U-29単語

ユーニジュウキュウ
7.1千文字の記事
  • 0
  • 0pt
掲示板へ

U-29とは、ドイツ海軍が建造したVIIA型Uボートの1隻である。1936年11月16日工。第二次世界大戦開戦直後の1939年9月26日イギリス海軍空母カレイアスを撃沈した戦果が有名。通商破壊で12隻の連合船舶(6万7277)を撃沈し、計8万9777トンの戦果を得た。1941年1月2日に一線を退いて練習艦となる。1945年5月5日ドイツ敗戦時、接収を防ぐため自沈した。

概要

10隻建造されたVIIA型の2番艦。英独海軍協定で潜水艦の保有量に制限を課せられたドイツ海軍は、小の航洋潜水艦を大量生産して数的不利を補おうと考えた。UC体をベースフィンランド向けに生産していたヴェテヒネン級を良して設計。体はサドルタンク式を、耐圧殻は単殻構造を採用。後部魚雷発射管は艦外に装備されているため事前に装填しておき、艦内からの操作で発射する仕組みとなっている。

諸元は排水量626トン、全長64.51m、全幅5.85m、喫4.37m、燃料搭載量67トン、最大速16ノット(水上)/8ノット(水中)、水上航続距離7964km、乗員44名、安全潜航深度100m、急速潜航時間30。武装は8.8cm1門、20mm機関1門、艦首魚雷発射管4門、艦尾魚雷発射管1門。

VIIA型通商破壊で活躍したが事故や喪失などで損耗率が高く、敗戦時に生き残っていたのはU-29とU-30だけだった。

艦歴

1935年4月1日AGヴェザー社のブレーメン所に発注1936年1月2日にヤード番号910の仮称を与えられて起工。8月29日に進し、11月16日工した。起工から工まで僅か約10ヵ半と驚異的な速さだった。

1937年11月21日ヴィルヘルムスハーフェンを出港してスペイン内戦に参加。スペインを航行して上監視を行った。53日間の航を経て、12月18日ヴィルヘルムスハーフェンに帰投した。1938年6月4日から8月10日にかけて二度の、10月12日から12月18日まで三度上監視を実施。この活躍を称えて乗組員全員スペイン十字章を贈られている。

1939年

ドイツポーランドに対するダンツィヒ返還要により英との関係が急に悪化。戦争の勃発を予期したカール・デーニッツ提督秘密裏にUボートを出港させ、大西洋や北海に配備した。

開戦直前の1939年8月19日午前8時、U-29はオットー・シューハート艦長揮のもとヴィルヘルムスハーフェンを出港。敵に意図を悟られないよう艦首番号は塗り潰され、国旗も掲げていない「籍不明」の潜水艦を装った。翌20日、潜航試験を実施して準備体操。艦隊に従ってシェトランド諸北方を北西に向けて通過し、北大西洋に向かう。18時20分、スカンジナビアとオークニーを結ぶ航路に差し掛かった。ここは多くの漁が往来しており、見つからないよう息を殺しながら潜航して進む。19時41分に事突破に成功。8月22日午前8時、ユトランド諸で東から現れたイギリス軍機がU-29の上5000mを通過した。見られたかどうかは分からなかったが念のため潜航。8月26日からは燃料節約のため8ノットで航行。

アイスランドフェロー諸島間の域は大西洋に出るためのり通りだが、当然イギリス海軍の警があるため、フェロー諸島を通過するまでは長期の潜航を強いられる。幸い北海フェロー諸島の波は大変穏やかだった。しかしヘブリディーズ諸に差し掛かるとが発生して視界は100mに限定された。

そして9月3日、英連合軍がドイツ宣戦布告した事で第二次世界大戦が始まった。U-29にも英との敵対行動が始まったと通信が入り、カナダへ向かう北航路を攻撃するため移動開始。14時デンマークと思われる船舶を発見。デンマーク中立のため見逃した。当時Uボートは56隻中46隻が行動だった。しかし大西洋で活動できるUボートはU-29を含めても22隻しかなく、整備や狩り場への往来で同時に通商破壊に従事できるのは僅か7隻に過ぎない。更に戦時拿捕規定がUボートの動きを縛る。敵を撃沈する時はまず警告して乗組員を艦内に収容し、その上で撃沈しなければならない。狭いUボートには収容の余裕などかった。敵が停無視したり、反撃してきた場合は警告や臨検しで撃沈できるが、商有利のこの制約はUボート通商破壊を不活発なものにしてしまった。またヒトラー総統は和を望んでいて、特にフランスとの然の衝突を避けたかった。このため自衛上やむを得ない場合を除いてフランス船舶への攻撃が禁じられた。制約に雁字搦めにされながらもU-29はを続ける。

