「潜水母艦大鯨改め、瑞鳳型軽空母、龍鳳、参上しました。指揮官に勝利をもたらしてみせます!はい、今度こそ苦汁を舐め続けるんじゃなく、勝利します!」
龍鳳(アズールレーン)とは、スマホゲーム「アズールレーン」に登場するKAN-SENの一人である。
CVは長妻樹里。
美しさ、そして凛々しさを両立させたこの概要、お分かりいただけましたか?
KAN-SEN名 | |
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龍鳳 IJN Ryuhou |
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基本情報 | |
所属 | 重桜 |
艦種 | 軽空母 |
レアリティ | SSR |
CV | 長妻樹里 |
イラスト | Tony |
艦歴 | |
国籍 | 大日本帝国 |
出身地 | 神奈川県横須賀市 |
造船所 | 横須賀海軍工廠 |
艦級 | 同型艦なし |
進水日 | 1933年11月16日 |
就役 | 1934年-1941年(日本/潜水母艦) 1942年-1945年(日本/航空母艦) |
最期 | 1946年9月25日(解体) |
備考 | |
潜水母艦「大鯨」から改装された軽空母。
新たな力を手に入れ戦場に向かおうとしたものの、
ついに勝利できなかったカンレキの反動からか、
時々ちょっとせっかちになり、無鉄砲な行動に出る事も。
2019年12月26日より開始されたイベント「翳りし満ちる影の華」にて初登場・実装された重桜所属のKAN-SEN。
元ネタは大日本帝國海軍が運用した小型空母龍鳳。黒く長い髪の毛をポニーテールでまとめ、腰には脇差が据えられている。性格は至って真面目で、凛とした佇まいが美しい。指揮官を献身的に支えるKAN-SENの鑑だが、自身の力不足を痛感しており、正規空母のように強くなれていればと悔やむ姿も見受けられる。隼鷹や飛鷹同様、式神を航空機にして飛ばす方式を取っており、曙光のように美しい橙色の飛行甲板を持つ。書類上は祥鳳と(準)同型艦だが、元になった軍艦が違うからか似ても似つかぬ姿となっている。
元々は潜水母艦であり、甲斐甲斐しく世話をしていた事から転身した現在でも潜水艦に懐かれている模様。また史実で一緒に戦った縁から時雨を気にかける一面があり、時々手料理を振る舞ってあげているようだ。どうやら重桜には武家が存在するようで、武人になるべく日々精進を続けている。
凛とした美しさを持つ彼女だが、何故かスカートを履いていない痴女スタイル。そのおかげでショーツが僅かながら見えている……。真面目系痴女とは恐れ入った。
絵師はTony兄貴。絵柄的にシャイニングシリーズにいそうなキャラである。セントーに続いて2隻目。デザインコンセプトは「軍服姿の竜人」との事。ますますシャイニングシリーズにいそう。
初登場イベントでは、重桜領内で行われる「祭儀」の準備と監督役を担当。同じく実装された能代、駿河、鬼怒、霞を束ねるリーダー的存在となっている。連合艦隊演習の手配と対戦表を作ったのも彼女である。案内役として祭儀に参加する赤城と加賀を会場へ招待した。この時に祭儀の慣わしに則って赤城と演習し、敗れこそしたものの「手を抜く余裕も無かった」と実力を高く評価された。イベント中盤でセイレーンが襲撃してくるが、一切の動揺も見せずに率先して迎撃。陣頭指揮を執りながら敵を退けている。このように実力と美貌を兼ね揃えた優秀なKAN-SENとして描かれている。
艦船実装と同日に、お正月着せ替え「鳳舞う正月」も実装された。Live2D仕様で、どことは敢えて言わないが、指揮官のみんなが大好きなあの部分が動きまくってくれる。残念ながら正月期間中の限定販売なので、買い逃した指揮官は次の正月を待つことにゃ。
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https://twitter.com/azurlane_staff/status/1210110070467391488
積もりに積もった我が思い、思いっきりぶつけてやります!(性能)
潜水母艦から改造された経緯を持つからか、祥鳳同様に回復スキルを持つ。重桜SSRで回復スキルを持っているのは龍鳳が初である。高難易度海域では恩恵を得られるだろう。
