうとするも、古鷹のサーチライトで見つけられてしまう。
史実を紹介しますね!インタビューする?
〈青葉〉は、1924年2月4日に後のメガネ火力でお馴染み三菱長崎造船所にて起工。2年後の1926年9月25日に進水、1927年9月20日竣工。〈古鷹〉〈加古〉に続き、日本で造られた3番目の重巡洋艦となった(といっても、4番目になる〈衣笠〉とは竣工日が10日しか違わないのだが)。就役後は佐世保鎮守府に所属。
青葉型重巡洋艦は先に建造された古鷹型重巡洋艦を再設計・改良したもので言わば「改古鷹型」。艦の形もよく似ている。
古鷹型は20センチ単装砲を6門装備していたが、大掛かりな装填装置を排除して砲塔を軽量化させたため人力で砲弾を装填しなければならなかった。人力による装填は乗組員に強い負担を強いると同時に給弾速度も遅滞させてしまった。しかしワシントン軍縮条約締結により新カテゴリーの「重巡洋艦」になった結果、逆に無理な軽量化をする必要が無くなったため、古鷹型にはまだ改良の余地があると判断された。そして古鷹型として起工するはずだった3番艦〈青葉〉と4番艦〈衣笠〉を青葉型として再設計したのだった。
青葉型では様々な改良が加えられた。まず装填装置が搭載され、給弾速度を飛躍的に向上した。また古鷹型では単装砲を積んでいたが、青葉型には新設計の連装砲に換装し火力も向上している。ただし住居環境は劣悪のままだった。
1927年10月30日、横浜沖で挙行された海軍特別大演習観艦式に参加。翌年3月29日からは有明湾を出港し、青島方面で活動。初めての外洋航海を行った。4月9日には旅順に立ち寄った。1931年12月1日に予備艦となり、呉工廠で整備と修理を実施。ちょうど1年後の同日に第五戦隊に編入され現場復帰を果たした。
1936年2月27日、二・二六事件発生に伴い出動。大阪湾へ陸戦隊を揚陸する。
1937年8月、第二次上海事変が勃発。上海に駐留していた少数の日本軍に、数万の国民党が襲い掛かり市街戦が始まった。この危急に〈青葉〉も出動し、増援の第11師団を多度津から上海へ輸送。8月20日から27日まで上海上陸支援作戦に従事していた。9月1日、再び予備艦となり中国戦線から退いた。
竣工後、高角砲にシールドを装備したり、呉式2号1型射出機を搭載するなどの小規模な改装を繰り返してきた青葉であったが1938年1月、佐世保工廠で古鷹型に準じた大規模な近代化改修を受ける。その際にカタパルトを設置し、水上機の扱いが可能となった。ちなみにカタパルトを搭載した重巡は青葉が初である。
しかし予算の都合から、古鷹型に施された大規模な主缶の改装は行われず、重油石炭混焼缶への換装のみに留められた。また主砲塔の改装も行われず、古鷹型と比べるとやや小規模な改修に終わった。1940年10月、改装完了。
上記の通り従軍記者が一時乗り込んでおり、曰く乗組員の勤務態度には感銘をうけたという。しかし同時に居住性は悪かったようだ。(これは日本の軍艦に共通して言える)
余談だが歴代の艦長には、後の連合艦隊司令長官となる古賀峯一(5代目艦長)や、後に自身も参加する三川艦隊でお馴染みの三川軍一(9代目艦長)、一水戦司令も勤めた森友一(14代目艦長)がいる。
開戦後
大東亜戦争、運命の開戦。開戦より4日前にトラック諸島へ進出していた〈青葉〉は姉妹艦の〈古鷹〉、〈加古〉、〈衣笠〉の4隻で第6戦隊を編成していた。そして彼女らはグアム島攻略支援を初陣として迎えた(指揮官は後のワレアオバで有名になる五藤司令)。日本軍はグアム島を難攻不落の米軍拠点と認識していたためかなりの戦力を投入 したが、実は過大評価で米軍の戦力は非常に少なかった(グアムは日本の勢力圏に取り囲まれていたので事前に米軍から切り捨てられていた)。故にグアム島は 問題なく占領する事が出来た。次に青葉ら第6戦隊に与えられた任務はウェーク島の攻略支援であった。ウェーク島は開戦直後に行われた一連の奇襲作戦で唯一攻略に失敗した島であった(艦これ的には〈如月〉が轟沈したことで有名か)。今度こそ占領するべく第6戦隊と第2航空戦隊が増援として派遣され、2度目の攻略作戦が始まった。ウェーク島の米軍は手ごわく、戦局は膠着状態に陥ったが日本側の決死隊の活躍により状況が好転、無事に占領を果たせた。作戦終了後、トラックへ帰還。なお、〈青葉〉はウェーク島攻略作戦で第6戦隊の旗艦を務めている。
