韓信単語

カンシン
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韓信とは、古代中国天才的な軍略の才を有した無職名将である。生年は不詳、紀元前196年没。麻雀の役となった「国士無双」のとなった人物である。後世の中国においても名将の代名詞ともなった。

ちなみに同時代の人物に、戦国時代の王族だった韓信という人物がいる。史記では本項の韓信の「陰侯列伝」のすぐ後に「韓信盧綰列伝」で列伝が立てられているのでややこしいが、区別のため後者王信とも信とも呼ばれている。

韓信の股くぐり

陰(江)の出身。陰は戦国時代後期に楚の領土であった場所であり、韓信は楚の風俗に慣れ親しんではいたが、楚人としての意識は薄かったと考えられる。

民出身で貧乏かつ品行も悪かったため、人に食事を恵んでもらい生活していた。ある亭長[1]の元に居候していたが、数かして亭長の妻が韓信を嫌いろくに食事を出してくれなくなった。そのため出奔し放浪した後に、見かねた老婆に数十日食事を恵まれたが、韓信が「偉くなったら礼をしますよ」と言うと「あんたが可哀想だから恵んでやっただけで、礼なんて望んでいない」と返された。後に偉くなるなんて到底見えなかったのだろう。

ある日不良に「お前は背が高く立を帯びているが臆病者に違いない。もしお前が度胸があるならを刺してみろ。そうでなければの股をくぐれ。」と挑発された。韓信は熟視した後、その不良の股をくぐった。見ていた者は大いに笑った。

国士無双

始皇帝の死後に大動乱の世になると、韓信は項梁に仕えるが名前が知られるほどの働きはなかった。項梁の戦死後、そのまま項羽の軍に仕え、郎中[2]に任じられる。韓信はたびたび項羽に献策したが、その策は用いられることはなかった。

韓信は項羽を見限り、中に左遷され王に封じられていた劉邦に仕える。しかし劉邦の元でも接待役程度しか与えられず、ある時罪を犯して仲間と一緒にられる事になった。仲間が処刑されていき、ついに韓信の番となった時に「王は下に大業を成すことを望まぬのか、どうして壮士をろうとするのか」と叫んだ所を劉邦配下の興味を示し、彼を助命して劉邦推薦した。

韓信は治都尉(兵站官)にはなった[3]が、この役で飽きたらない韓信は劉邦の片腕だった蕭何と話す。蕭何は韓信の才を認め劉邦推薦するが、劉邦はそれでも韓信を重用しない。

そのうちに劉邦のもとでは重用されることはないと感じた韓信は劉邦の元を抜け出す。これを知った蕭何劉邦断で韓信を追いかけて連れ戻す。劉邦蕭何までもが逃亡したと聞いて絶望したが、やがて韓信と一緒に戻ってきたと聞いて安堵した。横山光輝項羽劉邦』の「んもう…わしをこんなに心配させおって…」の迷…名シーンである。

劉邦が「他の将軍逃げた時は追わなかったのになぜ韓信だけ」と問い詰めると、蕭何は「韓信は『国士無双』であり、王様下に覇を争うのに必要である」と説し、ここへ来て劉邦は韓信を全軍の大将に任じた。速韓信は劉邦下を手に入れるための方策を述べ、劉邦項羽の人物を対し、項羽の人物に欠点があり、下を争うものとして、劉邦の方が優れており、項羽と逆のことを行うように説明した。また、元は将軍であった章たちが治める三(関中の地)では、劉邦が慕われている反面、章たちが憎まれており、簡単に定できることを説明する。機を伺っていた劉邦は、ついに項羽に対して挙兵した。

楚漢戦争勃発

劉邦中から陳倉に出撃して三定した。この時の韓信の役割は不明だが、劉邦の参謀の役割を果たしていたと考える研究者も存在する。また三時代の魏延が北伐の際に、韓信の故事を見習って別動隊を率いて北伐に向かうことを諸葛亮めていることから、韓信は別動隊を率いて三を攻めたことも考えられる。

劉邦軍の快進撃は続き、・殷を降伏させ、斉ととも同盟を組んだ。しかし、項羽の本拠地である彭(江省徐州)を落とした所を、斉の地から急いで帰還した項羽に逆襲され一敗地にまみれる。この時、韓信が彭にいたかどうか、また軍を率いて敗れたかどうかについては定かではない。

韓信は劉邦の敗軍をまとめ、劉邦の撤退を手助けした。また、・索の地において項羽の楚軍を打ち破り、これ以上、西に進むことを食い止める。

この敗北によって、(劉邦)に背き自立する。また、と斉もに背いて楚(項羽)と講和した。

魏侵攻戦

韓信はの左丞相に任命された上で、劉邦の攻撃を命じられる。これは劉邦項羽と対峙している隙に、韓信は別働隊で周辺諸を攻めて劉邦の味方にするという戦略であったと考えられる。韓信の部下として、歩兵を率いる曹参騎兵を率いるをつけられた。この二人も劉邦軍の名だたる勇将であった。

