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高原直泰Naohiro Takahara, 1979年6月4日 - )とは、日本の元サッカー選手サッカー導者である。
サッカー日本代表現在JFL沖縄SVクラブ代表(CEO)を務める。

ポジションはFW。181cm75kg。利き足は右足。

概要

静岡県三島市出身。「黄金世代」のストライカーとして、小野伸二稲本潤一小笠原満男らと日本サッカーを引っってきた選手であり、1999年FIFAワールドユース選手権優勝メンバーの一人。現役時代は万ストライカーとして知られ、左右両足からのシュート、高さを活かしたヘディング、そして相手をかわすドリブル突破など、攻撃に必要な要素を高いレベルで兼ね備えていた。

1998年ジュビロ磐田プロとしてのキャリアスタートさせ、2001年にはアルゼンチンの名門ボカ・ジュニアーズへレンタル移籍。レンタルバックで磐田に復帰した2002年シーズンJ1リーグでは中山雅史とのコンビゴールを量産。磐田の優勝に大きく貢献し、Jリーグ最優秀選手得点王を獲得。その後、ドイツブンデスリーガハンブルガーSVアイントラハト・フランクフルトに在籍。2007年には11ゴール記録し、ブンデスリーガにおける日本人初の二桁得点を達成している。

日本代表としては各年代でエースストライカーとしてやかな経歴を持ち、フル代表には2000年2月デビュー2002 FIFAワールドカップは直前にエコノミークラス症候群を発症し欠場となったが、2006 FIFAワールドカップには出場。通算57試合23得点

2008年Jリーグに復帰して以降は調子を大きく落とし、様々なクラブを転々とすることになる。2015年12月25日、自身が出資して沖縄SVを立ち上げる。クラブ代表・選手・監督の三役を務め、2022年JFL昇格を果たす。2023年を最後に現役を引退し、クラブオーナーに専念。また、コーヒー農園での作業に従事しており、現在コーヒー農家との兼業状態となっている。

経歴

生い立ち

1979年6月4日静岡県三島市で次男として生まれ、両という家族構成だった。父親日本大学三島高等学校教師ジュビロ磐田コーチとして後に導を受けることになる山本昌邦は教え子にあたる。幼い頃からサッカー興味を持ち、小学1年生となった1985年に地元の三島山田サッカースポーツ少年団に入団し、本格的にサッカーを始める。当時のポジションMFだった。小学生時代から普通中学年代から使用する5号球を使って練習しており、小学5年くらいには両足でシュートが蹴れるようになっていた。

1992年東海大学第一中学校に進学。中学には自宅から新幹線で通っており、勉強新幹線の中でこなしていたという。この頃からFWとしてプレーするようになり、頭を現すようになる。全中学校サッカー大会3連覇を経験。中学ナンバー1ストライカーとして注を浴びるようになり、アンダー世代の日本代表にも選出。当時のU-14の全強化合宿で同世代の小野伸二稲本潤一とも出会っており、後に黄金世代と呼ばれた中の逸材3人の初遭遇となった。

高校サッカーの名門校である清水高校に入団。入学の時期はちょうどFIFA U-17世界選手権出場のためエクアドルに行っていたため不在だった。高校時代は当時の静岡県戦区だったこともあって三年間全大会への出場は果たせなかったが、高校サッカー最強ストライカーという評価を受けていた。特に高校3年生時1997年に開催された全国民体育大会では、小野や南雄太といったタレントいの静岡選抜の一員として出場。小野とのコンビは別次元のような圧倒的な破壊力を見せ、優勝している。

