H・R・ギーガー(Hans Rudolf Giger)(1940年2月5日‐2014年5月12日)とは、
スイス人の画家・デザイナーである。
概要
1940年、スイスの山間部の町・クールに生を受ける。大変な難産の末に生まれた事を、母メリーは「私の胎内から出たがらなかった」と語ったという。
父ハンス・リヒャルトは薬剤師で頑迷な性格だったが、あるとき製薬会社から譲り受けた人間の頭蓋骨を我が子に与えた。本物の人骨に「恐怖」を覚えた少年は、しかしそれに紐を括り付けて引きずりながら歩き、「恐怖」を克服するとともに「死」という概念に魅了されることになる。ほんと何やってんだ。
一方で母は我が子に芸術家としての素養を見出し、造型用の粘土を買い与えるなど、その活動をおおいに後押しした。この母に対するマザー・コンプレックスは、その後も彼の中で大きな比重を占める事となった。
幼い頃から機関車や銃といった造形物に取りつかれ、10歳の頃には銃を自作していた。そして14歳でファーストキスを経験後、本人曰く「性的興奮を鎮める為に授業中でも自慰にふけり、唯一の関心はエロティシズムだった」というだいぶアレな青春時代を送る。
そういった中で「死」と「性」に興味を持ち、芸術家を志してチューリヒ芸術大学で学ぶ。当時の専攻は工業デザインと室内デザインで、大学卒業後は家具デザイナーとして活動。その傍らで、自身に内在する「悪夢」の具現化に着手。独自の世界を展開してゆくこととなった。
なおシュルレアリズムの代表的画家、サルヴァドール・ダリはギーガーの事を「才能がある」と評価して交流を持ち、二人で映った写真が現存している。
1966年、ギーガーは18歳の女優、リー・トブラーと知り合う。彼女をモデルとした連作「Li」はその美しさで多くのファンを魅了し、二人はパートナーとして共同生活を開始。
長らくリーは彼のミューズとして傍らにあったが、ギーガーがアメリカに移住した際、新しい生活に馴染む事が出来ずにスイスに帰国している。その後は心を病んで鬱を発症、1975年に拳銃自殺を遂げる。この悲劇はギーガーの心に暗い影を落とし、その後の作風に影響を与えた。
その後もギーガーの名は世界中に知られ、熱狂的なファンを獲得してゆく。
特に転機となったのは、1973年、エマーソン・レイク&パーマーの『恐怖の頭脳改革(Brain Salad Surgery)』のジャケットデザインだった。ちなみにこのジャケットは、ローリング・ストーン誌の「史上最高のアルバムジャケットBEST100」にも選ばれているが、2005年に原画が盗難、現在も行方不明となっている。
これをきっかけにプログレッシブ系やヘヴィメタル系のアーティストのジャケットに多くの作品を許諾し、KoRnのヴォーカルであるジョナサン・デイヴィスの為にマイクスタンドをデザインするなど、多くのアーティストやバンドと親交を持つ事となった。
日本でもX-JAPANのhideの1stアルバム「HIDE YOUR FACE」に作品「Watchguardian, head V」の使用を許諾。更にhideが仮面に自身の目を合成したいと希望すると、通常自分の作品に手を加えさせないギーガーがこれを承諾するという珍しい結果となった。
1973年、アレハンドロ・ホドロフスキー監督によるSF大作『デューン』の美術担当となる。
しかし錚々たるメンツ(サルバドール・ダリ、オーソン・ウェルズ、ウド・キアらが出演、音楽はピンク・フロイドというとんでもないラインナップ)、原作を忠実になぞった結果上映時間が10時間以上に及ぶというとんでもない構想であったため、撮影開始前に制作中止になってしまった。
なお当時ギーガーがデザインしたハルコネン男爵の城のデザインは現存しており、ドキュメンタリー映画『ホドロフスキーのDUNE』で当時の顛末が語られている。
そんな彼の代表作とも称される作品が、1979年の映画『エイリアン』のクリーチャーである。
