黥布(げいふ)とは、戦国時代末期~前漢の人物。英布(えいふ)ともいわれる。英布の方が本来の姓名であるが、罪を犯したために、黥(いれずみ)を顔にいれられ、黥布と呼ばれるようになる。
始皇帝の建国した秦王朝のもとで懲役刑となったが、脱走して盗賊となり、秦末の反乱に乗じて、項梁や項羽に仕え、秦を滅ぼすことに大きな功績をあげて、項羽によって九江(きゅうこう)王に封じられた。
さらに、楚漢戦争において、項羽から劉邦に寝返り、劉邦に淮南(わいなん)王に封じられ、項羽を滅ぼすことにも功績をあげる。
しかし、漢王朝を建国した劉邦に対しても反乱を起こし、激しい戦闘の上、敗れて殺害された。
秦末の戦乱・楚漢戦争・漢王朝建国における諸侯王の反乱において、当時を代表する猛将として知られる。
この項目では、黥布の舅(しゅうと)にあたる呉芮(ごぜい)とともに、黥布に関係が深い朱建(しゅけん)、随何(ずいか)、薛公(せつこう、同一人物の可能性のある霊常(れいじょう)も紹介)、賁赫(ひかく)をあわせて紹介する。
概要
刑せられて王たるべし
盧江(ろこう)郡の六(りく)県の出身。本来の姓は「英」であり、英布と名乗っていた。
『史記』を記した司馬遷は、英布のことを、中国の聖人である舜(しゅん)や尭(ぎょう)に仕えた名臣であたる皋陶(こうよう)の子孫ではないかと疑い、春秋時代の小国であった六の統治者の末裔であるとも考えている。
しかし、黥布自身はただの平民であり、少数民族出身であったという説もある。
若い時、旅人に人相を占ってもらっていたところ、「当(まさ)に刑せられて王たるべし(罪を犯して刑罰を受けた後で、王となるだろう)」と言われた。黥布が壮年になってから、罪を犯して、刑罰として顔に入れ墨(いれずみ、当時は「黥」と言った)をいれられる。
黥布は笑って、「どうやら、俺はこれから王になるようだ」と話す。人々はこの話をして笑いあった。黥布は本気だったか、冗談だったかは定かではないが、この占いが彼の生きる原動力となったであろうことは間違いない。
黥布は秦王朝が建築していた阿房宮(あぼうきゅう)造営のために、驪山(りざん)に送られ、強制労働をさせられた。驪山には、犯罪者として連れられてきたものが数十万人もいた。黥布は犯罪者の頭目や豪傑たちと交際し、やがて仲間を引き連れて脱走した。黥布は長江のあたりで群盗となった。
秦末の反乱に加わる
秦の始皇帝が死去し、二代目皇帝に始皇帝の子である胡亥が即位すると、その暴政は激しくなった(黥布が逃亡して群盗となった時期は始皇帝の時代か、胡亥の時代か不明)。
やがて、陳勝と呉広という人物が反乱を起こす(陳勝・呉広の乱)。群盗となっていた黥布は、秦王朝の番陽(ばんよう)県の県令(県の地方長官)であった呉芮(ごぜい)に会見し、一緒に秦に反乱を起こした。兵は数千人が集まった。黥布は呉芮の娘と婚姻する。これにより、呉芮と黥布は舅(しゅうと)・婿(むこ)の関係となった。黥布の率いる軍勢は「鄱盜(ばんとう)」とも呼ばれた。
秦では章邯(しょうかん)に反乱軍討伐を命じる。章邯は陳勝を打ち破り、敗死させ、その残党を率いた呂臣(りょしん)も破っていた。そこで、黥布は兵を率いて北上して、章邯の部下にあたる秦軍の左右校尉(こうい、秦軍の将校)を打ち破る。
黥布は、かつて秦を破った項燕(こうえん)の子にあたる項梁(こうりょう)が決起していることを聞き、蒲(ほ)将軍という人物とともに、その配下に加わることにした。
黥布は項梁に従って、西進し、楚王を名乗っていた景駒(けいく)と景駒を擁立した秦嘉(しんか)の軍を戦う。黥布は常に項梁軍第一の武功をたてた(この時、項梁の甥にあたる項羽も項梁の部下であったが、項羽は除外されているのか、この時の項羽は黥布よりも武功は下だったのか不明)。
項梁は、楚王の末裔である心(しん)という人物を擁立して、楚の懐王を名乗らせる。項梁が武信君を名乗ると、黥布も当陽君(とうようくん)とされた。
しかし、項梁は章邯との戦いで戦死する。項梁の部下であった項羽や劉邦は撤退して、彭城の近くに集まると、懐王も都を彭城(ほうじょう)に移した。黥布もまた彭城の近くで守りを固めた。
項羽軍・第一の武将
秦は、将軍の章邯と王離に趙を攻撃させていた。趙の援軍要請に応えて、楚は宋義を上将とする援軍を派遣する。次将に項羽、末将(第三位の将軍)に范増が任じられた。黥布は蒲将軍とともにその配下の将軍の一人となった。
軍を停滞させた宋義は項羽によって討たれた。黥布は項羽に従うことに決める。あらためて懐王によって項羽が上将に任じられた。黥布は項羽の武将として働くこととなった。
