鴨長明(かものちょうめい)とは、鎌倉時代初期の詩人である。1155〜1216。
概要
和歌と琵琶(以下、文学と音楽と称する)と通して自分の才能が世間に認知される為に生きた。また無常観を身を以て経験し、感じて生きた人物でもある。
代表作品は日本三大随筆として数えられる「方丈記」。その他に「発心集」「無名抄」がある。
本名の長明を「ながあきら」とも読む。名前は3種類あり、本名と通称の「菊大夫(きくだゆう)」、出家後の法名は「蓮胤(れんいん)」である。
鴨長明はニートか。
ニートと指摘されることが時折ある。ニートの基準である「就職・教育・職業訓練」のいずれかに、「文学・音楽修行」が該当するなら、彼はニートではないかもしれない。当時、文学や音楽というのは出世に影響する政治的意図が非常に強かった。その為、就職・職業活動であるという見解もある。しかし彼の20代がニート的な生活であるのは変わりない。
また「俗世間に縛られず自由に生きた人生」と評価される場合もあるが、決して好きなことだけをして生きたわけではない。自分の才能(好きなこと)を通して、出世や普通の人生を希望していたが、上手く世渡りができず、50代頃に人生と俗世間に見切りを付けた。
決して「ニートでいいや」と甘んじていたわけではない。元本より真面目な人物であった。
経歴
0歳から少年時代
1155年、京都の下鴨神社の宮司の次男として生まれる。家は裕福で衣食住に困る生活を送らなかった。そんな彼は、文学と音楽が大好きだった。言い換えれば、好き勝手に暮らせる生活を送る。
18歳頃、父親のコネを利用し神職を継ぎ、資産を得るはずだった。しかし父親が死去したために権力争いに破れ失敗。神職として出世する道を立たれた。
20代から40代
祖母の大豪邸に居候する。妻子も居たようだが、無職であった。一日中文学と音楽に勤しむ(楽しむ?)生活を送る。30歳、家庭内不和が限界に達し家から追い出される。同時に離婚。
彼は鴨川のほとりに小さな家を構える。転居後も、琵琶と和歌の才能があると自負していた。その才能を伸ばして世間に認められようと、修行に励む毎日を送る。
40代になり、初の就職先が決まる。和歌所(和歌に関する本を編集する場所)の下っ端。しかし決して文句は言わず、就職に喜びを噛み締めた。雇用者(Employer)の恩に報いたいと、がむしゃらに労働に勤しんだ。
また和歌でエリート歌人たちと勝負する機会にも恵まれた。鴨長明は時代の流れを読む必要を感じた。自分の少し古い時代の俳句だけではなく、新しい作風の俳句も創作する。それが功を奏し、新古今和歌集に彼の作品が10句採用される。ようやく少し認められた。
50代から晩年
50歳にして、実家の神社のポストが空いた。それは18歳から夢見ていた、第一就職希望先だ。後鳥羽天皇からの推薦状もあり、ついに神職に内定が決まる。しかし、周りの神職から「鴨長明は神職に不相応」という反対があり、別の人物がポストを埋めてしまう。
彼は、人生の出世、人並みの生活の全てを諦め、都を後にする。同時に出家を決意し、仏教徒となる。世の中に見切りをつけたく、50歳独身で何も失うものがなかったからだ。現在の京都市伏見区の日野山に、隠遁生活を開始した。移動し組み立てが可能な7.4m2(四畳半)の木造スモールハウス、方丈庵を構えて。もう世間と関わる人生を諦めたかのように見えた。
時代は平安から鎌倉に変わった。「鎌倉に就職先があるかもしれない」という情報を耳にする。そこで彼は鎌倉へ赴く。そして鎌倉幕府3代将軍の源実朝の採用面接試験に望む。しかし、結果は不採用。
もう二度と立ち上がるチャンスがない、と彼は感じたのであろうか。彼は自分の人生と、自らの世界に絶望し、日野山・方丈庵での生活を再開し、そこで人生を終える。1216年没、享年61歳。
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