高山右近(たかやま うこん)(1552~1615)とは、日本の戦国時代に活躍したキリシタン大名である。
出生と父・高山友照
諱は重友(しげとも)・友祥(ともなが)・長房(ながふさ)など、通称は彦五郎。
右近大夫、右近允、右近助などを称したことから、右近の名で知られる。
よって、本記事でも右近の名で記述する。
出生と父・高山友照
彼の名で最も通りがいいのは「高山右近」であろう。本記事でも右近の名で記述する。
摂津の生まれで父は高山友照、母の名前は不肖だが洗礼名マリアとされている。
父・友照が松永久秀の被官として大和に居を構えていたころ、キリシタンに感銘を受けて、彼と家族全員が洗礼を受け、キリシタンとなった(友照の洗礼名はダリヨとされる)。
右近は洗礼名「ジュスト」を授けられた。これは「Just=Justis=正義の人」を意味している。
この時、右近12歳。
その後、松永久秀の主である三好長慶はストレスがマッハになり死んでしまったため、三好政権が瓦解。近畿は混沌とした情勢になってしまい、すったもんだの末で足利義昭を奉じた織田信長が台頭。
高山家は高槻城主である和田惟政の下に付くことになった……が、その惟政はすぐに戦死してしまい、後を子である惟長が継いだが、友照は荒木村重と共謀してこれを追放。
こうして友照は高槻城主として君臨することになった。
この追放劇の際、右近は首の半ばまで斬られるという重傷を負う。
誰がどう見ても到底助からないと思われていたのだが、某生きている英霊の如く、奇跡的に回復する。
これ以降、より一層キリスト教に傾注するようになったという。
その後高山家は荒木村重の支配下に入り、およそ2万石を与えられた。
なお、この共謀は摂津国内の事件であり、荒木村重が織田信長から摂津の仕置きを任されていた関係上、何のお咎めもなかった。
家督継承
右近は父友照から家督を相続し、キリシタン大名として一歩を踏み出そうとした……途端に、荒木村重の謀反が勃発。
実は右近は事前に子の謀反を知っており、子を人質に出して村重を安心させた上で説得するが、不首尾に終わってしまう。
さらに織田信長からも圧力があり、
と結構な板挟みにあってしまう(ちなみに父は徹底抗戦派)。
さんざん悩んだ右近はオルガンティノ神父に助言を求めると「信長に従うのが筋でっせ。でもよーく考えなはれや(意訳)」と諭される。
さらに従兄弟である中川清秀が荒木村重に反旗を翻すとそれに影響されたのか、彼も織田信長への臣従を決意する(この際、自ら城主を辞めて単身降伏したとも謂われる)。
結果的にはこれが信長に認められ、荒木村重の謀反鎮圧後は改めて高槻城主に任じられる。禄も2万石から4万石へ倍増するという厚遇を受けた(ちなみに村重に人質に出した子も無事だった)。
ところがどっこい、今度は本能寺の変ですよ、いい加減にキリシタン活動させてくださいよムッハァー!
