U-333とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したVIIC型Uボートの1隻である。1941年8月25日竣工。通商破壊で6隻撃沈(2万7024トン)、1隻誤認撃沈(5083トン)、2隻撃破(9252トン)、ウェリントン爆撃機1機とサンダーランド飛行艇1機撃墜の戦果を挙げる。1944年7月31日、シリー島西方でヘッジホッグ攻撃を受けて沈没。
傷だらけになっても獲物に喰らい付いた海の狼
開戦直後の1939年9月23日、ノルドゼーヴェルケ社のエムデン造船所に発注。1940年3月11日、ヤード番号205の仮称を与えられて起工、1941年6月14日に進水し、同年8月25日に竣工。初代艦長にピーター・エリック・クレマー大尉が着任する。彼の出身地はフランスのロレーヌで、ドイツ人の父とフランス人の母の間に産まれ、父方の祖母はイギリス人という超混血児であった。竣工日より第5潜水隊群に編入されて慣熟訓練を行う。
1941年
12月27日正午、雪空のキールを出港し、13時5分にホルテナウ水門を出た時から雪が降り始めた。続いてカイザーヴィルヘルム運河を通過して最初の戦闘航海に向かう。同日20時、満天の夜空の下でブルンスビュッテルの岸壁に停泊。翌28日午前7時に岸壁を離れてブルンスビュッテルを出港し、機雷原啓開船の護衛を受けながら外洋へと進む。16時54分に機雷原啓開船と別れ、機雷原を通過して18時5分に北海に出た。ここからは敵艦や敵機が出現する可能性がある。
12月30日午前5時35分、上空800~1000mを飛行する敵味方不明機を発見。幸運にもU-333は発見されなかったようだ。12月31日16時、ちょっと早めの元旦祝いにリンゴジュースが振る舞われた。
1942年
1942年1月1日に第3潜水隊群へ転属して実戦配備となる。同日、狩り場の大西洋へと向かっている途上、ユトランド諸島西方で正体不明機から襲撃を受けたが損傷無し。1月2日、U-333とU-701は訓練を終えたばかりで経験が不足している事から海域の移動を命じられ、ニューファンドランド方面に向かう。
1月17日より12隻からなるウルフパック「ツィーテン」に参加。1月22日、ニューファンドランド南方にいるU-333、U-84、U-86、U-582、U-701、U-754に攻撃エリア内を自由に移動できる権限を与えられる。同日18時43分、敵蒸気船を発見して追跡開始。20時45分、3日前にON-53船団から分散して単独航行中のギリシャ商船ヴァシリオス・A・ポレミス(3429トン)はニューファンドランド州セントジョーンズ南方300マイルでU-333から雷撃を受け、左舷中央部分に魚雷1本が命中。瞬く間に船体を真っ二つに折って海の底へと沈めた。乗組員は救命艇に乗って脱出しており、彼らを尋問するためU-333は1時間ほど横付けする。尋問に応じたイギリス人の一等航海士が自分以外全員ギリシャ人と説明するが、U-331側はそれを信じず、イギリス船舶だと認識していた。ともあれ尋問が終わると生存者に一箱のビスケットと40本のタバコを渡して海域を去った。
1月24日正午、U-333は獲物となる敵船舶を捕捉して追跡開始。14時40分に潜航して攻撃の準備を進める。15時25分、ケープレース南東でON-55船団からはぐれたノルウェー商船リングスタッド(4765トン)に2本の魚雷を発射し、右舷側船首に1本が命中。リングスタッドを洋上で停止させるが、沈没する気配が無かったため、15時27分に雷撃するも外れてしまう。だが敵船は既に致命傷を負っていたようで、15時53分に船首を上にして沈没。乗組員は3隻の救命艇に分乗して船を放棄する。浮上したU-333は生存者に尋問を行った後、水と食糧を提供するとともに最も近い陸地の方角を教えて去った。