この時の楚軍は5万、秦軍は鉅鹿(きょろく)の城攻めと補給に分かれていたとはいえ、総勢40万人はいた。黥布は項羽の命令により、黄河を渡り、蒲将軍とともに秦軍を攻撃した。黥布は秦軍相手に連勝を重ねた。同じ『史記』の別箇所に黥布は敗北(苦戦?)したともあるが、これはあくまで黥布の項目なので、なかったことにしておく。黥布は秦軍の甬道(ようどう、兵糧を運ぶために防衛のための壁を備えた通路)を攻撃して破壊した。そのために、趙の鉅鹿城を包囲して攻撃していた王離率いる秦軍は飢え始めた。
項羽は残りの全軍で秦軍を攻撃した。王離を捕らえ、残った秦軍を率いた章邯相手に連勝を重ねた。やがて、章邯は項羽に降伏する。楚軍が他の諸侯の軍を服属させつつ、圧倒的な勝利を重ね、章邯を降伏させることができたのは、項羽の先鋒となった黥布が何度も少数の軍で多数の秦軍をやぶったおかげであった。
なお、『史記』のその他の部分の記述や評価を読むと、王離や章邯に勝てたのは、項羽の力が圧倒的で、黥布の功績は全体から見るとそれほど大きなものではなかったのではないかと言うのは野暮である。この項目は、『史記』黥布列伝に沿って書いている。中国の歴史書は、各々の本紀や列伝はその人物に都合のよい記述が中心となるという伝統がある。これは、黥布視点ではこうであったと考えた方がいい。
項羽は降伏した秦軍を含めた諸侯軍を率いて、秦の首都がある西の咸陽に向かう。黥布は相変わらず項羽の先鋒であった。降伏していた秦軍に反乱の気配があったため、黥布は項羽の命令により、新安という土地で、かつての秦軍の兵士に夜襲をかけ、二十数万人を生き埋めにする。
函谷関(かんこくかん)という関所まで進むと、先に咸陽を落とし、秦の本拠地であった関中を占領していた劉邦の軍が函谷関を封鎖して、項羽ら諸侯軍をふさいできた。項羽に命じられた黥布は、また先鋒となり、ひそかに間道を進んで函谷関を打ち破った。項羽は劉邦を降伏させ、咸陽に入り、秦王朝を滅亡させる。黥布は項羽に従った諸侯や諸将の中でも、戦功は第一であった。
項羽のために大手柄を立てた黥布は、九江王に封じられた。黥布が王になるという占いは実現された。黥布は、九江国の都を故郷の六に置いた。また、黥布の舅であった呉芮もまた衡山(こうざん)王に封じられた。韓信や陳平にけちと言われた項羽とは思えないほどの大盤振る舞いであり、黥布の功績は項羽から高く評価されていた。
項羽への反抗
諸侯の代表である覇王を名乗った項羽は、劉邦に味方して劉邦を関中王に封じるように命じた楚の懐王は邪魔になったため(楚の懐王の意図は劉邦を利用して項羽の力を抑制することにあったと考えられる)、懐王に義帝を名乗らせた後で、当時は辺境であった長沙(ちょうしゃ)に都を移させる。
黥布は、舅である呉芮と、項羽によって臨江(りんこう)王に封じられていた共敖(きょうごう)とともに、項羽に命じられて、楚の懐王を殺害する。(正確には、『史記』項羽本紀では呉芮と共敖、『史記』黥布列伝では黥布が犯人とされる)
やがて、北の地では斉の田栄が項羽に反する。項羽は自ら斉を討伐した。黥布は項羽に出兵を命じられるが、仮病を使って数千の兵を出しただけで出兵しなかった。
項羽が斉討伐を行っている間に、関中の土地を奪った劉邦が項羽の本拠地である彭城を攻め取った。しかし、黥布はやはり仮病を使って救援しなかった。
項羽は黥布の行動に腹を立て、何度も詰問の使者を送るが、味方となる諸侯王の勢力は黥布ぐらいしか残っておらず、豪傑や武人がとにかく大好きな項羽は、黥布のすぐれた軍略を評価しており、これからも自分のもとで働いてもらいたいと考えていたため、黥布攻撃まではしなかった。
やがて、項羽は自ら3万の軍を率いて、彭城を占領した劉邦の軍五十六万人を破った。劉邦は西へと敗走し、形勢は一気に項羽へと傾いた。
劉邦につく
黥布は相変わらず、去就を明らかにしなかったが、黥布と項羽の間に隙があると見た劉邦は、軍師の張良の進言により、黥布を味方にしようと随何(ずいか)という人物を使者として送ってくる。
随何の捨て身の説得を受けた黥布は劉邦に味方することを承諾する(随何の説得内容については、後述を参照)。黥布は、項羽の楚国を攻撃した。
項羽は劉邦への追撃よりも黥布攻略を優先し、一族の項声(こうせい)と楚の屈指の勇将である龍且(りゅうしょ)に、黥布の統治していた淮南(わいなん)を攻略させる。数か月の戦いの末、黥布は龍且に敗れ、わずかな供をつれて、劉邦のもとを頼った。
