黒田長政単語

クロダナガマサ
3.6千文字の記事
  • 3
  • 0pt
掲示板へ

黒田長政(くろだ ながまさ 1568年12月3日1623年8月4日とは、戦国時代江戸時代初期の大名で、筑前福岡初代である。

官位は甲斐守→筑前守。

概要

黒田官兵衛(諱:孝高、号:如)。
兵衛豊臣秀吉の軍師として活躍し、策謀で名を上げたのに対し、長政は武勇で活躍した。特に九州征伐、朝鮮出兵(文・慶長の役)、関ヶ原の戦いでは高い功績を挙げた。
また、関ヶ原の戦いでは吉川小早川の両氏に対して調略を行い、寝返りを成功させるなど、譲りの知略も兼ね備えていた。

織田らび豊臣臣として活躍したが、秀吉の死去後は徳川家康に仕え、養女を正室に迎えるなど忠義を尽くす。その結果、外様大名でありながら筑前福岡52万3千石もの領地を得る事となった。これは加増転封された大名としては最大となる。

生涯

1568年に姫路城で生まれる。幼名は寿丸。
1577年、・官兵衛の意向により、織田に人質として預けられる。

ところが翌年、中国攻めの最中に織田臣・荒木村重が離反して毛利につき、官兵衛小寺政職も呼応しようとした。これを取りやめさせようと官兵衛が説得の為に有岡城に入るが、逆に捕らえられて土閉されてしまう。
孝高からの連絡が途絶えた事に対し、信長は裏切りと見做して寿丸を処刑するよう命ずる。しかし竹中半兵衛(重治)の機転により密かに命を助けられ、保護された。
それから1年後、織田軍が有岡城を攻め落とすと共に官兵衛も救出され、子共々姫路城に戻ることができた。この時に元し、正式に織田臣となった。
その後は官兵衛が直接仕えていた羽柴秀吉の下に入り、中国攻めに参戦する。 

1582年の本能寺の変により信長が横死すると、羽柴秀吉臣となった。その後子共に四国定、九州定に赴き、天下統一に貢献することとなる。
この功績によって、豊前中津に12万5千石を与えられた。

1589年、官兵衛督を長政に譲る。剃髪して如(如軒)と号するも、引き続き秀吉に対して助言を行うなど、を維持した。

1592年、秀吉が明への攻略の第一歩として朝鮮半島へと出兵を行う(文・慶長の役)。長政は小西行長加藤清正とともに先兵隊として朝鮮半島へ赴き、明・李氏朝鮮連合軍と戦い続けることとなった。
しかし1598年に秀吉が死去すると、朝鮮半島から撤退した。

その後豊臣内部では、石田三成小西行長の文治徳川家康らの武断に分断、政治闘争が繰り広げられた。長政は家康へと近づき、養女(保科正直の)を正室として迎えて忠節を誓った。
1599年、武断と文治の対立を仲裁していた前田利家が亡くなると、福島正則加藤清正細川忠興らとともに三成を襲撃する(七将襲撃)。三成は家康のいる伏見に匿われ、家康の仲裁によって奉行職を辞して佐和山居することで解決に至った。

1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、福島正則細川忠興と共に東軍最先鋒を務め、石田軍に立ち向かった。その際に小早川秀秋吉川広家らと極秘裏に接触して内応を行うことに成功、総大将である毛利勢を足止めし、小早川勢の裏切りによって西軍は1日で壊滅する。
この功績により、家康より「子々孫々まで罪を免除する」というお付きを貰った上で、筑前に52万3千石を与えられ、筑前福岡を任されることとなった。
当時の博多大坂と並ぶ交易の要衝であり、町人や僧侶が強かった。入りに際して長政率いる黒田臣団は武装して入部し、『筑前お討ち入り』と呼ばれた。
利便性の問題から旧領の居・名し、博多の隣接地に・如と共に福岡を建設。7年の歳を経て完成した。その後は商業を奨励し、博多人形博多織といった伝統工芸を復活させ、これらは現在でも名産品として知られている。

1614年の大坂冬の陣では嫡男・黒田忠之を代理に出させ、自らは江戸城留守役を務めた。翌年の大坂夏の陣では徳川秀忠の下で戦った。
この時帯同させた絵師に『大坂夏の陣図屏』(『黒田』)を描かせており、重要文化定を受けている。戦場の情以外にも、大坂城、徳軍の乱妨取り(兵士による略奪行為)が行われ、大坂の町人達が犠牲になる様が生々しく描かれている。

