韓浩とは、曹操配下の武将である。字は元嗣。
概要
司隷州河内郡の生まれ。若い頃に、繰り返し襲ってくる盗賊に対して自警団を作り撃退する。これを評価され、河内郡の太守・王匡の従事となった。
その後、夏侯惇に見出されて曹操に仕え、一軍を任されるようになる。
智勇に優れ、数々の戦いで武勲を挙げる。
そして、曹操の信任を得て護軍に任命され、軍の中核を担った。(後に中護軍となった。)
張魯を倒して漢中を手に入れた時には、諸将に太守に推薦されるほどであった。
しかし、太守には夏侯淵が任命された。
その理由は、曹操が「護軍無しでは出来ない」と渋った為で、それほどに信頼されていた。
演義では、長沙太守韓玄の弟として登場する。元韓玄配下で、劉備に投降した黄忠が兄を殺したと思い込み、漢中攻防戦で仇を討とうとする。しかし、蜀軍の計略に掛かり陣営が混乱、夏侯徳の陣まで逃走する。その後、出撃してきた黄忠に一騎打ちを挑むも、敵わず討ち取られた。
演義のこの設定は、全くの創作で韓玄とは何の縁もない。まず、韓浩の死因は討ち死にでは無く、病死で有る。没年は不明だが、正史に「韓浩が病死したとの報告を受けた曹操がその死を惜しんだ」とあり漢中攻防戦での一連の流れに合わない。
また、韓玄自体の記述が極めて少なく、出身地や、生没年どころか、どういった人物で、どのような功績を残したとも書いて無く、「劉備軍に攻められた時の長沙太守で降伏した。」と書かれた後一切登場しないのである。演出上の味付けの為に兄弟となったと考えるのが妥当である。
屯田
彼の最も大きな功績といえるのが、「屯田制」を曹操に進言した事だろう。
通常屯田制と言えば、兵士を使って前線で農耕を行う「軍屯」が有名だが、彼が進言したのは「民屯」と言われる物だった。
当時、戦争続きで農村は荒れ、耕作放棄地が大量に存在していた。また、戦乱の中で郷里を追われ、家も土地も無い流民も多数存在していた。
そこで韓浩は「戦場から離れた、内地の耕作放棄地を公営の物として管理し、流民に貸し与えて耕作させ収穫を得る。そして、その何割かを徴収する。これによって安定した兵糧の確保が出来、長期的な戦線確保が出来ます。」と進言した。
当時の兵糧確保は、必要になったら農民から徴収する。または、進軍した敵地で略奪するかの二通りが主で、収入が不安定で兵糧不足に悩まされることもしばしばだった。
曹操は、即座にこの策を採用し、本拠の許都を中心に始め、徐々に各地に広まっていった。
この「屯田」は大きな成果を発揮し、時が経つにつれて、曹操陣営は兵糧に悩まされる事無く戦争に集中できるようになっていくのである。
人質事件
夏侯惇に推挙されたという経緯から彼と共に戦場に出る事も多かった韓浩だが、夏侯惇に関して非常に面白いエピソードがある。
呂布が曹操の留守を狙って濮陽を襲撃した時、夏侯惇はその迎撃にあたっていた。
そんな折、呂布の配下数人と少数の部隊が、曹操軍に降伏を申し入れたのである。
断る理由は無いと、夏侯惇は出迎えるが、それは偽りの投降でまんまと捕虜になってしまった。
敵は、夏侯惇の身柄と引き換えに財宝と金品を要求してくる。
そこで、韓浩は「自分が説得に当たる」と一軍を率いて敵の前に立った。
「金はどうした?早くしないと将軍の命は無いぞ!」と脅す相手に韓浩は毅然と言い放った。
「お前達、将軍を捕えたからと言って命が有ると思うな!元々、我らは貴様ら賊軍を討伐するためにここに居るのだ!確かに将軍は我が軍の柱石。しかし、たった一人の命と引き換えに軍規を乱すわけにはいかん!たとえ将軍を失おうとも、貴様らは絶対に生かしては帰さんぞ!
将軍・・お許しください!」
韓浩は涙を流して叫ぶと、背後の部隊に討伐命令を出した。
驚いた敵軍は武器を投げ捨て、平伏して命乞いをしたが結局皆殺しにされてしまった。
かなり大胆な方法だが、結果的に夏侯惇は救われ、軍規も守られ、敵軍を殲滅するという武勲を挙げる事となった。この話を聞いた曹操は韓浩の決断力を讃え、「今後、人質になった者が居ても、人質には構わず敵軍を討つように」との命令を出し、その後人質を取られる事は無くなった。
また、董卓存命の頃、董卓が舅を人質にして配下に迎えようとしているがこれを拒否している。不条理な要求には断固として立ち向かう。彼の心根が見えるエピソードである。
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