黥布が劉邦のもとに訪れると、劉邦は寝台に腰掛け足を洗わせたままの状態で出迎えた。王の地位と一族を失ってまでして劉邦についた黥布は当然なことに無茶苦茶怒り、劉邦のもとに来たことを後悔し、自害しようとした。(この時代の人物なら怒りだして、劉邦を襲って殺害しようとするだろうと思った人が多いだろう。また、これを書いた人からしてもそう思ったが、意外に黥布は常識人であり、極端な行動はしない)
しかし、黥布があてがわれた家屋は、様々なものや従者が劉邦のものと同等であった。黥布はちょろいことに、望外のものを得たことを喜び、劉邦に懐柔される。劉邦とすれば、黥布のおかげで数か月の時間を稼いで態勢を立て直すことに成功し、猛将である黥布を配下として手にいれた代償としては安いものであった。
黥布が、かつての領土であった九江を探ってみると、すでに項羽のおじにあたる項伯(こうはく)によって、兵士は楚に駆り出され、黥布の一族は皆殺しにされていた。黥布はそれでも兵数千人を連れて帰り、劉邦の配下とした。
淮南王・黥布
黥布はしばらく、劉邦の本拠地である関中にいたようであるが、劉邦が滎陽(けいよう)から紀信を犠牲にして逃げ帰り、関中から出撃した時に、その配下として分け与えられた兵を率いた。黥布は劉邦とともに、武関から南にでて兵を集めた。項羽は、劉邦が出撃したと聞いて攻めかかってきたが、劉邦と黥布は防衛を固めて戦おうとしなかった。やがて、項羽は東で楚軍を破った彭越(ほうえつ)討伐に向かい、黥布は劉邦とともに、成皐(せいこう)というところを守った。
それからの黥布の動きは分からないが、劉邦が項羽と広武山とにらみ合い、項羽の十の罪を数え、半ば言いがかりをつけた時、「刑余の罪人(刑罰を受けた罪人)」に項羽を撃ち殺させようとしていると宣言しており、この「刑余の罪人」とは黥布を指すという説もあり、この説が正しければ、黥布は積極的に項羽討伐に動いていたようである。(劉邦の黥布に対する無神経な発言とする解釈もある)
紀元前203年、黥布は劉邦によって淮南王に封じられる。占いは再度、実現し、黥布はついに王としての地位を取り戻すことができた。(『史記』の別箇所では、まず、武王に封じられて、項羽に勝利する垓下の戦いの直前で、淮南王に封じられたとする)黥布は劉邦に協力して、項羽を攻撃し続ける。かつて統治していた九江の土地は数県をとりかえした。
紀元前202年、黥布は劉邦の一族にあたる漢の将軍、劉賈(りゅうか)とともに、九江の土地に侵入し、その地を守っていた項羽の大司馬にあたる周殷(しゅういん)を寝返らせ、九江も手に入れる。黥布は、劉賈・周殷とともに、項羽と劉邦の決戦の地である垓下(がいか)へと向かった。項羽は敗北し、脱出をはかったが、あきらめて自害する。
黥布は正式に淮南王に封じられ、九江・廬江・衡山(こうざん)・予章の諸郡は黥布の領土となった。黥布の舅である呉芮もまた、衡山王から代わって長沙王に封じられる。衡山国は黥布の治める淮南国に含まれることになった。
劉邦もまた、黥布や楚王の韓信・梁王の彭越、韓王信、趙王・張敖、呉芮らの推戴を受け、皇帝に即位した。
韓信と彭越は、劉邦から楚漢戦争における功績を認められて王に封じられた人物であり、黥布以上の武功を立てていた。黥布は彼らを武人として認めると同時に、強い仲間意識もあったと考えらえる。
高まる疑心
前201年、黥布は皇帝となった劉邦に諸侯王として呼ばれて、陳にて会見した。この時に、楚王である韓信が謀反の疑いで逮捕され、淮陰(わいいん)侯に降格される。楚は二つに分けられ、荊国は劉賈が、楚国は劉邦の弟である劉交(りゅうこう)が統治することになった。
前200年、黥布は洛陽にて劉邦に拝謁(はいけつ)する。この年は反乱を起こし、匈奴に投降したとされる韓王信の討伐が行われていた。
前198年、黥布は長安にて劉邦に拝謁した。この年は、趙王・張敖(ちょうごう)の部下による劉邦暗殺未遂事件が発覚し、張敖は逮捕の上降格された。趙王には、劉邦の息子である幼い劉如意(りゅうにょい)が封じられた。
前196年、長安において、淮南侯に降格していた韓信が、劉邦が留守の間に、劉邦の后である呂雉(りょち、呂后)によって、謀反の罪で一族皆殺しとなった。韓信は実際に兵を起こしたわけでなく、罪のあった舎人(下級の側近)の弟の告発によって謀反の罪で一族ごと処刑されている。黥布は、心中、自分もそのようになるのではないかと恐れるようになった。
