項燕単語

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「項燕」(こう・えん ? 紀元前223年)とは、中国戦国時代末期の楚のの武将であり、滅亡へと進む楚のを支えた大将軍である。

始皇帝後に楚を再した「項梁コウリョウ)」「項伯コウハク)」のであり、西楚の覇王項羽コウウ)」は孫にあたる。

この項では、項燕の部下であった「周文(シュウブン)」についてもあわせて紹介する。

概要

楚の名族

中国南方を支配していた楚のに仕えて「項現在の項)」に封ぜられた事から「項」氏を姓とした武の出である(封じていたのは形式的には「周王」であった可性もある)。

項燕の先祖である項氏が代々、封じられていた「項」は、いにしえの「項子」であるため、項氏は遅くとも時代から項を本拠としていた有力氏族であった。

また、「項」は、それなりに大きい都市であったようであるため、項氏は楚の名族であったと思われる。

項燕の年齢については不明であるが、項燕が死去した年に孫の項羽が10歳であったことは判明している。

1世代は30年と計算する考えがあるため、項羽の祖である項燕の死去した年齢は70歳であると仮に計算し、それを前提にして説明する。

この計算では、項燕は紀元前292年に生まれたことになる。

戦国時代における楚の衰退期

時代には、下の覇権を争っていた楚のだが、項燕が物心がついた時にはすでに衰退期に入っていた。

楚のは強大ではあったが、王族や貴族によって高官が独占され、他ののような改革ができず、中国の西にあるに、外交軍事において大きく後れをとっていた。

紀元前278年、「鄢(エン)・郢(エイ)の戦い」によって、楚は白起ハクキ)に大敗し、首都の郢(後の、江陵の地)まで占領される。そのため、楚は「陳(チン)」に首都を移ることとなった。この時に、楚の大臣であり、楚を愛し詩人である屈原(クツゲン)も自殺している。

項燕はこの時はまだ、少年といってもいい年齢であったが、すでに楚のの衰退は明らかであった。

その後も、申君(しゅんしんくん)などの活躍はあり、と和を組み、東の方では土を広げてはいたが、がその力を増大させる一方で、楚は内の改革は余り進まず、勢力は取り戻せない状況であった。

紀元前258年、首都であるカンタン)がによって包囲される。楚は申君を将として、とともに、を救援し、勝利する。戦い自体は勝利しているが、各は単独ではとてもに対抗できない状況になっていた。

紀元前249年、楚は、いまだ残っていた魯のに攻め込み、滅ぼした。

この頃の項燕はすでに壮年に達している。項燕は、楚の将軍として「しばしば功績をあげ、兵士愛した(有功,士卒)」と記されているため、このような戦いで、功績を立てていたようである。

紀元前241年、楚は盟となり、申君を総大将にして、楚・の五の合従軍を率いて、を攻めるが、の本拠地にあたる関中を守る東の関所である関(カンコクカン)において敗退する(関の戦い)。

楚王は申君を責め、同年に、申君の提言により、楚は「陳」からさらに東にある「寿(ジュシュン)」へ遷都する。楚が敗戦により、に対抗できず、の攻撃を恐れているのは明らかである。

この時の項燕は(推測で)52歳。「関の戦い」に加わったのかは分からないが、すでに楚の有力な武将の一人になっていただろうと思われる。

紀元前238年には、その申君も部下であった園(リエン)に殺される。その園によって新しい楚王も即位する。楚の乱脈具合はひどい有様であった。

秦の侵略

では、王・嬴政エイセイ)が相邦(しょうほう、の宰相のこと)であった呂不韋(リョフイ)を排除して、実権を握し、天下統一していた。はすでに中国の西半分を有しており、東半分を割拠していた六(楚、、斉、)はその侵略におびえていた。

楚は、それでも六の中では最も強い力を有していたが、侵略に対して手をこまねいてみているだけであり、奮戦しているに援軍を出すこともなかった。楚は外交戦略や策謀もあって、方針が定まらず、どっちつかずの姿勢を示していたようである。

