「項燕」(こう・えん ? ~ 紀元前223年)とは、中国の戦国時代末期の楚の国の武将であり、滅亡へと進む楚の国を支えた大将軍である。
秦始皇帝没後に楚を再興した「項梁(コウリョウ)」「項伯(コウハク)」の父であり、西楚の覇王「項羽(コウウ)」は孫にあたる。
この項目では、項燕の部下であった「周文(シュウブン)」についてもあわせて紹介する。
概要
楚の名族
中国の南方を支配していた楚の国に仕えて「項城(現在の項城市)」に封ぜられた事から「項」氏を姓とした武家の出である(封じていたのは形式的には「周王朝」であった可能性もある)。
項燕の先祖である項氏が代々、封じられていた「項城」は、いにしえの「項子国」であるため、項氏は遅くとも春秋時代から項城を本拠としていた有力氏族であった。
また、「項城」は、それなりに大きい都市であったようであるため、項氏は楚の名族であったと思われる。
項燕の年齢については不明であるが、項燕が死去した年に孫の項羽が10歳であったことは判明している。
1世代は30年と計算する考えがあるため、項羽の祖父である項燕の死去した年齢は70歳であると仮に計算し、それを前提にして説明する。
この計算では、項燕は紀元前292年に生まれたことになる。
戦国時代における楚の衰退期
春秋時代には、天下の覇権を争っていた楚の国だが、項燕が物心がついた時にはすでに衰退期に入っていた。
楚の国は強大ではあったが、王族や貴族によって高官が独占され、他の国のような改革ができず、中国の西にある秦に、外交や軍事において大きく後れをとっていた。
紀元前278年、「鄢(エン)・郢(エイ)の戦い」によって、楚は秦の白起(ハクキ)に大敗し、首都の郢(後の、江陵の地)まで占領される。そのため、楚は「陳(チン)」に首都を移ることとなった。この時に、楚の大臣であり、楚を愛した詩人である屈原(クツゲン)も自殺している。
項燕はこの時はまだ、少年といってもいい年齢であったが、すでに楚の国の衰退は明らかであった。
その後も、春申君(しゅんしんくん)などの活躍はあり、秦と和平を組み、東の方では国土を広げてはいたが、秦がその国力を増大させる一方で、楚は国内の改革は余り進まず、勢力は取り戻せない状況であった。
紀元前258年、趙の国の首都である邯鄲(カンタン)が秦によって包囲される。楚は春申君を将として、魏とともに、趙を救援し、勝利する。戦い自体は秦に勝利しているが、各国は単独ではとても秦に対抗できない状況になっていた。
紀元前249年、楚は、いまだ残っていた魯の国に攻め込み、滅ぼした。
この頃の項燕はすでに壮年に達している。項燕は、楚の将軍として「しばしば功績をあげ、兵士を愛した(數有功,愛士卒)」と記されているため、このような戦いで、功績を立てていたようである。
紀元前241年、楚は盟主となり、春申君を総大将にして、楚・趙・魏・韓・燕の五国の合従軍を率いて、秦を攻めるが、秦の本拠地にあたる関中を守る東の関所である函谷関(カンコクカン)において敗退する(函谷関の戦い)。
楚王は春申君を責め、同年に、春申君の提言により、楚は「陳」からさらに東にある「寿春(ジュシュン)」へ遷都する。楚が敗戦により、秦に対抗できず、秦の攻撃を恐れているのは明らかである。
この時の項燕は(推測で)52歳。「函谷関の戦い」に加わったのかは分からないが、すでに楚の有力な武将の一人になっていただろうと思われる。
紀元前238年には、その春申君も部下であった李園(リエン)に殺害される。その李園によって新しい楚王も即位する。楚の乱脈具合はひどい有様であった。
秦の侵略