1942年1月18日、〈青葉〉はトラックより出撃し、ラバウルの攻略支援に従事。無事ラバウルを占領する。1月21日、カビエン南西沖でオーストラリア軍のカタリナ飛行艇から投弾されるも被害は無かった。24日からはラバウル=カビエン間の哨戒任務や支援に従事。30日、燃料補給のためラバウルへ入港する。
2月1日、イザベラパッセージ港への陸戦隊揚陸を検討していたが、米空母〈エンタープライズ〉を中心とした米機動部隊がマーシャル諸島に襲来。揚陸は中止となった。
続けて3月にはニューギニア、ラエ、サラモア、ブーゲンビル島の攻略支援を行い、これらも占領に成功。まさに破竹の勢いであった。
同年5月、第6戦隊は珊瑚海海戦に参加。ポートモレスビーを攻略する上陸部隊を乗せた船団と空母〈祥鳳〉を護衛した。しかし〈祥鳳〉は撃沈され、作戦は中止。北方への撤退を強いられるなど今まで勝利続きだった〈青葉〉は初めて辛酸を舐めさせられる事に。ちなみにこの後、呉工廠に入渠していたためミッドウェー海戦には不参加だった。
6月23日、トラックに寄港。7日後に輸送船団を護衛して出港。洋上補給を経てキエタ到着。
1942年8月7日、ガダルカナル島に米軍が上陸。これを危惧した海軍は第18戦隊と第6戦隊をソロモン海に殴りこませ、第一次ソロモン沖海戦が勃発する。翌日の8日、ルンガ泊地に停泊する米豪連合軍の艦隊に青葉たちが夜襲をかける。激しい砲撃戦と雷撃戦の末、米重巡〈アストリア〉〈クインシー〉〈ヴィンセンス〉の3隻と豪重巡〈キャンベラ〉1隻を撃沈し、被害は旗艦〈鳥海〉小破のみという完勝に近い大勝利を収める(ただ、慢心したせいか帰途に〈加古〉が敵潜水艦に沈められてしまった)。この夜戦で〈青葉〉は水上機を発進させており、索敵で逸早く敵艦隊を発見。さらには敵艦に命中弾を与えるなど凄まじい戦果を挙げている。ところが!
ワレアオバ
大戦中はトラック諸島、グアム攻略戦などで活躍。しかし、〈青葉〉の評価をどん底に突き落としたのは、なんといっても1942年10月のサボ島沖夜戦だろう。
このサボ島沖夜戦では、〈青葉〉を旗艦とした第六戦隊(他に重巡〈衣笠〉〈古鷹〉、駆逐艦〈吹雪〉他)が飛行場を砲撃するために出撃したのだが、待ち構えていた米艦隊をなんと日本軍の輸送隊だと思い込んで、無防備に接近してしまうという大失態を冒してしまう[1]。(〈青葉〉では約10kmの距離で艦影を発見、輸送隊の〈日進〉に類似の艦影と駆逐艦らしき数隻の艦影を認めたため、これが揚陸部隊の可能性もあり敵味方識別のため注視していた。約7kmでこの艦影が敵と判明する。他に〈青葉〉が発見した艦影を味方の可能性があると判断した理由として、それまでに数回の鼠輸送が行われていたが敵水上部隊と遭遇することはなく魚雷艇の襲撃が殆どで、敵水上部隊は夜間は夜戦を避けルンガ方面に退避しているとの情勢判断が日本軍にあったことや基地航空隊の索敵機などからは敵に関する報告が無かったことなども関係しているとされる。)
当然、鴨が葱を背負ってきたのを見過ごす義理などない米艦隊だが、こちらも自分の艦隊から分離した艦と日本艦隊の判別がまだついていない状態であったため、攻撃には慎重だった。ところが、命令伝達の不備で軽巡〈ヘレナ〉が射撃を開始してしまい、他の艦も釣られてレーダー射撃を開始。文字通りT字不利の状態になっていた第六戦隊の先頭にいた〈青葉〉は集中砲火を受ける。幸運にも不発弾が多かったために沈没は免れたが砲塔、艦橋部分に大きな損害を被り大破する〈青葉〉。