はそんな楚をしりに、本格的な侵略戦争を開始した。

紀元前230年、を滅ぼす。

紀元前228年、は、軍事であったを滅ぼす。

楚では、新しい楚王が即位したが、そのにあたる負(フスウ)が新王を殺し、次の楚王に即位していた。楚のにおいて大事だったのは、いつかくるであろう侵略ではなく、あくまで内のことであったようである。

紀元前226年、を攻撃し、王は東(リョウトウ)に逃亡し、はほぼ滅亡する。

紀元前225年、を滅ぼす。

楚からの援軍を受けられない各は次々と滅亡した。

いよいよ、は最後の強である楚に狙いをつけた。はすでに下の七割以上を有し、その軍勢は60万人をはるかえていた。

さらに、残った斉はの同盟であり、斉からの援軍も期待はできない。それどころか、に援軍を出す可性すらもある。

もう、楚の滅亡は時間の問題かと思われた。

この時、楚の将軍と任じられたのが、老年の項燕である。

楚の名将・項燕 対 秦の猛将・李信

紀元前225年(もしくは紀元前224年)、王・嬴政は、将軍李信(リシン)と王翦(オウセン)に楚の攻略に必要な兵の数を聞いた。

李信は、の若い将軍であり、勇猛さで知られていた。討伐で功績をあげ、討伐では数千の軍で、王の太子である丹(キタン)を追撃し、捕らえた(討ち取った、もしくは追い詰めたとも)人物である。また、嬴政のお気に入りであった。

王翦は、の老練な将軍であり、兵法に熟達していた。討伐、討伐では全軍の総大将をつとめ、を滅ぼした人物である。その息子王賁(オウホン)もまた、将軍で、を滅ぼしていた。功績では、李信より上であった。

二人ともの代表的な将軍である。

嬴政としては、楚攻略はさほど難しくないことだと考えていた。そこでまず、二人に楚討伐に必要な兵力を問うた。

李信は「20万人で充分です」と答え、王翦は「60万人いなければ理でしょう」と答える。嬴政は、王翦は高齢により、慎重になりすぎ、臆病になったものと思い、李信蒙恬(モウテン)に20万の兵を与えて楚攻略を命じた。

王翦は老齢と病気を理由に隠居する。

また、嬴政はかつて相邦として自分を支えてくれていた昌平君(しょうへいくん)を、以前、楚の都があった郢へと派遣する。

この的は不明であるが、元々は楚の子(王族)の一人である昌平君をなんらかの理由で左遷するとともに、楚地方定と、李信蒙恬軍の後方支援を命じたものと思われる(なお、この郢は陳の地であるという説もあるが、この項ではがかつて占領した郢であると仮定して説明する)。

とにかく、李信蒙恬は20万の軍を二つに分け、それぞれを率いて、楚に侵攻してきた。

対する楚の軍の兵力は不明であるが、侵攻する将軍が「20万人で充分」と答え、嬴政が同意するということは、項燕に直属する兵力はそれよりもはるかに少ない10万人前後であったのではないかと推測できる。

李信の軍により、郢より東にある輿(ヘイヨ)で楚軍は破られ、蒙恬の軍にもさらに東にある寝丘(シンキュウ)で破られた。楚はこのまま滅亡するかと思われた。

ところが、李信はこの時、なぜか、が占領していたはずの郢に行き、楚軍を撃破する。

このことの詳細は史書には書かれていないので不明であるが、

  1. の占領地である郢において、かつての楚人が楚軍に呼応してに反乱を起こした。
  2. 楚軍が軍の後方にあたる郢におもむいて占領し、李信が攻めざるを得なくなった。
  3. 郢にいた楚の子であった昌平君が故の滅亡を前にして反乱を起こした。