9月4日午前9時線上に立ち昇る煙を発見。接近してみるとスカンジナビアと思しき輸送の姿があり、しばらく追跡してみたものの悪に阻まれ、21時30分に燃料の浪費を避けるため追跡中止。9月5日は凄まじいに襲われた。午前8時、輸送が近くにいたためバレないよう1000mで潜航。あまりの荒に攻撃は不可能だった。午後12時30分に浮上。それからは視界良好になったが、往来する船舶はまばらで、いずれも敵国のものではなかった。間は燃料節約のため停止。9月6日は1隻の船舶すら発見出来ず。やむなく作戦域の南方ギリギリまで進出し、北行きの敵船舶を探しめる。22時15分、南端に到達してそこから西進する。9月7日15時40分、東から接近する船舶を発見するが籍はデンマーク残念に思いながらも「良いお祈りします」と合図を送った。22時海軍部より作戦域の変更を命じられる。

9月8日午前8時より南方航路で北に向かう敵商を探しめる。午前10時37分、前方の線から立ち上る蒸気の煙を発見。潜水艦を警してか12ノットでジグザグ運動中のようだ。午前11時にU-29は潜航し、獲物を中から狙うが、敵の見事なジグザグ運動に振り回されて時間や航路を選んでいる余裕はい。午後12時15分、ケープクリア西南西約250里で浮上したU-29は、アメリカからロンドンに向かっている英大貨物リージェントタイガー(1万176トン)に4発の甲弾を発射して警告射撃員にを放棄するよう威圧して救命ボートで脱出させるが、線手が内に留まって600メートル波長で救難信号を発信。この行動船長の命ではなかったようで、船長撃でを破壊されないか気を揉んでいたという。リージェントタイガーエンジンこそ停止していたが惰性で前に進み続けていて、このまま放置すれば撃の機会を逸するばかりか、救難信号を聞きつけたイギリス艦艇が出現しかねない。シューハート艦長は魚雷での撃沈を命じ、1本の魚雷を発射。船橋の前方に命中させて100mの火柱が立ち上った。たちまち煙がリージェントタイガーを包み隠し、しく燃え盛った末に22時45分に沈没した。積み荷のガソリン1万600トンディーゼル燃料3400トンと混ざり合った。こうしてU-29は最初の戦果として1万トン級の大物を仕留めたのだった。同日17時30分、英商エンプレスオブオーストラリアを発見するが、4800m以内にまで近づけず、取り逃がした。21時アスリアスアと遭遇。当時アメリカ中立であり、体には大きく中立を示すマークもあったため臨検せずに見逃した。

9月13日13時10分、小を発見。敵の正体は英蒸気ネプテューヌ(798トン)であった。相手が小物なので魚雷を節約したいと考えたシューハート艦長は15時30分、ケープクリア西南西270里でに対して威嚇射撃を加えて停を命じる。しかしネプテューヌは逃走を図りながら線で救援をめたため、甲体に撃ち込んだ。するとし員はを放棄して救命艇で脱出、船長を捕まえて捕虜とする。U-29側はネプテューヌを拿捕しようと考えたが、既に線を打たれているので護衛艦艇が来る危険性を考慮して2本の魚雷で沈めようとするも、爆して失敗。やむなく撃でネプテューヌを沈めた。9月14日午前7時15分、航行中のタンカーを発見して接近。13時15分、ケープクリア南西180里で英タンカーブリティッシュインフルエンス(8431トン)の進路上に2発の威嚇射撃を行い、員に放棄を迫った。員たちは素直に従ったため、14時15分に1本の魚雷を撃ち込んで撃沈した後、ロケット弾を打ち上げて周囲の船舶に救命艇の位置を知らせた。その甲斐あって員42名全員が救出されている。

