高師宣(?~?)とは、戦国時代の武将である。
概要
足利氏に仕えた、高階姓高一族の末裔。幕府奉公衆を務めていた。なお、『足利季世記』のコピペで永禄の変で死んだと書かれがちだが、実際は以後も生き残っており、足利義栄に仕えて以後の経歴は不明。
ここまでのあらすじ
観応の擾乱で壊滅的な被害を被った高一族だったが、高師泰の養子・高師秀の系統と、足利直義方についた高師秋の系統が生き残っていた。
このうち、系図を参考にすると、高師秀の尾張守家の系統が高一族の嫡流として、高師宣まで続いたことになる。
室町時代中期の高一族の当主は、高師為である。なお、そこに至るまでにもはやだれが当主だったかもよくわからないレベルで、高一族は凋落していた。文安年中御番帳に記された高次郎は、おそらく永享2年(1430年)の「山城醍醐寺文書」に登場する、高尾張次郎の息子である。息子の高次郎が系図から高師為とされるのだが、父親の名前は一次史料から高師光と推定されており、『尊卑分脈』の系図とは全く合わない。
文明5年(1473年)に高尾張守跡、つまり息子と思われる高師繁が、足利義尚から太刀を受け取っている。さらに足利義教の33回忌には高尾張守が寄進しているため、別に高師為が死んだわけでもないようだ。なお、『政所賦銘引付』によると、文明6年(1474年)に高尾張守師為の借銭の未返済が山内首藤貞通から幕府に訴えられており、応仁の乱の混乱もあり、少しずつ高一族も苦境に陥りつつあった。
なお、高師為は、長命だったようで、『長門小早川家文書』によると、明応元年(1492年)に遠い親戚の彦部次郎左衛門尉の近江入国を祝っている。
ただし、その息子の高師繁に至っては、もはや何も分からず、いきなりこの人物に飛んでしまう。
最期の高一族・高師宣
永正6年(1509年)5月21日に、『伊勢家書』によれば、吉良邸で高孫次郎が犬追物を取り仕切った。この高孫次郎は『下津屋信秀他二十九名連名書』を見た限りでは、奉公衆の四番は足利義稙を裏切りませんという書状を出しており、そこから師宣という諱であることも分かる。
実はこの高師宣という名前は『尊卑分脈』にも記載があり、高師繁の甥で養子入りした人物であるため、おそらくそうだったのだろう(いや、わからないけど)。なお、『守光公記』によると、永正14年(1517年)10月2日の足利義稙の湯治に、走衆・高孫二郎が加わっている。
しかし、その後足利義晴についたようで、『室町幕府申次覚書』によると、永正17年(1520年)に刑部大輔に任じられているが、この任官は、遠い親戚の彦部晴直の伊豆守任官と同日であり、戦国時代に至っても高一族嫡流の当主として分家と括られる存在だったことがわかる。
なお、『後法成寺関白日記』の天文5年(1536年)1月20日の条と、『大館常興日記』の天文9年(1540年)7月7日の条から、越後守に転じたことがわかる。
続いて、天文11年(1542年)1月8日の『言継卿記』、『室町幕府申次覚書』の天文15年(1546年)8月4日の足利義輝の叙爵祝いの場面に高和泉守が登場し、さらに和泉守に転じたことがわかる。
天文22年(1553年)1月11日には奉公衆・高伊予守が登場し、さらに伊予守に転じた。つまり、刑部大輔→越後守→和泉守→伊予守と、割とコロコロと官途を変える人物だったようだ。
以後『足利季世記』のコピペで永禄の変で死んだと書かれがちだが、一次史料の『言継卿記』等の犠牲者一覧にいないように、これは間違いである。実際は足利義栄方の、おそらく大館輝光の記した『永禄十一年日記』に高師宣が登場し、彼は足利義栄に転身したのである。
ただし、これが彼の登場する最後の出番であり、以後いわゆる鞆幕府にいる高五郎次郎も、どのような系譜の存在かは全くわからない。
関連項目
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