鶴岡一人(1916年7月27日~2000年3月7日)とは、南海ホークスに所属していた元プロ野球選手であり、監督としては23年もの間南海ホークスを率いて優勝を11回、日本一を2回達成し、積み上げた勝利数は歴代第1位の1773勝、Aクラスの回数は実に22回にも及ぶ名監督である。
現役時代からの面倒の良さから多くの選手に慕われていたため「親分」の愛称で知られ、サンデーモーニングで有名な大沢啓二の「親分」も鶴岡から来ている。
また「グラウンドにはゼニが落ちている」、「指揮官が悪ければ部隊は全滅する」といった名言も残している。
特に前者は漫画「グラゼニ」のタイトルの由来となっている。
概要
OB | |
鶴岡一人 | |
基本情報 | |
出身地 | 広島県 |
生年月日 | 1916年7月27日 |
身長 体重 |
173 cm 68 kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 三塁手、二塁手、一塁手、外野手 |
プロ入り | 1939年 |
引退 | 1952年 |
経歴 | |
選手歴 監督歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
幼少期から体が大きくさまざまなスポーツを得意とし、野球は小学5年生の時に始めており、1年先輩に当時慶応大学のエースだった浜崎信二の弟・浜崎忠治がおり、夏休みには帰郷した浜崎信二にもコーチをしてもらうことがあった。
その後広島商に進学し。2年時には遊撃のレギュラーを獲得、3年時には春の選抜にて遊撃のレギュラーで中京商を破って優勝、4年時は一回戦負けを喫したが、5年時の選抜では投手兼4番で岐阜商に敗れてベスト4だった。
当時広島商の監督はのちに広島カープで指揮を執る石本秀一であり、全国大会前には日本刀の刃の上を歩く「真剣刃渡り」(実際は刃はついていない)を行わされたり、守備がなかなか上達しない鶴岡を、二塁の選手に殴らせる等の厳しい指導を行っている。
広島商卒業後、当初は慶大に進学するつもりであった鶴岡だが、広島商の先輩が法政大学野球部のマネージャーになっていたこと、法大の冬季練習に参加した際に他の選手のプレーを観察して打撃のコツを掴んだこと、ついでに昼飯がうまかった等を理由に法政大学に進学する。
大学では入学時すでに最上級生だった若林忠志の推薦もあって1年時から二塁のレギュラーを掴みとり、2年時には三塁へコンバートされ35年秋のシーズンでは首位打者を争う活躍で、最終的に早大の高須という選手に首位打者の座は渡したものの法大の優勝に貢献し、38年秋のシーズンでは再び高須と争って首位打者を獲得した。
38年は二度目となる満州への遠征があり、帰国後には様々なプロ野球の球団からオファーが舞い込む。
ただ今では考えられないが、当時のプロ野球は誕生したばかりで東京六大学よりもはるかに低く見られており、プロに入るのは芸者が身を売るようなものと考えられていた。
しかし鶴岡は「高収入を得て親孝行がしたい」、「どうせ戦争で死ぬかもしれない、ならば好きなことをやって死にたい」という思いからプロ入りを決意、同様の考えをもってプロ入りした選手は多く、ある意味戦争がプロ野球を盛り上げてくれたという皮肉な出来事である。ともあれ鶴岡は自分を三塁として使ってくれそうな南海に入団する。
プロ入り~従軍
南海は創設2年目の弱小チームで、ナインの中には鶴岡から見てやる気の感じられない選手もいたという。
このチームにおいて鶴岡はいきなり主将と4番という重責を任されるが、そのプレッシャーに負けず懸命にプレーし、一年目はチームは投手力の弱さから5位ながら、リーグ6位の打率.285、10本塁打で本塁打王を獲得している。
しかし時は戦時中、試合の前には「〇〇選手は応召で出場不可」とアナウンスされたり、観客に対しても住所と名前がアナウンスされて「召集令状が来ました」などど言われていた時代、鶴岡も例外ではなく、南海入団の翌年には召集されて、福岡県甘木町の甘木高射砲第四連隊に入隊している。