当初別のデザイナーによって出されたエイリアンのデザインはお世辞にも満足のいくものではなく、監督のリドリー・スコットは頭を抱えていた。そこで原案のダン・オバノンが紹介したギーガーの画集「ネクロノミコンIV」に衝撃を受け、自らスイスに飛んでギーガーを招聘。長い時間をかけて交渉に成功し、150人からなる美術チームが結成された。
ところが完璧主義者のギーガーと制作陣が対立、たった1週間で解雇されてしまう。しかしギーガーは決して自分を曲げず、必ず自分が必要になると予見してデザインを続行。結果として現場が大混乱に陥って機能不全となり、上層部が頭を下げる形でギーガーは現場に復帰を果たした。
宇宙人の遺棄船とスペースジョッキー、エイリアン・エッグ、フェイスハガー、チェストバスターを経てスクリーンに登場するゼノモーフ。これら創造物のおぞましさと一種のエロティシズムは絶賛され、同年のアカデミー賞の視覚効果賞を受賞している。
1988年のゲーム『邪聖剣ネクロマンサー』ではパッケージイラストに作品の使用を許諾している(PCエンジン版のみ)。
1992年のゲーム『ダークシード』および続編『ダークシード2』ではキャラクターデザインを担当。あまりに難解な内容の為、日本で発売された時には解説書に「禁断の章」と称したクリアまでのチャートが記載されるというぶっとんだ仕様だった。まあアレをノーヒントでクリアは不可能に近いから仕方ないね。
1986年の映画『ポルターガイスト2』では、コンセプトアートを担当。
1988年の映画『帝都物語』では、終盤で登場する使い魔「護法童子」のデザインを担当。本人は映画全体のデザインを希望したが、スケジュールの都合がつかずに「コンセプチュアル・デザイナー」として参加するにとどまっている。
1995年の映画『スピーシーズ 種の起源』では、美しき侵略者・シルのデザインを手掛ける。機械とも爬虫類ともつかない独特の質感とエロティシズムに溢れた、ギーガー節全開の「彼女」によって、年頃の観客はおおいにハァハァする事となった。
一方で1996年には、映画『キラーコンドーム』の「人食いコンドーム」のデザインを担当。先生何やってるんすかという声はさておき、思わず股間を押さえてしまいたくなるような怪物の登場は、大いにウケを取る事となった。
1998年、スイス・フリブール地方の都市、グリュイエールにミュージアムを創設。絵画のほか、彫刻や家具、自らが収集したダリの作品を展示している。
また2013年にはアメリカのSF殿堂博物館の殿堂入りを果たした。
その後もスイス・チューリヒで、自らの内に宿る「恐怖」を克服するかのように、多くの作品を世に送り出したギーガーは、2014年5月12日に死去。享年74歳だった。
作風
彼の作品にはエアブラシが用いられ、白と黒を基調とした、機械と有機物が融合した独特の世界観を構築している。
本人曰く、機械の連続する動作(銃のリロード、ピストン運動、ゴミ収集車の回収機構)や階段の上下移動に性行為の「反復」を連想するというコンセプトが施されているとのこと。
モチーフには銃、針、悪魔、美女(前述のリー)、腫瘍、胎児などが多く、特に「バイオメカノイド」と呼ばれるシリーズでは性的表現(交接した性器のアップ、口腔性交)がふんだんに用いられている。
更に「Landscape XX」は女性器と男性器が交互に重なるという、大変目のやりどころに困る作品である。本作はわいせつ性について議論の的となり、アメリカのバンド、デッド・ケネディーズがアルバムの付録ポスターにしたため、「青少年に有害な絵画を配布した」として告訴される事態に至った。
晩年はエアブラシによる一枚絵よりも、素描や随筆が多い。また絵画だけではなく、立体物や楽器を手掛けるなど、その活動は老いて尚留まる所を知らなかった。
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関連項目
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