ジュビロ磐田

1998年Jリーグジュビロ磐田に入団。シーズン最初の公式戦となった3月14日ゼロックス・スーパーカップ 鹿島アントラーズ戦に途中出場し、プロデビューを飾る。3月21日Jリーグ開幕戦の京都パープルサンガ戦で後半26分から出場すると、そのわずか3分後にJリーグゴール記録衝撃的なJリーグでビューとなる。その後も途中出場中心ながらもコンスタントに出場機会を与えられる。1998 FIFAワールドカップ期間中に開催されたナビスコカップでは、川口信男とのルーキー同士の2トップを組み、代表組不在のを感じさせない活躍を見せる。7月19日の決勝ジェフ市原戦でゴールを決めるなど、6試合4得点の活躍でタイトル獲得に貢献。大会のニューヒーロー賞にも選出される。9月26日Jリーグ2ndステージ第8節市原戦では、出場わずか23分間ながらもハットトリックを達成。ルーキーイヤーでは公式戦9ゴールを決め、怪物の片鱗を見せている。

1999年は序盤はFIFAワールドユース選手権出場のためチームを離脱。帰後はレギュラーとして起用されるようになり、5月8日1stステージ第12節浦和レッズ戦での2ゴールシーズンゴールとなる。2ndステージではシーズン終盤となった第14節京都戦、第15節ベルマーレ平塚戦で2試合連続での2ゴール記録するなど活躍。リーグ戦では21試合9得点という成績を残し、磐田の2シーズンぶりのリーグ制覇に貢献。

2000年シーズン中山雅史との2トップの補性がさらに向上。J1リーグ第4節セレッソ大阪戦での2ゴールシーズンゴールとなる。8月12日J1リーグ2ndステージ第9節横浜F・マリノス戦で2ゴールを決め、キャリア初となるシーズン二桁得点を達成。11月8日FC東京戦で負傷離脱し、ひと足シーズン終了となる。

2001年J1リーグ1stステージでは開幕からゴールを量産。これまで以上にスケールアップした姿を見せ、7月7日の第13節横浜FM戦ではチームステージ優勝に導く延長Vゴールを決める。

ボカ・ジュニアーズ

2001年8月アルゼンチンの名門ボカ・ジュニアーズに期限付きで移籍。開幕戦でデビューを飾り、9月23日のCAラヌース戦でアルゼンチンリーグでの日本人ゴールを決める。しかし、アルゼンチン特有のしい当たりに苦しみ、カルロスビアン監督の信頼を得ることができず出場機会がなかなか与えられなかった。凱旋帰が期待されたトヨタカップメンバーからも外れてしまう。極めつけに、2002年に入ってアルゼンチン内の経済情勢が急に悪化したことで契約解除となる。結局、初めての海外挑戦は公式戦6試合1得点に終わり、わずか半年で日本へ戻ることになる。

ジュビロ磐田復帰

2002年J1リーグ開幕前にジュビロ磐田に復帰。3月10日1stステージ第2節東京ヴェルディ1969戦で速復帰後初ゴールを決める。ところが、2002 FIFAワールドカップ前にした4月エコノミークラス症候群を発動。これによって戦線離脱を余儀なくされ、復帰したのはワールドカップの中断期間後の7月だった。だが、ここから高原の快進撃が始まる。復帰2戦となった7月10日1stステージ第9節FC東京戦で2ゴールを決めると、ここから7試合連続ゴール記録8月10日ベガルタ仙台戦ではハットトリックを達成している。この年の磐田は名波浩に置いた「N-BOX」という攻撃的なシステムが機し、最後の仕上げをおこなうフィニッシャーとして面いようにゴールが決まっていた。9月22日2ndステージ第5節FC東京戦ではシーズン2度となるハットトリックを含む1試合4ゴールの大活躍を見せる。勢いは最後まで止まらず、最後の5試合で6ゴールを稼ぎ、キャリアハイを大幅に更新するリーグ戦26ゴール記録。当時の史上最年少でのJリーグ得点王の座にき、さらに磐田のリーグ全制覇に大きく貢献したことでこの年のJリーグ最優秀選手賞を受賞。もはや内では向かうところ敵なしという状況だった。