しかし一説によると、ここに至っても、第六戦隊司令官の五藤存知少将(彼自身、この攻撃で重傷を負い、まもなく亡くなる)は攻撃を最期まで友軍による誤射と信じており「ワレアオバ、ワレアオバ」の発光信号を出させ続けていたという。(これを否定するような証言も存在する。)この集中攻撃により五藤艦長や参謀2名、中村副長など士官8名を含む79名が死亡し司令部要員は壊滅した。
余談だがゲーム内での「敵はまだこちらに気づいてないよ?」というセリフはこの事を元ネタにしていると思われるが、異説として第一次ソロモン海戦の事を指しているのではないかとも言われている。この海戦では重巡〈ヴィンセンス〉が受けた探照灯照射をはじめは敵からのものだと気付いていなかったり、重巡〈アストリア〉が〈青葉〉達を味方ではないかと思い攻撃を停止するなどの誤認があった。また米艦隊も相手が味方である可能性を捨てきれず、一度射撃中止命令を出すなどかなり混乱していた。
ほとんど一瞬にして無力化された〈青葉〉は、ここに至って待避を始める。〈青葉〉の後ろにいた〈古鷹〉は、敵と〈青葉〉との間に割り込み、文字通り体を張って〈青葉〉の撤退を守ったが、身代わりになって多数の命中弾を受け沈没、さらに〈吹雪〉も轟沈、おまけに救援に向かった〈叢雲〉も米軍の反復空襲で沈んでいるため、各艦娘ファンにとっては色々と〈青葉〉に含むところがありそうである。
とはいえ本海戦は両軍とも混乱を極めたものであり、海戦の結果は偶然によるものである。
一方的に嬲られたように見えるが一応帝國海軍も、駆逐艦〈ダンカン〉、〈ファレンボルト〉と重巡〈ソルトレイクシティ〉、軽巡〈ボイス〉を撃破している。この戦果はほとんどが、〈古鷹〉のさらに後ろにいたため被害を免れた〈衣笠〉と〈初雪〉の逆襲によるものである。
ソロモンの狼
九死に一生を得た〈青葉〉は駆逐艦〈初雪〉に護衛され、傷ついた船体を引きずりながら1942年10月12日にブイン泊地へ入港。応急修理を受け、翌13日午後8時30分に出港。15日、トラック諸島へ辿りつく。開戦以降、初めて大損害を受けた(正確に言うと「大損害を負いつつも帰り着いた」)重巡となった〈青葉〉はその姿を連合艦隊司令官に巡視されている。18日にトラック諸島を出港し、22日に呉軍港へ入港。船体の修理を受けた。倒壊した前檣は撤去され、新たに三脚檣を設置。武装も換装され、艦橋前に装備していた九三式13ミリ連装機銃を下ろし、代わりに九六式25ミリ3連装機銃を搭載した。被害の大きかった第三砲塔の20センチ連装砲を新型の連装砲に切り替える案も浮上したが、工期の関係で間に合わなかった。よって損傷した砲塔を撤去し、25ミリDS鋼を取り付けてその上に25ミリ3連装機銃を装備する事となった。
修理中の11月10日、〈青葉〉は呉鎮守府へ転籍している。
1943年2月15日には呉を出港、トラックを経由してカビエンに到着。再びソロモン方面へ進出する・・・のだが、3月3日にメウエパッセージで米軍艦載機3機による爆撃を受けた。
夜間であり、米軍機は〈青葉〉に気づかない様子で飛び回っていたため、艦長は照準を合わせた上で発砲を控えやり過ごそうとした。しかし急接近した敵機に慌てた機銃員が発砲してしまい、他の機銃群もしかたなく発砲を開始。突然撃たれて慌てた敵機は爆弾を投下するが、これが運悪く〈青葉〉に命中。右舷機械室が吹き飛んで横っ腹に大穴があき、更に酸素魚雷が誘爆して大爆発、魚雷燃料用の酸素も次々と引火爆発して艦の後ろ半分が火の海となり大破。沈没を防ぐため浅瀬に擱座する。乗員36名が死亡した。
3月13日、さっそくサルベージ船〈山彦丸〉が派遣され〈青葉〉救援が行われたが、浮揚作業に時間がかかるため、近くの島から木を切ってきて島に見えるようにカモフラージュを施した。樹木を盛りつけるために筏まで組んで周囲に浮かべたとか。この「青葉島」の出来は完璧で、サルベージに1ヶ月もかかったにもかかわらず、ついに敵機に気付かれなかった。これが公式四コママンガで青葉が木の陰に木の枝を持って隠れているエピソードの下敷きの一つと思われる(もう一つは……お察しください)。
