高原直泰(Naohiro Takahara, 1979年6月4日 - )とは、日本の元サッカー選手・サッカー指導者である。
元サッカー日本代表。現在はJFLの沖縄SVのクラブ代表(CEO)を務める。
概要
静岡県三島市出身。「黄金世代」のストライカーとして、小野伸二、稲本潤一、小笠原満男らと日本のサッカーを引っ張ってきた選手であり、1999年のFIFAワールドユース選手権準優勝メンバーの一人。現役時代は万能型のストライカーとして知られ、左右両足からのシュート、高さを活かしたヘディング、そして相手をかわすドリブル突破など、攻撃に必要な要素を高いレベルで兼ね備えていた。
1998年にジュビロ磐田でプロとしてのキャリアをスタートさせ、2001年にはアルゼンチンの名門ボカ・ジュニアーズへレンタル移籍。レンタルバックで磐田に復帰した2002年シーズンのJ1リーグでは中山雅史とのコンビでゴールを量産。磐田の完全優勝に大きく貢献し、Jリーグ最優秀選手と得点王を獲得。その後、ドイツ・ブンデスリーガのハンブルガーSV、アイントラハト・フランクフルトに在籍。2007年には11ゴールを記録し、ブンデスリーガにおける日本人初の二桁得点を達成している。
日本代表としては各年代でエースストライカーとして華やかな経歴を持ち、フル代表には2000年2月にデビュー。2002 FIFAワールドカップは直前にエコノミークラス症候群を発症し欠場となったが、2006 FIFAワールドカップには出場。通算57試合23得点。
2008年にJリーグに復帰して以降は調子を大きく落とし、様々なクラブを転々とすることになる。2015年12月25日、自身が出資して沖縄SVを立ち上げる。クラブ代表・選手・監督の三役を務め、2022年にJFL昇格を果たす。2023年を最後に現役を引退し、クラブのオーナーに専念。また、コーヒー農園での作業に従事しており、現在はコーヒー農家との兼業状態となっている。
経歴
生い立ち
1979年6月4日、静岡県三島市で次男として生まれ、両親と兄という家族構成だった。父親は日本大学三島高等学校の教師でジュビロ磐田のコーチとして後に指導を受けることになる山本昌邦は教え子にあたる。幼い頃からサッカーに興味を持ち、小学1年生となった1985年に地元の三島山田サッカースポーツ少年団に入団し、本格的にサッカーを始める。当時のポジションはMFだった。小学生時代から普通は中学年代から使用する5号球を使って練習しており、小学5年くらいには両足でシュートが蹴れるようになっていた。
1992年に東海大学第一中学校に進学。中学には自宅から新幹線で通っており、勉強は新幹線の中でこなしていたという。この頃からFWとしてプレーするようになり、頭角を現すようになる。全国中学校サッカー大会3連覇を経験。中学ナンバー1ストライカーとして注目を浴びるようになり、アンダー世代の日本代表にも選出。当時のU-14の全国強化合宿で同世代の小野伸二、稲本潤一とも出会っており、後に黄金世代と呼ばれた中の超逸材3人の初遭遇となった。
高校はサッカーの名門校である清水東高校に入団。入学の時期はちょうどFIFA U-17世界選手権出場のためエクアドルに行っていたため不在だった。高校時代は当時の静岡県が激戦区だったこともあって三年間全国大会への出場は果たせなかったが、高校サッカー界最強のストライカーという評価を受けていた。特に高校3年生時の1997年に開催された全国国民体育大会では、小野や南雄太といったタレント揃いの静岡選抜の一員として出場。小野とのコンビは別次元のような圧倒的な破壊力を見せ、優勝している。
ジュビロ磐田
1998年、Jリーグのジュビロ磐田に入団。シーズン最初の公式戦となった3月14日のゼロックス・スーパーカップ 鹿島アントラーズ戦に途中出場し、早速プロデビューを飾る。3月21日、Jリーグ開幕戦の京都パープルサンガ戦で後半26分から出場すると、そのわずか3分後にJリーグ初ゴールを記録。衝撃的なJリーグでビューとなる。その後も途中出場中心ながらもコンスタントに出場機会を与えられる。1998 FIFAワールドカップ期間中に開催されたナビスコカップでは、川口信男とのルーキー同士の2トップを組み、代表組不在の穴を感じさせない活躍を見せる。7月19日の決勝ジェフ市原戦でゴールを決めるなど、6試合4得点の活躍でタイトル獲得に貢献。大会のニューヒーロー賞にも選出される。9月26日、Jリーグ2ndステージ第8節市原戦では、出場わずか23分間ながらもハットトリックを達成。ルーキーイヤーでは公式戦9ゴールを決め、怪物の片鱗を見せている。