スキル1:波舞う龍鳳
戦闘中自身の三回目の航空攻撃発動まで、【現在耐久が最大値に対して占める割合が一番低い味方水上艦】の耐久を3回回復する。回復量は龍鳳の耐久最大値の1.2%(MAX3.0%)になる(戦闘開始時、味方主力艦隊が3隻存在する場合、回復量を2倍にする)
スキル2:世話焼きクジラ
自身が戦闘可能である限り、前衛艦隊の受ける潜水艦の魚雷攻撃ダメージを4.5%(MAX12.0%)軽減する;味方潜水艦が戦場に到達した場合、潜水艦の耐久を10.0%(MAX20.0%)回復する;味方潜水艦が敵艦を撃破した場合、戦闘終了まで自身の与えるダメージが1.0%(MAX3.5%)アップ(最大6回加算可能)
スキル1は、祥鳳やユニコーンと同じ航空攻撃と同時発動の回復スキル。ただ、彼女らが前衛艦隊の回復に特化しているのに対して、こちらは割合的に最もダメージを受けている味方艦船を回復することになる。そのため、主力艦隊も対象になる。味方の主力艦隊が3隻フル編成ならば回復量が2倍になるため、戦闘力を考えれば燃費をケチらずに主力を3隻揃えよう。
スキル2は、1…対潜水艦戦における味方の支援。2…味方潜水艦を呼び出したとき、耐久を自動回復。3…味方潜水艦の戦果によって龍鳳自身にかかるバフ。と3つもの効果を持つ欲張りなスキルである。もと潜水母艦であるがゆえのスキル設定だろうか。
潜水艦の子のお世話はなかなか大変ですね…じ、実体験ですから信じてくださいっ!(艦歴)
こちらも参照 → 龍鳳
前身は潜水母艦大鯨で、1934年3月31日に竣工した。元々大鯨は有事の際に空母へ改装できるよう設計されており、大東亜戦争開戦直後の1941年12月20日に横須賀工廠で改装工事を開始。しかし1942年4月18日にドーリットル空襲が発生し、B-25から投下された爆弾が工事中の大鯨に直撃。幸い致命傷ではなかったものの、工事の遅延が生じた。加えて大鯨時代に大問題となったディーゼルエンジンの換装や、電気溶接から従来の鋲へ変更するといった手間で改装に時間が掛かり、11月28日に工事完了。11月30日に軍艦龍鳳と命名され、舞鶴鎮守府に転属。ようやく空母に生まれ変わった。
最初の任務として、トラック諸島に陸軍飛行第45戦隊の九九式双発軽爆撃機22機と人員の輸送に臨む。12月10日に横須賀を出発し、駆逐艦時津風に護衛されながら初航海を行った。ところが出港から僅か2日後、八丈島東方約160海里で米潜水艦ドラムに雷撃され、中破。沈没の危険は無かったが輸送が困難になり、横須賀へ後退。最初の任務は散々な結果に終わってしまった。龍鳳が運ぶはずだった九九双爆は瑞鶴によって輸送された。
1943年1月15日、訓練専門の第50航空戦隊が新設。たまたま内地に残っていた龍鳳と鳳翔が練習空母に選ばれ、後進の育成に精を出す。6月11日、前線から内地に帰投する瑞鶴と交代する形でトラックに進出する事になり、第3艦隊第2航空戦隊に転属。瀬戸内海西部を出発し、横須賀に回航された。横須賀軍港内では米潜トリッガーの雷撃で中破した飛鷹の姿があり、飛鷹に代わって搭乗員と機体をトラックに輸送する事になった。6月16日に横須賀を出発。トラックに向かっていたが、入港直前に米潜スピアフィッシュから雷撃を受ける。幸い命中せず、6月21日にトラックへ到着。悪化の一途を辿るソロモン方面の戦局を支えるため空母艦載機を陸上基地へ供出する事になり、龍鳳からは零戦31機、九七式艦攻12機、九九式艦爆18機を派遣。7月2日、龍鳳航空隊はブーゲンビル島ブイン基地に進出。ソロモン諸島レンドバ島、ベララベラ島、ニュージョージア島に上陸した連合軍と交戦。7月24日13時30分、哨戒中の艦載機がベララベラ島北西海域でロッキード・ハドソンを発見し、15分間の交戦を経て撃沈。8月1日朝のレンドバ島攻撃でPT-117とPT-164を、8月15日の夜間雷撃で攻撃輸送艦APA-23ジョン・ペン(9360トン)を撃沈し、迎撃戦では30機以上の敵機を撃墜する獅子奮迅の戦果を挙げる。しかしその代償に機体の半数を失い、残余の機体と搭乗員は現地の航空隊に吸収されて戻ってこなかった。