浮揚作業の後、4月16日に軽巡〈川内〉に曳航されてカビエンを目指したが再び浸水が生じ、また浅瀬に乗り上げる。21日、再浮揚されて曳航再開。カビエンを経由し、5月7日にどうにかトラックへ到達。7月25日まで現地の第四工作部で応急修理を受けた。この応急修理で自力航行が可能となり、よろめきながら呉へと向かった。
8月1日、呉に帰投すると修理と共に21号電探、第三主砲塔復旧、25mm連装機銃の追加と強化される。1943年11月24日、修理完了。しかし破損した機関は手付かずで、最高速力が28ノットへ低下した。12月15日、呉を出港。マニラとシンガポールに入港し、現地で南遣艦隊へと編入された。
この時点で、〈古鷹〉〈加古〉に加えて〈衣笠〉も戦没しており、第6戦隊の生き残りは〈青葉〉ただ一人だけであった。
1943年12月、第16戦隊へと所属を変えた〈青葉〉は作戦範囲を南方からインド水域へと移す。〈青葉〉と時同じくして軽巡〈北上〉〈大井〉、第19駆逐隊(駆逐艦〈敷波〉〈浦波〉)が第16戦隊に編入され、一時は大所帯となった・・・が、1944年1月に〈北上〉は回天母艦への改造のため本土へ帰還、同月27日に〈球磨〉が米潜水艦〈タリホー〉によって撃沈されてしまった。ペナンの陸軍部隊をメルギーへ揚陸、その後シンガポールからナンカウリ島へ陸軍部隊を輸送した。
1944年2月、リンガ泊地で訓練を終えると中部太平洋海域で輸送作戦に従事する。5月上旬にはタラカンへ移動し、日邦丸船団を護衛した。ところが同月、〈大井〉がマニラ湾沖で米潜水艦〈フラッシャー〉に撃沈されてしまい、大所帯だった第16戦隊は〈鬼怒〉と〈青葉〉と第19駆逐隊のみとなってしまった。
1944年初頭、「サ第一号作戦」が立案される。これはインド洋での通商破壊を行う作戦で、あわよくば敵輸送船を拿捕して自軍の戦力に組み込むという思惑もあった。この作戦の奇襲戦力に〈青葉〉が選ばれ、重巡〈足柄〉とともにインド洋で通商破壊を行う予定であった。しかし〈足柄〉が第5艦隊に編入されて北方へ行ってしまったため、代わりに第7戦隊から重巡〈利根〉〈筑摩〉が送られる。
3月2日、バンカ泊地を出撃した3隻の重巡はインド洋へ進出。捜索網を張って商船狩りを始めた。しかし輸送船は全然見つからず、9日午後になってようやく利根が英商船〈ビハール号〉を撃沈した程度であった。〈ビハール号〉が撃沈の間際に発した遭難信号により、英軍は輸送船の航路を大幅に変更。そのため以降は全く輸送船と遭遇する事が出来ず、15日に作戦終了。3隻の重巡は反転し、帰路に就いた。15日夜、司令の高須長官は作戦の失敗を認めた。
日に日に戦況が悪化しつつあったため、後方海域を担当する第16戦隊に増援は望めなかった。それでも彼女らはシンガポールを拠点にベンガル湾通商破壊作戦や東インド洋における輸送作戦に従事した。
5月、リンガ泊地に集結した主力艦隊の中に〈青葉〉の姿があった。過去に2度の大破を経験しながら生きながらえた事から防水処置の模範とされ、駆逐艦〈春雨〉などの僚艦から派遣された応急要員に指導を行った。
そして1944年6月に発令された渾作戦への参加が決定する。
〈青葉〉が参加した第一次渾作戦では軽巡〈鬼怒〉や駆逐艦〈敷波〉〈浦波〉とともに輸送隊を組み、ダバオで上陸部隊を積載。6月3日、ニューギニア北岸に沿って東へ進撃するが、その近海に空母2隻を含む米機動部隊が発見され、作戦は中止。一度引き返す事になったが、米機動部隊発見の報は誤りと判明。作戦の再開が検討されたが、護衛の駆逐艦の燃料が既に尽きかけており、後方のアンボンまで後退してしまった。このため第一次渾作戦は完全に中止となり〈青葉〉もアンボンまで戻った。
