奸臣とは、国を傾けた臣下のこと。佞臣、獅子身中の虫とも。対義語は忠臣。
奸臣と呼ばれる理由
能力もないのに高い地位についたもの、地位を賄賂で手に入れたもの、国政を壟断したものなど様々だが、基本的には、
- 権力を手にしたはいいが政治能力がない、もしくは私服を肥やすことしか考えていなかった結果、仕えていた勢力や国を衰退や滅亡に導いた。
- 恩義を受けたにも関わらず裏切った。
- 君主に代わって専横した。のみならず簒奪を計ろうとしたが失敗した。
- 売国的な決定を下した。
とりあえずはこの4点ではないだろうか。前者の場合は、そもそも有能であれば滅びないので必然的に敗者になってしまい、勝者側に好き勝手言われてしまう。権力闘争で負けた側も「主君を惑わして、あわや亡国や簒奪しかけた奸臣」として好き勝手に言われてしまうのではないないだろうか。
簒奪関連については、成功すれば奸臣から国を興した名君にクラスチェンジするので、必然として簒奪に失敗した人物に使われる。また、簒奪に失敗したというよりは、独裁した人物を排除する口実として使われる傾向にあり、特に、江戸時代のお家騒動では改革派が敗れて守旧派が一方的に相手を貶める例が散見される。
宦官は女性と同様に政治に関わっただけで悪とされることが多く、その功績は完全に無視されていることも多い(歴史書の類は当然に彼らに反対した者によるものであり、功績自体も伝わらない)。それどころか、鄭衆や高力士、鄭和といった有能な宦官が亡国のきっかけと言われてしまうほどである。
中国の場合は客観的に見ても奸臣だと判断せざる人物が多い反面、日本については判断に困る傾向にある。これは中国は王統の断絶が相次いだのに対して、日本は未だに続いていること。中国では独裁が容易なのに対し、日本では難しいことが原因として上げられるかもしれない。
君主と違い、滅んだ国や勢力に所属していたことはそれほど低評価とはならない。三国志を見ても有能であれば外様家臣でも大いに引き立てられていることが多く、魯粛は逆にこの傾向を利用して魏へ降ることを主張する家臣と孫権との仲を裂いている。そもそも三国志の著者である陳寿本人が蜀の旧臣なのである(もっとも陳寿への後世の中傷は相当なものだったが)。
また、曹操や明智光秀のような能吏→奸雄、松永久秀・斎藤道三のような下剋上系梟雄、趙括のようなやらかしい系のダメ家臣は奸臣とはあまり言われない。ちょっぴり情けないエピソードが残っているならそれに越したことはない(ハズ)。
日本においてはお家騒動に見られる歌舞伎の影響もあり、実像以上にその悪辣ぶりが印象付けられることも多い。
中国の奸臣
多くの紀伝体の歴史書において佞臣・奸臣伝が設けられているほどの人材(?)の宝庫。ここではほんの一部。ちなみに歴史書の末尾には奸臣たちの伝記が纏められており、国を滅ぼしかけたのを「奸臣」、反乱を起こした者を「逆臣」主君におべっかを使って出世したものを「佞幸」、法を自分の都合のいいように厳しく運用した者を「酷吏」とカテゴリー分けされている。
- 費無忌
春秋時代の楚の家臣。主君平王の息子建の嫁として秦の公女を迎える使者となるが、美女であったので自身の野望のためにその公女を平王本人に嫁がせてしまう。当然、建は費無忌を恨むが先手を打って讒言により建を追放。その家臣である伍一族も皆殺しにする。余談だが、この伍一族のうち呉へと逃亡した人物が名将伍子胥であり、数十年後に楚の首都を占領。平王の屍を墓から暴いて鞭打った。これが「死人に鞭打つ」の語源。 - 郭開
戦国時代末期の趙の家臣。刎頸の交わりで有名な老将廉頗を老害と讒言して遠ざけ、防戦の名手李牧もついでに讒言で暗殺。趙滅亡の原因を作った。その悪事は司馬遷の史記において余すことなく描かれており、ある意味では中国における奸臣像を作り上げた人物である。 - 趙高