1623年、徳川家光の三代将軍宣下の先遣として上した。しかしこの時既に病を得ており、黒田の位寺である報恩寺の客殿寝所にて死去。享年56歳。
辞世の句は『ほどは 浮世のに 迷ひきて 今こそ帰れ あんらくの』。

エピソード

  • ・官兵衛とともにキリスト教に入信していたが、秀吉による禁止が出された後は宗した。徳政権による禁教に従い、領内のキリシタンを迫、厳しく取り締まった。
  • 九州定において豊前の有城井鎮房宇都宮鎮房)による秀吉への不従を理由として攻め、最終的に和議に持ち込むが、後顧の憂いを断つ為に鎮房を中津に招き謀殺。更に臣団を留め置いた合元寺に兵を差し向けて皆殺しにした。
    寺のには恨みの血が飛び散り、その後何度塗り替えても血が浮き出る為にく塗り「合元寺のとして今に伝えられる。
    また鎮房のは和の人質として差し出され、長政の妻となるべく迎えられていたが、女13名と共に磔刑にされるという痛ましい最期を遂げている。
    この時鎮房をったは「井兼」と命名され、現在福岡市博物館に所蔵されている。
  • 元々は蜂須賀小六(正勝)の・糸を正室として娶っていたが、家康との関係を強化するために離縁し、代わりに家康の養女を正室に迎えた。この不義により蜂須賀とは年以上断交状態が続いた。
  • 細川忠興とは七将襲撃や関ヶ原の戦いで共闘した仲だったが、戦後替えの際に黒田が年貢を丸々持ち去ったのを発端に、あわや戦になりかけるほど関係が悪化した。最終的に諸大名と秀忠のとりなしで収まったが、こちらも年以上断交状態が続いた。
  • の役の際に石田三成との諍いがあり、それを秀吉に咎められてが出するに至ったことで、三成との敵対、家康への接近へとつながったと言われる。ただし、捕縛されてしものとなった三成を前に下して挨拶をするなど、最低限の礼節は尽くしたという。
  • 熟慮して決める性格だったらしく、即断的な兵衛には優柔不断だとたびたび叱責された。
  • これに伴い、家老と下級武士の代表者からなる「異見会」をたびたび開き、対等な立場で討論する機会を設けた。諫言により長政が怒りを露わにすると「怒っていなさるように見えますぞ」と皆がを上げ、それを聞きが身を省みて意見を取り入れたという。
  • 臣だった後藤又兵衛(基次)を、細な諍いから追放して「奉講」(他の大名に仕官できない処分)にしたり、母里太兵衛(友信)の何気ない失言を咎めてろうとするなど、狭量・短気な性質も持ち合わせていた。
  • 嫡男・忠之の粗暴な性格や器量に疑問を持ち、訓を与える一方で嫡さえ検討した。しかし栗山臣団が反発して取りやめた。だが結局忠之の素行はまらず、後に黒田騒動というお家騒動にまで発展した。 

信長の野望における長政

信長の野望」(PCシリーズにおける黒田長政の力一覧。

・官兵衛ほどではないが、高い知謀と高い武を兼ね備えた良将として、シリーズを通して登場している。敢えて不満点を述べるとしたら、史実シナリオいて登場時期が遅い事くらいか。

軍事 内政
戦国群雄伝(S2) 戦闘 71 政治 77 78 野望 41
武将風雲録(S2) 戦闘 78 政治 77 71 野望 65 教養 76
覇王 采配 77 戦闘 78 智謀 65 政治 69 野望 65
天翔記 戦才 160(A) 智才 162(B) 政才 158(B) 82 野望 66
将星 戦闘 80 智謀 85 政治 84
烈風 采配 72 戦闘 68 智謀 78 政治 77
世記 采配 73 智謀 77 政治 80 野望 80
蒼天録 統率 63 知略 76 政治 80
下創世 統率 63 知略 73 政治 77 教養 69
革新 統率 78 武勇 74 知略 82 政治 86
統率 78 武勇 74 知略 82 政治 86
創造 統率 76 武勇 70 知略 80 政治 79

戦国大戦

Ver2.0豊臣で参戦。豊臣の1.5コスト軽騎の一人である。制圧を持っており、計略「日輪の突撃術」でタッチ突撃可、3消費の大爛ならぷち強い超絶になれると色々便利であった。

