U-371とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造したVIIC型Uボートの1隻である。1941年3月15日竣工。全Uボート中、最初にジブラルタルを突破して地中海に入った艦。通商破壊で11隻(5万1946トン)を撃沈し、6隻(1万1410トン)を撃破する戦果を挙げた。1944年5月4日、地中海で沈没。
概要
VIIC型とは、前級VIIB型に小改良を加えた航洋型潜水艦。出力はそのままで船体を少し大型化したため、前級より最大速力が低下している。とはいえUボートの完成型として568隻が量産され、大西洋や地中海で大いに暴れまわった。要目は排水量769トン、全長67.1m、全幅6.2m、乗員44~52名、燃料積載量114トン、安全潜航深度100m。武装は21インチ艦首魚雷発射管4門、艦尾魚雷発射管1門、45口径8.8cm単装砲1基、65mm単装機関砲1基。
艦歴
1939年9月23日、ホーヴァルツヴァルケ社のキール造船所に発注。ヤード番号2の仮称を与えられ、11月17日に起工。1941年1月27日に進水し、3月15日に竣工した。初代艦長にハインリヒ・ドリファー中尉が着任。
訓練部隊の第1潜水隊群に編入され、3月16日から30日までキールでテストを行う。以後、バルト海に移動して慣熟訓練に従事。4月16日から30日にかけてグタニスクで第25潜水隊群と魚雷発射訓練を行い、5月1日から15日にかけてゴーテンハーフェンで第27潜水隊群と戦闘演習を実施。5月19日にキールへ戻り、出撃に向けた準備と残工事を5月31日までに完了。戦備を整えた。
大西洋での戦い
1941年
1941年6月5日、最初の戦闘航海を行うべくキールを出撃。スウェーデンのヨーデボリに寄港したのち、デンマーク北部とノルウェー南部の中間にあるスカゲラク海峡を通過し、ノルウェー西部を北上。イギリス海軍が警戒しているアイスランド・フェロー諸島間を突破して狩り場の北大西洋に到達する。
6月12日午前2時43分、グリーンランド南方沖でケント級重巡洋艦らしき艦影を確認。午前3時26分、に対して2本の魚雷を発射し、38分後に沈没するのが見えた。撃沈したのは英商船シルバーパーム(6373トン)であり、グラスゴーから9000トンの一般貨物を運んでいるところだった。船員68名全員が死亡。こうしてU-371は最初の戦果を挙げた。6月17日、U-43、U-73、U-201、U-204からなるウルフパック「クルフュースト」に参加。しかし獲物にありつけたのはU-43だけであり、6月20日に解散となった。6月24日午前2時30分、HX-133船団を発見して追跡。午前5時33分に雷撃を仕掛けたが、不成功に終わる。燃料節約の観点からこれ以上の攻撃を行わず、獲物を取り逃がした。だがU-371にはまだツキが残っていた。午前7時50分、HX-133船団から落伍していたノルウェー商船ヴィグリッド(4765トン)が遅れてやって来るのを発見。午前11時32分、フェアウェル岬南東約400海里で2本の魚雷を放ち、撃沈。初航海で2隻撃沈の戦果を挙げ、7月1日にドイツ占領下のブレスト軍港へ帰投。
7月23日、ブレストを出撃してアゾレス諸島とポルトガル沿岸の中間海域に向かう。7月30日午前1時38分、アゾレス諸島南東でOS-1船団から落伍中の英蒸気船シャーリスタン(6935トン)を雷撃して撃沈。シャーリスタンが沈む炎を目撃していた蘭商船シトエボンド(7049トン)も爪牙から逃げられず、午前2時46分に2本の魚雷を撃ち込まれて撃沈された。2隻を仕留めた後はジブラルタル方面に向かい、リスボン沖南西まで近づいたが獲物を発見できず、8月19日にブレストへ帰投。
地中海での戦い
9月16日、ブレストを出港。U-75、U-79、U-97、U-331、U-559からなるウルフパック「ゲーベン」に参加するが、北アフリカ戦線で優勢な連合軍を相手に奮戦するドイツアフリカ軍団を支援するため、ヒトラー総統は6隻のUボートを地中海へ派遣する事を決定。U-371はその第一陣に選ばれた。これに伴って地中海方面へと向かう。しかし道中にはイギリス軍の牙城であるジブラルタル海峡が存在しており、無数の哨戒機や哨戒艇が目を光らせていた。だが勇敢にも敵中を切り抜け、9月21日に海峡を突破。全Uボート中最初に地中海に入ったUボートとなった。トブルク沖を遊弋して敵船舶を求めたが発見には至らなかった。