秦代の宦官。始皇帝の秘書として辣腕を振るう。始皇帝死後は末子の胡亥を唆して兄の扶蘇を自害に追い込み反対派を徹底粛清。その権威は胡亥を上回り、ある日宮中に連れてきた鹿を彼は馬と呼び「鹿ではないか」と反論した胡亥を尻目に、後難を恐れる家臣たちは「馬でございます」と趙高に賛同。また、阿房宮に代表される広大な宮殿建設を行い民力を疲弊させた。言うまでもなく、馬鹿と阿保の語源(ただし、諸説あり)である。あまりの酷さに趙の姓から「実は趙の皇族であり、秦を恨んでわざと獅子身中の虫となったのでは?」と言う噂が立った程。 - 十常侍
後漢の宦官集団。実は十人ではないがまぁ四人じゃない四天王もいるのでその辺は適当。蹇碩がその代表格とされる。後漢は外戚の専横を宦官が粛清して以来、伝統的に宦官が政治を壟断する余地が大きく常に清流派と呼ばれた名士階級との対立を抱えていた。その点では最期にババをひかされた人たちと言えなくはない。 - 黄皓
蜀漢の宦官。劉禅の寵愛を受け、姜維その他能臣を遠ざけて国政を壟断したとされる。蜀漢の宮中の空気の悪さは使者を通じて他国でも知れ渡っていた。彼の存在が劉禅の悪評の半分以上を占めていると言っても過言ではない。ただし、日本では40年に渡り蜀を支えたことから内政では力があったのでは?と言う擁護論もある。あまりの憎さに、史実では賄賂を敵に送ったため殺されていないにも関わらず、演義では処刑されている。 - 慕容評
五胡十六国時代前燕の政治家。軍需物質を横流しして私財を肥やす。40万の大軍を率いるも兵士の士気は当然に低下し、前秦の王猛6万に惨敗。主君を捨てて高句麗に逃亡。その後、前秦に引き渡されたが、何故か前秦では厚遇され殺されることもなく天寿を全う。後味の悪さでは黄皓以上。 - 朱イ(朱异)
中国南朝の梁王朝の政治家。東魏の降将である侯景を最初は重用していたが、敗北すると一転して東魏との和睦を進言。侯景は激怒して反乱を起こし、首都建康が陥落してしまう。平家物語の冒頭で稀代の奸臣と挙げられているが、それより漢字が変なことで日本では有名(ただし「異」と同異字) - 楊国忠
唐代の政治家。楊貴妃の又従兄。楊貴妃の一族として宰相まで上り詰める。白楽天の長恨歌に描かれている「一族全てが列士となった」「ついには世上でも男子より女子の誕生を喜ぶ」の一節はこの栄華を指している。生来軽薄な性格であり、安禄山の乱を誘発。逃亡中に恨みを抱いた兵士に殺害される。本人も暗い未来を予知していたのか「どうせ悲惨な結末なら今の内に栄華を楽しむ」と公言していたと言う。 - 秦檜
南宋の政治家。金の風下に立つ和睦を結び、徹底抗戦を叫ぶ岳飛ら抗金派を粛清。以後19年間に及んで独裁体制を維持する。救国の英雄である岳飛を無実の罪で殺害したことから、漢奸(売国奴)の典型とされ岳飛像の前に膝を折って土下座させられ現在でもその像に唾を吐きつけられると言う屈辱を受けている。また、中国では棒状の揚げパンを油条と呼び、起源は庶民が彼とその妻をパンに見立てて釜茹でにして鬱憤を晴らしたことに由来すると言う。あまりの嫌われっぷりの反動か、金との国力の差を見て現実路線を取ったのだと言う擁護論もあるが、近年の中国における愛国心の高まりから再評価は当分なさそう。ただし、岳飛が大活躍して国土を回復してもそれはそれで問題なため、実は高宗が岳飛を粛清したがっていて秦檜はそのダシとして使われたという見方もある(安能務) - 賈似道
南宋の政治家。大変な享楽家で絵画・美術品収集やコオロギ相撲に熱中。特に後者は世界初の昆虫育成本を成したほど。政治家としても無能ではなく、モンケの死に乗じたとは言えクビライのモンゴル軍を一時撤退させ、以後20年に渡り南宋を延命させている。しかし、文天祥らのちに英雄とされる人臣たちと折り合いが悪く、呂文煥ら前線の軍人に補給を送らないなどの嫌がらせを行う。耐えかねた呂文煥はモンゴルに降伏。自ら前線に赴くも大敗し、失脚。左遷先で殺害された。上述の秦檜と並び宋の四悪人の一人。ただし、クビライは彼の悪口を言った南宋の降将を軽蔑するなど擁護したと言うエピソードがある。良くも悪くも文化的評価の高い宋を代表した政治家。陳舜臣は孟珙の後任足る人物だと称えており、「彼がいなかったら南宋は早期に滅亡していた」と断言している。 - 王振