9月17日、U-29はイギリス峡西側で1万トン級の大を潜望に収めていた。上には対潜中と思われる航空機が1機旋回している。撃の機会を今か今かと待ちわびていたその時、突然が変針した。水中の低いU-79では追いすがる事が出来ない。浮上航行に移行するべく潜望で周囲の安全を確認した時、左舷の線上に黒点を認めた。18時頃、黒点の正体が空母であると分かった。先ほどの客の事などすっかり忘れ、シューハート艦長は空母に狙いを定める。敵空母の正体はカレイアス(2万2500トン)。勇気の名を冠する大正規空母だった。U-29は適切な撃位置につくべく移動するが、なかなか機会に恵まれない。1時間ほど追跡した後、僚艦U-53を捜索するために放っていた4機のソードフィッシュが帰投し、着艦を始めた。最後のソードフィッシュが着艦した5分後、カレイアスはU-29が潜んでいる方向に向かってきた。チャンス到来、19時50分にU-29は3本の魚雷を発射。うち2本がカレイアスに直撃し、一にして電が失われた。被から約17分で沈没。艦長を含む518名の乗組員と36名のイギリス空軍関係者が戦死した他、24機のソードフィッシュ駆逐艦イヴァンホーが爆雷投射を行い、深75mで息を潜めるU-29を揺さぶったが、事脱出に成功。U-29は帰路につき、シェトランド諸南方を通ってドイツに向かった。9月26日ヴィルヘルムスハーフェンへ帰投。

カレイアスUボートに沈められた最初のイギリス軍艦となり、英独両軍に大きなを与えた。カール・デーニッツ提督は「素晴らしい成功」と評価し、シューハート艦長はエーリヒレーダー海軍大将から第一級十字章が、乗組員全員に第二級十字章が授与された。U-29が挙げた大戦果は政府、専門、軍首部にUボートの実を再評価させるに至った。一方、イギリス海軍恐怖に染まっていた。不成功に終わったとはいえアークロイヤルがU-39に撃された矢先にカレイアス撃沈の報を受け、正規空母を対潜任務から外した。からの脅威が取り除かれた意味でもU-29の戦果は素晴らしいものだった。

11月14日ヴィルヘルムスハーフェンを出港。前回同様シェトランド諸を通過してイギリス西方に進出する。今回、U-29はミルフォードヘブンブリストルに12個のTMBを敷設する任務を帯びていたが、悪と敵艦の巡視に阻まれて失敗。カーディフまで侵入したものの獲物に巡り合えず、北大西洋で通商破壊に臨んだが戦果を挙げられなかった。33日間の航を経て12月16日ヴィルヘルムスハーフェンに戻った。12月20日に出港し、翌日ハンブルクの造所に入渠して整備を受ける。

1940年

1940年1月26日ハンブルクを出発し、翌27日にヴィルヘルムスハーフェンへ進出。1月28日から2月2日まで入渠整備。

2月6日ヴィルヘルムスハーフェンを出港するが、濃霧による視界不良ヘルゴランで座礁。何とか離礁には成功したが損傷を負ってしまい、各部チェックのためヘルゴラントに寄港。2月11日に再出発し、イギリス北部を通って大西洋に出た後、3月2日ニューポートで機を敷設。翌3日、U-29が敷設した機により英蒸気商カトー(710トン)が沈没した。3月4日午前5時イギリスの眼前で遊中に薄暗い視界の中を動く敵船舶を発見。午前5時23分、トレボース・ホッド北西で英商サーストン(3072トン)を撃し、1本の魚雷尾に命中させると大爆発を起こしながら1分以内に沈没3月4日午前11時、U-29はランズエンド北方にて悪に見舞われて分散したOA-102団の3隻を発見。午後12時8分に2本の魚雷を放ち、2本が英商シフィック・リライアン(6717トン)の右舷側に命中し、15度傾斜。しぶとく浮き続ける敵トドメを刺すため3本を撃ち込んだが、不発に終わった。だがこれで体がっ二つに割れ沈没していった。3月12日ヴィルヘルムスハーフェンに帰港。その後の3月16日、U-29が敷設した機によりブリストル峡でユーゴスラビアラヴ(4512トン)が沈没している。

4月17日ノルウェー攻略作戦ことヴェーゼル演習作戦支援するためヴィルヘルムスハーフェンを出撃。4月19日にベルゲンへ入港し、進攻するドイツ陸軍向けの弾薬5トン、蒸留機関銃1000発を揚陸。翌20日に出港し、4月24日トロンハイムに寄港して体の修理を実施。4月27日に出港し、5月4日ヴィルヘルムスハーフェンへ戻った。