ハンブルガーSV

2003年1月1日ドイツブンデスリーガハンブルガーSVへの全移籍が決まり、再び海外移籍に挑戦することとなる。20万ユーロ(約3200万円)。加入1試合でスタメンで出場すると、移籍3戦となった2月9日ブンデスリーガ第20節バイエルン・ミュンヘン戦で1点ビハインドで迎えた試合終了間際に右サイドのメフディ・マハダビキアクロスをヘディングで合わせて移籍後初ゴール記録。このゴールは当時連続失点記録継続していたオリバー・カーンの大記録を802分で止める値千金のゴールだった。当時、このゴールドイツで大きく報じられ、現地ファンの間でも話題となった。移籍1年は16試合3得点で終える。ちなみに1年の3ゴールは全てヘディングによるものだった。

2003-04シーズンも開幕からスタメンとして起用されるが、当時のハンブルガーにはベルナルド・ロメロセルゲイバルレスといったFWが在籍していたこともあり、本職ではない左ウイングでの起用が多くなっていた。そのため、ゴール数が思ったように伸びず、ストライカーとしては不本意な日々となっていた。徐々にスタメンから外れることも多くなり、2年は29試合2得点という不本意な成績に終わる。

2004-05シーズン開幕当初は序列が低下し、一時はリザブリーグでプレーする厳しい立場に置かれてしまう。しかしチームの不振を受けて監督トーマスドルに交代すると、スタメンに抜された第6節のヘルタ・ベルリン戦で2ゴールを決める大活躍を見せる。これによってレギュラー返り咲きを果たし、本職のFWで起用されるようになる。チームも一時の不振から立ち直り、31試合7ゴール2アシスト記録ゴール数はバレバレスに次ぐチーム2位の成績だった。この頃から、現地サポーターから「スシボンバー」という愛称で呼ばれるようになり、日本にも知れ渡っていく。

2005-06シーズンは開幕からレギュラー争いに敗れ、序列が低下。しかもチームが好調だったこともあり、前線の構成が固定されてしまう。結局、シーズンを通して1ゴールのみに終わり、21試合に出場しスタメンで起用されたのはわずか6試合のみだった。シーズン終了後、出場機会をめて移籍を希望する。

フランクフルト

2006年5月ドイツブンデスリーガアイントラハト・フランクフルトに3年契約全移籍。移籍金は150ユーロスキンヘッドからを伸ばしてイメチェンも図り、新地では1トップもしくは2トップの一として起用され、相手ペナルティーエリア内の狭い地域で勝負することを許され、ゴールだけに専念できたため持っているストライカーとしての力が発揮できた。12月3日アレマニア・アーヘン戦ではブンデスリーガに所属した日本人選手初となるハットトリックを達成。これで勢いに乗り、この1か間で6ゴールを決める荒稼ぎを見せ、々とブンデスリーガにおける自己最多得点記録更新する。2007年5月5日のアーヘン戦でゴールを決め、2006-07シーズンゴール数を11にまで伸ばす。欧州リーグでの年間二桁得点の達成は、1998-99シーズン中田英寿ペルージャ)が達成して以来の快挙であった。この活躍もあってフランクフルトは1部に残留を決め、この年のサポーターが選ぶMVPにも選出される。

エースとして迎えるはずだった2007-08シーズンだったが、膝の負傷によって出遅れたことに加え、フリードヘルム・フンケル監督との起用法における対立もあり、出場機会が減。起用されてもハンブルガー時代と同じく左WGで起用され、前半戦終了時点で8試合1得点に終わっていた。

浦和レッズ

2008年1月11日J1リーグ浦和レッズに移籍し、6年ぶりにJリーグに復帰することが電撃的に決定する。代理人であるトーマスクロートと話し合いをした上で、浦和コンタクトがとれるかを確認。浦和側がFWの補強を望んでいたこともあり、移籍金1億8500万円、年俸1億8000万の3年契約という大契約を結んだ。しかし、フランクフルト試合出場機会が減ったことによるコンディション不良によって期待されたパフォーマンスを見せられず、2トップを組んだエジウソンとの相性の悪さもあって最後まで低迷。シーズン終盤にはとうとうレギュラーを剥奪され、シーズン6ゴールと大きく期待を裏切ることに。