さらに、梁王であった彭越がこれまた謀反の疑惑だけで、処刑され一族皆殺しとなった。彭越の死体は塩漬けとなり、諸侯王全てに配られた。黥布のところにも、狩りをしている最中に届けられた。
黥布はこの塩漬けを見て、さらに恐れるようになり、兵を配して国境を見張らせ、異変に備えさせた。
反乱を決断
しかし、黥布は賁赫(ひかく)という部下から謀反を漢王朝に訴えられる(賁赫については、後述)。
劉邦と蕭何は黥布が反乱を起こしたことを信じずに、使者を送り、淮南国を調査させるが、黥布は勝手に軍備をしていたことが漏れたと判断する。(韓信や彭越との対応の差を考えると、劉邦や蕭何の対応は意外であるが、黥布は劉邦からかなりの信頼を受けている。後述の「劉邦からの意外な信頼」参照)
黥布が宰相の朱建(しゅけん)に相談すると、朱建は反対したが、臣下の梁父(りょうふ)・侯遂(こうつい)という人物の意見により、反乱を起こした。(梁父侯(りょうふこう)という爵位を有する人物の意見という説もある、朱建については後述)
黥布の反乱を聞いた劉邦が諸将を呼んで相談すると、諸将は黥布討伐を主張する。夏侯嬰が紹介した薛公(せつこう)という人物も黥布は大した考えはなく、劉邦は安泰であろうと告げる(薛公とその進言については後述)。そこで、劉邦は息子の劉長(りゅうちょう)を淮南王に封じ、黥布を討伐することにした。
黥布は反乱を起こす時に、配下の武将たちに「お上(劉邦)も老いた。戦争を嫌っている。間違いなく、自ら出陣することはできず、配下の武将を討伐に向けてくるだろう。韓信と彭越だけが手強かったが、二人ともすでに誅殺されてしまっている。それ以外の人物は恐れるに足りない」と告げていた。この発言が、劉邦が曹参(そうしん)や樊噲(はんかい)たちよりも戦争に強いのでは、という説の根拠となっており、そういった意味では劉邦は黥布に感謝していい。
黥布はそのように勝算を立てた上で反乱を起こしたが、劉邦は呂雉の勧めもあって、病身をおして自ら黥布討伐に赴いた。劉邦は黥布討伐に漢王朝の総力をあげ、参謀の陳平(ちんへい)と腹心の武将である夏侯嬰(かこうえい)、灌嬰(かんえい)、酈商(れきしょう)、靳歙(きんきゅう)を引き連れる。北で反乱を起こしていた陳豨(ちんき)への対応は樊噲と周勃(しゅうぼつ)、傅寛(ふかん)に任せた。
さらに、斉にいた曹参にも斉の兵12万人を率いて劉邦に合流することを命じる。病身の張良と関中を守る蕭何(しょうか)を除く楚漢戦争において活躍した劉邦の主な功臣全てがこの南北の反乱に動員されていた。
それほど、黥布の存在は漢軍にとって脅威であった。
黥布はまず、東に向かい、荊国を攻める。荊王はかつて黥布がともに戦った劉賈が王に封じられていた。黥布が劉賈と交戦し、劉賈を戦死させる。黥布は劉賈の兵を配下に組み入れて、淮河(わいが)を渡って、楚国を討った。楚国では軍を三つにわけて戦うという奇策にでたが、黥布がその一軍を破ると、残り二軍も敗走した。楚王の劉交は敗走した。
帝と為らんと欲するのみ
黥布はさらに西に向かう(史書を読むと、黥布は後述する薛公のいう下策をとり、自己保全を考えていたように思えるが、実際は積極的な攻撃にでている)。そこで、劉邦の討伐軍と向かい合うことになる。曹参の軍はすでに、劉邦と合流していた。漢軍は兵力においては、黥布を圧倒していたものと考えられる。
しかし、黥布の軍はかなりの精鋭であり、その陣形は項羽の軍に似ていた。トラウマを思い出した劉邦は腹立ちをおぼえ、遠くにいる黥布に呼びかけて、「どういった理由で反乱を起こしたのだ!」と叫ぶ。黥布は、「帝と為らんと欲するのみ!(皇帝になろうと思っただけだ!)」と叫び返した。
劉邦は怒り、黥布をののしった。両軍が激突し、劉邦も矢傷を負うが、戦いは漢軍の勝利に終わった。黥布は敗走する。劉邦は帰還し、他の武将が黥布を追撃した。黥布は淮河を渡り、何度も踏みとどまって戦ったが、敗北を重ね、100余人とともに逃走する。
黥布は長沙王であった呉芮の婿であったため、呉芮の子であり、長沙王の地位を継いでいた呉臣(ごしん)の誘いに乗って彼を頼ることにした。そこで、呉臣の部下とともに、長沙国の都である番陽を向う。しかし、黥布は呉臣の部下によって、番陽の農家で殺され、黥布の一族は(二度目となるが)滅ぼされた。
黥布の運命を占った人物がこの結果を知っていてあえて告げなかったどうかは定かではない。
評価
司馬遷は、黥布について、「黥布は刑罰を受けながらも、なんと急激にのし上がったものだ。項氏(項梁、項羽)が穴埋めにした人は、数千数万にものぼったが、常に黥布が先頭に立って行ったものであった。黥布の戦功は諸侯でも第一であり、王となったが、大きな罰を受けることとなった」と評している。