第二次渾作戦には不参加だったが、第三次渾作戦に再度参加が決定する。新編成された渾部隊は6月12日、ソロン沖バチャン泊地へと集結。第一次同様に第16戦隊は兵員輸送を担当する事になったが再編成が行われ、第19駆逐隊の代わりに第4駆逐隊(駆逐艦〈満潮〉〈野分〉〈山雲〉)が青葉の指揮下に入った。他にも敷設艦〈厳島〉〈津軽〉、第36駆潜艇、第127号輸送艦が編入された。だが前日の11日に、米軍がマリアナ諸島へ襲来。この危急を知った上層部は13日に渾作戦の中止を決定。「あ号作戦決戦用意」と下令し、集結した艦隊に原隊への復帰を命じたため、渾作戦に従事する事無く終わってしまった。
1944年8月、第16戦隊はパラオ在留の邦人をゼブ島へ輸送。サンベルナンジノ海峡の水路調査も行っている。9月30日、リンガ泊地にて給糧艦〈北上丸〉より食糧の補給を受ける。
翌年の1944年10月まで東インド洋海域で行動を続けた。ちなみにこの辺りで、米軍は何度傷を負わせても戦場に舞い戻ってくる〈青葉〉を「ソロモンの狼」と呼んで恐れていたとも。まるで米空母〈エンタープライズ〉並みの不死身っぷりだあ。
同月23日、フィリピンに米軍が襲来し日米の天王山であるレイテ沖海戦が発生する。〈青葉〉は10月17日までシンガポールのセレター軍港にて修理を受けていたが、米軍フィリピンに襲来の報を受けて修理を取りやめ、栗田艦隊の一員として参加するはずだった。しかし機関破損により速力が出ない事を憂慮され、後方の兵員輸送任務を担当する事となった。
我ニ曳航能力ナシ、オ先ニ失礼
1944年10月21日、第16戦隊はミンダナオ島北岸のカガヤンにいる陸軍部隊を収容せよとの命令を受ける。10月23日、第16戦隊は警戒担当の浦波を先頭に航行していた。カガヤンに上陸する際に必要となる小発を受領するためマニラに向かっていたが到着直前に悲劇は起きる。ルソン島付近で、〈青葉〉は潜水艦〈ブリーム〉の雷撃を受けて右舷前部機関室が大破。左側に大傾斜し、航行不能になる大ダメージを負ってしまう。上甲板に波が掛かるほど傾斜していたが、辛くも傾斜を食い止め、軽巡〈鬼怒〉に舫綱を渡す事が出来た。こうして〈鬼怒〉に曳航されて命からがらマニラ湾に入港する。その翌日には米空母の艦載機から機銃掃射を受けるも損害は無かった。しかし第16戦隊の旗艦を続行する事は出来なくなり、代わりに〈鬼怒〉がその役割を負った。この際、第16戦隊の戦力は〈鬼怒〉と〈浦波〉の2隻だけになってしまっている(〈敷波〉は1ヶ月前の9月に海南島沖にて潜水艦に撃沈された)。
現地の第103工作部から応急修理を受け、5ノットの自力航行が可能になるが、〈青葉〉のいるマニラは連合国軍の重要攻略目標であった。空襲による更なるダメージを避けるために〈青葉〉は修理も兼ねて呉へと帰投する事になり、重巡〈熊野〉と第21駆潜隊が護衛するマタ31船団(マニラ→高雄)に加わって、マニラを出港する。
レイテ沖海戦でずっと対空戦闘を続けていた〈熊野〉は25ミリ機銃の銃弾が乏しくなっていたため、〈青葉〉から1万発ほど弾を分けてもらったとか。
11月5日、マニラ軍港を出港。夕方ごろには予定通りにサンタクルーズ港へ入港。翌日、サンタクルーズ港を出た船団は潜水艦警戒のため沿岸部に寄りながら航行。しかし米軍は日本軍の重要な航路に潜水艦の網を張っており、青葉たちは米潜水艦隊に探知されてしまった。間もなく米潜水艦〈ブリーム〉〈レイ〉〈レイトン〉〈ギッタロ〉の攻撃を受けるも5ノットの速力で魚雷7本の回避に成功(重巡〈熊野〉は魚雷2本が命中し航行不能になる)。
なお、この際〈熊野〉に対して「ワレニ曳航能力ナシ、オ先ニ失礼」と、余計な一言を入れた発光信号を送って、〈熊野〉の乗組員を怒らせたというエピソードがある。なお、この一件は正式な戦史には残っていないが、生き残った〈熊野〉の乗員多数から証言が上がっているので事実らしいとのこと。