Ver3.0では豊臣武断の武将として再登場、コストが上がって騎隊になって戻ってきた。
計略「八面六臂」は自分の忠度が高い程武と移動速度と突撃ダメージが上がる。忠度半分以上の最強形態なら山県昌景の「深紅の荒獅子」並の破壊になる。 

関連動画

関連項目

【スポンサーリンク】

  • 3
  • 0pt
記事編集 編集履歴を閲覧

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

黒田長政

72 ななしのよっしん
2019/02/16(土) 12:35:30 ID: L4SY9zQc++
関ヶ原は全に三成憎しの内ゲバだから豊臣関係

大坂の陣ではその三成憎しだった連中も積極的参加も少なく(待機命があったこともあるが)大坂側の守将に対して賛辞を送ったり、優戦を評したりしている

長政はあの信長の君命に背いてまでして秀吉に命を助けられたのだから、豊臣に恩を感じないなんて事はないはず
関ヶ原は大坂の陣での心情は憚るものがあったと思うよ
👍
高評価
0
👎
低評価
0
73 ななしのよっしん
2019/08/17(土) 11:23:36 ID: zcTe26sN4c
>>72
匿ったのは竹中半兵衛では?
👍
高評価
0
👎
低評価
0
74 ななしのよっしん
2020/03/30(月) 13:43:07 ID: m8yQ/9VrVR
黒田官兵衛の最後の策略が失敗した理由が自分の息子有能過ぎたというのは言葉に出来ないけどなんかいいよね
👍
高評価
0
👎
低評価
0
75 ななしのよっしん
2021/04/07(水) 10:20:29 ID: DWvGY3C+dn
👍
高評価
0
👎
低評価
0
76 ななしのよっしん
2021/08/16(月) 16:12:54 ID: Ifs7dFrY2r
恩があるとかないとかはわからないけど、それでも自分が豊臣秀吉の立場だったらと想像したら、相対するときに微妙にいたたまれない気持ちにはなりそうではある。
なんかこう……下の名前にもなんか聞き覚えがあるし。
👍
高評価
0
👎
低評価
0
77 ななしのよっしん
2022/03/07(月) 19:29:36 ID: nmfAXD7EgG
竹中半兵衛が長政を匿った話は有名だけど確たる根拠がないからなんとも言えんよ
糸は男子が生まれないのと、家康の養女(栄)との婚儀が持ち上がったから離縁されたんだろうけど、
一旦正室になった妻が側室に格下げされた事例はないのかな?なければ仕方ないけどまあ酷い話ではある
あといくら秀吉恩顧って言ったってその子供の滅亡までついて行く人はなかなかいないだろ
黒田はそもそも播磨の土なわけだし、福島正則すら大阪の陣家康についたんだから況んや長政をやでしょ。良心の呵責はあっただろうけど
👍
高評価
1
👎
低評価
0
78 ななしのよっしん
2022/05/04(水) 13:51:19 ID: teZRJ+NubU
あんまり戦国知識がないもんで、各ごとに「〇〇といえば々で、某は/〇代ね」みたいなゆるい認識でいるんだが、黒田だけは関ヶ原での動きもあってか官兵衛と長政どっちを基準にして考えるか迷う
活動時期を考えるなら官兵衛なんだろうけど、どうも大名としては長政のほうが印強いんだよな
👍
高評価
0
👎
低評価
0
79 ななしのよっしん
2022/06/12(日) 10:25:02 ID: SXP3aH/isK
秀次事件の際に明石則実(兵衛従弟で、官兵衛実家)処刑されてるし秀吉死んだ時に吉川広家宛に「世間では評判悪い大殿だった」と愚痴った手紙もあるからなぁ 恩顧といわれると正直最上とまではいかんが想付いてたんかなって→黒田
武士の恩顧は大体「所領安堵」で家康に安堵された時点で縁の切れ
👍
高評価
3
👎
低評価
0
80 ななしのよっしん
2023/05/25(木) 16:19:07 ID: rliejF70DS
※78
「お殿様」としては長政の方が官兵衛の石高4倍までのし上がった人物なのでイメージが強い。

長政単体で見れば、政権ブレーンの食い扶持をさらに4倍以上にした相当な名君だよ。
さらに関ヶ原後も図屏とか後藤又兵衛との相とか、エピソードたっぷりなので、まーの子はだったというタイプ。なお
👍
高評価
0
👎
低評価
0
81 ななしのよっしん
2023/07/15(土) 21:45:48 ID: iFNJfiXkIN
豊臣臣系二世大名ではぶっちぎりで一番有能だと思う
👍
高評価
1
👎
低評価
0