など、いずれかの理由が考えられる。

この時、昌平君は「みずからの意思で積極的」にか、「楚の軍もしくは反乱軍に捕らえられて仕方なく」か不明であるが、に反乱を起こし、楚に加わったものの思われる(ただし、別の説として、これはあくまで、伝説が史書に残ったものに過ぎず、昌平君は楚に加わってないと考える研究者もいる)。

とにかく、李信は郢で楚の勢力を破った後で、(ジョウフ)という土地で、蒙恬と合流した。

だが、楚軍を率いる項燕の狙いはここにあった。項燕は3日3晩、休みもせずに軍を追い続け、李信の軍を撃破する。項燕は、軍の二つの営(李信蒙恬のもの?)を陥落させ、軍の都尉(とい、武将)7名を討ち取った。李信蒙恬は大敗して、敗走した。

王・嬴政はおおいに怒り、隠居していた王翦に自ら頼み込んで、楚の討伐を依頼した。王翦は嬴政に60万の兵力をつける約束をとりつける。

紀元前224年、王翦は軍60万人を率いて、楚討伐におもむく。嬴政はみずから、王翦を見送った。

いよいよ楚との存亡をかけた決戦の時であった。

戦国時代最後の頂上決戦

楚の将軍は、当然、項燕が引き続き、任じられた。楚のでは兵力を全て動員して、と戦うことにした。

兵力がかなり劣る楚と項燕としては大ピンチであったが、一面では、かなりの好機ともいえた。

楚には有利な点もいくつかあった。

  • 先に李信が大敗しているため、軍は精鋭をかなり失っているはずである。王翦がはじめから60万の大軍を率いることとは意味が大きく違う。
  • 60万の大軍は統率が難しいはずである。楚軍としては、各地に分かれた軍を各個撃破できれば、勝ちはでてくる。
  • 軍は遠路を遠征してくる、疲れ果てた軍を自で楚軍は待ち受けることができる。
  • 60万の軍には、降したばかりの他の兵もまじっているはずである。その兵たちの戦意は高くなく、軍の弱点とはなりうる。
  • 60万の軍が敗れれば、罰せられることを恐れた王翦は、に対して謀反を起こすかも、あるいは帰還しないかもしれない。への離反を誘うことができる。
  • 軍60万が壊滅的な打撃を与えられれば、に降したばかりの、滅亡寸前ので、再起の動きが強くなるだろう。また、戦国七雄の時代にもどすことができるかもしれない。

侵攻してくる王翦の軍を破れば、楚のも存続することができ、あるいは、楚との力関係が逆転するかもしれない。項燕への楚の期待は大きかった。

項燕の部下には、視日(しじつ、軍の占いを行う。参謀の一つ)の周文と、息子項梁項伯がいた。

周文は軍事に通じており、項梁も軍の統率や軍略にすぐれていた。項伯もまた、義侠心があり、才がある人物であった。

また、項梁項伯の子、すなわち項燕の孫には10歳となる項籍コウセキ、字は羽。項羽のこと)がいた(項羽はどのようにして死去していたか不明)。

項籍はまだ幼く、従軍しなかったと考えられるが、この項籍は、体格がよくて、才幹はずばぬけていた。

項籍が大きくなるまで、楚のがもてば、いずれはを滅ぼすほどの将軍に育つかもしれない)

あるいは、項燕はそのように考えていたかもしれない。

とにかく、項燕は楚の全軍を率いて、王翦を迎え撃つことになった。

王翦は、各地に営を構えて、ひたすら守りを固めて、打って出て戦ってこなかった。これでは、項燕の得意とする高速で軍を機動させて攻撃する戦術が使えない。理に営を攻撃しても、大軍である軍に包囲されれば、袋のネズミである。

項燕は、楚の兵に命じて何度も軍を挑発するが、それでも、王翦は軍を出撃させなかった。

王翦は軍を休めながら、上等な食事を用意して、兵士たちと一緒に食事をした。王翦は軍が「石投げ」をして遊ぶほどの余裕がでてくると、「兵士たちが使えるようになった」と語ったと伝えられる。