航空隊を供出した龍鳳は補給のため内地へ戻る事となり、7月19日にトラックを出発。7月24日に呉へ帰投し、瀬戸内海西部で発着艦訓練用の練習空母となる。9月22日から呉工廠で修理を受け、9月27日に出渠。10月6日に呉を出港。空母千歳とともにシンガポールへの航空機輸送任務に励む。往路だけで2回の敵潜が出現したが、護衛の駆逐艦雪風のおかげで難を逃れた。10月19日にシンガポールに到着し、機材を揚陸。代わりに南方南の生ゴム、ニッケル、コバルトを満載して出港。海南島三亜港を経由し、11月5日に呉へ帰投した。続いて11月22日に出港、今度は飛鷹とともに南方の各拠点やトラックに航空機を輸送する。マニラ、セレター、タラカン、パラオ、トラック、サイパンに航空機を届けた。
1944年1月2日、長旅を終えて呉に帰投。1月17日から因島造船所に入渠して整備を受けた。3月4日、第652海軍航空隊の一部が龍鳳に乗艦。久しぶりに自身の艦載機を手にする。3月13日、龍鳳は第1航空艦隊のサイパン進出に協力する事になり、今度は瑞鳳とタッグを組む。鹿児島と伊勢湾鈴鹿沖で航空機を積載し、3月29日に出発。テニアン島近海に敵の大艦隊が出現したとの報が入り、一時は瑞鳳ともども北方へ退避する事もあったが、何事も無かった。道中でグアム方面に向かう瑞鳳と別れ、4月2日午前7時9分にサイパン着。持ってきた機材と人員を揚陸した。翌日出発、内地への帰路についた。本土近海は荒天で時化になっており、4月7日に徳山湾で仮泊。4月8日に呉へ入港した。その後は4月29日まで発着艦訓練に従事。
「あ」号作戦発令に伴い、龍鳳は南方のタウイタウイ泊地へ進出する事になった。5月11日、戦艦武蔵、空母隼鷹、飛鷹、千歳、千代田等とともに佐伯湾を出港。沖縄の中城湾で駆逐艦に給油を行い、5月16日19時28分にタウイタウイへ到着した。泊地の中央には既に進出していた大鳳、翔鶴、瑞鶴の姿があり、龍鳳はその北側に投錨。73隻の艦艇が集結した。泊地でも訓練が行われたが、湾内は無風の日が多くて訓練に適さず、かと言って湾外に出れば跋扈している米潜水艦の餌食になるという八方ふさがりの状況だった。
6月19日、マリアナ沖海戦に参加。隼鷹や飛鷹とともに乙部隊を編成し、索敵で発見した敵艦隊に向けて攻撃隊を発進させた。しかし圧倒的多数の敵機に迎撃され、371機中215機が未帰還になる大損害を受ける。翌20日17時30分、200機以上の敵機が出現。龍鳳は僅かに残っていた26機の零戦を出撃させたが、間もなく全艦艇が凄まじい攻撃に曝された。まず龍鳳には5機の雷撃機が迫り、5本の雷跡が伸びてきた。回避運動で魚雷をかわして対空砲火を浴びせたが、撃墜には至らなかった。次にヘルキャットの編隊が迫り、機銃掃射を浴びせる。その背後からドーントレスの編隊が迫り、8発の投弾を受けたが全て至近弾で済んだ。17時57分、アベンジャー雷撃機の編隊が龍鳳に接近。龍鳳は対空戦闘に気を取られていて接近に気付いておらず、敵機は既に雷撃の発射体制を取っていた。まさに絶体絶命の窮地だったが、援護に回っていてくれていた駆逐艦時雨の対空射撃により敵編隊は退散、九死に一生を得た。今度は頭上から敵機が急降下爆撃を仕掛けてきて、投弾。龍鳳は急転舵で回避しようとした結果、艦が大きく傾いた。これが功を奏し、身をよじる形となって敵弾を回避する事に成功した。もし艦が傾かなければ、爆発の位置的に致命傷を負っていたとされる。18時10分、4機のアベンジャーに襲撃されて小破したが、戦闘航海に全く支障が無い程度の軽傷だった。龍鳳は無傷で生き残ったが隼鷹は中破、飛鷹は沈没と壊滅状態であった。小沢機動部隊全体で見ても大型空母3隻と航空機400機以上を失っており、再建したばかりの機動部隊は音を立てて崩壊した。6月24日、やっとの思いで柱島へ帰投した。