明の悪徳宦官その1。明の4代皇帝英宗の家庭教師となったことから、英宗が即位すると絶大な権力を握り、私服を肥やしまくった。しかし、交易のトラブルからオイラトが侵入すると親征を強行、従軍したがオイラト軍の強さと王振の指揮の下手さによって土木で大敗。英宗は捕虜となり、王振も戦死した。 - 劉瑾
明の悪徳宦官その2。正徳帝を堕落させ国政を壟断。秘密警察を使って恐怖政治を敷く。さらに賄賂や横領により国家予算の10年分に及ぶ財を蓄える。しかし、明は権臣による皇帝の廃立擁立が不可能な政権であり、皇帝の寵愛も失って没落することを恐れて帝位の簒奪を企てたが発覚、謀反人として三日間の凌遅刑(体を生きたまま刻まれる刑)に処された。その処刑は凄惨を極めたらしく、3,357回も切り刻まれた。あまりの憎さに肉片を食べたり仏前に供えたりする遺族が続出したと言う。何をやったのかではなく、どうやって死んだかで有名な人物の一例。 - 魏忠賢
明の悪徳宦官その3。元は無頼であったが出世するために一念発起して宦官に。皇子時代の天啓帝の食事係となると、こびへつらいの上手さで出世。天啓帝の乳母である客氏と愛人関係を結ぶ、恩人であろうとも始末する非情さで後宮を支配し、天啓帝が即位するとやる気がないことをいいことに政治を壟断した。
特徴としては秘密警察の東廠の長官になると全国にスパイを放ち、少しでも批判的な事を言っただけ皮剥ぎなどの残酷な処刑をしたこと。息のかかったものに「魏忠賢は孔子と並べて称えるべきだ」と進言させて、自身を「尭天舜徳至聖至神」と呼ばせる。「万歳」よりも少し少ない「9千歳」と呼ばせるなど権勢の限りを尽くした。しかし、この頃はヌルハチの後金が台頭し始めた時であり、明の将軍が負けても魏忠賢に賄賂を送れば勝ったことにすることができたので、抜本的な対策が行えず、後金は勢力を拡大させていくこととなった。
これほどの権勢を誇った魏忠賢であったが、天啓帝が夭折して弟の崇禎帝が即位すると権勢を失い、処刑されることを悟って自殺。客氏以下の一党も処刑された。万暦帝が明の滅亡のきっかけを作った人物なら、魏忠賢はとどめをさした人物ともいえる。 - ヘシェン
清、乾隆帝の寵臣。どういう訳か乾隆帝の寵愛を受け、軍機大臣の地位まで昇進し、乾隆帝の代わりに専横の限りを尽くした。地位に相応しい能力がなくひたすらに私服を肥やしただけの人物であり、激しい取り立てに反乱もおきるほどだった。
権勢の限りを尽くしたヘシェンであったが、乾隆帝が死去すると権勢を失い次の嘉慶帝によって自刃を命ぜられた。見方によっては殉死ともいえる。その際に没収された財産は金150万両も含めて国家予算15年分とも言われており、wikiではその当時の世界1の富豪ではなかったかと言われている。
世界の奸臣
- セイヤヌス
古代ローマ帝国皇帝ティベリウスの親衛隊隊長。隠棲したティベリウスの代理人として絶大な権威を誇り、暗殺や政敵の排除などで大いに辣腕を振るう。コンスルと呼ばれる統治権限も与えられ、事実上皇帝の同僚扱いとされるも直後に謀反の疑いがかけられ失脚。絞首刑ののちに広場で市民に石打ちにされ、その存在は記録抹殺刑に。一族はもちろん、その幼い娘も強姦の上で絞首刑(ローマ法では処女の絞首刑は禁止されていたため)に処せられた。ローマの酷刑史の中でも特筆すべき最期と言えるだろう。 - オリバー・クロムウェル
イギリス清教徒革命後の護国卿。ネイズビーの戦いで王統派を打倒。チャールズ1世を処刑し、独裁体制を確立する。死後は息子たちの失政もあり混乱が相次ぎ、最終的に王政復古へ。墓を暴かれ死体に絞首刑と言う恥辱を受ける。どちらかと言うと奸臣と言うより謀反人かも。現在でもその評価は分かれている。 - ヴァレンシュタイン