1999年は序盤はFIFAワールドユース選手権出場のためチームを離脱。帰国後はレギュラーとして起用されるようになり、5月8日の1stステージ第12節浦和レッズ戦での2ゴールがシーズン初ゴールとなる。2ndステージではシーズン終盤となった第14節京都戦、第15節ベルマーレ平塚戦で2試合連続での2ゴールを記録するなど活躍。リーグ戦では21試合9得点という成績を残し、磐田の2シーズンぶりのリーグ制覇に貢献。
2000年シーズンは中山雅史との2トップの補完性がさらに向上。J1リーグ第4節セレッソ大阪戦での2ゴールがシーズン初ゴールとなる。8月12日のJ1リーグ2ndステージ第9節横浜F・マリノス戦で2ゴールを決め、キャリア初となるシーズン二桁得点を達成。11月8日のFC東京戦で負傷離脱し、ひと足早くシーズン終了となる。
2001年のJ1リーグ1stステージでは開幕からゴールを量産。これまで以上にスケールアップした姿を見せ、7月7日の第13節横浜FM戦ではチームをステージ優勝に導く延長Vゴールを決める。
ボカ・ジュニアーズ
2001年8月、アルゼンチンの名門ボカ・ジュニアーズに期限付きで移籍。開幕戦でデビューを飾り、9月23日のCAラヌース戦でアルゼンチンリーグでの日本人初ゴールを決める。しかし、アルゼンチン特有の激しい当たりに苦しみ、カルロス・ビアンチ監督の信頼を得ることができず出場機会がなかなか与えられなかった。凱旋帰国が期待されたトヨタカップのメンバーからも外れてしまう。極めつけに、2002年に入ってアルゼンチン国内の経済情勢が急激に悪化したことで契約解除となる。結局、初めての海外挑戦は公式戦6試合1得点に終わり、わずか半年で日本へ戻ることになる。
ジュビロ磐田復帰
2002年J1リーグ開幕前にジュビロ磐田に復帰。3月10日、1stステージ第2節東京ヴェルディ1969戦で早速復帰後初ゴールを決める。ところが、2002 FIFAワールドカップを目前にした4月にエコノミークラス症候群を発動。これによって戦線離脱を余儀なくされ、復帰したのはワールドカップの中断期間後の7月だった。だが、ここから高原の快進撃が始まる。復帰2戦目となった7月10日の1stステージ第9節FC東京戦で2ゴールを決めると、ここから7試合連続ゴールを記録。8月10日のベガルタ仙台戦ではハットトリックを達成している。この年の磐田は名波浩を司令塔に置いた「N-BOX」という攻撃的なシステムが機能し、最後の仕上げをおこなうフィニッシャーとして面白いようにゴールが決まっていた。9月22日、2ndステージ第5節FC東京戦ではシーズン2度目となるハットトリックを含む1試合4ゴールの大活躍を見せる。勢いは最後まで止まらず、最後の5試合で6ゴールを稼ぎ、キャリアハイを大幅に更新するリーグ戦26ゴールを記録。当時の史上最年少でのJリーグ得点王の座に輝き、さらに磐田のリーグ完全制覇に大きく貢献したことでこの年のJリーグ最優秀選手賞を受賞。もはや国内では向かうところ敵なしという状況だった。
ハンブルガーSV
2003年1月1日、ドイツ・ブンデスリーガのハンブルガーSVへの完全移籍が決まり、再び海外移籍に挑戦することとなる。20万ユーロ(約3200万円)。加入1試合目でスタメンで出場すると、移籍3戦目となった2月9日ブンデスリーガ第20節バイエルン・ミュンヘン戦で1点ビハインドで迎えた試合終了間際に右サイドのメフディ・マハダビキアのクロスをヘディングで合わせて移籍後初ゴールを記録。このゴールは当時連続無失点記録を継続していたオリバー・カーンの大記録を802分で止める値千金のゴールだった。当時、このゴールはドイツで大きく報じられ、現地ファンの間でも話題となった。移籍1年目は16試合3得点で終える。ちなみに1年目の3ゴールは全てヘディングによるものだった。