秦では、秦王・嬴政(エイセイ)が相邦(しょうほう、秦の宰相のこと)であった呂不韋(リョフイ)を排除して、実権を掌握し、天下統一を目指していた。秦はすでに中国の西半分を有しており、東半分を割拠していた六国(楚、趙、魏、韓、斉、燕)はその侵略におびえていた。
楚は、それでも六国の中では最も強い国力を有していたが、秦の侵略に対して手をこまねいてみているだけであり、奮戦している趙に援軍を出すこともなかった。楚は秦の外交戦略や策謀もあって、方針が定まらず、どっちつかずの姿勢を示していたようである。
楚では、新しい楚王が即位したが、その兄にあたる負芻(フスウ)が新王を殺害し、次の楚王に即位していた。楚の国において大事だったのは、いつかくるであろう秦の侵略ではなく、あくまで国内のことであったようである。
紀元前226年、秦は燕を攻撃し、燕王は遼東(リョウトウ)に逃亡し、燕はほぼ滅亡する。
楚からの援軍を受けられない各国は次々と滅亡した。
いよいよ、秦は最後の強国である楚に狙いをつけた。秦はすでに天下の七割以上を有し、その軍勢は60万人をはるかに超えていた。
さらに、残った斉は秦の同盟国であり、斉からの援軍も期待はできない。それどころか、秦に援軍を出す可能性すらもある。
もう、楚の滅亡は時間の問題かと思われた。
この時、楚の将軍と任じられたのが、老年の項燕である。
楚の名将・項燕 対 秦の猛将・李信
紀元前225年(もしくは紀元前224年)、秦王・嬴政は、将軍の李信(リシン)と王翦(オウセン)に楚の国の攻略に必要な兵の数を聞いた。
李信は、秦の若い将軍であり、勇猛さで知られていた。趙討伐で功績をあげ、燕討伐では数千の軍で、燕王の太子である姫丹(キタン)を追撃し、捕らえた(討ち取った、もしくは追い詰めたとも)人物である。また、嬴政のお気に入りであった。
王翦は、秦の老練な将軍であり、兵法に熟達していた。趙討伐、燕討伐では全軍の総大将をつとめ、趙を滅ぼした人物である。その息子の王賁(オウホン)もまた、秦の将軍で、魏を滅ぼしていた。功績では、李信より上であった。
嬴政としては、楚攻略はさほど難しくないことだと考えていた。そこでまず、二人に楚討伐に必要な兵力を問うた。
李信は「20万人で充分です」と答え、王翦は「60万人いなければ無理でしょう」と答える。嬴政は、王翦は高齢により、慎重になりすぎ、臆病になったものと思い、李信と蒙恬(モウテン)に20万の兵を与えて楚攻略を命じた。
王翦は老齢と病気を理由に隠居する。
また、嬴政はかつて相邦として自分を支えてくれていた昌平君(しょうへいくん)を、以前、楚の都があった郢へと派遣する。
この目的は不明であるが、元々は楚の公子(王族)の一人である昌平君をなんらかの理由で左遷するとともに、楚地方の平定と、李信・蒙恬軍の後方支援を命じたものと思われる(なお、この郢は陳の地であるという説もあるが、この項目では秦がかつて占領した郢であると仮定して説明する)。
とにかく、李信と蒙恬は20万の軍を二つに分け、それぞれを率いて、楚に侵攻してきた。
対する楚の軍の兵力は不明であるが、侵攻する秦の将軍が「20万人で充分」と答え、嬴政が同意するということは、項燕に直属する兵力はそれよりもはるかに少ない10万人前後であったのではないかと推測できる。
李信の軍により、郢より東にある平輿(ヘイヨ)で楚軍は破られ、蒙恬の軍にもさらに東にある寝丘(シンキュウ)で破られた。楚はこのまま滅亡するかと思われた。
ところが、李信はこの時、なぜか、秦が占領していたはずの郢に行き、楚軍を撃破する。
このことの詳細は史書には書かれていないので不明であるが、
- 秦の占領地である郢において、かつての楚人が楚軍に呼応して秦に反乱を起こした。