1月31日15時、アゾレス諸島北方でジグザグ運動中の船舶を発見して潜航。距離1000mから300mまで断続的に潜望鏡を出して船舶を観察したところ、明らかにイギリスの船型をしている事が分かった。16時50分、船舶に雷撃して損傷を与える。クレマー艦長は敵船について何か思うところがあり、17時55分に浮上して距離2000mから船舶を再度観察した結果、イギリス船と判断して18時3分に潜航。18時33分にトドメの魚雷を放ち、船体中央に被雷した謎の船舶は激しい炎に包まれながらゆっくりと沈没していった。だが、この時に沈めたのはイギリス船ではなく、自国の封鎖突破船シュプレーヴァルト(5083トン)であった。シュプレーヴァルトは同盟国日本の勢力圏である大連でゴム3365トン、錫230トン、タングステン20トン、キニーネを積載してボルドーに向かっている途上だった。不幸にもシュプレーヴァルトはノルウェー船エルグに偽装し、なおかつ予定より早く航行していたためU-333に誤って撃沈されてしまった訳である。U-333は司令部に戦果を報告した。
その後、シュプレーヴァルトをフランスまで護衛するはずだったU-575とU-123が駆け付け、生存者の一部を救助した事で事態が発覚。U-105からの通信でクレマー艦長は味方の船を沈めた事に気付き、急いで現場海域へと向かう。更にU-332、U-582、U-701、U-105が捜索に参加、フランスからは5機のFw200コンドルが飛び立って空から遭難海域を探索するが、殆どのUボートは燃料不足に悩まされていたため、すぐに帰還しなければならなかった。2月1日午前9時40分、U-333は沈没現場に戻ってきたが、墓標のように波間を漂う油膜以外は何も見つからなかった。17時37分、敵の駆逐艦が迫って来たため潜航退避する。2月2日にU-105がまた生存者の一団を救助したが、152名中72名が死亡する痛ましい事件となった。2月9日午前6時10分、ラ・パリスへ入港。2月30日まで造船所でオーバーホールを受ける。
味方の船を沈めてしまったクレマー艦長を待っていたのは軍法会議であった。入港後すぐに逮捕され、デーニッツ提督の命令で「故意ではない過失致死罪に伴う不服従」の罪で裁かれる。だが提督参謀将校のギュンター・ヘスラーによってシュプレーヴァルトが敵艦を恐れて定期的な位置報告を怠っていた事が証明され、
クレマー艦長は無罪となった。このため引き続きU-333の艦長に就任。シュプレーヴァルトの喪失は伏せられた。
3月30日14時35分、アメリカ東海岸沖での通商破壊ことパウケンシュラーク作戦に参加するためラ・パリスを出撃。機雷原啓開船に先導されながら進み、19時45分に護衛と別れて予め指示された航路でビスケー湾の出口を目指す。翌31日午前8時、味方の勢力圏内にいる間に急速潜航や戦闘演習を実施する。4月2日16時40分、雲間から突如として敵機が出現したため、U-333は急速潜航して海中に身を潜める。間もなく35m離れた場所に2発の爆弾が炸裂し、電球が割れ、潜水機と舵が故障し、制御室のジャイロコンパスが破損するなど被害が続出。水深80mまで沈降した後、すぐに応急修理が行われた。暗闇の中、潜水機と舵を手動に切り替え、艦内電源を復旧させて絶望的状況を切り抜ける。ところが飲料水タンクに多量の海水が入り込んでしまう。海水の汚染が激しい部分は排水し、残りは淡水製造機で希釈して対処。それでも最初の日のコーヒーは塩辛かった。他にも艦内に漏れ出た油により小麦粉、砂糖、野菜の缶詰めがほぼ食べられなくなるという被害が出ている。21時56分、浮上。
ビスケー湾を西進し、中部大西洋を西南西に向けて進みながら遥か遠方のフロリダ半島沖まで長駆する。とはいえVIIC型の航続距離で東海岸まで辿り着くのは困難だったため、4月22日14時に乳牛ことU-459と合流。約60mの距離から14日分の食糧と追加の燃料を補給して貰う。海は大変荒れていて移送作業は大変だったが、補給物資を得られるという事で乗組員の士気は高く、海水パンツを履いて5時間懸命に働いた。19時20分に作業は完了。翌23日19時20分からはU-459から伸びる送油ホースを伝って燃料が送られた。