5月27日ヴィルヘルムスハーフェンを出撃。北大西洋で通商破壊を行う。6月12日より15日にかけて、U-43、U-46、U-48、U-101からなるウルフパック「レーシング」に参加。US-3団を狙って遊したが、獲物にありつけたのはU-46とU-101だけだった。6月21日中立スペインのヴィゴに寄港。燃料、、潤滑等を補給し、同日中に出港する。6月26日15時30分、フィニステレギリシャディミトリ(5254トン)に威嚇射撃を加えて停させ、員が脱出した後に撃で撃沈した。7月1日19時17分、アイルランド南西でエイボンマスに向かう途上のギリシャ蒸気アダマス(7466トン)を停させる。甲には既に手が配置されており、いつでも発射できる状態だと悟ったアダマストの員はすぐさま救命艇に乗って脱出。その後、人になったアダマストを撃で撃沈。7月2日午前7時45分、パナマサンタマルガリータ(4919トン)を発見して追跡。午前11時25分に停させる。臨検の結果、押収した書類からイギリスに徴用されて物資を輸送している事が発覚し、13時45分に撃して撃沈する。脱出した員たちは英蒸気キングジョンに救助されるが、そのも独仮装巡洋艦ヴィターに撃沈され、再度漂流している。同日22時15分、リヴァプールからキューバに向かっていたOB-176団の英商セレア(8999トン)を発見。23時52分にフィンテール北西350里から撃するも、命中せず。翌3日午前2時10分に発射した魚雷も命中しなかったが、3本がようやく船橋下に命中。アセレアドは速度を上げて逃亡したが、15分後に沈没した。7月11日ヴィルヘルムスハーフェンに帰投。

9月2日ヴィルヘルムスハーフェンを出港して戦闘に向かう。9月5日から11日にかけてベルゲンに寄港した後、シェトランド北方を通って北大西洋に進出する。9月25日14時2分、OB-217団から分散した英自動車運送ユーリュメドン(6223トン)をアチヘッド西方366里で撃。1本の魚雷を命中させ、かなりの規模の爆発が生じたため、U-29は沈没を確認せずに退却。ユーリュメドンは2日間漂流した末に沈没し、一般貨物3000トンは届けられる事に飲まれた。その後、U-29はフランスを降させた事で得た大西洋沿の軍港ロリアンに向かい、10月1日に到着。

10月26日ロリアンを出撃。ブレストに帰投する味方仮装巡洋艦ヴィターの護衛を行い、10月31日ブレストに入港。11月10日ブレストを出撃してイギリス西方を遊したが敵を発見できず、帰の途につく。12月1日にベルゲンへ寄港、12月3日ヴィルヘルムスハーフェンへと帰投した。この戦闘を以ってU-29は現役を引退12月8日ヴィルヘルムスハーフェンを発ち、カイザーヴィルヘルム運河を通って翌日キールへ寄港、そのままバルト方面に向かい、ピラウを経由して12月13日ケーニヒスベルクへ到着した。

その後

1941年1月2日、メーメルに拠点を置く第24潜隊群に編入されて練習艦となる。後進の育成に励み、実習の場を提供して多くのUボート乗りを輩出していった。1943年9月1日に新設された第23潜隊群へ転属し、12月1日にピラウに拠点を置く第21潜隊群に編入。そして1944年2月17日、退役。潜水艦としての生涯を終え、余生を過ごすが、間もなく第2潜隊群の練習艦となって砲術訓練に従事したり、11月からは魚雷学校の上級部になったりと退役後も引く手数多であった。

ドイツ敗北が決定的となった1945年5月1日連合軍の鹵獲を防ぐため生き残っていたUボートが自発的に自沈し始めた。5月5日、U-29もクプフルミューレン湾で自沈して果てた。U-29の残骸は1993年まで残っていたという。

関連項目

【スポンサーリンク】

  • 0
  • 0pt
記事編集 編集履歴を閲覧

ニコニ広告で宣伝された記事

紲星あかり (単) 記事と一緒に動画もおすすめ!
提供: Kefi_Ades͏͏͏͏͏͏͏
もっと見る

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

U-29

まだ掲示板に書き込みがありません…以下のようなことを書き込んでもらえると嬉しいでーす!

  • 記事を編集した人の応援(応援されると喜びます)
  • 記事に追加して欲しい動画・商品・記述についての情報提供(具体的だと嬉しいです)
  • U-29についての雑談(ダラダラとゆるい感じで)

書き込みを行うには、ニコニコのアカウントが必要です!