- 楚軍が秦軍の後方にあたる郢におもむいて占領し、李信が攻めざるを得なくなった。
- 郢にいた楚の公子であった昌平君が故国の滅亡を前にして反乱を起こした。
など、いずれかの理由が考えられる。
この時、昌平君は「みずからの意思で積極的」にか、「楚の軍もしくは反乱軍に捕らえられて仕方なく」か不明であるが、秦に反乱を起こし、楚に加わったものの思われる(ただし、別の説として、これはあくまで、伝説が史書に残ったものに過ぎず、昌平君は楚に加わってないと考える研究者もいる)。
とにかく、李信は郢で楚の勢力を破った後で、城父(ジョウフ)という土地で、蒙恬と合流した。
だが、楚軍を率いる項燕の狙いはここにあった。項燕は3日3晩、休みもせずに秦軍を追い続け、李信の軍を撃破する。項燕は、秦軍の二つの陣営(李信と蒙恬のもの?)を陥落させ、秦軍の都尉(とい、武将)7名を討ち取った。李信と蒙恬は大敗して、敗走した。
秦王・嬴政はおおいに怒り、隠居していた王翦に自ら頼み込んで、楚の討伐を依頼した。王翦は嬴政に60万の兵力をつける約束をとりつける。
紀元前224年、王翦は秦軍60万人を率いて、楚討伐におもむく。嬴政はみずから、王翦を見送った。
戦国時代最後の頂上決戦
楚の将軍は、当然、項燕が引き続き、任じられた。楚の国では兵力を全て動員して、秦と戦うことにした。
兵力がかなり劣る楚と項燕としては大ピンチであったが、一面では、かなりの好機ともいえた。
楚には有利な点もいくつかあった。
- 先に李信が大敗しているため、秦軍は精鋭をかなり失っているはずである。王翦がはじめから60万の大軍を率いることとは意味が大きく違う。
- 60万の大軍は統率が難しいはずである。楚軍としては、各地に分かれた秦軍を各個撃破できれば、勝ち目はでてくる。
- 秦軍は遠路を遠征してくる、疲れ果てた秦軍を自国で楚軍は待ち受けることができる。
- 60万の秦軍には、降伏したばかりの他国の兵もまじっているはずである。その兵たちの戦意は高くなく、秦軍の弱点とはなりうる。
- 60万の秦軍が敗れれば、罰せられることを恐れた王翦は、秦に対して謀反を起こすかも、あるいは帰還しないかもしれない。秦への離反を誘うことができる。
- 秦軍60万が壊滅的な打撃を与えられれば、秦に降伏したばかりの韓や魏、滅亡寸前の趙や燕で、再起の動きが強くなるだろう。また、戦国七雄の時代にもどすことができるかもしれない。
侵攻してくる王翦の軍を破れば、楚の国も存続することができ、あるいは、楚と秦の力関係が逆転するかもしれない。項燕への楚の期待は大きかった。
項燕の部下には、視日(しじつ、軍の占いを行う。参謀の一つ)の周文と、息子の項梁と項伯がいた。
周文は軍事に通じており、項梁も軍の統率や軍略にすぐれていた。項伯もまた、義侠心があり、才能がある人物であった。
また、項梁と項伯の兄の子、すなわち項燕の孫には10歳となる項籍(コウセキ、字は羽。項羽のこと)がいた(項羽の父はどのようにして死去していたか不明)。
項籍はまだ幼く、従軍しなかったと考えられるが、この項籍は、体格がよくて、才幹はずばぬけていた。
あるいは、項燕はそのように考えていたかもしれない。
とにかく、項燕は楚の全軍を率いて、王翦を迎え撃つことになった。
王翦は、各地に陣営を構えて、ひたすら守りを固めて、打って出て戦ってこなかった。これでは、項燕の得意とする高速で軍を機動させて攻撃する戦術が使えない。無理に陣営を攻撃しても、大軍である秦軍に包囲されれば、袋のネズミである。
項燕は、楚の兵に命じて何度も秦軍を挑発するが、それでも、王翦は秦軍を出撃させなかった。