王のの渡し場をふさいで防衛した。韓信はおとりの大軍を出して船を並べて河を渡るように見せかけて、伏兵をひそかに大きな木製のを使って河を渡らせて、本拠地を攻撃させた。韓信はを破り捕らえてしまった。

さらに韓信は張耳とともに、と代の攻撃を劉邦に命じられる。韓信は代の軍を攻略して、の大臣であった説を捕らえる。その後、滎陽において項羽と対峙する劉邦に、と代の地で得た兵士たちを送っている。

背水の陣

続いて韓信は張耳と数万の軍とともにを攻める。ここでは張耳とかつて「刎頸の交わり」を結び、今では宿敵となった陳余が実権を握り、20万人と号する大軍を有していた。陳余はかつて王を名乗った武臣が攻略した時に将軍に任命され、武臣を殺し反乱を起こした良を破ったことがある戦歴豊かな人物である。に仕えていたは陳余に、「韓信たちが隘路(狭い)に入ったところに私が3万の軍勢で補給を絶ち、あなたが打って出ずに守り抜けば、韓信を討ち取ることができます」と進言するが、奇策を嫌う陳余は疲労した韓信の軍を正面から撃破することにし、の意見を採用しなかった。韓信はこのことを知って、を攻めることに決めた。

ここで韓信はまず、騎兵二千人を選んでい旗を持たせて、「軍は私が敗走したら、にして私を追撃するだろう。その時にに入り、の旗を抜いての旗を立てるように」と言い含めて、抜けを使って軍を傍観できる山に派遣した。さらに、上等な食事を武将たちに与えて「今日を破って会食しよう」と言った。武将たちはみな、韓信の言葉を信じなかった。

またの大軍に対しわざと自軍の本を背にした死地に置くという「背水の陣」を取る。軍はこのを見て、大笑いした。そんな所にを敷いてはいけないのは兵法の基礎だからだ。韓信と張耳は出撃すると、しばらく軍と戦った後に偽って撤退する。軍は撃滅するために本にして追撃する。本にまで撤退したところで韓信は味方と合流してまた戦う。逃げ場のない軍は決死の覚悟で戦い、すぐに勝てると思っていた軍は一旦撤退しようとした。ところがその時すでに軍の騎兵軍のを奪い取り、にあったの旗を抜いての旗を立てていた。軍はが陥落し、王や陳余たちが捕らえられたものと考え、逃走をはじめた。韓信は本から挟み撃ちにして、軍を破り王とを捕らえ陳余を討ち取った(井陘の戦い)。

そこで、韓信は捕らえたを師とあおいだ。また、武将たちに兵法に反した背水の陣井の人間たちを集めただけの兵士たちを死地に置かせて、逃亡しないようにするための意図であったことを説明した。

の進言により、は攻めずに使者を送って従させる。また、張耳王とすることと内を定する許可劉邦から得た。張耳王となり、韓信は楚軍と戦いながら内を定して、劉邦にたびたび援軍を送った。

斉攻略戦

しかし、項羽の攻撃に耐えかねて滎陽より脱出した劉邦は、を連れて、の使者であることを偽ってに入り、韓信と張耳が寝ている間に印璽と割符[4]を奪い取り、将軍たちの配置換えを行った上で、韓信と張耳の軍を奪ってしまった。張耳の守備を命じられ、韓信は急きょ徴募した新兵とともに斉攻略に向かうこととなった。

韓信が斉に向かった時、斉劉邦が遣わした儒者の酈食其が既に降伏させていたが、韓信は弁士の蒯通[5]が「王の命により斉攻略に向かったのに、王は独断で酈食其を派遣して斉を降伏させました。王の詔[6]が出ている以上、進撃を止めるわけにはいきません。またこのままでは、将軍(韓信)が数万の軍で一年余かけてを攻めとった功績は、酈食其が舌先三寸で斉を降伏された功績に及ばないことになります」と進言したため、そのまま斉に攻め入る。斉はに降伏していたため、に対する防衛は停止されていた。韓信は間に河を渡り斉の軍隊を攻撃。斉軍を撃破して、斉の首都に攻め入った。酈食其は斉王に煮殺され、斉王は逃走するが、韓信はこのまま斉を征した。

