高師秋(?~?)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
概要
高師行の息子で高師冬の兄にあたり、高師直、高師泰らは従兄弟にあたる。上杉憲房の娘を妻とし、関東廂番のひとりとして足利直義の補佐をするなど、後々高一族の中では数少ない足利直義派になる伏線が建武政権のころから貼られていた。
足利尊氏が建武政権から離反すると、これに従い、息子である高師親が高師兼とともに三河に着陣しているなど、親子ともども各地を転戦していったようだ。
1338年から1342年まで伊勢守護に任じられ、北畠氏が抑えた伊勢方面の攻略を任された。ところがこれに苦戦した挙句、高重茂のように内政能力でカバーできたわけでもなく、仁木義長に守護が交替された後はほとんど幕政からは排除されていたようだ。そこで活躍華々しい高師直への対抗意識から足利直義派の武将になることとなる。
しかし観応の擾乱でも直義派の武将として列挙される程度でほとんど何かやったとも言えず、息子の高師親、高師有、高師義の3人もこれに協力するが、はっきり言ってその後の動向は全く不明。いつ死んだかもわからないそんな武将であった。
しかしそんな高師秋であるが文学作品の中には様々な記録が残っている。太平記には菊亭実尹の妻に横恋慕した話が残っているが、やはり忘れてはならないのが足利尊氏の祖父、足利家時の置文についてである。
家時が自害する際、源義家からちょうど七代目に当たる自分が天下をとれないので三代後の子孫、つまり足利高義、足利尊氏、足利直義らの世代に天下をとらせたいという文を残したといういわくつきの文書である。これがどうも実在することは、高師秋が足利直義に見せたという文書が残っているのではあるが、果たしてそのことが双方にどのような影響をもたらしたのかはっきりしたことはわからない…。
この高師秋の子孫はそれなりに優秀だったらしく、子の高師有は関東執事を、孫の高師英は山城、佐渡守護を務めている。しかし師英の佐渡守護就任が高一族最後の守護職であった。師英もまた例の置文を足利義満に見せることで自身の権威を保証してもらったが、彼の孫の高師長の代には小領主程度に落ちぶれるまで高一族の権勢は衰えていったのである。
以後高一族は高師泰の子孫と高師英の子孫が残っていき、奉公衆として代々足利将軍家に仕えていく。彼らは足利義昭のころにもその姿を見ることができる。
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