0系新幹線電車とは、日本国有鉄道が東海道新幹線用車両として設計・開発・保有した、初代の営業用新幹線車両である。
概要
1964年の東海道新幹線開業から使われている新幹線車両。世界で初めて200km/h運転を行った。
1986年までに38次計3216両が製造され、後継の100系が登場するまで東海道・山陽新幹線は0系のみであった。尚、0系と呼ばれるようになったのは東北新幹線200系登場後である。
第8回鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。新幹線車両としては500系が受賞するまでは0系のみであった。
1985年に100系の製造へと移行したことに伴い、寿命を迎えた車両から順に100系、300系へと置き換わっていく。最終増備車の寿命を迎える時期に合わせて、1999年9月18日に東海道新幹線から撤退した。短編成改造された車両は延命工事が施されており状態が良かったため、その後も山陽新幹線でこだま号として活躍していたが、2008年11月30日に定期運行より勇退。同年12月6・13・14日に山陽新幹線にて、ひかり号として計6本の「さよなら運転」を行った。
特に「サヨナラ」の語呂にちなんで付番された「ひかり347号」は、停車駅を広島・小倉のみとし、往時の栄光を思わせる走りっぷりを見せてくれたが、サプライズはそれだけではなかった。
新山口駅に通過列車退避のため停車した500系「こだま659号」。その1分後、新山口駅に差し掛かった通過列車が居た。
それこそ、0系の「ひかり347号」だったのである。最終日の12月14日は500系とファンに別れを告げるようにタイフォンを鳴らし、颯爽と走り去っていった。ニコニコ動画では「新山口の奇跡」として現在も語り継がれている。
2008年12月14日18時01分、最後の臨時列車「ひかり347号」終点、博多駅到着。これを以て0系は44年間に渡る営業運転の歴史に幕を下ろした。
0系勇退後、同系が担当していたこだま号は500系7000番台が後を引き継いだ(500系「こだま」はしばらくの間0系ダイヤで運転され、100系引退後に700系7000番台と共通の最高速度285km/hダイヤに変更された)。
なお、0系の全ての営業運転が終わった後、営業運転から退き新下関で訓練用に残っていた0系もファンに見送られる事なく引退となった。車両の引き受け先を探していたが博多総合車両所に保管され、2024年2月13日にQ3編成先頭車22-1047の解体が始まった。
技術
当時の国鉄の総力をもって開発された車両である。交流25,000Vで60Hz対応の交流電車。
車体はコスト重視で鋼鉄製。ただし軽量化は徹底的に行われている。軽量化と併せて航空力学を取り入れた流線形車体によって高速時の抵抗は少ない。
線路上の障害物を跳ね飛ばすため排障器をスカート部に装備、1トン程度の岩なら難なく撥ね返す。
モーターは当時最強の出力だった定格出力185kwのMT200形直流モーターを採用。全電動車方式。
台車はミンデンドイツ方式の空気ばね台車を履く。高速時の蛇行動を防止するためボルスタアンカーが付いている。加えて新幹線の曲線半径がかなり大きくとってあったのを逆手にとり、車輪のテーパー角度を在来線のそれと比べて半分に抑えてある。こうすることにより、高速走行時でも安定した走行性能を発揮できるようになった。
制御装置は低圧タップ切り替え式。そのため抵抗器をもたず在来線電車と比べて制御系統でのエネルギー損失は基本ゼロ。ブレーキは発電ブレーキとディスクブレーキの併用式。高速運転時には電気ブレーキを使用し、30km/h以下でディスクブレーキで制動を行う。
パンタグラフは国鉄では初採用となった下枠交差型のPS200型を装備する。これは新幹線では架線の高さがほとんど変化せず一定であることを踏まえて、伸縮力の大きな従来までのパンタグラフを装備する必要がなくなったため、空気抵抗と騒音の低減を図って小型のモデルを搭載することにが可能になったためである。90年代以降、騒音を低減するためにパンタグラフの側面にカバーが取り付けられた。