濰水の戦い

楚からは斉に対し、且と20万人の軍勢が援軍として送られた。且は項梁時代から楚軍に仕え、項梁の章討伐に貢献し、項羽に対して反乱を起こした黥布を打ち破ったこともある項羽配下の有数の臣の一人に数えられる勇将である。且は持久戦を進言されるがこれを拒否し、「韓信のことはよく知っており、戦いやすい。戦闘を交えずに決着することはできない」と言って、出撃する。濰という河を挟んで楚の両軍は布する。

韓信は間に土嚢を濰の上流に積んで河をせき止めておいた。韓信は先に河を渡って攻撃して、且に決戦を挑んだ所をわざと負けた振りをして誘い込んだ。且は「韓信が臆病なことはわかっていた」と叫んで、濰を渡って韓信を追撃した。韓信が上流の土嚢を取り崩させると、溜まっていた大量の濰の河が流れてきて、且の軍は大半が渡れなくなってしまった。韓信が且を討ち取ると、楚軍を追撃して、且の配下であった兵を全員捕らえてしまった。

斉王・韓信

斉を定した韓信は斉の安定のために、仮王(副王)になりたいと劉邦に遣いを出す。劉邦は最初は「わしがここで項羽の攻撃に苦しみ韓信の救援を日待っているのに、王になろうとするとは」と怒る。しかし、劉邦の参謀である張良と陳の「現在は不利です。これを拒否しても韓信は独立となるでしょう。うまく待遇して斉を守られた方がいいです」との意見を聞くことにした。劉邦は「仮王でなくの王となれ」と張良派遣して、王号を名乗るのを許可した。その後韓信は楚を攻撃する。

項羽の方も、韓信に王となって独立下を三分(項羽劉邦・韓信)とするように説得するが、かつて項羽に策を用いられなかった事と劉邦から大将として認められ兵を与えてくれた事に対する恩を理由に韓信はこれを拒絶する。蒯通は韓信に独立となり、楚の争いに乗じて下を獲る策を献じ、「野獣尽きて猟狗(猟)煮らる」という言葉を引いて劉邦が信用できず、いずれ劉邦に裏切られるだろうと説いた。しかし韓信はに背くことに耐えられず、功績が多いのだから斉王を取り上げられることはないだろうと考えて聞かなかった。そこで蒯通は狂人を装って出奔した。

項羽を滅ぼす

劉邦項羽と和するが、項羽が帰還した際に和を破って背後から攻撃した。韓信にも救援要請が届いたが当初は劉邦支援しなかった。劉邦張良の進言を聞いてめて韓信に王[7]の地位を約束、韓信が項羽との最終決戦に参加した事で彭越ら他の諸侯も劉邦に味方する。

韓信は斉王として、側の軍の先鋒となり30万人を率いた。劉邦たちはその後方となった。対する項羽10万程度であったが、項羽もまた二度も数万の軍で戦歴豊かな人物が率いる数十万の大軍を破る実績を持つ名将である。

韓信はその項羽の攻撃を受けて退却する。だがこれは韓信の誘いであった。韓信は両としていた軍を移動させており、項羽の軍を左右から攻撃する。韓信は項羽の軍が不利になったところで反転して項羽を攻撃した。楚軍は大敗し項羽は敗走した(下の戦い)。

差があったとはいえ、中国史上有数の名将二人の対決は韓信の完全勝利に終わった。

楚王・韓信

項羽軍の包囲からの脱出を図ったが最終的に自害し、楚は滅んだ。しかし劉邦は、再度韓信の軍を攻撃して、斉の軍勢を奪った[8]

その戦後処理で劉邦は韓信を斉王から楚王に移封した[9]。故郷に錦を飾った韓信はかつての知り合い達に会った(後述)。

劉邦漢王朝下の諸侯王として韓信の地位は約束されたかに見えたが、劉邦から度々怒りを買っており警されていた事、項羽の部下だった鍾離昧[10]友人であっために匿っていた事、韓信が楚のを回る時には兵を連れていたことから、劉邦に対して韓信が反乱を起こそうとしていると報告するものがあった。劉邦は韓信を襲撃するつもりで、夢沢という地に狩猟という名で諸侯王を集めた。

韓信は反乱を起こそうとも考えたが、自分に罪はないので反乱にまで踏み切れず、また劉邦に捕らえられることも恐れた。ある人が鍾離昩を殺すれば心配はない、と進言したため鍾離昩にこのことを相談した。鍾離昩は「が楚を攻撃しないのはあなたと私が楚にいるからだ。あなたが私の身柄をに差し出すのならば私は死ぬが、あなたもいずれ滅びるだろう。あなたは有徳の人ではない」と警告して自害した。

韓信は劉邦に鍾離昧の首を持っていったが捕らえられる。韓信は「狡兎死して良狗烹られ、高尽きて良蔵され、敵国敗れて謀臣亡ぶ[11]下が定されたからには、私は煮られるのだろう」と言うと、劉邦は「君が反乱を起こしたと告げるものがいたのだ」と話す。劉邦には韓信を実の罪で殺する気はなく、韓信は許され兵権の陰侯に格下げされた。