2009年復活に向けて精力的にトレーニングに励み、キャンプ中の練習試合でも好調さが伝えられていたが、いざシーズンに入ると開幕から6試合連続ノーゴール高原に大きな期待を寄せていたフォルカー・フィンケ新監督流石にスタメンから外すことを決断する。6月3日ナビスコカップ 磐田戦でシーズンゴールを決め、6月27日ヴィッセル神戸戦、7月4日モンテディオ山形戦では2試合で3ゴールを奪い、ようやく復活と思われたが、チーム状態の悪化もあって勢いは続かず、最終的にはリーグ4点、ナビスコ2点と合計6得点という前シーズンを下回る成績でシーズンを終えた。

契約最終年の2010年シーズンは、フィン監督の構想から外れており、出場時間はさらに減。チーム海外キャンプにも帯同せず、もはやチームに居場所はなくなっていた。

水原三星

2010年7月18日韓国Kリーグ水原ブルーウィングスに全移籍。移籍金は約4190万円。登録名は「高原(다카하라)」。8月29日Kリーグ最大の人気カードとされるFCソウル戦で2ゴールを決める活躍を見せ、チーム勝利に導く。9月4日の第20節江原FC戦でも2試合連続となる決勝ゴールを決めている。水原では半年間のみの在籍となったが、シーズン終了後に自身のブログで「はこのチームで自分らしさを取り戻す事が出来たと思っています」と振り返っている。

清水エスパルス

2011年フロント導でチーム改革を進めるJ1リーグ清水エスパルスから「得点王を狙える大砲」としてオファーを受け、1年契約+1年オプション全移籍する。また、盟友小野伸二と同じクラブプレーすることになる。5月14日J1第11節神戸戦で移籍後初ゴールを決めれば、5月22日大宮戦では2ゴールを決める。また、このゴールで4カリーグでキャリア通算100得点を達成。6月18日の第16節では古巣の浦和相手にゴールを決めると、膝スライディングのパフォーマンスをおこなったことから浦和サポーターから大ブーイングを浴びる。これに対し、試合後の取材では「ブーイングされる覚えはない。は追い出された側なんで」とコメントした。後半戦はチーム状態の悪化によってゴールから遠のくが、力としてプレーし続けた。

2012年はアフシンゴト監督が若手を優先する方針を採ったことから出場機会が減。小野と共にベンチに座ることが多くなっていた。7月14日柏レイソル戦でのゴールシーズン一のゴールとなり、12月11日には契約満了により退団が発表される。

東京ヴェルディ

2013年1月J2リーグ東京ヴェルディ1969全移籍で加入。「J1昇格請負人」として期待されての加入となったなか、3月20日J2第4節ギラヴァンツ北九州戦で移籍後初ゴールを決める。磐田時代のチームメイトである西紀寛と共にベテランとしてチームを引っる。8月11日、第28節V・ファーレン長崎戦でゴールを決め、フランクフルト時代の2006年以来となるシーズン二桁得点を達成。最終的にチームトップとなる11得点記録し、ストライカーとしての仕事はこなしたが、チームの成績は13位と低迷してしまう。

2014年クラブが急若返りの方針に転換したことから構想外となってしまい、開幕から3試合連続でベンチ外となる。

SC相模原

2014年3月21日、出場機会をめてJ3リーグSC相模原に期限付きで移籍。移籍が実現した背景として、クラブの代表を務める望月重良から「またピッチ内でお前が見たい」と口説かれたことを明かしている。4月6日、移籍後初出場となった第5節ブラウブリッツ秋田戦で速初ゴールを決める。加入後5試合で2ゴール1アシストと結果を残し、若い選手が多いチームを35歳となったベテランクラブハウスもなく、今まで在籍したチームより環境が整っていない状況で奮闘。