2003-04シーズンも開幕からスタメンとして起用されるが、当時のハンブルガーにはベルナルド・ロメロやセルゲイ・バルバレスといったFWが在籍していたこともあり、本職ではない左ウイングでの起用が多くなっていた。そのため、ゴール数が思ったように伸びず、ストライカーとしては不本意な日々となっていた。徐々にスタメンから外れることも多くなり、2年目は29試合2得点という不本意な成績に終わる。
2004-05シーズン開幕当初は序列が低下し、一時はリザーブリーグでプレーする厳しい立場に置かれてしまう。しかしチームの不振を受けて監督がトーマス・ドルに交代すると、スタメンに抜擢された第6節のヘルタ・ベルリン戦で2ゴールを決める大活躍を見せる。これによってレギュラー返り咲きを果たし、本職のFWで起用されるようになる。チームも一時の不振から立ち直り、31試合7ゴール2アシストを記録。ゴール数はバレバレスに次ぐチーム2位の成績だった。この頃から、現地サポーターから「スシボンバー」という愛称で呼ばれるようになり、日本にも知れ渡っていく。
2005-06シーズンは開幕からレギュラー争いに敗れ、序列が低下。しかもチームが好調だったこともあり、前線の構成が固定されてしまう。結局、シーズンを通して1ゴールのみに終わり、21試合に出場しスタメンで起用されたのはわずか6試合のみだった。シーズン終了後、出場機会を求めて移籍を希望する。
フランクフルト
2006年5月、ドイツ・ブンデスリーガのアイントラハト・フランクフルトに3年契約で完全移籍。移籍金は150万ユーロ。スキンヘッドから髪を伸ばしてイメチェンも図り、新天地では1トップもしくは2トップの一角として起用され、相手ペナルティーエリア内の狭い地域で勝負することを許され、ゴールだけに専念できたため持っているストライカーとしての能力が発揮できた。12月3日のアレマニア・アーヘン戦ではブンデスリーガに所属した日本人選手初となるハットトリックを達成。これで勢いに乗り、この1か月間で6ゴールを決める荒稼ぎを見せ、早々とブンデスリーガにおける自己最多得点記録を更新する。2007年5月5日のアーヘン戦でゴールを決め、2006-07シーズンのゴール数を11にまで伸ばす。欧州主要リーグでの年間二桁得点の達成は、1998-99シーズンに中田英寿(ペルージャ)が達成して以来の快挙であった。この活躍もあってフランクフルトは1部に残留を決め、この年のサポーターが選ぶMVPにも選出される。
エースとして迎えるはずだった2007-08シーズンだったが、膝の負傷によって出遅れたことに加え、フリードヘルム・フンケル監督との起用法における対立もあり、出場機会が激減。起用されてもハンブルガー時代と同じく左WGで起用され、前半戦終了時点で8試合1得点に終わっていた。
浦和レッズ
2008年1月11日、J1リーグの浦和レッズに移籍し、6年ぶりにJリーグに復帰することが電撃的に決定する。代理人であるトーマス・クロートと話し合いをした上で、浦和とコンタクトがとれるかを確認。浦和側がFWの補強を望んでいたこともあり、移籍金1億8500万円、年俸1億8000万の3年契約という大型契約を結んだ。しかし、フランクフルトで試合出場機会が減ったことによるコンディション不良によって期待されたパフォーマンスを見せられず、2トップを組んだエジミウソンとの相性の悪さもあって最後まで低迷。シーズン終盤にはとうとうレギュラーを剥奪され、シーズン6ゴールと大きく期待を裏切ることに。
2009年は復活に向けて精力的にトレーニングに励み、キャンプ中の練習試合でも好調さが伝えられていたが、いざシーズンに入ると開幕から6試合連続ノーゴール。高原に大きな期待を寄せていたフォルカー・フィンケ新監督も流石にスタメンから外すことを決断する。6月3日のナビスコカップ 磐田戦でシーズン初ゴールを決め、6月27日のヴィッセル神戸戦、7月4日のモンテディオ山形戦では2試合で3ゴールを奪い、ようやく復活と思われたが、チーム状態の悪化もあって勢いは続かず、最終的にはリーグ4点、ナビスコ2点と合計6得点という前シーズンを下回る成績でシーズンを終えた。