9月27日、撃沈されたイタリアの魚雷艇アルバトロスの生存者を救助し、急遽メッシーナに寄港して生存者を揚陸。同日中に出港した。10月24日に目的地であるギリシャのサラミス島へ到着。ここは地中海東部を遊弋するための拠点だった。11月1日、第23潜水隊群に転属した。ちなみに1941年中だけでもU-371を含む32隻のUボートがジブラルタル突破を試み、6隻が撃沈された。無事突破したUボートも5隻が撃沈されている。
12月4日、サラミスを出港して地中海東部で狩りを行う。ニコシアの北方から東側を通って南下し、英地中海艦隊の本拠地アレクサンドリアに向かう。地中海は大西洋方面の狩りと違って勝手が違った。陸岸が近い事から敵の哨戒機が飛来しやすく、長期の潜航を強いられて移動力が低下。また海が透き通っていて発見されやすいなど諸条件がUボートに不利だった。12月16日、U-371はアレクサンドリア沖でレアンダー級軽巡洋艦を撃沈したと報告したが、該当艦無し。アレクサンドリア沖から北西に進み、敵軍の拠点クレタ島の西方を北上。
1942年
3月4日にサラミスを出港し、クレタの西方を通ってマルサマトルー・サルーム間を遊弋するが、艦長の発病により哨戒任務を中断。3月25日に帰投した。3月26日から4月6日まで、カール=オットー・ヴェーバー中尉が艦長を務めた。4月6日からは艦長代理としてハインツ=ヨアヒム・ノイマン大尉が指揮を代行。
4月21日、サラミスを出撃してエジプト沿岸を南下する。しかし5月7日にクレタ南方で2隻の敵駆潜艇から攻撃を受けて大破させられ、戦闘航海を中断。5月9日に辛くもサラミスまで辿り着いた。50日間サラミスで応急修理を受けるも魚雷発射管に損傷が発覚。現地では修理できず、本格的な修理を受ける必要があった。5月25日、四代目艦長にヴァルデマール・メール大尉が着任。7月1日にサラミスを発ち、アドリア海を北上して7月7日にイタリア北西部のポーラまで後退。修理を受ける。9月5日、ポーラを出港して戦闘任務に復帰。ニコシアやベイルート方面を索敵したものの獲物に恵まれず、手ぶらで9月18日にサラミス帰投。10月12日、サラミスを出発してポーラに戻った。
11月8日、連合軍はトーチ作戦を発動し、モロッコとアルジェリアしてドイツアフリカ軍団の背後を突いた。この危急を受けてU-371は急速に出撃準備を整え、12月1日にポーラを出港。12月4日から7日にかけてメッシーナへ寄港した後、敵の上陸地点であるアルジェリア方面に急行した。しかし連合軍は空からも海からも厳重な対潜警戒網を敷き、万全の態勢でUボートを迎撃。あまりの被害に12月23日にベルリンの海軍総司令部は集中配備を断念するほどだったが、燃料の事情でモロッコ沖への進出が遅れたU-371を含む数隻は通商破壊を続行した。
1943年
1943年1月7日午後12時4分、MKS-5船団を襲撃し、英トロール船ジュラ(545トン)を撃沈。被雷から90秒以内で、推進軸を回転させながら船首より沈んでいった。間もなく護衛艦艇の駆逐艦ストロンゼイとラスクホルムから爆雷攻撃を受け、11発の爆雷により船体を損傷したU-371は東へ離脱。18時31分、再びMKS-5船団を襲ってブギー沖で英商船ヴィル・ド・ストラスブールに1本の魚雷を命中させて撃破した。1月10日、イタリア北西部のラ・スペツィアに帰投。
2月14日、アルジェリア沖で通商破壊を行うべく出撃。しかし魚雷発射管に異常が見られたため、2月17日に一度ラ・スペツィアに戻って修理。2月20日、改めて出撃。コルシカ島の西方を南西方向に向かう。2月23日13時46分、アルジェの東北東約30海里で2隻の護衛艦艇に守られた3隻の輸送船を発見し、4分後に4本の魚雷を扇状に発射。英蒸気船フィントラ(2089トン)に命中し、船尾に装備されていた機銃の弾薬に誘爆して吹き飛び、船尾側から沈んだ。敵掃海艇から爆雷攻撃を受けて海面に気泡が浮かんで来た事から連合軍はUボートを撃沈したと考えたが、実際は無傷だった。U-371は海岸線に沿って東側へ脱出した。2月28日17時10分、アルジェリアのデリー沖で東航するTE-16船団に向けて1本の魚雷を発射。米リバティ船ダリエル・キャロルを大破させる。8分後にトドメ魚雷を発射して命中させるも、不発で終わってしまった。3月3日、ラ・スペツィアに帰投。
4月7日、ラ・スペツィアを出撃。しかし4月9日に今度は浸水被害が発生し、ラ・スペツィアに引き返して修理。翌10日、気を取り直して再出発してアルジェリア沖で狩りを行う。4月27日14時14分、沿岸を航行中の小規模船団を発見し、14時26分に距離3000mから4本の魚雷を発射。このうちの1本が蘭商船メロープ(1162トン)の右舷中央部に命中し、2分以内に沈没した。しばらくアルジェリア沖を遊弋した後、5月11日に南フランスに設けられた新たな拠点トゥーロンに入港。