王翦は秦軍を休めながら、上等な食事を用意して、兵士たちと一緒に食事をした。王翦は秦軍が「石投げ」をして遊ぶほどの余裕がでてくると、「兵士たちが使えるようになった」と語ったと伝えられる。
項燕は、楚軍が何度も挑戦しても、秦軍が出てこないのを見て、やむを得ず、軍を東へ引き返すことにした。
項燕が軍を退いた理由は不明であるが、
- 楚の国の政治的な事情
- 敗走していた李信の軍が楚の首都である寿春や、項燕の後方を攻撃した可能性
- 燕方面に展開していた王翦の息子である王賁の軍が南下しようとした可能性
- 秦の同盟軍のである斉が南下して、がら空きになった楚を攻撃しようとした可能性
- 楚の方が先に兵糧切れを起こして、引き返すことになった可能性
- 秦の謀略により、楚王や楚の政府から帰還命令が来たため
などが考えられる。ただ、項燕としては、王翦の率いる秦軍の戦意が低く、追撃は受けないとは考えていた可能性はある。
だが、項燕が東へ兵を退いたと見た王翦は、休養させていた秦軍に一気に追撃を命じた。楚軍は追いつかれ、大敗した。
『史記』にある項燕の二つの死
『史記』白起王翦列伝によると、この時、項燕もまた、楚の都である寿春の北側にある蘄水(キスイ、河の名前)の南側で、戦死したとされる。
楚軍は敗走して、王翦が率いる秦軍はそのまま楚の国を攻略する。
そして、翌年にあたる、紀元前223年、楚王である負芻も捕らえられ、楚は滅亡している。
この先は、もう一つの死因が記載される『史記』始皇本紀にそって、記す(項燕の死について、『史記』始皇本紀の方が正しいのであれば、蘄水の南側で戦死したのは、項燕の子にあたる「項羽の父」であったのかもしれない)。
項燕が敗れた後、王翦は秦軍を率いて、一気に楚の国を奪い、まず、楚のかつての首都があった陳を攻略し、さらに南下して、李信が一度は奪い取った平輿まで制圧する。楚王である負芻も捕らえられた(ここでは、紀元前224年の事件とされる)。
王翦の勝利を聞いた秦王・嬴政は郢や陳まで出向いてきた。あるいは王翦が謀反を起こして、楚で自立をして楚王を名乗らないかどうか、不安になって来たのかもしれない。
ここで、逃げ延びた項燕は、かつて、秦に仕えていたが、楚に加担することとなった楚の公子である「昌平君」を楚王として擁立し、淮南(ワイナン)の地において、秦に対して反抗を行い、楚の再興を図った。
だが、紀元前233年、秦は、王翦と蒙武(モウブ、蒙恬の父)が率いる秦軍を討伐に差し向けてきた。昌平君と項燕は抗戦するが、秦軍の攻撃をうけて敗れ、昌平君は戦死し、項燕は自殺した。
ここにおいて、楚は滅んでしまった。
受け継がれた項燕の志と血筋
項燕が死んだ後、秦は残党となっていた趙と燕を滅ぼし、同盟国であった斉も滅ぼして天下を統一する(紀元前232年)。
逃げ延びた周文は、陳にひそんだ。項梁もまた、項伯・項羽ら一族を引き連れ、秦に対する反抗の機会をうかがうようになる。
秦の始皇帝となった嬴政が死去した後、紀元前209年に、秦に対して反乱を起こした陳勝(チンショウ)・呉広(ゴコウ)(陳勝・呉広の乱)らが、当初自らを秦の公子・扶蘇(フソ、始皇帝の長男で謀殺された)と項燕の名を詐称したことからも、項燕が楚の人々に慕われていたことが分かる。
周文もまた、陳の地で「張楚王」を名乗った陳勝のもとで、軍を率いることとなった。
周文は寄せ集めの軍を率いて、秦の都である咸陽(カンヨウ)に向かって進軍し、史上、孟嘗君(もうしょうくん)が一度破ったきりであった函谷関を落として、秦を滅亡寸前に追いやるほどの快挙を行う(周文については後述)。
また、項燕の遺志は、項燕の子であり、「武信君」を名乗った項梁にも引き継がれた。項梁は項伯・項羽ら項氏一族を率いて、楚の地の東にあたる「呉」に地にひそんで、陳勝の反乱に呼応する形で秦への反乱を決起する。項梁は、楚王の血族を探し出して新たな王に立てて楚を復興させる。
