鳥羽天皇単語

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鳥羽天皇とは、(1103~1156、在位:1107~1123)とは、日本の第74代天皇である。諱は宗仁。

概要

天皇の第一皇子で、崇徳天皇後白河天皇近衛天皇

難産だったために、生まれてすぐに藤原苡子を失い、5歳の時に天皇も崩御したため、幼くして天皇となる。当然ながら実権はく、政務は祖白河院が務めた。天皇に仕えた讃岐長子は、自身の日記讃岐日記」で、幼い鳥羽天皇が「ふれふれ小雪」と口ずさんだという記録があり、吉田兼好の随筆「徒然」の181段にも記されている。これが現在に残る日本最古の童謡と伝えられている。後白河天皇今様好きとして有名だが、その歌の才譲りなのかもしれない。

成人した鳥羽天皇は、藤原子(待賢門院)を中宮に迎えるが、この入内は彼の生涯に暗いを落とすこととなる。白河天皇の記事にも述べているが、待賢門院子は白河院と既に関係を持っていたとも言われており、崇徳天皇の本当の父親白河院だったという説が流布した。寝取られというレベルではない。極端な話、鳥羽天皇は祖のお手つきを中宮に押しつけられたのである。そして最終的には、白河院の圧により、彼は自分の子なのかどうかも疑わしい崇徳天皇に譲位せざるを得なくなってしまう。彼にとって、これほど屈辱的な事はかったであろう。

その白河院が崩御すると、鳥羽院もまた祖と同様、治の君として院政を始めることとなる。白河院が失脚させた摂関藤原忠実を朝廷に呼び戻し、その子の藤原忠通藤原頼長兄弟政治の表舞台に躍り出た。それと同時に、院近臣藤原成を重用したり、白河院以上に伊勢平氏忠盛・平清盛子)を優遇するなど、摂関から新まで均衡の取れた起用を行った。

一方、鳥羽院は待賢門院を退け、藤原得子(美福門院)を寵愛し彼女が生んだ体仁王(近衛天皇)をわずか3歳で即位させ、崇徳天皇を強引に退位させた。皮にも、その性急なやり方は、自分が祖白河院に受けた仕打ちとよく似ていた。しかし、近衛天皇は眼病が原因で、17歳若さで急逝してしまう。近衛天皇が、藤原頼長から呪詛を掛けられたという噂が上がると、怒った鳥羽院は頼長を失脚させる。

思いがけない近衛天皇すぎる死に、次期天皇にするか鳥羽院は思い悩んだ。最も血縁的に近い実子の雅仁親王は、今様いとまで呼ばれる暗愚な人物と思っていたため、他の後継者補を彼は幾人も考えていたという。崇徳天皇の子・重仁王、雅仁親王の子・守仁王(後の二条天皇)の他にも、近衛天皇の同暲子内親王(後の八条院)を女にさせたり、自分が重祚(一度天皇の座を退位した上皇が再び即位)することも案にあったが、美福門院や側近・信西の進言などもあり、結局は雅仁親王後白河天皇として即位させることとなった。しかしこ天皇を巡る争いは尾を引き、翌年その火種を残したまま、鳥羽院は54歳で崩御した。保元の乱が勃発するのは、鳥羽院の死後わずか9日後のことである。

待賢門院への愛憎

鳥羽天皇は3人の后を迎えたが、崇徳天皇後白河天皇を生んだ待賢門院子と、近衛天皇を生んだ美福門院得子の三角関係が、保元の乱に大きなを与えることとなる。一般に、鳥羽院はく付きの待賢門院を冷遇したと言われているが、彼と待賢門院の間には五男二女と7人も皇子・皇女が生まれており、第一皇女子内王が生まれてから、待賢門院はほぼ毎年出産している(後白河天皇は第四皇子であるが、第二皇子が生まれつき全盲・第三皇子は手足と聴覚が不自由で共に折したため、彼が皇位継承者となれた)。

これを中には、自分と待賢門院の子を沢山作ることで、白河院崇徳天皇に対して復讐をしたと考える人もいるらしいが、待賢門院の立場が不遇になるのは美福門院を呪詛したと疑われた事件が起きたからであり、実際にはこの二人の仲は良かったのではないかという説もある。藤原頼長日記「台記」によると、待賢門院が病で亡くなった際、その臨終を看取った鳥羽院は、悲しみのあまり磬子(葬式法事僧侶が読経する時に鳴らす鐘のような仏具)をガンガン鳴らしながら大で泣き叫んだと言われている(後述の大河ドラマ平清盛」でも再現されていたが、実際はもっと手にやらかしたらしい)。