※ただし、発光信号故に細かいニュアンスが伝わっていないことに留意されたし。船団の隊列上、〈熊野〉の方が〈青葉〉より前にいたので、「済みません、先に行きます」と言いたかっただけかもしれない。また、〈青葉〉と〈熊野〉の乗員達の仲が良かったので、いらん茶目っ気を出してしまったという説もあり。前述の通り、後ろにいた〈青葉〉が〈熊野〉の脇をすり抜けて前に出るときに、互いの乗員同士が帽子を振り合って互いに「頑張れ」と声を掛け合った、という話もある。
その後、〈青葉〉は単艦で魔のバシー海峡を突破。サン・フェルナンドで洗濯桶と短艇で三日かけて民家の井戸からボイラー用の水汲みをしたり、暴風雨に巻き込まれたりしながら、11月11日、燃料切れ寸前でなんとか台湾の高雄に到着。
「後退する船に補給する燃料は無い」という警備府に艦長自ら乗り込んで基隆までの燃料をぶんどり、たどり着いた基隆のドックで魚雷で空いた穴と機関部の応急修理を受け、12ノットが出せるようになる。
そして12月12日、被雷から50日にしてついに〈青葉〉は母港呉に帰投する。乗組員は皆抱き合って「青葉万歳!」を叫んだという。
(なお、上記の〈熊野〉はその2週間ほど前に、ついに故郷に帰ることなくフィリピンで沈んでいる)
その後
ようやく内地に戻れた〈青葉〉は、三度目の修理を受ける予定だったのだが、あまりに大きな損傷であった上に、この時すでに戦争の大勢も決しており、日本は資源不足のため〈青葉〉を修理してやる余裕がなかった。
そのため、〈青葉〉は防空浮き砲台として呉の鍋海岸に繋留放置される。その際に対空機銃の増設を行っている。
2月25日、第一予備艦となる。
1945年3月19日、呉軍港は米空母艦載機による大規模な空襲を受ける。繋留されていた〈青葉〉は残存艦艇の航空戦艦〈伊勢〉〈日向〉や重巡〈利根〉と同様に砲台として奮闘。この時は目立った被害は無かったのだが7月24日に行われた二度目の空襲では命中弾1発と至近弾1発を、同月28日の空襲では4発もの命中弾を受ける。死に体に鞭を打たれた〈青葉〉の船体は満身創痍もいいところで、艦尾はほぼ切断状態。乗員も212名が戦死。艦内にも大量の海水が流れ込み、遂に着底。そのまま終戦を迎えた。
〈青葉〉が係留された地点からは古鷹山を仰ぎ見る事が出来た。〈青葉〉をかばって力尽きた〈古鷹〉の名前を冠した山が、〈青葉〉最後の地になるという、印象的かつ運命的な最期であった。1945年11月20日、除籍。
大破着底こそしていたが、艦首辺りは水上にあったため終戦後の1946年11月、播磨造船の手によって解体された。艦首の菊紋章、主砲の砲尾が現存しており、前者は海上自衛隊第一術科学校にある。後者は大和ミュージアムにて一般公開されている。
二次創作では
その性格と言動から某烏天狗のようなパパラッチな役回りが多い。とはいえ台詞や図鑑での解説もあってかゲスな覗きというより純粋に好奇心旺盛というキャラ付けが定着している。コミュニケーション能力の高さから、壁がありがちな駆逐艦と戦艦や空母といった大型艦との橋渡し役となることも多い。その役柄から内部・外部を問わず情報戦を担うこともある。変化球としては、軽いキャラを装っているが実は冷徹で超有能、というのも。
他のキャラとの絡みでは、青葉を庇って沈没している「古鷹」との史実を踏まえたシリアスネタが鉄板。そこに「加古」「衣笠」を含めた第六戦隊の4人セットで描かれることも多い。
司令官、青葉、関連動画見ちゃいました!
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関連項目も索敵も砲撃も雷撃も青葉にお任せ!
艦娘たちの戦後 - 呉軍港空襲終戦組 | ||
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脚注
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