5月6日午前5時43分、フロリダ州ベロビーチ沖8マイルで米商船ジャバアローに向けて2本の魚雷を発射。まず1本目が左舷船橋後方に命中、2本目が機関室を破壊して見張り員2名を戦死させる。一時は乗組員に船を放棄させるも、沿岸警備隊によって復旧・曳航されてしまった。だがU-333には運が味方していた。すぐさま次の獲物が見つかり、研がれた鋭利な爪牙を振りかざす。午前9時35分、フォートピアス東南東約16マイルで独航中のオランダ商船アマゾネス(1294トン)を雷撃。発射された2本の魚雷のうち1本が右舷後方に命中して船尾を爆砕。僅か2分で沈没へと追いやった。午前11時25分、ジュピターインレット沖でテキサス州からニューヨークに向かっていた米蒸気貨物船ホールジー(7088トン)を2本の魚雷で雷撃。2本とも左舷に突き刺さり、爆発により60フィートの穴が穿たれて致命傷を負う。15分後に乗組員は救命艇で脱出。積み荷のナフサから生じる煙により乗組員の窒息死が続出しており、あまりの窮状に浮上したU-333が支援を申し出たが、断られている。2時間後、ナフサや原油に引火したのか船体中央で爆発が生じ、真っ二つに折れながら沈没。
5月7日、米コルベット艦ダラスから爆雷攻撃を受けて大破。戦闘航海が困難となり、体を引きずりながらフランスへと退却する。
5月10日午前9時5分、ハッテラス岬沖南東約300マイルで英商船クラン・スケーン(5214トン)はU-333から2本の雷撃を受けて撃沈。帰る前の土産と言わんばかりに戦果をもぎ取ってアメリカ東海岸沖から離脱。道中の5月23日21時30分、北大西洋で潜望鏡を発見。無線を傍受した結果少なくとも相手はドイツ艦ではない事が判明。襲われればひとたまりも無かったが互いに攻撃せず素通りした。5月26日午前8時16分、ラ・パリス帰投。5月27日から8月10日まで造船所で入渠整備。
8月11日19時30分、ラ・パリスを出撃。8月12日夜、U-333の逆探装置が2分ごとに反応したが、ドイツ軍の地上レーダーだと判明したので潜航せず突き進んだ。8月14日に8隻からなるウルフパック「ブリュッヒャー」に属する。8月17日午後12時48分、B-24リベレーターの機影が左舷に確認される。13時34分には複葉機が左舷後方から迫ってくるのが確認され、敵機に包囲される。U-333は潜航せず、敵機は投弾しないという無言の睨み合いが続く。15時20分、U-333が潜望鏡深度まで潜航したのを機にB-24も爆撃を仕掛け、12発の爆雷投下を受けて艦内に浸水が発生。応急修理で水の噴出を止めながらバケツリレーで海水を汲み出す。更に敵駆逐艦の推進音を探知。どうやら敵機が通報して駆け付けて来たらしい。10時間に渡って空と海上から同時に爆雷攻撃を受ける厳しい戦いを強いられた。翌18日午前0時32分、闇夜に紛れて浮上。約4000m先には不発と思われる3発の爆雷が漂っていたが、幸い敵影は無かった。命からがら助かったものの僅か4日でウルフパックを離脱して後退。8月24日14時5分に戦果を挙げられないままラ・パリスへと戻った。
9月1日、ラ・パリスを出撃。ビスケー湾を抜けた後、今度はフリータウン方面へと向かった。10月6日早朝、フリータウン南西約60マイルで英コルベット艦クロッカスにレーダー探知され、奇襲砲撃を受けて艦橋にいたクレマー艦長や先任士官のポールが重傷を負わされる。クロッカスはU-333に急速接近して2回の体当たりを喰らわせてきた。かろうじて沈没を免れたU-333は潜航退避し、クロッカスも爆雷攻撃の準備を始めたが、ここで敢えて至近距離に浮上して不意を突き、水上砲撃を仕掛けた。互いに至近距離で銃撃戦を実施し、両艦ともに被害を受けるなどまさしく死闘だった。やがてU-333は潜航退避。闇夜に紛れて離脱に成功したが艦に甚大な被害が発生し、3名の戦死者を出すなど沈んでもおかしくない程の満身創痍状態に陥る。重傷を負ったクレマー艦長に代わって二等航海士が臨時に指揮を執る。