契約最終年の2010年シーズンは、フィンケ監督の構想から外れており、出場時間はさらに激減。チームの海外キャンプにも帯同せず、もはやチームに居場所はなくなっていた。
水原三星
2010年7月18日、韓国・Kリーグの水原三星ブルーウィングスに完全移籍。移籍金は約4190万円。登録名は「高原(다카하라)」。8月29日、Kリーグ最大の人気カードとされるFCソウル戦で2ゴールを決める活躍を見せ、チームを勝利に導く。9月4日の第20節江原FC戦でも2試合連続となる決勝ゴールを決めている。水原三星では半年間のみの在籍となったが、シーズン終了後に自身のブログで「俺はこのチームで自分らしさを取り戻す事が出来たと思っています」と振り返っている。
清水エスパルス
2011年、フロント主導でチーム改革を進めるJ1リーグの清水エスパルスから「得点王を狙える大砲」としてオファーを受け、1年契約+1年オプションで完全移籍する。また、盟友小野伸二と同じクラブでプレーすることになる。5月14日、J1第11節神戸戦で移籍後初ゴールを決めれば、5月22日の大宮戦では2ゴールを決める。また、このゴールで4カ国のリーグでキャリア通算100得点を達成。6月18日の第16節では古巣の浦和相手にゴールを決めると、膝スライディングのパフォーマンスをおこなったことから浦和サポーターから大ブーイングを浴びる。これに対し、試合後の取材では「ブーイングされる覚えはない。俺は追い出された側なんで」とコメントした。後半戦はチーム状態の悪化によってゴールから遠のくが、主力としてプレーし続けた。
2012年はアフシン・ゴトビ監督が若手を優先する方針を採ったことから出場機会が激減。小野と共にベンチに座ることが多くなっていた。7月14日の柏レイソル戦でのゴールがシーズン唯一のゴールとなり、12月11日には契約満了により退団が発表される。
東京ヴェルディ
2013年1月、J2リーグの東京ヴェルディ1969に完全移籍で加入。「J1昇格請負人」として期待されての加入となったなか、3月20日のJ2第4節ギラヴァンツ北九州戦で移籍後初ゴールを決める。磐田時代のチームメイトである西紀寛と共にベテランとしてチームを引っ張る。8月11日、第28節V・ファーレン長崎戦でゴールを決め、フランクフルト時代の2006年以来となるシーズン二桁得点を達成。最終的にチームトップとなる11得点を記録し、ストライカーとしての仕事はこなしたが、チームの成績は13位と低迷してしまう。
2014年はクラブが急激な若返りの方針に転換したことから構想外となってしまい、開幕から3試合連続でベンチ外となる。
SC相模原
2014年3月21日、出場機会を求めてJ3リーグのSC相模原に期限付きで移籍。移籍が実現した背景として、クラブの代表を務める望月重良から「またピッチ内で輝くお前が見たい」と口説かれたことを明かしている。4月6日、移籍後初出場となった第5節ブラウブリッツ秋田戦で早速初ゴールを決める。加入後5試合で2ゴール1アシストと結果を残し、若い選手が多いチームを35歳となったベテランはクラブハウスもなく、今まで在籍したチームより環境が整っていない状況で奮闘。
2015年1月19日に完全移籍し、さらに2015年シーズンのキャプテンに選任される。また、プロになってから初めて背番号10を背負う。5月24日、J3第13節Y.S.C.C.横浜戦では自身のキャリアで初となる無回転のフリーキックによる直接ゴールを決め、話題となる。チームは前年を上回る成績を残したものの最終的には4位となり、J2昇格を逃す。高原の加入によって観客動員数も増えていたが、シーズン終了後の11月30日に契約満了による退団が発表される。
沖縄SV
相模原退団後の2015年12月20日に自らが出資し、沖縄SVというクラブを設立する。2016年は沖縄SVでプレーすることになり、選手・監督・オーナーの一人三役をこなすことになる。自らのコネクションを活かして西紀寛、飯尾一慶、森勇介ら元Jリーガーをチームに加え、最下層である沖縄県3部リーグからスタート。見事、設立から1年で北ブロック全勝優勝を果たす。