項燕は、楚軍が何度も挑戦しても、軍が出てこないのを見て、やむを得ず、軍を東へ引き返すことにした。

項燕が軍を退いた理由は不明であるが、

  • 楚の政治的な事情
  • 敗走していた李信の軍が楚の首都である寿や、項燕の後方を攻撃した可
  • 方面に展開していた王翦の息子である王賁の軍が南下しようとした可
  • の同盟軍のである斉が南下して、がらきになった楚を攻撃しようとした可
  • 楚の方が先に兵糧切れを起こして、引き返すことになった可
  • の謀略により、楚王や楚の政府から帰還命が来たため

などが考えられる。ただ、項燕としては、王翦の率いる軍の戦意が低く、追撃は受けないとは考えていた可性はある。

だが、項燕が東へ兵を退いたと見た王翦は、休養させていた軍に一気に追撃を命じた。楚軍は追いつかれ、大敗した。

『史記』にある項燕の二つの死

史記白起王翦列伝によると、この時、項燕もまた、楚の都である寿の北側にある蘄キスイ、河の名前)の南側で、戦死したとされる。

楚軍は敗走して、王翦が率いる軍はそのまま楚の攻略する。

そして、翌年にあたる、紀元前223年、楚王である負も捕らえられ、楚は滅亡している。

この先は、もう一つの死因が記載される『史記』始皇本紀にそって、記す(項燕の死について、『史記』始皇本紀の方が正しいのであれば、蘄の南側で戦死したのは、項燕の子にあたる「項羽」であったのかもしれない)。

項燕が敗れた後、王翦は軍を率いて、一気に楚のを奪い、まず、楚のかつての首都があった陳を攻略し、さらに南下して、李信が一度は奪い取った輿まで制圧する。楚王である負も捕らえられた(ここでは、紀元前224年の事件とされる)。

王翦の勝利を聞いた王・嬴政は郢や陳まで出向いてきた。あるいは王翦が謀反を起こして、楚で自立をして楚王を名乗らないかどうか、不安になって来たのかもしれない。

ここで、逃げ延びた項燕は、かつて、に仕えていたが、楚に加担することとなった楚の子である「昌平君」を楚王として擁立し、南(ワイナン)の地において、に対して反抗を行い、楚の再を図った。

だが、紀元前233年、は、王翦と蒙武(モウブ蒙恬)が率いる軍を討伐に差し向けてきた。昌平君と項燕は抗戦するが、軍の攻撃をうけて敗れ、昌平君は戦死し、項燕は自殺した。

ここにおいて、楚は滅んでしまった。

受け継がれた項燕の志と血筋

項燕が死んだ後、は残党となっていたを滅ぼし、同盟であった斉も滅ぼして下を統一する(紀元前232年)。

逃げ延びた周文は、陳にひそんだ。項梁もまた、項伯項羽ら一族を引き連れ、に対する反抗の機会をうかがうようになる。

始皇帝となった嬴政が死去した後、紀元前209年に、に対して反乱を起こした陳勝チンショウ)・広(ゴコウ)(陳勝広の乱)らが、当初自らを子・扶(フソ、始皇帝長男で謀殺された)と項燕の名を詐称したことからも、項燕が楚の人々に慕われていたことが分かる。

周文もまた、陳の地で「楚王」を名乗った陳勝のもとで、軍を率いることとなった。

周文は寄せ集めの軍を率いて、の都である咸陽(カンヨウ)に向かって進軍し、史上、君(もうしょうくん)が一度破ったきりであった関を落として、を滅亡寸前に追いやるほどの快挙を行う(周文については後述)。

また、項燕の遺志は、項燕の子であり、「武信君」を名乗った項梁にも引き継がれた。項梁項伯項羽ら項氏一族を率いて、楚の地の東にあたる「」に地にひそんで、陳勝の反乱に呼応する形でへの反乱を決起する。項梁は、楚王の血族を探し出して新たな王に立てて楚を復させる。