神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント2世に仕えた傭兵隊長。三十年戦争では従来の略奪ではなく、継続的に税を取り立て給与として兵に与えることで軍を維持。近代的常備軍の先駆けと評されるも、最期はその常備軍的性格を帯び始めた軍内部と皇帝から傭兵的性質が疎まれ暗殺される。シラーが彼の中世と近世的側面の奇妙な同居を描いた戯曲「ヴァレンシュタイン」を発表するまで、その評価は低いものだったと言う。 - ラスプーチン
ロシア帝国末期の祈祷師。アレクサンドラ皇后に大きな影響力を保持し国政を壟断。革命にいたる遠因を作ったとされる。現在でも東西問わず「ラスプーチン」は怪人物を指す二つ名である。ただし、政治に介入したと言う証拠は全くなく、その影響力は皇室内に限られていたとする説が近年では有力。ロシアでは戦時中は皇后が銃後の代表者とする考えがあり、そのアレクサンドラがドイツ人であるため国民人気が薄く非難の矛先が向きやすかった側面が強い。
日本の奸臣
- 道鏡
孝謙天皇の寵愛を受けた法相宗の僧。上述のラスプーチンと同様に巨根伝説があり孝謙天皇から「足が三本あるのか」とまで絶賛されたと言う。女帝をコマし宇佐神宮の神託があったと言う形で帝位を狙ったが、空気読めない和気清麻呂に阻止されその野望は潰えた。ただし、これら姦通から神託まで一切の一次資料はない。孝謙天皇の系統の皇統が断絶したことと、藤原氏の支配により事実以上のことが描かれていると言う説もある。なお、出身地の八尾市では女帝と恋に落ちた地元出身の「イケメン坊主」とされ、昔から割と好意的に見られており市のホームページや図書館などの施設で盛んに宣伝がなされている。 - 藤原時平
平安時代の左大臣。学者肌の菅原道真を嫌い、讒言により大宰府へと左遷させた。道真の死後、39歳の若さで急逝したため道真の祟りではないかとされた。江戸時代には天神信仰が盛んになったため、彼と対立した時平は悪人とされ歌舞伎「天満宮菜種御供」では善人面しつつ陰謀を巡らす悪役となっている。文化面・政治面での功績は道真にも劣らないのだが、天神信仰の他にも彼の血統がその後貴族社会で無視された存在となったことが大きいようだ。 - 長田忠致
平安時代末期の武将。源義朝の乳兄弟である鎌田政清の舅であったことから、平治の乱で敗れた源義朝と鎌田政清が彼の元に落ち延びるが恩賞に目がくらんで両者を殺害。その功績で壱岐守に任じられるが「恩賞が低すぎる。左馬頭、でなければ美濃か尾張の国司になって当然」と文句を抜かしたため、危うく処罰を受ける羽目になったという。
義朝の子である、源頼朝が挙兵すると頼朝軍に参加。主君の親を殺したという立場であったが、頼朝から「懸命に働いたら美濃尾張をやろう」と言われたため懸命に働いた。しかし、平氏が滅亡すると追討される立場になり「約束通り、身の終わりをやろう」といわれて処刑されたという。 - 梶原景時
平安~鎌倉時代の武将。義経を讒言して死においやり、自らは頼朝の寵愛に奢って権勢を振るったとされる。最期は失脚して一族郎党皆殺し。江戸時代になると俗に言う判官贔屓によりこの傾向は深まり、上述の時平以上のバッシングを受けるハメになる(時平の場合は悪役ながら主人公であり、むしろ痛快なピカレスクロマンとすら言える)。近年では義経にはない優れた政治力を持つリアリストとして描かれた作品が多く、旧来の判官贔屓的作品はなりを潜めている。リアリストによる英雄の粛清と言う点では秦檜に近いかもしれない。 - 松田憲秀
戦国時代の武将。北条氏政に仕える。秀吉の小田原出兵に徹底抗戦を主張するも、圧倒的兵力の前に内通を試みる。これが息子を通じて氏政側にバレ、親が主君を裏切り子が親を裏切る展開に失望したことが開城の遠因となったと言う。その後、秀吉にその不忠を咎められ処刑された。その豹変ぶりは後世でも激しく非難されており、北条記では氏政の暗愚さに責があるとまで評されるほど。ただし、実際は主家のために和平交渉を進めた(この時代は主君に利があるなら独自外交は決して悪ではない)ことが原因であり、必ずしも裏切りを考えていた訳ではないとされる。 - 久武親直