2017年は前年の全勝優勝という成績が評価され、飛び級で沖縄県1部リーグに昇格。JFL昇格を当面の目標に掲げ、リーグ戦は2位に終わったが、優勝した沖縄国際大学には九州各県リーグ決勝大会の出場権がないため繰り上げで出場して優勝し、九州サッカーリーグ昇格を決める。
2018年は九州リーグで圧倒的な攻撃力を見せるチームの中で、自らも17試合で11ゴールを決める。リーグ戦では2位に終わり、第54回全国社会人サッカー選手権大会では、2回戦でいわきFCにPK戦の末敗れ、全国地域サッカーチャンピオンズリーグ出場権を逃す。
2019年は九州リーグで開幕17連勝して初優勝。8月5日には、学校法人角川ドワンゴ学園が運営するN高等学校との業務提携を発表し、N高に新設されたアスリートクラスのアドバイザーに就任する。初出場となった全国地域サッカーチャンピオンズリーグでは1次リーグで敗れ、JFL昇格を果たせず。
2020年に監督を退き、選手としての活動に重きを置こうとする。しかし、チームが成績不振に陥った2021年に監督に復帰。しかし全国地域サッカーチャンピオンズリーグでは3年連続で1次リーグ敗退。
Jリーグ百年構想クラブに認定された2022年、九州リーグでは開幕から18連勝で首位を独走し、最終的に19勝1分無敗、20試合でわずか5失点の堅守で3回目のリーグ優勝を果たす。全国地域サッカーチャンピオンズリーグでは、鬼門となっていた1次リーグを突破。決勝ラウンドでは1次ラウンドから6試合無失点の堅守で2位に入り、JFL昇格を果たす。自らは監督としてベンチに座ることが多かったが、全試合に途中出場している。
JFL初年度となった2023年も選手兼監督という立場だったが、開幕から1勝4敗と低迷したことで第5節からスタメンで出場し続ける。7月2日の第14節アトレチコ鈴鹿戦でJFL初ゴールを決め、国内カテゴリーのJ1、J2、J3、JFL、地域リーグ、都道府県リーグでの全カテゴリーでの得点を記録。8月31日、2023年シーズンを最後に現役を引退することを表明。11月4日、ソニー仙台FC戦でのゴールが現役最後のゴールとなった。チームは地域リーグ降格の危機に直面する中、VONDS市原とのJFLと地域リーグの入れ替え戦がラストマッチとなる。自身も延長前半10分までプレーし、チームの勝利とJFL残留に貢献。波乱万丈だった現役生活にピリオドを打つ。
日本代表
中学生の頃からU-15日本代表に選出されており、小野伸二、稲本潤一ら後の黄金世代と共に1994年にカタールで開催されたAFC U-17選手権にU-16日本代表として出場し、優勝に貢献。1995年にはエクアドルで開催されたFIFA U-17世界選手権に出場。第2戦のアメリカ戦でチームの大会での唯一のゴールを決めているが、チームはグループリーグ敗退。
1998年にはU-19日本代表に選出され、タレント揃いのチームのエースストライカーを務める。10月にタイで開催されたAFCユース選手権1998では、攻撃陣が13ゴールと爆発したグループリーグでは2ゴールに留まっていたが、重要な一戦となった準決勝のサウジアラビア戦でハットトリックを達成する大活躍で日本をワールドユース本大会出場権獲得をもたらし、通算5得点で大会得点王となる。大会後はシドニーオリンピック出場を目指すU-21日本代表にも選出され、12月の第13回アジア競技大会にも出場している。
1999年にはフィリップ・トルシエが監督に就任したU-20日本代表のメンバーとして4月にナイジェリアで開催されたFIFAワールドユース選手権1999に出場。グループリーグでは初戦のカメルーン戦と第2戦のアメリカ戦で2試合連続ゴールをマーク。準決勝のウルグアイ戦では前半23分に先制ゴールを決め、歴史的な決勝進出に貢献。大会では全試合にスタメンで出場し、準優勝という結果をもたらす。
2000年2月のAFCアジアカップ予選でフル代表に初招集され、2月13日のシンガポール戦にスタメンで出場し日本代表デビューを飾る。2月16日のブルネイ戦では途中出場から代表初ゴールを含む2ゴールを記録。続くマカオ戦でも2試合連続となるゴールを決めている。
2000年9月、U-22日本代表としてシドニーオリンピックに出場。グループリーグ初戦の南アフリカ戦では2ゴールを決める活躍で日本の逆転勝利に貢献する。準々決勝のアメリカ戦でも後半に大会3得点目となる勝ち越しゴールを決めるが、その後チームは同点に追いつかれ、120分間フル出場したもののPK戦で敗れている。