項梁は、の名将である章邯ショウカン)に敗れて死んだが、項梁の事業は、項梁の甥にあたる項羽が継ぐことになった。項羽章邯を破り、を滅ぼして、「西楚の覇王」を名乗り、楚王にとって代わって、楚の全盛時代をつくりだした。

項羽もやがて、漢王朝を建する劉邦に敗れて自害するが、項羽叔父にあたる項伯劉邦に降し、「」姓を与えられることで、項氏のうち4人が「侯」(諸侯)に封じられ、項燕の子孫は後世に残ることとなった。項燕の子孫からは、丞相までになるものもあった。

項燕の死から約700年後の5世紀に南を建した裕(リュウユウ)は、項燕の血筋であるという説もある。

その他「項燕」の詳細についてはWikipediaの該当項目参照exit

周文

かつての楚の「申君」に仕えていたが、その後は項燕に「視日」に任じられる。楚の滅亡後は、楚の二番の都があった「陳」に住み、軍事に通じていると自称しており、「賢人」であると呼ばれていた。

紀元前209年、「陳勝広の乱」が起きる。陳勝は周文の住んでいた陳を本拠地とした。陳勝は、周文の評判を聞き、周文を討伐の将軍に任じる。

すでに、討伐には陳勝の最大の同志である広が任じられていたが、広は途中にある「滎陽(ケイヨウ)」を攻めあぐねていた。

周文は各地で兵を集め、滎陽は素通りして、を守る東の関所である関に到着する。兵力はすでに数十万、戦車1,000乗(台)にまでなっていた。

周文は史上、一度しか破れたことのない関を破る(関は君によって一度、破れている)。の都である咸陽までわずかな距離であった。

周文が「戯(ギ)」という土地に布したところ、囚人奴隷解放して兵とした章邯によって、迎撃される。この時、周文は大敗し、敗走する。

周文は、曹陽(ソウヨウ)という土地で数か章邯と戦ったが、敗れてまた敗走する。最後は澠池(ベンチ)という土地で、十数日戦ったが、また敗れて自害する。

最後は敗れたとはいえ、敵将の章邯は「の最後の名将」といわれる人物であり、寄せ集めの軍勢を集めて関を突破し、を滅亡寸前まで追い込んだ統率力や軍事力は多くの創作作品や歴史記事で高く評価されている。

また、周文の敗死の後、広や陳勝はすぐに戦死するが、周文が数かの期間を章邯からの攻撃に耐えて、時間を稼いだことにより、同時期に反乱を起こしていた項梁項羽たちの決起が成功した可性もある。

この推測が正しい場合、周文は最後まで項燕とその子孫のために大きく貢献したことになる。

戦国時代の楚の国の機構について

項燕が伝えた楚では、古くからの世族(高い地位を代々、独占する貴族)から多く、他のような下上もなく、大きな政治改革も行われなかったため、世族たちの力が強かった。

楚のの宰相にあたる尹(れいいん)という役職は、他の六では外国人ですら就任することが普通となった時代でも、世族のみしかなれなかった。

世族の中でも高い柄のとしては、楚の王族から分かれた屈氏・昭氏・氏の三氏があげられ、尹や大将軍の役職は、だいたいこの三氏から選ばれた。

それでも、楚のでは、戦国時代には、文書行政の組織は備えられ、これ自体は必ずしもに劣るわけではなかったが、とは違い、王が直接統治する「」と「県」以外(ただし、楚では「」と「県」という名称ではない)にも、土地を与えられた多くの「封君」が存在していた。

「封君」は、「県」より大きい領地を持つものや、小さい土地を持つものもいて、様々であったが、いわゆる貴族が統治するもので、楚の王による中央集権はかなり遅れていた。

これは、戦国時代末期まで続き、申君も「」の土地の「封君」となっており、他のよりずっと遅くまで、「封君」が権力を握り続ける状況が続いていた。

制度だけを見れば、楚はに対して大きなおくれをとっていた。これを「楚独自の文化」や「それなりに中央集権については果たしていたもの」とみなす考えもあるが、楚人でありながら、劉邦はこれを引き継がず、の制度をベースにして漢王朝を建している。