マリアナ沖海戦の戦訓により龍鳳には大幅な強化を受ける事になり、7月9日に呉工廠に入渠。損傷した飛行甲板を修理し、最新鋭機の運用ができるよう約15m延伸。対空機銃や噴進砲の増備、13号電探と21号電探の装備、徹底的な難燃対策を受け、より力強い姿に生まれ変わった。7月20日、出渠。しかしマリアナ沖海戦の敗北で載せる航空機が無くなってしまい、第2航空戦隊は解隊。それでも空母機動部隊再建のため瑞鶴や瑞鳳とともに訓練に瀬戸内海で従事していたが、10月12日から16日にかけて行われた台湾沖航空戦で航空機を払底。再建は夢のまた夢となってしまった。また10月20日にレイテ湾スルアン島にアメリカ軍の大部隊が上陸し、捷一号作戦が発令。瑞鶴と瑞鳳は囮の機動部隊として出撃したが、龍鳳は内地待機と相成った。理由は速力の低さを憂慮されたとも、乗せる航空機が無かったためとも言われる。代わりに台湾沖航空戦で被害を受けた第61航空廠の再建資材を商船改造空母海鷹と運ぶ事になり、10月25日午前11時に佐世保を出港。南方ではレイテ沖海戦が行われていたが、こちらは平穏な航海だった。10月27日午前7時に台湾北部の基隆港へ到着。資材を揚陸し、燃料用砂糖とアルコールを積載。10月29日13時30分に基隆を出港し、10月31日17時30分に六連島に到着した。11月7日から15日まで第1航空艦隊の旗艦になったが、第1航空艦隊そのものが解隊されてしまったため、第1航空戦隊に転属。
12月13日、アメリカ軍2万7000名がミンドロ島に上陸。これを受け、フィリピンに特攻兵器「桜花」を緊急輸送するよう命じられる。今回タッグを組むのは新型空母雲龍であったが、龍鳳に先立って出港したところ敵潜の襲撃を受けて撃沈されてしまった。この一件で輸送先が台湾の高雄に変更された。呉軍港で桜花や物資の積み込みを行い、12月28日に出港。翌29日午前7時に門司港へ到着し、ヒ87A船団に参加する。12月31日午前8時20分、敵機動部隊が東へ退却した隙を突いて門司を出発。敵潜の出現に備えて大陸沿いの航路を選び、朝鮮半島方面に向かう。半島西部から黄海に入り、中国大陸に沿って南下する。
1945年1月3日、空襲警報発令に伴って舟島列島北方泊地に避難。1月7日午前5時35分に難所の台湾海峡へ差し掛かった。ここは大陸からの航空支援が受けやすい代わりに敵潜の集結地点となっていた。さっそく敵潜ピクーダとバーブに襲撃され、貨物船宗像丸が大破させられている。13時、貴重な空母である龍鳳を守るため司令部は船団を2つに分け、龍鳳は近い基隆へ逃げ込んだ。積み荷の桜花を降ろし、内地に帰還する便乗者や砂糖を積載。あとは内地に帰るだけだったが基隆には備蓄燃料が無く、やむなく南部の高雄港へ向かう事に。しかし、ここで高雄を狙った空襲に巻き込まれてしまった。1月9日午前6時15分、空襲警報が発令。龍鳳に12機のアベンジャーが襲い掛かったが、対空砲火でアベンジャー1機を撃墜して難を逃れた。1月11日に基隆へ避難し、タモ35船団を護衛して出港。1月17日に門司へ到着、翌日呉に回航された。この航海は日本空母最後の外洋航海となった。もはや内地に燃料は無く、以降は外洋に出る事さえ叶わなくなり、訓練用空母となる。2月26日から3月4日まで、第4船渠で入渠。
1945年3月19日早朝、呉軍港空襲に遭遇。午前7時20分、広方面からグラマン4機が飛来し、休山を飛び越えて呉に侵入。24番浮標に停泊中の龍鳳に向けて14cmロケット砲弾を撃ち込んできた。命中はしなかったものの、この攻撃を機に激しい攻撃が始まった。龍鳳は対空砲火と噴進砲を放って抵抗し、第一次と第二次の空襲を無傷で乗り切ったが、第三次空襲で3発の爆弾と3発のロケット弾を喰らって大破。100mに及ぶ火柱が立ち、もくもくと黒煙が立つ。幸運にも機関は無事だったため吉浦沖に退避して対空砲火を撃ちまくり、ヘルダイバー2機を撃墜。午前11時20分に空襲警報が解除され、龍鳳の内火艇がパラシュート降下したジョアン・D・ウェールズ海軍中尉を救助。同乗のミラード・ウィルコックス二等飛行通信兵曹は既に溺死していた。3月24日から一週間ほど修理を受けたが龍鳳の傷はとても深く、修理不能と判定されてしまう。3月31日、機雷封鎖に現れたB-29へ向けて対空射撃を実施。以降は防空砲台として江田島沖に係留。敵に見つからないよう擬装を施したが、これがとても精巧で、終戦までアメリカ軍に発見されなかった。
8月15日、終戦。大破状態とはいえ、海の上に浮いたまま生き残った4隻の空母に連なった。損傷が酷かったため復員船には使用されず、1946年4月2日より播磨造船が解体開始。9月25日に完了した。
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