2000年10月にはフル代表のメンバーとしてレバノンで開催されたAFCアジアカップ2000に出場。この大会では西澤明訓との2トップで猛威を振るい、初戦のサウジアラビア戦でゴールを決めれば、第2戦のウズベキスタン戦では代表では初となるハットトリックを達成。準々決勝のイラク戦でもゴールを決めており、大会通算5ゴールを挙げる活躍ぶりで日本の2度目のアジアカップ優勝に貢献する。その後もトルシエ監督から信頼され、代表のFWの柱として期待されたが、2002年4月にエコノミークラス症候群を発症。これにより出場が確実視されていた2002 FIFAワールドカップメンバーから落選することに。
ジーコ監督就任後の日本代表でもFWの主力として選出されるが、2003年6月にフランスで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2003では3試合連続ノーゴールに終わる。8月20日のナイジェリアとの親善試合で2ゴールが代表ではおよそ1年半ぶりのゴールとなった。2004年8月開催のアテネオリンピックではオーバーエイジでの選出が内定していたが、またもや直前にエコノミークラス症候群を発症し欠場となってしまう。2006 FIFAワールドカップアジア最終予選でもそれでもワールドカップ出場決定後のテストマッチでは5試合で3得点を決める。
2006年6月にドイツで開催される2006 FIFAワールドカップの最終メンバーに選出。大会直前におこなわれた開催国ドイツとのテストマッチでは2ゴールを決め、アウェイで強豪相手の引き分けに貢献。この大活躍によってエースストライカーとして大きな期待が寄せられるが、肝心の本大会ではコンディションを落としたことでグループリーグ3試合ノーゴールに終わり、期待を裏切ってしまう。
2007年3月、所属チームでの好調さをイビチャ・オシム監督に買われて代表に復帰。3月24日のペルー戦でゴールを決め、以降エースストライカーの座に返り咲く。2007年7月に東南アジアで開催されたAFCアジアカップ2007では第2戦のUAE戦で2ゴールを決めるなど、通算4ゴールを記録し、大会の得点王となる。
2008年に岡田武史監督が就任してからは当初はメンバーに選出されていたが、所属する浦和レッズで不調に陥ったこともあり、5月27日のパラグアイ戦を最後に招集されることはなかった。
個人成績
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1998 | ジュビロ磐田 | Jリーグ | 20 | 5 | |
| 1999 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 21 | 9 | |
| 2000 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 24 | 10 | |
| 2001 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 13 | 8 | |
| 2001-02 | ボカ・ジュニアーズ | プリメーラ・ディビジオン | 6 | 1 | |
| 2002 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 27 | 26 | |
| 2002-03 | ハンブルガーSV | ブンデスリーガ | 16 | 3 | |
| 2003-04 | ハンブルガーSV | ブンデスリーガ | 29 | 2 | |
| 2004-05 | ハンブルガーSV | ブンデスリーガ | 31 | 7 | |
| 2005-06 | ハンブルガーSV | ブンデスリーガ | 21 | 1 | |
| 2006-07 | フランクフルト | ブンデスリーガ | 30 | 11 | |
| 2007-08 | フランクフルト | ブンデスリーガ | 8 | 1 | |