多々益々弁ず

韓信は病気と称して出仕せず、長安(漢王朝首都)では々とした日々を過ごしていて、劉邦の功臣である周勃やと同列であることを屈辱に感じていた。韓信が樊噲のところに立ち寄った時、樊噲はとてもへりくだって韓信を出迎えたが、韓信は「生きて樊噲などと同等の立場になろうとは」と話したと伝えられる。

また、ある日劉邦と話をした時、「わしはどれくらいの将であるか」と劉邦話題を出した時の会話が史記に残っている。

陛下は十万の兵の将に過ぎません」

「そういうお前はどうなんだ」

「私は多ければ多いほどいいでしょう(多々益々弁ず)」

「そんなお前がどうしてわしの虜になったのだ」

陛下は兵を率いることが出来なくとも将の将であることが出来ます。これが私が臣になった理由です。これはから与えられた才です」

ただし、『書』では定の後、韓信は劉邦に命じられて軍の軍法を作ったとされており、全く何もしなかったわけでないようである(韓信がの軍法を作ったのは、大将に任じられた中にいた時期である説もある。)

また、同じく『書』に、「漢王朝った後、張良と韓信が兵法書を整理して八十二とし、重要なものを抜いて三十五にした」とされるため、韓信が張良と協して兵法書を整理したとすれば、この時期に行ったことになる。

狡兎死して走狗煮らる

やがて陳豨という人物が鉅鹿太守に任命され、韓信の元に挨拶にやって来た。韓信はここぞとばかりに劉邦への不満と版心を陳豨にぶちまけ、共同して反乱を起こす計画を打ち明けた。紀元前196年、果たして陳豨が反乱を起こし、劉邦は討伐のため親征に赴き、この隙を狙って韓信は漢王朝を乗っ取るための謀反を企てる。

だが罪があった舎人(下級の側近)のに密告され(話ができすぎているため反乱の話は冤罪だったという研究者もいる。後述。)、劉邦の妻である呂雉に相談された相蕭何は一計を案じ、陳豨が既に殺され朝廷のものが祝賀に来ていると噂を流させた。また、蕭何自身が甘言で韓信を騙して誘う。韓信は宮中において捕えられた。劉邦が帰還する前に韓信とその三族は処刑された。

劉邦が陳豨討伐から帰還後、呂雉から韓信の死を聞かされ(反乱が未然に防げたと思い)喜ぶとともに大いに残念がったが、呂雉から「韓信は死ぬ前に蒯通の言葉を聞かなかった事が残念だと言っていました」と聞くや激怒して蒯通を捕らえて殺そうとした。しかし、蒯通が抗弁したためこれを許した。

逸話

  • 韓信が楚王になった時、若い頃食事を恵んでくれた老婆に対し千を与えた。また彼を股くぐりさせた不良に対しては中尉(警察署長)に任じあの時慢したから今の自分があると言った。しかし最初に面倒は見たが食事を出さず韓信を追い出した亭長に対しては銭しか与えず世話をするなら最後までしろとなじった。
  • 『史記』の作者司馬遷が陰を訪れた時に、土地の人から韓信のが死んだ時当時貧乏だった韓信は葬式もできなかったが、そのの墓は何万戸も墓守を置けるような開けた場所に作ったと聞き、果たしてその通りだったと書いている。
  • また、劉邦自身も「中で策略をめぐらし、千里の外に勝利を得ることでは、わしは子房(張良)に及ばない。国家を静めて民を安んじ、糧食を補給して糧を断たないことは、蕭何には及ばない。万の軍を連ねて、必ず戦いに勝つことでは、韓信に及ばない。三者はみな優れた人物であり、わしが彼らをよく用いたのが下を取った理由である」と張良蕭何とともにその功績を高く評価している。 

死後の評価

『史記』を記した司馬遷は、韓信の陰侯列伝では韓信を全体として褒め称えているが、評論においては「韓信が理を学び、自分のと手柄を自慢しなかったなら、理想に近いことを実現したであろうに、そういった努をせず謀反を図ったのだから、一族滅亡となったのは当然である」と厳しく評している。 

また『資治通鑑』を記した司馬は、司馬遷の意見に賛同しながらも「下をとった原因のほとんどが韓信の功績である。韓信が斉王の時、楚王の時、反逆の心などはなかった。しかし、陰侯に落とされてからは反逆を図ったのだ。韓信は劉邦には自分に対する利益を与えることをめ、かつ広い心で自分に対するようにめたのだ。これでは生き残るのは難しいだろう」と評している。 