……と右近が思ったかはさておき、今度は秀吉に味方して山崎の戦いでは先鋒として奮戦。
ここでも功績を認められ、清州会議の後にまたもや加増となった。
キリシタン大名として
その後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の元に天下が安定すると、彼は戦国大名として、キリシタンとして、茶道の達者として精力的に活動を始める。
彼の影響を受けてキリシタンになった者は多く、大名クラスの人間も洗礼を受けている。また、前田利家などもキリシタンこそならなかったが、右近のおかげでキリシタンには寛容になった。彼の領内でもキリシタンになるものが続出し、そのため神社仏閣が衰退し、彼によって迫害を受けたとされる記録も残っている。
が、実際は神社仏閣に対する所領安堵状も残っているので、右近自身が迫害をけしかけたわけではなさそうである。
しかし豊臣秀吉により「お前ら(キリシタン)人身売買してるじゃねーか!今後伴天連追放な!」という無茶振りが来ると、彼は地位も財産も投げ出してキリシタンとして生きる道を選んだ。
当初はいろんな知己の所を転々としていたが、やがて前田利家に1万5千石で客将として迎えられ、そこで意外とあちこちで活躍しながら余生を過ごしていた。
ちなみに小田原征伐にもちゃっかり前田軍として参戦しており、かねてより悪友の仲の良かった細川忠興と蒲生氏郷が陣中に遊びに来た際には、当時は珍しい牛肉を鍋にして振る舞ったという。
マニラ追放
しかし徳川家康の治世に入り、岡本大八事件を引き金にしてキリシタン追放令が改めて出される。
この追放令で多くのキリシタン武士は大坂城に集まり、のちの大坂の陣に発展して行く。だが右近は従容として追放令を受け入れ、内藤如安と共に船でマニラへと流された。
近日出舟仕候
(近々船が出る事となりました)
仍此呈一軸致進上候
(別れの形見に[掛物]一軸を差し上げます)
誠誰ニカト存候志耳
(誰に差し上げようかと思いましたが[貴方こそふさわしいでしょう]、ほんの気持ちです)帰ラシト思ヘハ兼テ
梓弓ナキ数ニイル
名ヲソ留ル
(一度放たれた矢のように
もう再びこの地に戻る事はないだろう
死を覚悟した者の名を永久に残し書き留めよう)※楠木正行の辞世の句彼ハ向戦場命堕
名ヲ天下二挙是ハ
(楠木正行は戦場にて命を落とし、その名を天下に知らしめました)
南海二趣命懸天名ヲ
流如何六十年之
苦惣別申候此中之御
礼ハ中々不申上候々々
(私は南の海に旅立ち、命を天に任せて名を流すのみです)
(この六十年の人生の労苦を思い、これにてお別れといたします)
(貴方の心づくしへの御礼は、言葉には到底尽くせません)
恐惶敬白
(謹んで申し上げます)
南坊
九月十日 等伯
(※南坊等伯=高山右近の号)
この時、右近の行動は多くのバテレンやキリシタンにより賞賛を受けており、各国にその情報が伝えられていた。
右近の一行はマニラ提督直々の大歓迎を受けた。港では祝砲で迎えられ、港からマニラ提督府へ儀仗兵に囲まれて進む右近は、まるで凱旋将軍のようだったと伝えられる。
しかし右近自身はすでに病を得ており、マニラに辿り着いて間もなく没した。
死後、彼の家族は日本へ戻ることを許されている。
死後
死後はその徳を称えられ、カトリック教会では高山右近の像や壁画、ステンドグラスが制作されている。
日本では大阪カテドラル聖マリア大聖堂、カトリック高槻教会高山右近記念聖堂などにて、面影を偲ぶ事が出来る。
また海外においても、スペイン・バルセロナの聖イグナチオ洞窟教会には、「JUSTO UCANDONO(ジュスト右近殿)」と記された高山右近のモザイク壁画が作られている。
没後400年経った2015年、日本のカトリック中央協議会により、ローマ教皇庁に対して高山右近の福者認定が申請された。ちなみに福者というのは、カトリックにおいて死後にその徳の高さ、聖性を認められた信者に与えられる称号である(最上位は聖者)。
その後教皇庁による調査が行われ、翌2016年、教皇フランシスコにより「地位と国を捨てて信仰を貫いた殉教者」として福者と認定された。列福式は更に翌2017年の2月7日、大阪城ホールにて執り行われた。
高山右近を演じた俳優
戦国時代が舞台の大河ドラマに時々登場するが、若いイケメン俳優が演じるケースが多い。
関連項目
- 高山友照(父)
- 和田惟政
- 荒木村重
- 中川清秀
- 織田信長
- 細川忠興
- 前田利家
- 豊臣秀吉
- 徳川家康
- 内藤如安
- ルイス・フロイス
- キリシタン(切支丹)
- バテレン(伴天連)
- キリスト教
- フィリピン
- 戦国時代の人物の一覧
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