| 2008 | 浦和レッズ | J1リーグ | 27 | 6 | |
| 2009 | 浦和レッズ | J1リーグ | 32 | 4 | |
| 2010 | 浦和レッズ | J1リーグ | 4 | 0 | |
| 水原三星 | Kリーグ | 12 | 4 | ||
| 2011 | 清水エスパルス | J1リーグ | 28 | 8 | |
| 2012 | 清水エスパルス | J1リーグ | 18 | 1 | |
| 2013 | 東京ヴェルディ | J2リーグ | 41 | 11 | |
| 2014 | 東京ヴェルディ | J2リーグ | 0 | 0 | |
| SC相模原 | J3リーグ | 21 | 5 | ||
| 2015 | SC相模原 | J3リーグ | 33 | 6 | |
| 2016 | 沖縄SV | 沖縄県3部 | 9 | 11 | |
| 2017 | 沖縄SV | 沖縄県1部 | ? | ? | |
| 2018 | 沖縄SV | 九州リーグ | 17 | 11 | |
| 2019 | 沖縄SV | 九州リーグ | 11 | 7 | |
| 2020 | 沖縄SV | 九州リーグ | 4 | 5 | |
| 2021 | 沖縄SV | 九州リーグ | 15 | 5 | |
| 2022 | 沖縄SV | 九州リーグ | 13 | 2 | |
| 2023 | 沖縄SV | JFL | 26 | 2 |
個人タイトル
- Jリーグ最優秀選手賞(2002年)
- Jリーグベストイレブン(2002年)
- J1リーグ得点王(2002年)
- ナビスコカップニューヒーロー賞(1998年)
- AFC U-19選手権 得点王(1998年)
- AFCアジアカップ 得点王(2007年)
引退後
現役を引退した2024年からは監督も同時に辞めて沖縄SVの社長業に専念。クラブの代表として様々なメディアに出演しながら、クラブが取り組んでいる「沖縄コーヒープロジェクト」の一環で、コーヒー農園での作業にも従事(現役時代から練習の合間を縫って取り組んでいた)。そのため、現在はクラブの代表を務めながらコーヒー農家を兼任している。
プレースタイル
左右両足からのシュート、ヘディング、ドリブル突破など、攻撃に必要な要素を兼ね備えた万能型のCF。ただ、1トップよりも2トップの一角やシャドーストライカーとしてプレーすることを得意としていた。一人で局面を打開するタイプというよりは、小野伸二や名波浩のような技巧派のMFとのコンビネーションでゴールを狙う形を得意としていた。
ボール保持の際はトップ下の位置まで下がってポストプレーをこなす。前線で待つタイプではなく、攻撃にアクセントをつけるために下がってボールに触りたがるタイプで、そこからワンタッチでボールをさばいて裏へ動きなおしてゴール前に走り込んだり、もしくは機を見て反転してドリブルを始めて仕掛けることもできる。
一方、周囲とのコンビネーションが確立されていないチームや個人技を重視するようなスタイルのチームでは生きない。中山雅史のような利他的な動きでスペースを作ってくれるタイプとは抜群に相性が良いが、逆にエゴイストなタイプと組むと動きを理解されず、試合から消えてしまう。
人物・エピソード
- 新人時代、ジュビロ磐田で共にプレーしていたドゥンガに言われた「調子に乗るなよ」という言葉を大切にしている。
- 普段は寡黙な性格として知らている。
- MVPを獲得した2002年のJリーグアウォーズの際、中山雅史とタキシードを揃えたことから二人だけ派手な服装となっていた。
- ドイツへ移籍しての1年目のオフのとき、現地に訪れた中山雅史から1mはある巨大なゴシゴシタオルをプレゼントしてもらった。
- 車好きであり、浦和在籍時にベストカーのインタビューで現在の愛車は三菱・トライトン、ドイツ時代は同じく三菱のランエボに乗っていたと語った。
- 小学生の頃の高原について、当時対戦したことのある小野伸二は「小学生の頃からバケモノだった」と振り返っている。
関連動画
関連項目
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- なし
- 1
- 0pt