しかし、韓信は謀反人とされ一族が滅亡させられたにも関わらず、後世では蕭何張良と共にの創業に最も功績のあるの三傑の一人として呼ばれるようになる。

唐代には武成王(太公望)の名将十哲の一人に選ばれている。十哲は左側に白起、韓信、諸葛亮靖、勣、右側に張良、田苴、孫武呉起楽毅であり、兵法としての性格の強い人物を除けば、白起靖・勣・楽毅という名だたる名将たちと同等であると評されている。

その後においても、元代の戯曲や小説では韓信は実の罪で殺されたことになっており、三国志話では韓信は実の罪により殺されたことに対する訴えが認められ、曹操に転生し漢王朝復讐を果たすことになっている。 

元代の知識人においても韓信の実をする人物もおり、その知識人によると朱子もそのようにしていたという。

日本においても人気が高く、商業ベースでもいくつもの韓信を主人公にした小説が刊行されている。 

創作作品において韓信は、志が高く、細かいことは気にしない純で誇り高いが、傲慢で他人の気持ちに配慮な人物に描かれることが多い。

韓信について

韓信の戦術

韓信の戦術に見られる特徴は「敵の虚をつく」・「自分が設定した有利な戦場において誘い出して戦う」・「河を利用して戦う」である。韓信の軍は勢で訓練が少ない兵であることが多かった。と斉の戦いでは「敵の虚をつく」・「河を利用して戦う」ことに重点が置かれ[12]且との戦いでは、「敵の虚をつく」・「自分が設定した有利な戦場において誘い出して戦う」・「河を利用して戦う」全てに重点が置かれている。項羽との下の戦いでは「自分が設定した有利な戦場において誘い出して戦う」ことを実行している。 

上記の通り兵が少なく訓練を行っていない軍による戦いを強いられることが多かったが、優れた軍略で勝利を重ねた。

韓信の戦術は独創性が高く、相当に緻密な計算がなければ、わずかな誤差から失敗になるものが多かったが、韓信は成功にまで導き、圧倒的な勝利を勝ちえ続けた。また、兵が優位な戦いでは項羽を相手に一戦にして大敗させており、大軍を使った軍略にも優れていたことが理解できる。冒頓単于との戦いも見たかったという意見も強い。 

韓信の兵法書としては、『書』芸文志の兵書に『韓信三篇』と記載されており、韓信の著作とされる兵法書が存在したことが分かるが、現存していない。

斉への攻撃について

酈食其によって降伏していた斉が警を解いている時に攻撃し、そのために酈食其が殺されることになった件について後世の批判は強い。

確かに史書をそのまま読めば、韓信の功名心が動機と解釈するのが素直な読み方である。 

しかし、これは酈食其を犠牲にすることを覚悟で斉を嵌めようとした劉邦の策略であるとする研究者もいる。蒯通の発言から、劉邦は韓信に攻撃中止命を下しておらず、韓信が攻撃しなかった場合は命に反した罪に問われたであろうとする。

なお、『史記』に伝わる酈食其の最期に斉王にった言葉は、「大事を起こすものは小さなことに拘らない。すぐれた人物は遠慮をしない。私はお前のために前言を翻さない。」であったと伝わっており、初めから覚悟のあったようにも読める。これらが劉邦の策略だったのではないかと考える根拠となっている。 

酈食其の説得により斉がに降伏したといっても、あくまで斉がを列の盟として認めたというだけであり、斉が自立していることは変わらない。劉邦の臣下であった韓信が斉を支配することとは大きく意味が異なる。そのため、上記の策略を行う動機は劉邦には存在する。

ただし、史書に劉邦の策略であったことを裏付ける記述は存在せず、これを事実として劉邦を非難することには注意を要する。

鍾離昩を自害に追い込んだ件について

『史記』楚之際表という『史記』に付された各の年表によると、紀元前2029月に「(楚)王得故項羽鍾離眜,之以聞」とあり、これは「楚王である韓信は、かつての項羽の将であった鍾離眛を捕らえて処刑して、そのことを周知した」という意味である。これは韓信が捕らえらえて楚王の地位を剥奪された紀元前20112とは、4か離れている[13]陰侯列伝の記述では、鍾離昩の死と韓信が捕らえられた時期にほとんど差がないと考えられ、韓信が捕らえて処刑した記述とは矛盾する。

『史記』は列伝などの各所ごとでの矛盾も多く、司馬遷は各所では取材した史料をできるだけ生かした形にして、自分の考えを楚之際表などの年表に残したという説がある。 

そのため、韓信が鍾離昩を自害に追い込んだ件については陰侯列伝と楚之際表の記述が異なるのだが、楚之際表の方が信憑性が高いという考えもあり、史実と考えることについては注意を要する。