項梁は、秦の名将である章邯(ショウカン)に敗れて死んだが、項梁の事業は、項梁の甥にあたる項羽が継ぐことになった。項羽は章邯を破り、秦を滅ぼして、「西楚の覇王」を名乗り、楚王にとって代わって、楚の全盛時代をつくりだした。
項羽もやがて、漢王朝を建国する劉邦に敗れて自害するが、項羽の叔父にあたる項伯が劉邦に降伏し、「劉」姓を与えられることで、項氏のうち4人が「侯」(諸侯)に封じられ、項燕の子孫は後世に残ることとなった。項燕の子孫からは、漢の丞相までになるものもあった。
項燕の死から約700年後の5世紀に南朝宋を建国した劉裕(リュウユウ)は、項燕の血筋であるという説もある。
※その他「項燕」の詳細についてはWikipediaの該当項目参照
周文
かつての楚の「春申君」に仕えていたが、その後は項燕に「視日」に任じられる。楚の滅亡後は、楚の二番目の都があった「陳」に住み、軍事に通じていると自称しており、「賢人」であると呼ばれていた。
紀元前209年、「陳勝・呉広の乱」が起きる。陳勝は周文の住んでいた陳を本拠地とした。陳勝は、周文の評判を聞き、周文を秦討伐の将軍に任じる。
すでに、秦討伐には陳勝の最大の同志である呉広が任じられていたが、呉広は途中にある「滎陽(ケイヨウ)」を攻めあぐねていた。
周文は各地で兵を集め、滎陽は素通りして、秦を守る東の関所である函谷関に到着する。兵力はすでに数十万、戦車も1,000乗(台)にまでなっていた。
周文は史上、一度しか破れたことのない函谷関を破る(函谷関は孟嘗君によって一度、破れている)。秦の都である咸陽までわずかな距離であった。
周文が「戯(ギ)」という土地に布陣したところ、秦の囚人や奴隷を解放して兵とした秦の章邯によって、迎撃される。この時、周文は大敗し、敗走する。
周文は、曹陽(ソウヨウ)という土地で数か月、章邯と戦ったが、敗れてまた敗走する。最後は澠池(ベンチ)という土地で、十数日戦ったが、また敗れて自害する。
最後は敗れたとはいえ、敵将の章邯は「秦の最後の名将」といわれる人物であり、寄せ集めの軍勢を集めて函谷関を突破し、秦を滅亡寸前まで追い込んだ統率力や軍事能力は多くの創作作品や歴史記事で高く評価されている。
また、周文の敗死の後、呉広や陳勝はすぐに戦死するが、周文が数か月の期間を章邯からの攻撃に耐えて、時間を稼いだことにより、同時期に反乱を起こしていた項梁や項羽たちの決起が成功した可能性もある。
この推測が正しい場合、周文は最後まで項燕とその子孫のために大きく貢献したことになる。
戦国時代の楚の国の機構について
項燕が伝えた楚国では、古くからの世族(高い地位を代々、独占する貴族)から多く、他国のような下剋上もなく、大きな政治改革も行われなかったため、世族たちの力が強かった。
楚の国の宰相にあたる令尹(れいいん)という役職は、他の六国では外国人ですら就任することが普通となった時代でも、世族のみしかなれなかった。
世族の中でも高い家柄の家としては、楚の王族から分かれた屈氏・昭氏・景氏の三氏があげられ、令尹や大将軍の役職は、だいたいこの三氏から選ばれた。
それでも、楚の国では、戦国時代には、文書行政の組織は備えられ、これ自体は必ずしも秦に劣るわけではなかったが、秦とは違い、王が直接統治する「郡」と「県」以外(ただし、楚では「郡」と「県」という名称ではない)にも、土地を与えられた多くの「封君」が存在していた。
「封君」は、「県」より大きい領地を持つものや、小さい土地を持つものもいて、様々であったが、いわゆる貴族が統治するもので、楚の王による中央集権はかなり遅れていた。