最高速度は210km/h(遅延時のみ。通常ダイヤ上は200km/h)であったが、性能に余裕があったため、1986年以降は最高速度が10km/h引き上げられて220km/hとなった(ATCの頭打ち速度は225km/h)。
なお、新幹線車両は過酷な高速度走行を連日行うことで老朽化が激しく進行するため、15年前後で寿命が来てしまう。製造車両数は延べ3,216両であったが、在籍両数の最大値は1976年の2,338両(うち2両は保留車)であった。約900両分の差分は、「古い0系を新しい0系で置き換えた」ことにより発生したものである。
内装
標準軌用の幅広な車体となっているため、普通車の座席は3列+2列、グリーン車は2列+2列である。
普通車は青とシルバーベースの転換シートを940mmピッチで並べ、グリーン車はゴールドベースのリクライニングシートが1160mmピッチで並んでいる。2000番台では普通車のシートピッチを40mm広げ、3列席のみ集団離反式のテーブル付き簡易リクライニングシートを採用し、グリーン車の座席も背面テーブルがついた赤色の新しいタイプに変更された。0番台や1000番台もひかり編成を中心に順次この座席に取りかえられた。ただし、全車が交換の対象になったわけではないので、従来型のシートを最後まで装備し続けた車両もあった。また、0番台及び1000番台の普通車では元々の座席のシートピッチと同じ間隔で配置していたため、リクライニングさせるときに座面が前へせり出す構造であることと、背ずりが厚くなった分狭く感じるデメリットもあった。また3列席ではシートを回転させるスペースが足りないため、半数の座席しか進行方向を向かないというデメリットが特に大きかった。2人掛けの方は回転可能であったので、普通車の約7割が進行方向に座れることをアピールしていたが、乗客の不満は大きかった。
初期車は大型の窓を採用していたが、バラストの跳ね上げや雪害などにより破損するケースが多発したため、
1000番台以降の車両は交換が容易な小型の窓を採用している。2000番台以降はシートピッチ拡大のため若干窓の間隔が広くなった。
国鉄分割民営化以降、東海道新幹線用のこだまの指定席、および山陽新幹線のウエストひかり用の車両は利用客の少なさを逆手にとった、ゆったり感をアピールするため2列+2列の新しい回転リクライニングシートに変更された。ところが、このサービスが好評であったためとバブル景気の影響もあって利用客が集中、たちまち供給力不足に陥った。解決策として編成の増強を行うこととなり、JR東海のこだま編成は12両から16両に増結し、指定席車両を2両から4両に拡大、JR西日本のウエストひかり編成はグリーン車やビュッフェ車なども組み込んで6両から12両編成に組成し直した。同時にJR西日本の所有する16両編成のひかり用の指定席車両は、両端の肘掛部を固定することで3列席も回転可能としたフリーストップ式のリクライニングシートをに交換し、アコモデーションの改善を図った(0番台と1000番台車でもシートピッチ980ミリ間隔で配置されたため、座席と窓の間隔が合わない)。
1964年の東海道新幹線開業当時は、在来線に比べて乗車時間が短いことから食堂車は設定されておらず、ビュッフェ車を連結していた。しかし、1975年の山陽新幹線全線開業時には東京~博多間の乗車時間が6時間を超えることから食堂車が製造されることになった。山側を通路として、海側を食堂スペースにあてることによって移動する客を気にすることなく食事を楽しめるようになったものの、通路との仕切りに窓がなく、食事中に富士山が見えないという苦情が多く寄せられたことから後に窓が山側にも設けられた。
関連動画
関連項目
東海道新幹線・山陽新幹線・九州新幹線の使用車両 |
0系 - 100系 - 300系 - 500系(WIN350) - 700系 - 800系 - N700系 - N700S - ドクターイエロー |
東海道新幹線・山陽新幹線・九州新幹線の列車名 |
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