黥布は、虐殺も構わずにのし上がった勇猛な武将であったが、受動的な人物であり、占いを行った旅人や随何からの勧誘、劉邦からの粛清に対する恐怖、側室に対する嫉妬など受け身的な対応をすることが多い。
ただし、項羽も劉邦も途中までは黥布には強い期待と信頼をよせており、敗走後も黥布は部下から裏切られてはおらず、黥布に仕えた朱建も剛直な人物であったことから、黥布は人望もあり、度量のあった人物であると考えられる。
楚漢戦争を題材とした創作作品では、黥布は同時代では項羽に次ぐ勇猛な人物とされる多く、純朴なところがあるが、知謀に乏しい人物とされることが多い。
また、韓信や彭越と違い、実際に反乱を起こしているにも関わらず、劉邦の疑心暗鬼や粛清の犠牲者に数えられることが多く、三人を並べて、劉邦や呂雉の粛清例とされることがしばしばみられる。
黥布について
項羽を裏切った理由
黥布は項羽によって九江王に封じられた後、かつての項羽の部下であり、項羽から頼りにされていたにも関わらず、項羽を救援していない。また、項羽の方が劉邦より有利な時期に、項羽から反し、討伐を受けている。
この理由については、史書では明記されてはいないが、主に四つの説が考えられている。
- 1 黥布が項羽と劉邦を天秤にかけ、日和見していた説
- 2 義帝(楚の懐王)殺害を項羽に命じられ、実行させられた説
- 3 新安における秦兵の虐殺を命じられ、項羽から心が離れた説
- 4 黥布自身に天下を望む野心があった説
以上である。
4は、黥布が反乱を起こした時、劉邦に放った発言から来たものと考えられるが、劉邦が皇帝に即位してから6年以上も経過して反乱を起こしたもので、韓王信や陳豨の反乱に積極的に呼応したものではないため、考えにくい。
3は、司馬遷の評価では、黥布は積極的に項梁や項羽の虐殺に加担しており、史書の基本的な記述を否定する必要がある。
2は、かなりの支持を受けた説であり、この説を主張する研究者も存在する。ただし、史記の記述によっては、黥布が義帝殺害に、加担していないと解釈できる部分も存在する。随何が黥布を劉邦に味方するように説得する時に、項羽が義帝を殺害したことを理由としてあげていることも不自然な上に、劉邦がとなえた項羽の十の罪に、「義帝を殺害したこと」が含まれており、黥布が直接の殺害犯であった場合、劉邦がこれを含めることにやや疑問がある。また、史書において黥布が反したのは、このことが理由であると明言できる根拠はない。司馬遷が黥布を倫理観が欠けた人物と評しており、その点との齟齬も問題となる。
1は、2の説を否定して、こちらの説がより説得力があると主張する研究者もいる。単純ではあるが、黥布を劉邦の味方となるように説得した随何もそのように見ており、説としては特におかしいところはない。
劉邦からの意外な信頼
黥布については、項羽の虐殺や義帝暗殺に積極的に関与し、他の項羽の部下である范増(はんぞう)や龍且(りゅうしょ)、鍾離眛(しょうりばつ)らが王に封じられない中で、唯一、王に封じられているにも関わらず、明白な理由もなく、反乱を起こし、さらに、劉邦にも実際に反乱を起こしているために不義理な人物という評価が強い。
しかし、劉邦や蕭何は、黥布が反乱を起こしたという賁赫からの報告を聞いた時、蕭何に相談したところ、蕭何は「黥布が謀反を企むわけがありません。恨みを持つものの中傷でしょう。賁赫を牢獄につなぎ、使者を送って、内密に黥布の淮南国を調べましょう」と答えており、劉邦もそのようにして確認している。
これは、韓信や彭越が劉邦を警戒して軍備を整えているという事実もないのに、謀反の疑いだけで、逮捕の上で王から降格し、最終的に一族ごと誅殺しているのとは大違いである。
韓信は元々、蕭何の紹介によって大将軍に就任し、劉邦が一緒に食事をし、自分の衣を着せるほどに大事にし、韓信自身も劉邦に対して恩を感じていた仲であり、彭越にしても劉邦がまだ楚の懐王配下であり、碭(とう)郡長に過ぎなかった時代に共同で軍事行動をした仲であり、この対応や信任の差は不思議に思える。
これは、楚漢戦争の時に、韓信は劉邦と別に軍事行動をとることが多く、彭越は共同で軍事行動をとったことがない上に、二人が王としての地位と領土を確約されるまで、劉邦への支援を停止し、劉邦からの怒りを買ったことがあったのに対して、黥布は、劉邦が不利な時に項羽を裏切って劉邦を味方して、結果的に劉邦の危急を救い、そのために一族を失ったためと考えられる。