韓信の謀反について

陰侯となった韓信の謀反が密告され韓信が一族とともに処刑された事件については、本紀や列伝に姓名も記述されない人物の告発である上に、漢王朝側にとって余りにも都合がよすぎ、かつ劉邦が不在の時に起きた事件であるため、謀反を起こしたことについて疑問に考える研究者も多い。

なお、陳豨が反乱を起こしたのは9月、韓信が謀反を理由に捕らえられ処刑されたのは翌年の正月である。『史記』には陳豨が謀反を起こしたという報告を待っていたと記述されているにも関わらず、実際の韓信は陳豨が反乱を起こした後45も謀反計画を温めたまま行動しなかったことになる。また当時の韓信はなんらの軍事を有しておらず[14]、暴かれたとされる謀反の計画は、朝廷に出仕していなかった韓信が劉邦の詔(みことのり)を偽り、囚人を開放して、呂雉と皇太子(、後の恵)を襲わせるという実現性の薄い計画であった。

また陳豨討伐に関連して、討伐後に韓信が謀反に加担している拠が見つかったという記述は存在しない。

韓信の謀反を告発した人物について 

韓信の謀反を告発した韓信の舎人(下級の側近)とそのについては、『史記』の陰侯列伝ではその姓名を記載されないため、実在を危ぶむ意見があるが、『史記』の劉邦のもとで項羽、統一後の反乱討伐においてに戦功を立てた功臣のリストである高祖功臣侯者年表において、その姓名が明記されている。 

韓信を告発した人物は、欒説(らんせつ)という人物で、やはり韓信の舎人であったという。欒説が捕まった舎人なのか、そのなのか、不明であるが、その功績により、慎陽侯に封じられ、二千戸を与えられている。功臣としての順位も三十一位とされ、楚戦争や反乱を起こした諸侯王討伐と同等の功績であるとみなされていることが分かる。 

与えられた戸数も多く、韓信を処刑に追いこんだ告発が謀反の偽は別にして、重大なものであると漢王朝には認識されたことが分かる。 

なお、楚戦争講談小説である『通俗楚軍談』(原作は明代に書かれている)では、韓信を訴えた人物は謝著(しゃこうちょ)という人物とされている。

韓信の墓

当時の陰は現在ではである。には韓信の故郷であることを伝える碑や、股くぐりの場所とされる股下、韓信を侯祠、韓信のの墓と伝えられる墓もある。

創作物における韓信

『三国志平話』

三国志演義の原となった元代に書かれた講談

物語の冒頭で、韓信が登場する。冥界において、韓信は実の罪で劉邦に殺されたことを天帝が定めた裁判官司馬仲相)に彭越黥布とともに訴える。劉邦をきるが、呂雉・蒯通の言で、劉邦が韓信らを警し、実の罪で呂雉に命じて誅殺させたことがられる。

 司馬仲相は天帝の名で判決をくだし、韓信を曹操に、彭越劉備に、黥布孫権に生まれ変わらせる。曹操に生まれ変わった韓信は、献帝に生まれ変わった劉邦閉し、伏皇后に生まれ変わった呂雉を殺して、を討つ。

 すでに、中国の元代では韓信が大功をあげたにも関わらず、実の罪で、劉邦示により、誅殺されたという説話が存在したことが分かる。

『通俗漢楚軍談』

中国講談江戸時代翻訳した講談小説横山光輝項羽劉邦』はこれをベースにした作品である。 

韓信は、貧相で貧困であり、項梁・項羽に進言をするが、その才を認められず、重く用いられることがなかった。項羽生を処刑したことから、項羽から離れ、劉邦に仕えることにする。張良蕭何いずれからも才を認められ、特に蕭何の強い推薦を受けて、大将軍となる。 

軍法に厳しく、劉邦心すら処刑し、章たち諸王を相手に度々、勝利をおさめるが、劉邦の彭攻めに反対し、元帥の立場とに交代させられる。誇りを傷つけられた韓信は、劉邦の謝罪を待つため病気を偽るが、張良の策略によって再び元帥となり、項羽を破る。 

戦争では常勝を誇るが、次第に傲慢な性格になり、たびたび劉邦からの不信をかう。楚王をおろされた後は、陳豨と組んで謀反をはかり処刑された。

司馬遼太郎『項羽と劉邦』

戦場で軍を操ることに関して凄まじい才と情熱を持ち、普段は臆病な反面、戦場ではただ一人、項羽を恐れない勇敢さを有した人物として描かれる。単独での参戦であったため、項羽にも劉邦もなかなか認められず、軍を揮する立場になることに執着する。また、子供のような純な心を持ち、一部の人物から熱狂的な支持と支援を受ける一方で、劉邦からの誤解を受け怒りを買うような行動もしばしば行うという政治性と社会性が欠如した人物でもある。