戦国時代の武将。兄親信は彼の器量の悪さを見抜いており、主君である長宗我部元親に絶対に重用してはならないと公言していたと言う。しかし、妙に時勢を見る目はあり、元親死後の家督争いでは長宗我部盛親を支持したことから盛親に重用される。以降、讒言により反対派を次々に粛清。関ヶ原後は家康に臣従するように提言し、これは正論であったが同時に盛親の兄の殺害も讒言して実行させる。結果、家康はその骨肉相食む様に呆れ果て長宗我部氏を改易。ここまでならただの奸臣なのだが、あろうことか彼は何の処罰を受けることもなく加藤清正に再出仕する。その変節ぶりは多くの人の恨みを買ったと言う。擁護するエピソードは一つも存在しない、ある意味稀有な例だが、再出仕できたと言うことは能力的な高さがあったからかもしれない。 - 中坊秀佑
大名筒井定次の家臣。主君の寵愛を得ると、島左近や松倉重信といった家臣を追放。家中を専横した。にも関わらず、徳川家康に主君の不行状を訴え、これが原因で筒井家は改易、定次は息子共々切腹に追い込まれることとなった。
中坊が何故、徳川家康に訴えたのかは不明だが、一説には徳川家康が伊賀を収める大名、筒井氏を潰したがっており、その裏取引で讒訴に及んだものとされている。その結果、家康の直臣となり奈良奉行に任じられているが、筒井家の旧臣によって暗殺されている。 - 原田宗輔
江戸時代の仙台藩家臣。原田甲斐とも。伊達政宗の不肖の孫である伊達綱宗が隠居したあと、その伯父である伊達宗勝と共に藩政を壟断。重臣間で激しい権力闘争が行われ、再びお家騒動へと発展した。事態を憂慮した家臣、伊達宗重は幕府に仙台藩の現状を直訴し大老酒井忠清の沙汰を仰ぐことになった。この沙汰で不利となった原田は自暴自棄になり宗重を殺害。原田自身もその場で切り殺さた。最終的に幕府は原田らに全ての責を被せ、仙台藩はお咎めなしとした。原田の一族は乳飲み子から女性、養子に出た者まで死罪となり家は断絶した。歌舞伎「伽羅先代萩」の悪役・仁木弾正のモデルとなった人物である。ただし、近年の研究では宗勝と宗輔は不仲であったと言う説も存在し、彼の本心は定かではない。この点に着目して彼を逆に忠臣として描いたのが山本周五郎の小説「樅ノ木は残った」である。歌舞伎で悪玉にされ小説で善玉にされた例。 - 武田観柳斎
幕末、新撰組の五番隊隊長。男色家でめぼしい若手の侍に手をつけてまわったとされる。また、上の者に媚びへつらい、近藤勇が増長するきっかけを作ったとされる。甲州流軍学の権威とされ当初は大きな影響力を保持していたが、洋式の兵制が敷かれるにつれて立場を失う。最期は薩摩藩への接近がばれてしまい暗殺された。るろうに剣心の作者として知られる和月伸宏は「新撰組の敵役は誰もそれなりに信念をもっているのに彼にはそれがない」として漫画キャラとしては高く評価。武田観柳として他の新撰組よりも早くエピソードに参加させている。
見方が異なる人物
- 馮道
五代十国の主役というべき政治家。
後梁以外の4朝と遼に仕えて、場合によっては宰相位にも登ったという高官であるが、やった事というのが侵略者を出迎えて、任用されるという事を繰り返すという忠臣とは真逆のことを繰り返したため、後世からは無節操漢として評価が低い。しかし、五代十国の時代の君主というのは一部の例外を除いて政争に明け暮れて、民衆を顧みることはなかった。このような時代ではたかだか一王家の永続よりも、民衆の幸せの方が大事であり、非常時の宰相として王朝交代時の混乱と災厄を可能な限り抑えた馮道を評価する歴史家もいる。(孟子でも、非道な国王はぶっ倒してもかまわんと名言されている) - 王安石