さらに、黥布は、劉邦の配下となってからは関中に入ってからは蕭何と会い、劉邦と行動をともにすることが多かった(黥布は反乱者となったため、史書における劉邦側における功績が消されている可能性がある)。また、劉邦からの不信を買うような軍事活動を行っていない。
黥布の反乱は、黥布が自身のことを劉邦・蕭何からの信任が韓信・彭越と同等かそれ以下と考えていたと思われるのに対し、実際の劉邦・蕭何からの信任は韓信・彭越を上回っていたというすれ違いによって起こった悲劇であるともいえる。
黥布に関連する人物たち
長沙王・呉芮(ごぜい)
秦王朝の番陽(ばんよう)県の県令(県の地方長官)に任じられた。秦の天下統一後、少数民族の王である閩越(びんえつ)王の無諸(むしょ)と、越の東海王であった搖(よう)は、呉芮に従うことにし、呉芮は「番君(鄱君)(ばんくん)」と呼ばれるようになった。そのため、呉芮は楚の重要な貴族である沈氏出身であるという説もある。
秦への大規模な反乱である陳勝・呉広の乱がおこると、本文のとおり、黥布に娘をめあわせて、黥布に部下を与えて、秦に対して反乱を起こす。
呉芮は、百越と呼ばれる少数民族を集め、秦を討伐する諸侯を支援した。また、梅鋗(ばいけん)という武将を別に派遣して、秦を攻撃させる。梅鋗は、劉邦と合流し、ともに秦軍と戦い、劉邦の武関攻略においても功績をあげた。
この功績により、呉芮は、秦を滅ぼした項羽によって衡山王に封じられる。また、娘婿の黥布も九江王に封じられ、梅鋗も十万戸が与えられた。(これを見ると、項羽の恩賞がけちという見方には疑問がつくところが多い)
呉芮は、邾(ちゅ)という都市を衡山国の首都にした。楚漢戦争では日和見の姿勢をとっていたらしく、項羽や劉邦、黥布への支援を行った様子もなく、楚漢戦争の終盤に劉邦への従属を決めたようである。
しかし、劉邦はかつて梅鋗とともに戦ったこともあって、楚漢戦争後も呉芮は、衡山王から移して長沙王に封じている。また、呉芮は韓信・彭越・黥布らとともに、劉邦を皇帝へと連名で推戴し、劉邦は皇帝へと即位した。
呉芮は長沙王となり、臨湘(りんしょう)という都市を都とすることになったが、この年に病死した。「文王」と贈り名された。子の呉臣が後を継ぎ、長沙王となった。
長沙国は、呉芮の玄孫(げんそん、孫の孫)の呉著(ごちょ)の代、漢の文帝時代(前157年)に、呉著に正妻との間に子がいなかったため、側室との間の二人の子が列侯に封じられはしたが、呉著の死後に国は廃されている。
随何(ずいか)
劉邦の謁者(客の接待や引見を行う役職)であった。
劉邦が項羽に彭城で大敗した後、劉邦は「配下に天下の事を語れるものがいない」とぼやいていた。随何がその意味を聞いたところ、劉邦が「九江王の黥布に使者として、項羽に反するように説得できるものがいない。数か月、項羽をくぎ付けにすれば、天下をとることができるのだ」と語る。
そこで、随何が志願すると、20人とともに黥布の元に説得に赴く。随何は、黥布の太宰(たいさい、役職名)をつてに黥布に会おうとしたが、三日経っても会えなかった。随何はそこで、太宰に向かって、「私が間違っているなら、20人を処刑して、楚につく証明にしてもいい」と話し、黥布にとりついでもらえた。
随何は、「大王(黥布)は項羽に臣下として仕えているはずなのに、援軍も出さずに、日和見をされていました。項羽の楚の軍勢は強いですが、義帝を殺害し、不義の汚名を着ています。しかし、漢王(劉邦)は諸侯を味方にして、滎陽を防衛し、蜀の地から届いた兵糧が豊富で、固く守っています。楚が滎陽を攻めようにも、梁の地があり、補給が苦しく、籠城すれば、楚は進退に苦しむでしょう。実は、漢の方が楚より強いのです。大王が楚と戦うことを決めれば、項羽は斉から動くことはできず、漢が天下を取ることは決まったようなものです。漢に味方すれば、新たな土地を与えられるでしょう。どうか、漢に味方してください」と説得する。
黥布は随何の言葉に同意するが、決断がつかなかった。その時、楚からの使者も来ており、黥布に援軍を催促していた。
随何はその場に入り、楚の使者に向かって、「大王は漢に味方することを決められた。楚に援軍を出すことなどはない」と言うと、黥布が驚いている間に、楚の使者は席を立って帰っていった。
随何は、黥布に「事はすでに決しました。楚の使者をすぐに殺害し、すぐに漢に味方してください」と告げる。黥布は随何に同意し、楚の使者を殺害して、楚を攻撃する。