韓信本人としては自分を引き立ててくれた劉邦が個人的に好きであるから味方すると発言し、自分を取り立ててくれなかった項羽に対する嫌悪感を外部に剥き出しにして、劉邦の味方であることを自認し続ける。しかし、自立を勧めた蒯通の説得に理解を示す態度を表し、劉邦の援軍要請に応えず王の地位を約束されて出兵するなど、強い信念を有していたわけでもなく、それが後に謀反の罪で処刑されるということへの伏線となっている。

で軍略に優れるが傲慢な性格というイメージであった『史記』の韓信像を、「誇り高いが、純でお人よし、誤解を受けやすい性格」というイメージ像に変えた作品である。 

本宮ひろ志『赤龍王』

上記の司馬遼太郎項羽劉邦』と『史記』、久文雄の『史記』(原作久保田太郎)のうち『項羽劉邦』をベースとした漫画作品。 

北斗の拳ドラゴンボールが連載中であった週刊少年ジャンプにおいて連載される。作品自体は打ち切りではあったが、冴えない容貌の神経質な性格と描写されがちだった韓信を、作者が多くの作品で重要人物として扱う「傲慢な面があるが、誇り高く飄々とした立な出で立ちの人物」像として描いた作品である。むしろ主人公の1人であるはずの劉邦の、後半になるにつれての小悪党化が酷い。

韓信は智謀・武勇ともに優れており、「智謀は張良・范増、武術項羽、人徳は劉邦と並ぶ」とするほどの自信の持ちである。また史実とは違い、蕭何ではなく張良にその才を見出され、自身で戦略を劉邦から全軍の総大将を任された。項羽との戦いで、項羽に正面からでは勝てないと判断し、項羽のいない戦場で戦い無敵を誇った。

活躍の場面は少なかったが、劉邦が斉王となることを許可してくれたことと取り立てられた恩、個人的に劉邦が好きだったことから劉邦の味方であり続ける。しかし他の側の人物と違い、心から劉邦を慕っていたわけでもなく、斉王となる許可を得られなかったら、その一生を劉邦の下に置くことはしなかった「かもしれない」と答えている。

作品の最後はその後、(文字背景だけによる)劉邦が韓信たち功臣を誅殺したという内容の見開きという衝撃の終わり方をする。

横山光輝の漫画

項羽劉邦』と『史記』では顔が違いすぎているためたまにネタにされる。
また、韓信の若い頃を描いた特別読み切り『虎はゆく』が『殷周伝説』に収録されている。

コーエーのゲーム

最近の三國志シリーズでいにしえ武将として登場、チート的存在を放っている。
『項記』では重要なキーパーソンだが、彼が独立するイベントもあるので第三者勢となった彼でプレイできれば良かったとも言われる。

関連書籍 

項羽と劉邦 下巻 楚漢激突と“国士”韓信exit(歴史群像シリーズ 33)(学研)

韓信に関する研究の専著は日本語では存在しないが、タイトルで分かる通り、韓信の行った楚戦争に関する戦いを多くの図や絵を使って分かりやすく説明している。韓信は項羽に敗れた彭の戦いには参加せずに、関中において章と戦っていたか、河北で別動隊を率いていたという考えで説明されている。

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関連項目

脚注

  1. *田舎の交番もしくは出張所の長ぐらいの役人
  2. *君の身近に仕える役職
  3. *創作などではつまらない役職とされるが、都尉は結構上位の役職である。かの陳は反乱鎮圧の功績で任命された。
  4. *軍の揮権を示すもの
  5. *とも
  6. *皇帝や王の命
  7. *斉王の地位をめて約束された説と、斉王と楚王を兼ねる王を約束された説がある。
  8. *韓信が二度も軍を奪われたことから、人を信じやすい甘いところがあった人という評価もある
  9. *ただの移封である説と、斉の領土は奪われた説がある
  10. *しょうりまい、鍾離眛(しょうりばつ)とも
  11. *利用価値がなくなったものは捨てられ、殺されるという意味
  12. *韓信は斉との戦いでは不意をつくために間に河を渡っている
  13. *この時は10月が年始な上に紀元前202年は9月の後のがあったため
  14. *そもそも楚王から陰侯にされたのには、兵権を取り上げるという理由が大きい。

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韓信

165 ななしのよっしん
2020/07/26(日) 07:04:04 ID: apIHLRknYu
内容を一部変および追加したよ。

の戦いは、以前は且の軍は押し流されたことになっていたけど、『史記』にあわせて渡れなくなったことにした。

創作作品では流されたことになっていることが多いけど、いくらなんでも河の流れひとつで20万の大軍が流されるわけがなく、且が孤立したところを討たれたと解釈すべき。
166 ななしのよっしん
2020/07/26(日) 07:06:43 ID: apIHLRknYu
また、「韓信の謀反を告発した人物について」を追加