2015年1月19日全移籍し、さらに2015年シーズンキャプテンに選任される。また、プロになってから初めて背番号10を背負う。5月24日J3第13節Y.S.C.C.横浜戦では自身のキャリアで初となる回転フリーキックによる直接ゴールを決め、話題となる。チームは前年を上回る成績を残したものの最終的には4位となり、J2昇格を逃す。高原の加入によって観客動員数も増えていたが、シーズン終了後の11月30日契約満了による退団が発表される。

沖縄SV

相模原退団後の2015年12月20日に自らが出資し、沖縄SVというクラブを設立する。2016年沖縄SVプレーすることになり、選手・監督オーナーの一人三役をこなすことになる。自らのコネクションを活かして西紀寛、飯尾一慶、勇介ら元Jリーガーをチームに加え、最下層である沖縄県3部リーグからスタート。見事、設立から1年で北ブロック全勝優勝を果たす。

2017年は前年の全勝優勝という成績が評価され、飛び級沖縄県1部リーグに昇格。JFL昇格を当面の標に掲げ、リーグ戦は2位に終わったが、優勝した沖縄大学には九州各県リーグ決勝大会の出場権がないため繰り上げで出場して優勝し、九州サッカーリーグ昇格を決める。

2018年九州リーグで圧倒的な攻撃力を見せるチームの中で、自らも17試合で11ゴールを決める。リーグ戦では2位に終わり、第54回全社会人サッカー選手権大会では、2回戦でいわきFCPK戦の末敗れ、全国地域サッカーチャンピオンズリーグ出場権を逃す。

2019年九州リーグで開幕17連勝して初優勝8月5日には、学校法人角川ドワンゴ学園運営するN高等学校との業務提携を発表し、N高に新設されたアスリートクラスのアドバイザーに就任する。初出場となった全国地域サッカーチャンピオンズリーグでは1次リーグで敗れ、JFL昇格を果たせず。

2020年監督を退き、選手としての活動に重きを置こうとする。しかし、チームが成績不振に陥った2021年監督に復帰。しかし全国地域サッカーチャンピオンズリーグでは3年連続で1次リーグ敗退。

Jリーグ百年構想クラブ認定された2022年九州リーグでは開幕から18連勝で首位を独走し、最終的に19勝1分敗、20試合でわずか5失点の堅守で3回リーグ優勝を果たす。全国地域サッカーチャンピオンズリーグでは、門となっていた1次リーグを突破。決勝ラウンドでは1次ラウンドから6試合失点の堅守で2位に入り、JFL昇格を果たす。自らは監督としてベンチに座ることが多かったが、全試合に途中出場している。

JFL初年度となった2023年も選手兼監督という立場だったが、開幕から1勝4敗と低迷したことで第5節からスタメンで出場し続ける。7月2日の第14節アトレチコ鈴鹿戦でJFLゴールを決め、カテゴリーJ1J2J3JFL地域リーグ都道府県リーグでの全カテゴリーでの得点記録8月31日2023年シーズンを最後に現役を引退することを表明。11月4日ソニー仙台FC戦でのゴールが現役最後のゴールとなった。チーム地域リーグ降格の危機に直面する中、VONDS市原とのJFL地域リーグの入れ替え戦がラストマッチとなる。自身も延長前半10分までプレーし、チーム勝利JFL残留に貢献。波乱万丈だった現役生活ピリオドを打つ。

日本代表

中学生の頃からU-15日本代表に選出されており、小野伸二稲本潤一ら後の黄金世代と共に1994年カタールで開催されたAFC U-17選手権にU-16日本代表として出場し、優勝に貢献。1995年にはエクアドルで開催されたFIFA U-17世界選手権に出場。第2戦のアメリカ戦でチームの大会での一のゴールを決めているが、チームグループリーグ敗退。