父子の相克

第一皇子でありながら、本当に自分の子なのか疑惑が残った崇徳天皇との仲は、終生良くなかったと言われており、鳥羽院は崇徳天皇を「叔父子」と呼んで嫌っていたと伝えられている。歴史学者の角田は、荻野久作のオギノ式から計算して、崇徳天皇の実白河院だと論じているが、疑問点や矛盾点もあるため信憑性にはいささか欠ける。

その一方、で疱瘡が流行して崇徳天皇が病に倒れると、鳥羽院は感染するおして見舞いに駆けつけたという。今となっては、複雑な関係を持つ鳥羽崇徳天皇子の相を知る由はい。

大河ドラマでの描写

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての院政は、白河院→鳥羽院→後白河院後鳥羽院の順番で行われており、天皇の名からも覚えやすい。その中で鳥羽院は、やや地味な存在だったが、大河ドラマ平清盛」でその扱いは一変する。

本作では、三上博史が鳥羽院を演じたが、そこらのメロのドロドロした朝廷憎劇の中で、傀儡でしかない感を味合わせる白河院、あまりにも天然すぎる待賢門院、そしてその間に生まれたDQN後白河天皇と濃すぎる面々の中で、悲劇と憤怒に満ちた鳥羽院を見事に演じきった。テレビドラマにあまり出演せず、舞台を中心活躍する三上の熱演も相まって、ある意味、第一部役とも言えるかもしれない。おかげで彼が別の作品に出演しても、鳥羽院と呼ばれてしまうとかしないとか・・・

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1 ななしのよっしん
2013/03/26(火) 22:54:01 ID: 0kNGipU0BI
大河ドラマ鳥羽天皇ヤンデレと言うかメンへラ
待賢門院の天然にも限度があるし、もう一人の美福門院は腹黒女だし
しゃーないが。
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2 ななしのよっしん
2014/07/12(土) 22:46:51 ID: pHqUtFexne
>>1
史実の叔父子(?)への態度にしてもそうなんだけど、いいひと。のにおいがプンプンするぜッーー!
待賢門院の言動にもうちょっと王者らしい度量で応じて最初っから後白河天皇を後継者にしていれば、
幸せにもなれたろうし保元・平治の乱も防げたろうしするけど、まあ仕方がないね
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3 ななしのよっしん
2015/07/22(水) 16:46:19 ID: LeSkpNKqPT
崇徳天皇憎しのあまり
・崇徳の養子だった近衛天皇を「皇太」に突然手のひら返しして崇徳を排除
近衛の後継天皇に、近衛を即位させて崇徳の息子を排除
と皇位継承の慣習をめちゃくちゃに破壊してしまったことは
その後の天皇の権威失墜の大きな原因になったわけで
「皇を取って民とし」の元は実は鳥羽法皇ではないか?
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4 ななしのよっしん
2015/10/01(木) 13:30:31 ID: rCPeGcR+Hl
「皇を取って民とし」の元なのはそうかもしれんが、「皇位継承の慣習」なんてモノはそもそも存在しないな
平安時代の(それ以前もだが)皇位継承なんて、摂関や院の意向次第で何でもアリだったわけで
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5 ななしのよっしん
2015/12/30(水) 14:48:31 ID: Efgqobv5Nu
体になったのが天皇ってことを除けば、閨閥のいざこざここに極まれりの
古今東西しくない典的な亡末期症状だよな

滅びはしなかったけど結果的に朝廷の権は著しく衰退したし
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6 ななしのよっしん
2016/01/18(月) 18:28:43 ID: rCPeGcR+Hl
白河院もそうだったけど、武士を重用しすぎたね。戦争めすぎた
摂関と他の公家を競わせるぐらいなら平安時代平和は続いていたろうけど
強大な武を持ったに権を与えてとしてこき使えば、そりゃあ保元・平治の乱が起こって当然
この時代から太平洋戦争に負けるまで、日本の文民統制は概ね破たんしておりますた
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7 ななしの観閲付属部隊さん
2017/04/13(木) 23:06:46 ID: oZSBbMEQPM
大河ドラマ平清盛三上博史の鳥羽院良かったわ。

特に4話の三千院に似た寺院にすがり救いをめる表情が何とも言えない。

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8 ななしのよっしん
2022/07/13(水) 10:35:04 ID: aXx3qs/xcb
独裁者二世という説は怪しい。
実際には争いを好まず、よく言って穏やか。悪く言って優柔不断な君だったように思う。
長男も、末っ子のである鬼嫁と外戚の圧に屈した結果っぽいし。
摂関の内紛を仲裁しようとするも、結局気弱が災いして失敗。皇后と中宮、関白と内覧が併存する異常事態になった。
っしー二条を後継に名したのも、争いを終わらせようという善意だったかも。
ことごとく裏に出とるな…。そして時代は平氏政権、そして武士の世へ。
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