その後は本文の通り、黥布は敗れ、随何は黥布とともに劉邦のもとにもどった。
項羽が死に天下が平定された後、劉邦は酒宴の時に随何に向かって、その功績をけなし、ののしった。
劉邦「随何はただの腐れ儒者だ。天下を治めるのに必要なかろう」 随何「あの時の陛下(劉邦)が黥布を討伐するのに、騎兵五千、歩兵五万で攻略することができたでしょうか」
劉邦「できなかったであろう」
随何「私は20人で陛下の望み通りのことができました。とすると、私の功績は、騎兵五千、歩兵五万以上の働きということになります。それをそういった評価されるとは」
劉邦「そうだな。その功績に報いよう」
随何は劉邦によって、護軍中尉(ごぐんちゅうい)に任じられた。
賁赫(ひかく)
漢王朝のもとで淮南王となった黥布に仕え、中大夫に任じられ、黥布の侍中(高位の側近)の役職にもあった。
黥布が韓信と彭越が誅殺されたことを聞き、(劉邦からの攻撃などの)異変に備え、軍備を整えていた時、黥布が寵愛していた側室が病気にかかった。側室は、しばしば医者の家を訪れ、病気を診てもらっていた。賁赫(ひかく)の屋敷はその医者の家の向かい側にあった。賁赫は、側室へ贈り物をし、側室とその医者の家で一緒に酒を飲んだ。
ある日、その側室が黥布の側にいた時に賁赫の人格を誉めた。黥布は、二人が密通していることを疑い、怒りだした。恐れた賁赫は病気と称して出仕しなかった。黥布はさらに怒り、賁赫を捕らえようとした。賁赫は、黥布の謀反を訴えるしかないと考え、漢王朝の都のある長安へと逃亡し、追手を振り切り、黥布の謀反のたくらみを朝廷へ訴えた。
劉邦は相国の蕭何に相談するが、蕭何は「黥布が謀反を起こすはずがありません。彼に恨みを持つものの讒言でしょう。賁赫を牢獄にいれ、使者を送って黥布が謀反を起こしたか調べさせましょう」と進言する。
賁赫は牢獄にいれられたが、黥布は謀反が暴かれたと思い(実際に謀反を起こそうとしていたかは不明であるが、国境の軍備がすでに謀反と言われて仕方ないものであったのだろう)、賁赫の一族を皆殺しにして、反乱を起こした。劉邦は、賁赫を釈放し、将軍にとりたてた。
黥布の反乱が鎮圧された後、賁赫は恩賞を受けて、期思侯(きしこう)に封じられ、二千戸を与えられた。功臣としての順位では百三十二位とされている。
朱建(しゅけん)
楚の出身。弁舌にすぐれ、清廉潔白で剛直な人物で、行動や考えを他人にこびて調子をあわせることがなかった。
淮南王であった時の黥布のもとで、宰相となったことがあった。一度は罪を得て免職となったが、再び、黥布に仕える。黥布から反乱の相談が行われた時は反対し、反乱に加わらなかったため、黥布が敗死した後も、処刑はされなかった。
その後、朱建は漢王朝の都である長安に住むことになった。朱建の母が死去したが、家が貧乏で葬式の準備が整わなかった。
当時は、呂雉(呂后)が政権をつかさどっていたため、その腹心である審食其(しんいき)が権勢を握っていた。朱建の友人である陸賈(りくか)は、審食其に「朱建に贈り物をして、朱建と交わるなら今です。朱建はそのために命も投げ出すでしょう」と進言する。そこで、審食其が朱建に贈り物とすると、他の列侯や貴人も争って贈り物を差し出したため、朱建は母の葬儀を行うことができた。
その後、審食其が恵帝(劉邦と呂雉の子、劉盈(りゅうえい)。漢の二代皇帝)によって処刑されそうになった時、恵帝の寵臣である閎孺(こうじゅ)に「審食其が処刑されたら、あなたは呂后(呂雉)に処刑されるでしょう。審食其をとりなした方がよいのでは」と進言する。そのため、審食其は釈放された。朱建は審食其の食客となった。
恵帝、呂雉が死んだ後に、呂氏の乱がおこり、呂雉の親族であった呂氏は謀反を起こした罪によって滅ぼされた。文帝(劉恒(りゅうこう)、劉邦の子、恵帝の弟)が即位すると、淮南王である劉長(りゅうちょう。劉邦の子、文帝の弟)によって、呂氏を助けていた審食其が殺される。文帝は、朱建が審食其のために策謀を進言していたと聞き、朱建を捕まえて罰しようとした。一族の巻き添えを予見した朱建は自害した。
文帝は「殺すつもりはなかったのだ」と言って、朱建の死を惜しみ、朱建の子を中大夫に任じた。
薛公(せつこう)、霊常(れいじょう)
薛公は、かつて楚の令尹(れいいん、宰相の役職、楚の懐王(義帝)に仕えていたか、項羽に仕えていたかは不明)であった。薛公は役職であるか、または、薛という姓の人物であるかも不明。