10月9日、救援に訪れたU-459と合流。死に体のU-333に燃料と666kgの食糧を提供し、軍医が派遣して重傷を負ったクレマー艦長や負傷者の治療を行う。また同じく救援に現れたU-107からローレンツ・カッシュ大尉が移乗してU-333の指揮を引き継ぐ。10月21日、ビスケー湾を浮上航行していたU-333に思わぬ刺客が現れる。味方の港を目前にして英潜水艦グラフの雷撃を受けたのである。グラフは元U-570であり、イギリスに鹵獲されてU-333に牙を剝いてきたのだった。4本の白線を引いて伸びて来る魚雷を見張り員が発見、何とか回避に成功して事なきを得た。幸いにして10月23日にラ・パリスへ入港。クレマー艦長は3ヶ月入院する事になり、その間の指揮は11月22日に着任したヴェルナー・シュワフ中尉が担当する。
12月19日にラ・パリスを出撃するが、ビスケー湾通過中に漏油が確認されたため同日中にラ・パリスへ引き返している。短時間の修理を経て12月20日に改めて出撃。アイルランド西方を中心に通商破壊を行う。12月28日より23隻からなる大規模ウルフパック「ファルコン」に所属。
1943年
1943年1月19日からは「ランツクネヒト」に加わるが獲物と遭遇出来ず、2月5日にラ・パリスへ帰投した。
3月2日にラ・バリスを出撃するが今度はロープがスクリューに引っかかる事態に陥って即日引き返す。3月3日に改めて出撃し、再びアイルランド西方へと向かう。ビスケー湾を通過中の3月4日夜、U-333の逆探装置に反応。付近にレーダー波を出しながら飛行している敵機がいる事を察知する。21時31分、闇夜に紛れて接近してくるウェリントン爆撃機を見張り員が発見。敵機は去る2月9日にU-268を沈めた機体だった。ウェリントンはリー・ライトを照射しながら4発の爆雷を投下し、うち2発がU-333に命中。あわや撃沈かと思われたが、1発は起爆せずに跳ね返され、もう1発は艦に弾かれて数秒経ってから炸裂したため致命傷にはならなかった。すかさずU-333の対空機銃が火を噴き、ウェリントンの急所を撃ち抜いて炎上・撃墜。パイロット6名が死亡した。
先月にU-268が撃沈された事、U-333が敵機を撃墜した事を踏まえ、司令部はイギリス軍哨戒機が新型の探知装置を搭載しているのではないかと勘繰る。実際その読みは当たっていた。イギリス軍は波長10センチの新型遠距離レーダーの開発に成功しており、既に一部の機体に搭載されていたのだ。これを受けてデーニッツ提督は全Uボートに対し「レーダー波をキャッチしたら急速潜航し、30分間は浮上してはならない」と命令した。
敵機の襲撃を退けたU-333は北大西洋へ進出。3月14日からウルフパック「ドレンジャー」に所属する。3月19日18時40分、2本のマストが水平線の向こう側から突き出ているのを確認して攻撃に向かい、20時2分に急速潜航。21時26分に2本の魚雷を発射してギリシャ商船カラス(5234トン)を撃沈した。カラスは約15時間前にU-666に襲われており既に船体は放棄されて無人船であった。3月21日から30日まで「シーウルフ」に所属する。4月13日、ラ・パリスに帰投。U-333がウェリントンを返り討ちにした戦果はデーニッツ提督の考えにも影響を与えた。以前出した「潜航命令」を取り消し、全Uボートに「敵機を見たら撃ちまくれ」と命令を下した。
6月2日、ラ・パリスを出撃。中部大西洋、カナリア諸島、フリータウン沖で遊弋する。6月13日、U-214と合流して燃料と14日分の食糧供給を受ける。7月13日に敵機の襲撃を受ける。MG38機関銃の弾薬が不足していたため88mm対空機銃で応戦し、巧みな対空射撃によって見事撃退に成功した。8月16日、U-129から21日分の食糧と燃料補給を受ける。戦果無しで8月31日に帰投。港ではすっかり快復したクレマー大尉が待っており、彼に指揮権が戻された。