入隊後の初年兵教育を受け終わった後、大学の先輩の勧めもあって幹部候補生の試験を受けて見事合格し、これによりのちに独立中隊の中隊長となったが、特に高等数学が苦手だった(サイン、コサイン、ダンゼントがよくわからなかったらしい)鶴岡が学徒兵に勉強を教えなくてはならず、「帝大、教えろ!」と東大生の学徒兵に助けてもらったというエピソードがある。
鶴岡は終戦間際には特攻隊出撃の地となっていた鹿児島で陸軍知覧航空隊機関砲中隊長となり、米軍の艦載機を迎え撃つ任務に就いていた。この時、鶴岡の部隊からも何名か戦死者が出でいる。
44年には見合いを行った女性と結婚し、養子になってくれるように頼まれたが、それは出来ないと鶴岡は断り、それなら名前だけでもという話から山本姓を名乗る。のちにこの時結婚した妻が亡くなり、一年後に別の女性と結婚した後には再び鶴岡姓に戻っている。
選手兼任監督時代
戦争が終わってすぐに南海のマネージャーから復帰を要請され、46年に29歳の若さで選手兼任監督となる。
とはいえ、現在の選手兼任監督とは違い、三塁と監督の他にも、スカウト、食糧調達、住居確保などもこなさねばならず、大の男たちの集まりともなれば皆良く食べるため、自ら合宿所の隣でサツマイモを栽培したり、闇屋に間違われながらも必死に米を集めたりしていた。
そんな苦労を重ねながら46年、グレートリングという名前だった球団は見事巨人を1勝上回り初優勝。翌47年はチーム名が「南海ホークス」となるも3位に終わったが、エースの別所毅彦はリーグ最多の30勝を挙げ、48年は別所、中谷、柚木といった投手陣の活躍で見事優勝を果たす。
しかし48年の暮れ、こともあろうにエースの別所を巨人に引き抜かれる事件が発生、当時別所は新婚のため、新居を欲しがっており、南海もそのための土地と家を用意していたのだが、巨人は南海が用意したものをはるかに上回る土地と家を用意し、さらには別所の婚約者が東京育ちで東京に住みたがっているという気持ちにもつけこんだ。なおのちに南海に入団し大活躍を見せる杉浦忠はこの事件をきっかけにアンチ巨人になったとか。
エース別所を引き抜かれたダメージは大きく、南海は49年4位に転落。鶴岡の長い監督人生で4位に落ちたのはこの時と67年の二度のみ。(ただし49年に関しては8チーム中でのリーグにため、4位は厳密にはBクラスではなくAクラス)
翌50年は4月の巨人戦で巨人の監督を務めていた三原脩が南海の筒井のスライディングに怒り、筒井を殴る「三原ポカリ事件」が発生、さらに同年7月3日に1歳の長女を南海電車に撥ねられるという事故で亡くす。
そんな不幸に見舞われながらもこの年の2リーグ分裂以降、鶴岡は飯田徳治、岡本伊三美、蔭山和夫、木塚忠助ら打ってよし、守ってよしの「百万ドルの内野陣」を作り上げ、51年、52年とリーグ優勝を達成。
そして52年を最後に監督に専念するために現役を引退する。
監督専任時代
監督専任となった53年も見事3年連続となるリーグ優勝を達成するが、日本シリーズでは別所を引き抜いた巨人にいつも勝つことが出来ず、55年の日本シリーズでは先に3勝1敗で王手をかけながら逆転負けを喫している。
巨人に負け続けたことで、マスコミからも南海はケチでチーム強化のために金を出さないと批判されたため、何としても巨人を倒さなければと思った鶴岡は56年2月、チームのために暖かいところでキャンプを行うためにハワイのホノルルでキャンプを行う。しかし観光気分で門限破りを平然と行う選手が続発し、鶴岡はそんな選手に片っ端から鉄拳制裁を行った。その中にはまだ若き日の野村克也も含まれていた。
そんなこんなでハワイのキャンプは失敗に終わったが、唯一「捕手の野村がうまくなった」という収穫が得られ、記者会見でもその旨を話しており、野村自身が鶴岡に間接的にではあるが褒められた数少ない出来事であった。
56年、57年はテスト生からレギュラーを掴んだ野村克也や広瀬叔功といった若い戦力が活躍したが、西鉄に所属する稲尾和久、中西太といった投打の柱が大活躍で、南海は両年共西鉄の後を拝む2位に終わり、王座奪還のため南海は立教大学の4番とエース、すなわち長嶋茂雄と杉浦忠の獲得に乗り出す。