これは、戦国時代末期まで続き、春申君も「呉」の土地の「封君」となっており、他の国よりずっと遅くまで、「封君」が権力を握り続ける状況が続いていた。
制度だけを見れば、楚は秦に対して大きなおくれをとっていた。これを「楚独自の文化」や「それなりに中央集権については果たしていたもの」とみなす考えもあるが、楚人でありながら、劉邦はこれを引き継がず、秦の制度をベースにして漢王朝を建国している。
楚の土地について
『史記』貨殖列伝や『漢書』地理志によると、楚は「西楚」、「東楚」、「南楚」の3つの地域に分かれるとされる。
この3つの地域はだいたい「彭城(ホウジョウ)」を中心として、西側が「西楚」、東側が「東楚」、南側が「南楚」である。
「西楚」は、楚の都である郢(後に江陵)が大都市であり、水産物の豊富な物産を有し、西は蜀の地に通じ、交通の要衝である。また、楚の二度目の都である陳も、魚や塩の運輸が盛んで、商人が多いとされる。ただし、土地自体はやせていて、穀物のたくわえが少ない。
「東楚」は、海からとれる塩が豊富であり、「章山」という銅山が存在し、海産物やたくさんある湖からの水産物が大きな産業となっている。大きな都市としては、「呉」や「広陵」がある。
「南楚」には、楚の最後の都である「寿春」が大都市として存在する。また、「合肥」は大きな河である長江と淮河(ワイガ)に南北が挟まれ、皮革(ひかく)やアワビなどの乾物(かんぶつ)、材木の集約地点となっている。竹や材木は多いが、湿度が高いために男性は早死にするとされる。
さらに「南楚」でも南方にあたる越地方では、当時から、南方との貿易が行われ、犀(さい)や象といった珍しい獣や、玳瑁(たいまい、海亀の甲羅)、サンゴ、銀・銅・果物・様々な布が手に入るため、金持ちが多かったという。その中では、「番禺(バングウ)」が大都市であった。
楚人の気質と生活について
項燕が生まれた楚人の気質については、『史記』貨殖(かしょく)列伝によると、楚人は「生来、機敏であるが怒りっぽい性格である」とされる。
楚の北側にあたる「東楚」と「西楚」の人は、質素であり、一度ひきうけた約束は固く守るが、南の「南楚」の人は、言葉はうまいが、信義は少ないと記されている。
楚の土地は広く、河や沢、山林に富み、焼き畑農業を行うものが多かった。楚人は魚や米を食べて、漁業や山林伐採を行い、食べ物に事欠かなかった。そのため、住民の力は弱く、才覚はすぐれず、蓄積する習慣はない。飢えや寒さを心配する必要はないが、大金持ちもいなかった。
また、鬼神の存在を信じやすく、巫女が重んじられ、土地神への信仰が重んじられた。(中国にしては)風紀が乱れた地域が多く、気勢が強い人が多い地域も存在した。
また、『史記』 でいう「南楚」の一部である呉地方の人々は、やはり、言葉はうまいが、信義は少ないとされる。
項燕の性格は史書から余り読み取れないが、彼の子である項梁や項伯、孫である項羽について考えると、同意させられる部分も多い。
関連書籍
『項羽と劉邦の時代』(講談社選書メチエ) 藤田勝久
項羽と劉邦が生まれた時代の前後を、出土文献を使って説明した書籍。項燕については詳しくはないが、項燕の生きた前後の時代の楚の国の歴史、制度や文化について、詳しく知ることができる。
概説書にしても内容が難しいが、項燕の仕えた楚の国について詳しく知りたい人には、「第一章 南方の大国・楚」が、とてもおすすめであり、昌平君に関する学説や、彼の子である項梁や孫の項羽のことも詳しく知ることができる。
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