10月14日、クレマー艦長のリハビリがてら出港し、ビスケー湾で急速潜航の訓練を実施。翌15日にラ・パリスへと戻った。そして10月21日に戦闘航海へ出撃。北大西洋、リスボン西方、ジブラルタル西方を狩り場に定めて遊弋する。10月25日から「シル」に所属。11月4日、ジブラルタルへ向かうKMS船団を捜索中、濃霧の中で浮上したところお目当てのKMS船団を発見。しかし敵の駆逐艦にすぐ見つかって追い回され、爆雷投下を受けたが脱出には成功した。11月16日からはウルフパック「シル1」に参加。11月18日、MKS-30とSL-139の複合船団に攻撃を仕掛けようとした際、英フリケード艦エグゼに体当たりされ、潜望鏡を損傷。その後、8時間に渡って敵艦と航空機から爆雷攻撃を受けたが、今回も上手く逃げ切っている。2つのウルフパックで攻撃成功は2回のみであり、U-306、U-707、U-211の3隻を失った。12月1日、ラ・パリスへ帰投。
1944年
1944年2月10日にラ・パリスを出撃。しかしまたもや漏油が発覚したため引き返し、翌日入港。2月12日に改めて出撃し、北大西洋やアイルランド南方で活動する。
3月21日、ヘブリディーズ諸島ティリー西方でイギリス海軍のハンターキラーグループである支援グループ2の敵機に発見され、執拗な捜索を受ける。クレーマー艦長は潜航を命じて水深40mの海底まで退避するが、その際に海底に接触し、泥に船体を絡め取られて身動きが取れなくなる。その状態で10時間耐え抜き、最終的に浮上にも成功して支援グループ2からの猛追を逃げ切った。4月20日にラ・パリスへ帰投。既に大西洋の制海権と制空権は連合軍に握られ、VIIC型も旧式化著しい状態であったため、もはや戦果を挙げる事は叶わなかった。
6月6日、U-333はラ・バリスを出撃して戦闘航海に向かうが、今回はあまりにも時期が悪かった。同日中に連合軍がノルマンディー上陸作戦を発動したのである。U-333を含むシュノーケルを持たないフランス方面のUボート26隻はビスケー湾で哨戒線を張ったり、リザード岬とスタート岬の沖合いに散開して侵攻してくる敵艦隊や補給船団を待ち伏せる。しかし、ノルマンディー上陸に伴ってビスケー湾方面の対潜警戒も熾烈なものになりU-333はその犠牲となった。
6月10日、湾内を出る前からオーストラリア軍のサンダーランド飛行艇が出現。まるで威圧するかのように重厚な機体と轟音がU-333の上空を旋回する。サンダーランドはUボートにとって天敵中の天敵であり、U-333にとってまさに処刑宣告と言えた。その死神から放たれた爆弾によりU-333はたちまち大破させられるも、正確な対空射撃によって撃退に成功。かろうじて命だけは助かった。しかし戦闘航海の中止を決断しなければならないほど深手を負わされ、フランスに後退する。ところが翌11日に今度はイギリス軍のサンダーランドが出現。何とか振り切ったものの、6月12日にもサンダーランドの襲撃を受ける。ここでU-333は反撃に転じ、対空射撃でサンダーランドを撃墜。死神に一矢報いた。
6月13日に何とかロリアン軍港へ到着。U-333を加えて4隻のUボートが損傷により基地へ帰投、6月10日までにU-970、U-629、U-373、U-740、U-821が立て続けに航空攻撃で沈められた。シュノーケル無しではまともに活動できない事を如実に物語る大損害だった。このためUボートは急遽基地に呼び戻され、未搭載のUボートは出撃を取りやめ。急いでシュノーケルの搭載工事が行われた。6月14日から7月22日まで造船所に入渠して修理しながらシュノーケルの搭載工事を受ける。その間にクレマー艦長は新たに就役したXXI型Uボートへ異動となり、ハンス・フィードラー中尉が艦長に就任する。
7月23日、U-333は最後の戦闘航海のためロリアンを出撃。ビスケー湾北方からイギリス本島南西へと進出する。
最期
1944年7月31日、シリー島西方にて支援グループ2に所属するフリケード艦ロックキリンとスターリングからヘッジホッグ攻撃を受けて沈没。乗組員45名全員が壮絶なる戦死を遂げた。
余談だが直前に異動となったクレマー大尉はU-2519の艦長となる。その後、1945年4月には海兵戦車大隊の野戦指揮官となってハンブルク防衛戦で24輌の敵戦車を破壊するなど陸に上がってもアグレッシブに活動。無事終戦まで生き残った。
関連項目
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