1998年にはU-19日本代表に選出され、タレントいのチームエースストライカーを務める。10月タイで開催されたAFCユース選手権1998では、攻撃が13ゴール爆発したグループリーグでは2ゴールに留まっていたが、重要な一戦となった準決勝のサウジアラビア戦でハットトリックを達成する大活躍で日本ワールドユース本大会出場権獲得をもたらし、通算5得点で大会得点王となる。大会後はシドニーオリンピック出場をU-21日本代表にも選出され、12月の第13回アジア競技大会にも出場している。

1999年にはフィリップ・トルシエ監督に就任したU-20日本代表メンバーとして4月ナイジェリアで開催されたFIFAワールドユース選手権1999に出場。グループリーグでは初戦のカメルーン戦と第2戦のアメリカ戦で2試合連続ゴールマーク。準決勝のウルグアイ戦では前半23分に先制ゴールを決め、歴史的な決勝進出に貢献。大会では全試合にスタメンで出場し、準優勝という結果をもたらす。

2000年2月AFCアジアカップ予選でフル代表に初招集され、2月13日シンガポール戦にスタメンで出場し日本代表デビューを飾る。2月16日ブルネイ戦では途中出場から代表初ゴールを含む2ゴール記録。続くマカオ戦でも2試合連続となるゴールを決めている。

2000年9月U-22日本代表としてシドニーオリンピックに出場。グループリーグ初戦の南アフリカ戦では2ゴールを決める活躍で日本逆転勝利に貢献する。準々決勝のアメリカ戦でも後半に大会3得点となる勝ち越しゴールを決めるが、その後チームは同点に追いつかれ、120分間フル出場したもののPK戦で敗れている。

2000年10月にはフル代表のメンバーとしてレバノンで開催されたAFCアジアカップ2000に出場。この大会では西澤明訓との2トップで猛威を振るい、初戦のサウジアラビア戦でゴールを決めれば、第2戦のウズベキスタン戦では代表では初となるハットトリックを達成。準々決勝のイラク戦でもゴールを決めており、大会通算5ゴールを挙げる活躍ぶりで日本の2度アジアカップ優勝に貢献する。その後もトルシエ監督から信頼され、代表のFWの柱として期待されたが、2002年4月エコノミークラス症候群を発症。これにより出場が確実視されていた2002 FIFAワールドカップメンバーから落選することに。

ジーコ監督就任後の日本代表でもFWの力として選出されるが、2003年6月フランスで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2003では3試合連続ノーゴールに終わる。8月20日ナイジェリアとの試合で2ゴールが代表ではおよそ1年半ぶりのゴールとなった。2004年8月開催のアテネオリンピックではオーバーエイジでの選出が内定していたが、またもや直前にエコノミークラス症候群を発症し欠場となってしまう。2006 FIFAワールドカップアジア最終予選でもそれでもワールドカップ出場決定後のテストマッチでは5試合で3得点を決める。

2006年6月ドイツで開催される2006 FIFAワールドカップの最終メンバーに選出。大会直前におこなわれた開催ドイツとのテストマッチでは2ゴールを決め、アウェイで強相手の引き分けに貢献。この大活躍によってエースストライカーとして大きな期待が寄せられるが、肝心の本大会ではコンディションを落としたことでグループリーグ3試合ノーゴールに終わり、期待を裏切ってしまう。

2007年3月、所属チームでの好調さをイビチャ・オシム監督に買われて代表に復帰。3月24日ペルー戦でゴールを決め、以降エースストライカーの座に返り咲く。2007年7月東南アジアで開催されたAFCアジアカップ2007では第2戦のUAE戦で2ゴールを決めるなど、通算4ゴール記録し、大会の得点王となる。

2008年岡田武史監督が就任してからは当初はメンバーに選出されていたが、所属する浦和レッズで不調に陥ったこともあり、5月27日パラグアイ戦を最後に招集されることはなかった。