両名の獲得のため、立教で二人の先輩である大沢啓二に紹介を頼み、二人と接触。二人からも確約の返事を得ることに成功する・・・はずだった。しかしまたしても巨人によって長嶋は家族を懐柔され、直前で巨人へ入団することとなってしまった。しかし杉浦は違った。杉浦は長嶋が翻意したことで心配になって駆けつけた鶴岡に対しても「僕は男です」と話し、約束通り南海ホークスのユニフォームに袖を通した。
58年はその杉浦が開幕投手となって初勝利を挙げると、それからは野村や広瀬の活躍もあってポンポンと勝ち星を積み重ねていき、西鉄の独走に待ったを掛けたが、8月過ぎあたりから杉浦も疲労のためか調子を落とし、西鉄との天王山となる2連戦では1戦目は引き分け、2戦目は中西太に3ランを打たれ、西鉄の3連覇を許すこととなった。
しかし59年は杉浦が38勝4敗という神がかり的な活躍を見せ、見事西鉄の優勝を阻止して優勝を決める。
そしてさんざん煮え湯を飲まされてきた巨人に対しても、その杉浦が血豆をつぶしながらも4連投4連勝という活躍で見事巨人をストレートで破り念願の日本一を達成した。
60年は杉浦が引き続き31勝を挙げる活躍を見せたが、この年「ミサイル打線」と結成した大毎オリオンズに優勝を許し、2位に終わる。61年は3年間の酷使が祟り、杉浦が右腕の動脈閉塞でシーズン途中で離脱したが、前年入団したジョー・スタンカ、2番手投手の皆川睦雄らの活躍もあり優勝、しかし日本シリーズでは2勝1敗でリードした第4戦、スタンカが9回二死から一塁の寺田陽介がフライを落球、三塁の小池兼司がゴロをファンブルして満塁のピンチとなり、ここで宮本敏雄をカウント2ストライクと追いつめ、スタンカが自信を持って投げ込んだ投球を円城寺満球審はボールと判定したことでスタンカが冷静さを欠いてしまい、宮本にサヨナラ打を打たれてしまい敗戦。この試合がきっかけで南海は日本シリーズに敗れた。
62年はチームが開幕してから低空飛行を続けており、責任を感じた鶴岡は5月26日に休養を発表して蔭山和夫を代理監督とし、何故休養するのかという問いには「指揮官が悪ければ部隊は全滅する」と答えている。
休養中は主にスカウトとして活動しており、監督も蔭山に譲ろうかとも考えていたが、チームは蔭山の奮闘で上昇し、さらにファンの復帰運動もおこったため8月8日に改めて監督に復帰した。
64年は正捕手ながら変わらず打ちまくる野村や故障を抱えながらも投げ続けた杉浦、外国人ながらも日本を見下すことなくプレーしていたスタンカらの活躍で通算9度目の優勝を達成。杉浦は日本シリーズには登板できなかったが、スタンカが王手をかけられた第6戦と決戦となった第7戦で連続完封勝利を達成したことで5年ぶりの日本一に輝いた。
翌65年も野村克也が三冠王を獲得する大活躍等で優勝を達成するが、チームを率いてからちょうど20年となったこともあり監督退任を決意。
鶴岡は東京オリオンズ、またはサンケイ・スワローズの監督に誘われており、どちらかは今も不明だが就任するつもりでいた。そして後任には蔭山が就任することになり、年上の柚木コーチは使いづらいだろうという鶴岡の意向から、彼には鶴岡の意向が伝えられていた。
蔭山和夫の死、そして再び監督就任
しかし65年11月17日、後を託したはずの蔭山が亡くなったとの知らせが入る。11月13日に蔭山の監督就任が発表されてからわずか4日。
長年に渡って鶴岡が率いた南海は、所謂鶴岡依存症とも言える状態になっており、選手やコーチ、そして外部の人間もこぞって鶴岡を熱望し、蔭山の肉体と精神を追い込んだ。
この年三冠王を獲得した野村克也は三冠王関係の祝賀によって本来の予定よりも3日も新監督就任の挨拶が遅れたため、その旨を蔭山に詫びたが「きちんと挨拶に来てくれたのは君だけだよ」と蔭山が嘆き、野村が驚嘆したエピソードが有名だろうか。
蔭山はわずか4日の間に疲労やストレスが重なり、急性副腎皮質機能不全で37歳という若さで亡くなってしまった。
これには鶴岡も大いに嘆き、葬儀では「ワシが殺したようなもんや!」と号泣したという。
蔭山が亡くなったことで鶴岡は東京行きを辞め、南海と新たに3年契約を結んで再び監督に就任した。