楚の土地について

史記』貨殖列伝や『書』地理志によると、楚は「西楚」、「東楚」、「南楚」の3つの地域に分かれるとされる。

この3つの地域はだいたい「彭(ホウジョウ)」を中心として、西側が「西楚」、東側が「東楚」、南側が「南楚」である。

「西楚」は、楚の都である郢(後に江陵)が大都市であり、産物の豊富な物産を有し、西はの地に通じ、交通の要衝である。また、楚の二度の都である陳も、の運輸が盛んで、商人が多いとされる。ただし、土地自体はやせていて、穀物のたくわえが少ない。

「東楚」は、からとれるが豊富であり、「章山」という山が存在し、産物やたくさんあるからの産物が大きな産業となっている。大きな都市としては、「」や「広陵」がある。

「南楚」には、楚の最後の都である「寿」が大都市として存在する。また、「合肥」は大きな河である長江と河(ワイガ)に南北が挟まれ、皮革(ひかく)やアワビなどの物(かんぶつ)、材木の集約地点となっている。や材木は多いが、湿度が高いために男性死にするとされる。

さらに「南楚」でも南方にあたる越地方では、当時から、南方との貿易が行われ、(さい)やといったしいや、玳瑁(たいまい、海亀の甲羅)、サンゴ果物・様々な布が手に入るため、金持ちが多かったという。その中では、「番禺(バングウ)」が大都市であった。

楚人の気質と生活について

項燕が生まれた楚人の気質については、『史記』貨殖(かしょく)列伝によると、楚人は「生来、機敏であるが怒りっぽい性格である」とされる。

楚の北側にあたる「東楚」と「西楚」の人は、質素であり、一度ひきうけた約束は固く守るが、南の「南楚」の人は、言葉はうまいが、信義は少ないと記されている。

また、楚人の生活については、『書』地理志によると、

楚の土地は広く、河や沢、山に富み、焼き農業を行うものが多かった。楚人はを食べて、漁業や山伐採を行い、食べ物に事欠かなかった。そのため、住民の力は弱く、才覚はすぐれず、蓄積する習慣はない。飢えや寒さを心配する必要はないが、大金持ちもいなかった。

また、神の存在を信じやすく、巫女が重んじられ、土地神への信仰が重んじられた。(中国にしては)紀が乱れた地域が多く、気勢が強い人が多い地域も存在した。

また、『史記』 でいう「南楚」の一部である地方の人々は、やはり、言葉はうまいが、信義は少ないとされる。

項燕の性格は史書から余り読み取れないが、彼の子である項梁項伯、孫である項羽について考えると、同意させられる部分も多い。

関連書籍

項羽と劉邦の時代exit_nicoichiba』(講談社選書メチエ) 藤田勝久

項羽劉邦が生まれた時代の前後を、出土文献を使って説明した書籍。項燕については詳しくはないが、項燕の生きた前後の時代の楚の歴史、制度や文化について、詳しく知ることができる。

概説書にしても内容が難しいが、項燕の仕えた楚のについて詳しく知りたい人には、「第一章 南方の大・楚」が、とてもおすすめであり、昌平君に関する学説や、彼の子である項梁や孫の項羽のことも詳しく知ることができる。

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項燕

3 ななしのよっしん
2013/06/24(月) 17:41:59 ID: FLmZ87+6ZE
>>2
李信テンとはいえ?その二人は当時の中華でも最高クラスの名将だが?
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4 ななしのよっしん
2013/11/18(月) 05:36:12 ID: C5XjHnfjaQ
ちなみに戦国末期軍の進攻を防いで破ったのは項燕李牧の2人だけ
そしてその2人を倒したのも王翦という

