61式戦車(61式特車)とは、
概要
主砲に装着された「T字型マズルブレーキ」がチャームポイントの1961年登場の戦後の国産戦車第一号。制式名称は61式中特車で、後に61式戦車と改称された。
74式戦車が制式採用される1974年までに合計560輌が生産、2000年(平成12年)にすべて退役している。[1]
61式戦車は兵器として色々構造的な弱点は持っていたとしても、61式戦車の開発生産によって国産主力戦車(MBT)の開発生産技術が確立し、陸上自衛隊が国産戦車の運用を会得出来たのは大きな意義があった。開発に際しては米軍から供与されたM36駆逐戦車の設計が多分に参考にされた模様である。
なお全くの余談であるが、61式開発当時は旧陸軍の戦車閥も多数が生き残っており、彼らは長砲身76mm砲を搭載した重量25tの軽戦車を望んでいたと言われる。満州へ帰れ。
しかしこの姿勢には主に機甲科が猛反発。超低姿勢のSTA-1から後の制式化された61式の原型といえるSTA-4まで複数種類、そして数十台の試作車が開発、製造、比較試験の末に、最終的には「車高2.5m以下、90mm砲搭載、重量35トン」という要求仕様を満たした最終試作型が正式採用され量産化に至っている。
特徴
狭軌と言う幅の狭いレール・狭いトンネルを走る車体の小さな日本の鉄道で輸送する為に、車体長6.03m、全幅2.95m、重量35tと言う小型軽量の車体となった。[2]
旧大日本帝国陸軍時代からの伝統を引き継ぐ、燃費が良くて火災に強い570馬力V12直噴空冷ターボチャージド・ディーゼルエンジンを後部に搭載した。[3]
後部搭載エンジンの駆動力をドライブシャフトで前部の変速機に伝え前輪の起動輪を動かす、一般的車のFF,FR,MRとも違う、RF(リアエンジンフロントドライブ)とも言える駆動レイアウトである。これは未だに当時は、旧軍戦車の設計の残滓が強く残っていたことを伺わせる。またこの車体構造が祟り、整備のため車体正面の装甲をボルト止めで着脱可能にしなければならないことは防護上の弱点でもあった。
このため、車体及び砲塔正面の装甲はT-34/85の85mm徹甲弾への耐久。それを目的としたにもかかわらず、車体装甲への耐久試験はボフォース40ミリ機関砲によるものにとどまっている。砲塔正面は鋳造装甲で最大102mm程度と言われている。なお装甲以外の弱点としては、砲塔旋回が油圧式で被弾した際の火災の危険性があった。
機動性に関しては第二次大戦中の延長上の駆動系で、特に変速機周りが問題が多く扱いに一種の職人芸が必要[4]なのは高度経済成長期初期の工業製品、そして戦後最初の戦車の限界を示している。但し機動性そのものは悪くなく、200mまでの加速力の数値は戦後第三世代戦車に比肩するものがあり、ヒットアンドアウェイに適してもいた。
またドライブシャフトと変速機の配置が影響して、特に操縦席の温度が猛烈に高くなり60℃近くになる事があり非常に過酷な環境であった。
武装
鋳造(鋳物)の砲塔が搭載する主砲は52口径90mmライフル砲であり、軽量小型な車体の割には当時としては強力な武装と言える。正式名称は「M3改90mm戦車砲」で、名前のとおりM26パーシングやM36駆逐戦車が用いていたM3型90mm砲を日本製鋼所が長砲身化。薬室・砲身強度も向上させ、戦後規格の90mm砲弾に対応させたものである。
当初は被帽付徹甲弾を用いていたが、ソ連のT-55、T-62などに対してあまりに非力であることから、昭和45年より70式対戦車りゅう弾(HEAT弾)が配備されている。それ以前の一朝有事に際しては、米軍から高速徹甲弾(HVAP)の供与を受けた上でT-54/55に対向する予定だった模様。
なお一応は1982年に61式戦車用のAPFSDSも開発、試作、試験には成功している。但し70式対戦車りゅう弾よりも威力に劣ること。74式戦車用のM735APFSDSのライセンスが優先されたため、これは見送られた。ライセンス弾薬というものはそれだけに高価で、製造が未だ容易ではなかったAPFSDSは74式の105mmに集中された。
主砲以外の武装はM2重機関銃、M1919同軸機関銃である。いずれもWW2当時の年季の入った機関銃であるが、特に後者は国産の74式車載7.62ミリ機関銃より格段に信頼性が高く、好評であったとも言われている。
マズルブレーキ
マズルブレーキ(砲口制退器)は大砲が砲弾を発射する際のガスを砲口から排出を促す事で主砲の反動(反作用)を押さえ、ブレを減らし命中率を上げる機能を果たす。
拳銃等の小火器ではコンペンセイターと呼ばれる部品に相当する。
現代では、駐退機の性能向上と、APDS、APFSDSの精度の低下になるので廃れる事になった。
61式戦車は西側世界の標準とも呼べるベストセラー戦車「三代目パットン戦車」ことM48を参考にしてT字型マズルブレーキを採用した。61式戦車の主砲砲身自体アメリカ戦車の主砲をベースに独自改良したものである。
マズルブレーキの機能には砲煙を速やかに排出拡散させる機能もあるので、ある意味「煙突」でもある。この恩恵により61式は発砲炎が74式よりも小さく、職人芸の砲手の手にかかった場合、相当な命中精度を発揮した。
61式は何に対抗するために作られたか?