北宋の政治家。衰退期に入った宋を立て直すために新法党と呼ばれた改革派を起こすも、既得権益を保持していた人々(司馬光などの旧法派)の反感を買って失脚、成功したとは言い難かった。その死後はもはや新法・旧法ともに本来の改革や権益そっちのけの派閥闘争を行い、これが北宋滅亡の遠因となる。しかし、両派共に有能な人材を欠いていたのが原因で、王安石に責任があるというわけではない。現在では改革派のイメージの良さから、中国・日本共に高い評価を得ている人物である。 - 李完用
李氏朝鮮末期の大臣、政治家。早い話が朝鮮併合の立役者。そのため韓国・北朝鮮では売国奴として未来永劫に断罪され続ける人物である。
ただし、李朝というのは長年に渡る失政や内部抗争によって衰亡しており、李完用が台頭した時には末期の北海道拓殖や山一証券のようにどう足掻いても破滅で、当時の朝鮮半島に住む人々を救うためには国体を潰すしかなかったという事実を理解する必要がある。私利私欲で国を売り渡したのではなく、企業の倒産もとい、国を終わらせるための幕引き役を演じざるおえなかったというのが真相だろう。本人も、国を売るという決断を下さざるおえなかったことに慚愧の念を抱いていた。その意味では同情せざるおえない人物であるともいえる。
なお、第二次大戦以後、朝鮮は戦争を経て、分断される訳だが李完用に責任がないのは言うまでもない。責任があるとすれば、それは別の人間である。
奸臣とは言えない人物
- 高師直
鎌倉時代~南北朝の武将。梶原景時以上の現実主義者とされ、神仏を信じず「天皇など木像でも構わないではないか」と公言するほどであったと言う。主君足利尊氏の評価は高かったが、弟の直義とそりが合わず対立。一旦は直義の追い落としに成功するも、最終的に敗れ引退を和睦の条件とされ出家。その道中で殺害されてしまう。江戸時代までは知る人ぞ知る武将であったが、仮名手本忠臣蔵において吉良義央に仮託され(当世の事件のため幕府を憚った)稀代の悪役に貶められてしまった。上記の時平と景時が一応の史実に基づいたキャラなのに対し、彼の場合は完全なとばっちりである。 - 大槻伝蔵
江戸時代の加賀藩家臣。下級藩士の出でありながら藩主前田吉徳の寵愛を受け出世。しかし、吉徳の死後に家督を継いだ前田重煕の毒殺未遂事件が起き、その犯人として吉徳側室真如院が挙げられ捜索を受ける。その過程で伝蔵の真如院に対する恋文が発見され一大スキャンダルに発展。伝蔵は自害し、真如院は殺害される。真如院の犯行の動機は自身の息子である前田利和に家督を継がせるためのものであり、利和は伝蔵の子であったのである。以上が歌舞伎や小説で名高い加賀騒動の顛末だが、現在では一連のスキャンダルについて否定的な見解が主流。そもそも伝蔵は藩政改革で大きな業績を残しており、その功績を妬んだもしくは既得権益を侵害された旧臣たちが彼を陥れたとする説が根強い。藩政改革を主導した人物が陥れられることは珍しいことではなく、かの上杉鷹山もこれに近い陰謀に巻き込まれそうになったことがある。 - 忠臣蔵の不忠臣たち
忠臣として名高い赤穂浪士たちだが、実際に討ち入りに参加したのは46名(寺坂を除外した場合)であり、300名以上いた藩士たちのほとんどは参加していない。このため、討ち入りに参加した赤穂浪士たちが世間で評判になるに連れ残りの浪士たちは世間から激しいバッシングを受け、他の家に仕官することもかなわず町人たちからは軽く見られ世間から隠れるような人生を送ったと言う。浪士仲間から金を盗んで逃亡し、父親を自害に追い込んだ小山田庄左衛門の例は論外としても、主君の場合は特に敵討ちは義務ではなく(江戸時代は直系親族の場合は絶対的な義務である)相当に損な役回りだったと言えるだろう。特に仇討ちに参加しなかったことを兄弟達から責められて、詰め腹を切らされた岡林杢之助のケースは悲惨の一言に尽きる。
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