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
1998 ジュビロ磐田 Jリーグ 20 5
1999 ジュビロ磐田 J1リーグ 21 9
2000 ジュビロ磐田 J1リーグ 24 10
2001 ジュビロ磐田 J1リーグ 13 8
2001-02 ボカ・ジュニアーズ プリメーラ・ディビジオン 6 1
2002 ジュビロ磐田 J1リーグ 27 26
2002-03 ハンブルガーSV ブンデスリーガ 16 3
2003-04 ハンブルガーSV ブンデスリーガ 29 2
2004-05 ハンブルガーSV ブンデスリーガ 31 7
2005-06 ハンブルガーSV ブンデスリーガ 21 1
2006-07 フランクフルト ブンデスリーガ 30 11
2007-08 フランクフルト ブンデスリーガ 8 1
2008 浦和レッズ J1リーグ 27 6
2009 浦和レッズ J1リーグ 32 4
2010 浦和レッズ J1リーグ 4 0
水原 Kリーグ 12 4
2011 清水エスパルス J1リーグ 28 8
2012 清水エスパルス J1リーグ 18 1
2013 東京ヴェルディ J2リーグ 41 11
2014 東京ヴェルディ J2リーグ 0 0
SC相模原 J3リーグ 21 5
2015 SC相模原 J3リーグ 33 6
2016 沖縄SV 沖縄県3部 9 11
2017 沖縄SV 沖縄県1部
2018 沖縄SV 九州リーグ 17 11
2019 沖縄SV 九州リーグ 11 7
2020 沖縄SV 九州リーグ 4 5
2021 沖縄SV 九州リーグ 15 5
2022 沖縄SV 九州リーグ 13 2
2023 沖縄SV JFL 26 2

個人タイトル

引退後

現役を引退した2024年からは監督も同時に辞めて沖縄SV社長業に専念。クラブの代表として様々なメディアに出演しながら、クラブが取り組んでいる「沖縄コーヒープロジェクト」の一環で、コーヒー農園での作業にも従事(現役時代から練習の合間を縫って取り組んでいた)。そのため、現在クラブの代表を務めながらコーヒー農家を兼任している。

プレースタイル

左右両足からのシュート、ヘディング、ドリブル突破など、攻撃に必要な要素を兼ね備えた万CF。ただ、1トップよりも2トップの一シャドーストライカーとしてプレーすることを得意としていた。一人で局面を打開するタイプというよりは、小野伸二名波浩のような技巧MFとのコンビネーションゴールを狙う形を得意としていた。

ボール保持の際はトップ下の位置まで下がってポストプレーをこなす。前線で待つタイプではなく、攻撃にアクセントをつけるために下がってボールに触りたがるタイプで、そこからワンタッチボールをさばいて裏へ動きなおしてゴール前に走り込んだり、もしくは機を見て反転してドリブルを始めて仕掛けることもできる。

一方、周囲とのコンビネーション確立されていないチームや個人技を重視するようなスタイルチームでは生きない。中山雅史のような利他的な動きでスペースを作ってくれるタイプとは抜群に相性が良いが、逆にエゴイストなタイプと組むと動きを理解されず、試合から消えてしまう。

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高原直泰

1 ななしのよっしん
2009/10/29(木) 15:51:13 ID: Yy7C8ZtoOJ
いい加減、書き足そうかな・・・
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2 ななしのよっしん
2010/08/29(日) 17:43:30 ID: eUddWPoidV
>>sm11918847exit_nicovideo
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3 ななしのよっしん
2010/09/10(金) 09:59:12 ID: sBNiSALhFs
高 直泰(クーチータイ)
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4 ななしのよっしん
2013/01/14(月) 13:39:12 ID: oGQ7QbC2xY
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5 ななしのよっしん
2022/12/12(月) 15:57:37 ID: XNxbK1etHy
タークハルとは顔が似てるだけなの?吉田麻也ブスケツみたいな?
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