そして66年は3年連続となる優勝を決めたが、日本シリーズではまたも巨人に敗退、そして67年は通算二度目の4位、そして最終年となった68年は2位だった。
68年オフに監督を飯田徳治に任せ、今度こそ監督を退任した。
並外れた人物眼
鶴岡が長年率いた南海ホークスは貧乏であり、有名なエピソードでは「二冠王を取った野村克也の年俸を下げた(野村は悔しさからその翌年三冠王を取る)」、鶴岡退任後の話ではあるが門田博光がアキレス腱を切ったとき、担架ではなく戸板で運ばれたというあたりが有名だろうか。
有力選手獲得の為に鶴岡自ら様々な所に足を運び、自ら選手をスカウトしている。その結果、テスト生出身ながら球界を代表する選手にまでそだった野村克也、広瀬叔功、岡本伊三美や、プロ入り前は無名ながらも入団後活躍した飯田徳治、皆川睦雄、村上雅則がおり、外国人でもケント・ハドリやジョー・スタンカが活躍している。
他にも南海入団は叶わなかったが、稲尾和久、山本浩二、長池徳二、山本一義、広岡達郎、柴田勲といった選手たちにもプロ入りのはるか前から目を付けていた。
資金力が無いにも関わらず何度も優勝することが出来たのも、ひとえにこの人物眼で多くの選手を育て上げたことが大きい。
特にのちに南海の監督も務めることになる穴吹義雄を巨人や西鉄と争奪戦を繰り広げたエピソードは、小説「あなた、買います」のモデルにもなっている。
野村克也
野村克也と言えばヤクルト、阪神、楽天といった(就任時点で)弱小なチームを率いながらもヤクルトでは4度の優勝、3度の日本一、阪神では結果を残せなかったがフロントの意識の改革に貢献、楽天ではわずか4年で97敗したチームをAクラスにまで引き上げた名将である。
そんな野村に監督として大きく影響を与えたのが鶴岡であるが、両者の関係は微妙なものだった。
具体的に二人の擦れ違いが始まった時期は不明だが、正捕手で4番という重責を担う野村は当然ながら叱責される機会が多く、反面褒められた事は(野村の話によれば)2度しかなかった。
特に三冠王を獲得しながらも野村を褒めず、むしろ杉浦を褒めたことや、野村が結婚する(サッチーではない)際その仲人を断ったにも関わらず、その後行われた広瀬の結婚式の仲人は務めたこと、さらに野村が正月の挨拶に訪れた際、他の南海のメンバーが鶴岡の家で盛り上がっているにも関わらず野村を家に上がるように誘わなかったといった出来事から野村との関係が悪化していく。
特に77年、野村が公私混同を理由に解任された際に「鶴岡元老の圧力に吹っ飛ばされた」と発言したことで、少なくとも野村は鶴岡に対し良い感情は抱いていなかったと思われる。
この件については鶴岡は「全く身に覚えがない」として南海に抗議し、野村もその発言については勘違いだったと釈明している。
ただ野村は2000年に鶴岡が亡くなった際、葬儀に出席も献花も行わなかった。
しかし野村は鶴岡が亡くなった後も、「自分に監督として大きな影響を与えてくれたのは鶴岡さん」、「自分の恩師は鶴岡さん」と度々発言しており、鶴岡も前述の解任騒動に関しても野村に対する恨み言は言わず「誰かに入れ知恵されて自分を誤解していたのだろう」という見解を著書で述べており、野村がヤクルト監督時代の1993年に正力松太郎賞に選ばれた時は鶴岡は選考委員の一人として野村を推薦している。
通算成績
通算:8年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 754 | 3106 | 2681 | 433 | 790 | 61 | 467 | 143 | 5 | 1 | 409 | 10 | 146 | 20 | .295 | .--- |
監督成績
通算:23年 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | |
---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 2994 | 1773 | 1140 | 81 | .609 | Aクラス22回、Bクラス1回 |
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