楚漢戦争の後、劉邦の腹心である夏侯嬰の食客となっていたが、黥布が反乱を起こした時、夏侯嬰から、黥布が謀反を起こした理由について相談を受ける。薛公は「黥布が、韓信、彭越が殺害された以上、粛清を恐れて反乱を起こしたのも当然でしょう」と答えると、夏侯嬰はこのことを劉邦に伝える。
劉邦が薛公を呼んで相談すると、「黥布が上策をとれば、天下の東半分はとられましょう。中策をとれば、勝敗は分かりません。下策なら陛下は安心できましょう」と答える。
劉邦がそれぞれの具体的な内容を問うと、薛公は「上策は、呉と楚、斉、魯を攻め取り、燕と趙に檄文を飛ばして守り抜くことです。中策は、呉と楚、韓、魏を攻め取り、敖倉(ごうそう)の穀物を奪い、中原への出入り口を塞ぐことです。下策は、呉を攻め取り、兵糧を越にいれて、長沙をただ守ることです。黥布は下策をとるでしょう」と告げる。劉邦から黥布が下策をとる理由を尋ねると、「黥布は元々、囚人であったものが、大国の王に成りあがっただけの人物です。それは全て彼自身のためで、後のことを考え、民や後世のことを考える人間ではありません。それゆえ、下策をとるでしょう」と答えた。
劉邦は「その通りだ」と言うと、彼に千戸を与えた。黥布は果たして、薛公の読み通り、荊国(呉)を攻めた。と、史書には記載されており、さも、黥布が下策をとったかのように思えるように印象操作されているが、実際の黥布は積極的な攻撃に出ており、下策ではなく、上策や中策に近い行動をとっている。
なお、楚の令尹でありながら、劉邦に仕えて、侯に封じられた人物に霊常という人物がいる。この霊常と薛公は同一人物の可能性がある。
霊常は、元々、荊(楚の別名)の令尹であり、項羽が垓下の戦いで敗れて自害した年に漢王朝に仕えた。その後、項羽軍の武将である鍾離眛(しょうりばつ)を討ち、劉邦に反乱を起こした利幾(りき、項羽の武将であったが劉邦に降伏していた)の討伐に加わり功績をあげ、漢の大夫に任じられる。
その後も、楚王であった韓信を捕らえることに協力し、中尉に任じられる。さらに、黥布討伐で功績をあげ、陽義(ようぎ)侯に封じられ、二千戸を与えられている。功臣としての順位では百十九位である。
創作物における黥布
『通俗漢楚軍談』
中国の講談を江戸時代に翻訳した講談小説。横山光輝『項羽と劉邦』はこれをベースにした作品である。
黥布は項羽に仕える武将として登場し、作品中、項羽に次ぐ武勇の持ち主として項羽軍の主力として活躍する。黥布は秦との戦いで活躍し、項羽軍の筆頭となる武将として、劉邦陣営を苦しめるが、奮戦した自分をねぎらうどころか人前でなじる項羽に失望し、項羽への援軍をためらっていたところを、随何に「項羽に義帝(楚の懐王)を殺した責任を押し付けられている」と言われて激高し、史実通りの展開もあって、劉邦に味方する。
史実通り、黥布は項羽を追い詰めることに貢献し、淮南王となるが、韓信に説かれて、劉邦に対して不信を感じはじめ、彭越の肉が塩漬けで届けられたのを見て、使者を殺害し、反乱を起こす。黥布の部下となっていた欒布(らんふ)が劉邦を矢で負傷させるが、戦闘に敗れて、逃亡中に殺害される。劉邦は黥布の首を近寄ってみたところ、黥布の首が目を見開いたため、病気と矢傷で苦しんでいた劉邦は倒れることとなる。
司馬遼太郎『項羽と劉邦』
日本における楚漢戦争ものの小説の中で最も世間で流通していると思われる作品。
黥布は項梁の部下の中でも、傑出した猛将とされ、突出しすぎな項羽と並んで軍を進めることができるほどの実力者である。黥布は、実際は天下を目指しており、項羽と劉邦との戦いの中で第三者として漁夫の利を狙おうと考える。
しかし、実際は主体性の弱い繊細な人物であり、随何に説得されて、劉邦につくか決断できないところで、随何の強引な手段により、劉邦に味方することを決め、劉邦に冷遇されていると感じた時には本気で自殺を考えるような人物であった。
後日談として「皇帝をなろうと思っただけだ!」と反乱を起こした時に、心に秘めていた野心を劉邦に告げたことが記載されている。
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関連書籍
佐竹靖彦『項羽』(中央公論新社)
項羽についての書籍であるが、黥布についても、黥布や呉芮の出身地や出自、項羽に反した理由が細かく考察されている。黥布を少数民族出身とする説をとき、義帝(楚の懐王)殺害の犯人についても黥布であったろうと推測している。
関連項目
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