まあ、李牧は離間策で味方に殺された様なもんだけどね
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5 ななしのよっしん
2014/01/29(水) 10:55:11 ID: YPtzRTCaI6
紀元前244年 ゴウを攻めて13を取る 紀元前242年 ゴウを攻めて20を奪う 紀元前241年 の五ヶが合従しを攻めるが敗退 紀元前240年 ゴウ 紀元前236年 王翦・桓騎・端和がを攻める 紀元前234年 桓騎が陽を攻め10万人殺す
紀元前233年 桓騎がを攻めるも李牧に敗れる
紀元前230年 騰がを滅ぼす
紀元前229年 王翦・端和がを攻める/李牧王命により殺される
紀元前228年 王翦・羌カイを滅ぼす
紀元前227年 王翦がを攻める/政がの刺客に命を狙われるも返り討ちにする
紀元前226年 王翦・王賁李信を攻める/昌文君
紀元前225年 王賁を滅ぼす/李信蒙恬が楚を攻めるも項燕の奇襲によりほぼ全滅の大敗
紀元前224年 王翦・李信蒙恬が楚を攻め楚王を捕える
紀元前223年 王翦・蒙武が楚を攻め昌平君を殺す/項燕自殺
紀元前222年 王翦・蒙武が楚を滅ぼす/王賁を滅ぼす
紀元前221年 李信
(省略しています。全て読むにはこのリンクをクリック!)
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6 ななしのよっしん
2014/01/31(金) 15:26:11 ID: C5XjHnfjaQ
>>5
流石に王翦とべたら・・・w
蒙恬は対匈奴と長建設、李信は子孫(異説有)の方が有名だから仕方ないね

しかし項燕と王翦の孫が再び敵同士で相まみえるとか、世の中ワカランものだ

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7 ななしのよっしん
2015/02/04(水) 15:48:19 ID: HbbLPKTgU4
はやたら厳しい法治・軍法を取り入れてて
兵士も死に物狂いで働いて強かったというから
率いる将は大したことなくても成果を出せたのかもしれないw
特に大軍の運用であるほど有利だったんじゃないか
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8 ななしのよっしん
2015/02/04(水) 18:24:05 ID: hGLDGjO5JX
10万をえる軍勢になると単純に数対数の戦いではなくなってくるよ
どんな広い場所でやっても交通渋滞しちゃうからね
それに食料の問題も大変になる
そうなってくるといかに手広く布し、その隅々まで作戦を行き渡らせるかという戦いになってくるから、
大将軍がやることは数倍になる。大群を率いられる将軍ってのは当時でも限られてるはず
韓信も言ってたけど、劉邦はせいぜい動かせるのは10万まで、自分は多ければ多いほどいいと。
多くなってその分有利に出来るってのは将軍としての才だから
王センの60万人の軍隊の揮は相当見事なもんだったんだと思う
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9 ななしのよっしん
2016/10/29(土) 20:44:00 ID: 5XVYgnP1mV
項羽普通中華歴代最強説があるから
そのおじいちゃん項燕ならキングダム的にとんでもない描写されそう
武神より格上的な
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10 ななしのよっしん
2018/03/20(火) 11:45:57 ID: OtdghdiZr4
孫の七りや
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11 ななしのよっしん
2019/01/18(金) 22:55:22 ID: RGlFLzYJgy
>>9
そもそも武神が何であんな武芸一辺倒なキャラになったんだか分からんのがなぁ…
史実だとむしろ兵法の側面が強い人物だし
まぁ遊説明があんな猛将になってしまう辺り、気にしたら負けなんだろうけど
それもあって項燕がどんな描かれ方をするかは想像しづらいな

>>10
項羽項梁)決起時はむしろの大軍を打ち破った祖)の七りだったんだけどね。
項羽異次元なだけで、項燕は名将だよ
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12 ななしのよっしん
2024/01/04(木) 01:30:47 ID: T6KhN/W+Em
ちなみに兵法書『子』だと、
「楚は、民は惰弱で、土地は広すぎ、政治は乱れ、民衆は疲弊している。軍は、数は整うが持久力がない」
と割と酷評されている。
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