『史記』を調べていたら、不明といわれていた姓名やある程度の情報が載っていたので。

報償の二千戸はかなり大きいので、漢王朝としてはどうしても韓信が謀反を起こしたので処刑したという立場をとりたかったみたい。
167 ななしのよっしん
2020/07/26(日) 12:44:25 ID: BiuhzbCgOD
>>165
大将が孤立するほどなら結構な人数が押し流されたのでは?
大将が先頭になって突っ込んできてるってことは後ろに軍隊が付いてきてるってことだし
も結構大きいから多人数を押し流すこともできるだろうしね
まあ韓信的は「且の軍を押し流す」ことではなく「且を孤立させて討ち取る」だろうけど

あと「『史記』の陰侯列伝ではその姓名を記載されないため、実在を危ぶむ意見があるが、『史記』ではその姓名が明記されている。」ってところ、後者に史記のどこに明記されているかかかないと文章がおかしいと思う
168 ななしのよっしん
2020/08/01(土) 22:44:24 ID: apIHLRknYu
>>167

摘のあった史記の明記された部分については記載したよ。

該当部分のある史記の表にあたる「高祖功臣侯者年表」は近年まで研究者以外は把握されることはなく、翻訳省略されることが多かったから知られなかったのも仕方がない。
169 ななしのよっしん
2020/08/01(土) 22:53:34 ID: apIHLRknYu
の戦いの該当部分については、
「()信使人決壅囊,大至。且軍大半不得渡,即急擊,殺且。東軍散走,亡去。信遂追北至陽,皆虜楚卒」

とあるので、且の軍は大半が渡れなかった(且軍大半不得渡)とあり、その後の韓信の追撃で、楚の兵は全員捕虜となったとあるから、こちらの解釈が正しいはず。

こちらは補足だけど、史記の陰侯列伝を読むと、楚軍はまるで且が大将に見えるけど、書を読むと、大将項羽の一族の項で、且はあくまで裨(副将)だから、先鋒軍を率いていて韓信を追撃していたところを分断されたのだから、大半が渡っていなかったとしても理解できる。

はかなり後だけど、彭が落とされた時に降伏したとあるがら楚軍は全員、捕虜になったというのはこのことを意味しているのだろう。
170 ななしのよっしん
2020/08/01(土) 23:46:04 ID: BiuhzbCgOD
幅がわからんから1キロとして、且が先頭になって進んでたとすれば流されたのはまあ数人かね
20万と号する軍隊の中ではごく一部か
171 ななしのよっしん
2020/08/05(水) 23:41:04 ID: apIHLRknYu
さすが且が先頭に立っていたとは思わないけど、先鋒部隊を率いていたのだろうから、渡ったのは1万から4万ぐらいかな。

この奇策よりも、韓信の新兵と降伏したばかりの斉兵を率いてひきかえして、いくら分断したとはいえ、楚の精鋭を率いる且をすぐに討ちとれたことが偉業ではないかな。

斉と楚は同盟していたわけだから、且に逃げ場がないわけではないだろう。
172 ななしのよっしん
2020/08/06(木) 11:47:00 ID: BiuhzbCgOD
味方と分断された上に、の前で味方の兵隊が流されて死んでいく
その断末魔も聞こえるわけだし常心ではいられないだろう
そこを急に戻ってきた部隊に急襲され後ろは大河となるとまあ率いていた部隊が崩壊しても仕方がない
そうなったら孤立した軍の指揮官が討たれるのは時間の問題じゃないかな
173 ななしのよっしん
2020/10/19(月) 00:29:28 ID: apIHLRknYu
新たに張耳の記事を作成した。

その中で、「張耳韓信に南下して劉邦を救援しなかった理由について」という項を設けて、『通俗楚軍談』や横山光輝項羽劉邦』などで韓信批判されている、を討伐した後、韓信たちが南下して劉邦を救援しなかった理由について、史書や学説など調べた内容を記している。

また、劉邦が、韓信の進言があったにも関わらず、実際はなかなか張耳王に封じなかった件にもついても記している。

韓信は史記をパっと見るよりはるかに、難しい立場におかれていたみたい。
174 ななしのよっしん
2020/10/22(木) 11:26:55 ID: CiNb8MR16L
読ませていただいた、なるほどねぇ
物語ではサラッと流されてるけど土着の族とかが
代々統治するのが重要視される中国で征した敵地の統治やしな

むしろ劉邦決戦を急ぎすぎた感はある
結局援軍来ないまま挑んでるし、焦りがあったのではと
この辺も物語で唐突感がある、穿って見ると
後の粛清の布石のために突っ込んだように見えなくもない

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