それは言うまでもなく東宝特撮の怪獣…ではなくT-34/85である。想定が古いと考えられもするが、後の61式となる試作戦車「STA」の開発は1950年代に決定され、当時は北海道などに上陸してくるソ連戦車の主力はT-34/85である公算が高かった。しかし現実は非情である。
ソ連はその全盛期の軍拡ぶりに相応しいペースでT-54/55を大量配備。さりとて未だ戦後復興中の尾を引きずっている日本でより大型な戦車を作るインフラ、技術もなく、90mm砲搭載の35トン戦車というのは、当時の日本が作れて運用できた最大級の戦車だったのである。これで25トン軽戦車だったらマジどうなったんでしょう…
しかもT-62やT-10M重戦車まで次々と量産され、陸自の中の人としては「じょ、冗談じゃ(白目」と本気で恐懼戦慄していた模様[5]。それだけにHEAT弾や74式の開発が急がれたのである。因みに61式にヴィッカーズL7を搭載する改良案も存在していたが、車体バランスが著しく悪化し、運用が困難との判断から断念されている。
こういった事情から「WW2のティーガー、パンターにも劣る」といわれる事も多かった。しかし幾ら技術的に及ばないところがあるとはいえ、主砲や防弾鋼鈑の素材品質の向上、新型砲弾の開発、難燃性に優れたディーゼルの適用、WW2の戦訓から得られた人間工学に基づくレイアウトなどを考えると、流石に批判を通り越して非難とも言える。
その他
士魂マーキング
陸上自衛隊の第11戦車大隊が、旧大日本帝国陸軍の戦車第十一聯隊の愛称を継承したもの。「十一」の漢数字を「士」に見立てて、武士の魂を意味する「士魂」(しこん)と洒落た非公式部隊愛称である。1971年10月より部隊の61式戦車の旋回砲塔に「士魂」マーキングが初めて行われた。[6]
角川61式
映画「戦国自衛隊」(1979)用に作られたレプリカで、映画「ぼくらの七日間戦争」に登場した後は別の会社に引き取られ、テレビ特番やプロモーション活動に使用されている。[7]
関連作品
動画
静画・MMDモデル
関連コミュニティ
関連商品
関連項目
脚注
- *【陸上自衛隊のはたらくくるま】試作機ST-A1から10式まで、国産戦車4世代を一挙解説|富士総合火力演習レポート 2017.9.22
- *標準軌の1,435mm(4フィート8.5インチ)より狭いレール幅の鉄道路線。ナローゲージ(Narrow gauge)。日本の新幹線は標準軌である。
- *蒸留温度30~230度でガソリン、140~380度で軽油が採取され、揮発温度が軽油の方が高い。軽油よりガソリンは揮発し易く、燃え易く危険物である。よって軽油を使うディーゼルエンジンの方が被弾・炎上のリスクがある戦車に向いたエンジンである。イスラエルがアメリカから購入したM60戦車のガソリンエンジンをディーゼルエンジンに交換して、マガフに改良したのも同じ理由である。燃費がいい直噴エンジンもディーゼルエンジンの方が技術的に楽なので、三菱の御家芸の直噴エンジンはディーゼルエンジンから製品化した。更に排気ガスでタービンを回すターボ加給にも低回転時でも排気圧の高く加給が速やかに行えるディーゼルエンジンは向いている。
- *変速に失敗するとギアが弾き戻され、操縦士が腕時計をしていると接触し壊されるため右腕にはつけなかったという。腕時計もさることながら、当時の操縦士の腕の方は大丈夫だったのだろうか…
- *半分冗談であるが、冷戦時代の北部方面隊隷下部隊指揮官は、作戦地図に自決予定地点を書き込んだとか。
- *陸上自衛隊第11旅団(ウェブアーカイブ) 東長崎機関(軍事・戦争)
- *「角川61式戦車」どこへ? 宮沢りえ『ぼくらの七日間戦争』で搭乗 元『戦国自衛隊』 2019.12.13
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