7月3日、トゥーロンを出撃。だが次は攻撃用潜望鏡に欠陥が見られ、トゥーロンに引き返す。修理したのち7月6日に出港。真っすぐに南下してアルジェリア東方に到達する。7月10日午後12時35分、ブギー東方約30海里でET-22A船団を捕捉。午後12時41分に1本の魚雷を発射し、米リバティ船マシュー・モーリーの船尾を吹き飛ばして航行不能にする。その1分後に更に1本を撃ち込み、米蒸気船ガルフプリンスの右舷に大穴を開けて撃破したが、アルジェリアに曳航されて一命を取り留めた。しかし戦線復帰は叶わず、終戦まで海上倉庫の扱いだった。7月12日にトゥーロンへ戻った。
7月22日にトゥーロンを出港するも、排気弁の故障に見舞われ、またしても反転。7月26日にトゥーロンへ戻った。7月31日に再出発し、アルジェリア沖で遊弋。8月7日15時42分、サルデーニャ南西沖75海里でGTX-5船団を襲撃し、英商船コントラクター(6004トン)を撃沈する。だが護衛艦艇が向かってきたため潜航退避しなければならず、U-371はコントラクターが沈む様子を視認できなかった。8月11日、トゥーロン帰投。8月21日、トゥーロンを真っすぐに南下して9月3日まで哨戒したが、戦果は挙げられなかった。入港後、8.8cm対空砲を取り外して四連装20mm対空砲を装備。
10月7日、トゥーロンを出撃。地中海西部で活動していたが、敵哨戒機に発見されて何度か攻撃を受けている。10月11日午前1時9分、アルジェリア沖を航行中のMKS-27船団を襲撃し、英艦隊掃海艇ハイス(656トン)を撃沈。10月13日午前4時17分、オラン行きの小規模船団を護衛していた米グリーブス級駆逐艦ブリストル(1630トン)はU-371から雷撃を受け、前部機関室に魚雷が命中。船体は真っ二つに引き裂かれ、艦尾側は8分で沈没。残った艦首側も12分後に海へ没した。乗組員52名が死亡。10月15日午後12時39分、ケープ・デ・フェル沖でGUS-18船団に4本の魚雷を発射。米リバティ船ジェームズ・ラッセル・ローウェル(7176トン)に3本が命中した。アルジェリアのコラまで曳航されたが、竜骨を損傷していたため全損と判定された。10月28日、トゥーロンへ戻った。
11月15日、新たに装備したレーダー探知機の試験も兼ねてトゥーロンを出港。敵機の哨戒網が薄いコルシカ南西沖でテストを行い、11月23日に帰投。翌24日、トゥーロンが初めて爆撃を受け、停泊中のUボートや施設に被害が及んだ。U-371も例外ではなく、艦前方に落下した爆弾が炸裂して損傷。11月27日より入渠して修理を受ける。
1944年
1944年1月22日、トゥーロンを出撃。ところがGHG(聴音装置)の異常が見つかり、翌日トゥーロンに戻った。そこで更に排気弁の異常が見つかり、急いで修理。出撃できたのは1月26日の事だった。連合軍のアンツィオ上陸を企図したシングル作戦を迎撃すべく、コルシカ北方から南東に向け、イタリア沿岸に沿って移動。ローマやナポリ沖を遊弋したが敵船を発見できず、2月13日にトゥーロン帰投。
3月4日にトゥーロンを出撃してアルジェリア方面に移動。3月17日午前7時22分、SNF-17船団を発見。午前8時30分に潜航し、雷撃の機会を窺う。午前9時38分、ブギー北東約30海里でSNF-17船団に3本の魚雷を発射。蘭軍隊輸送船デンポ(1万7024トン)の右舷に命中し、乗組員は船を放棄。デンポは少しずつ沈下し、午前10時55分に沈没した。デンポはUボートに撃沈された船舶の中でも13番目の大物だった。またU-371が放った魚雷は米商船メイデン・クリーク(6165トン)の船尾に命中。13時50分に二度目の雷撃で大破航行不能に追いやった。メイデン・クリークはブギーに曳航されたが、損傷激しく放棄された。3月25日、トゥーロンに帰投。U-371が出撃中にトゥーロンは執拗な空襲を受け、入渠中のU-410が沈没。幸い乗組員に死傷者はいなかったため、4月5日にU-410のホルスト=アルノー・フェンスキー艦長と一部の乗組員がU-371に異動した。この時に前乗組員らがこれまでのU-371の行動記録をベルリンに持ち帰ったため、幸いにも連合軍に情報が洩れなかった。
4月23日19時頃、トゥーロンを出港。浮上航行で南下しながらアルジェリア沖へ向かった。4月26日、潜航中に推進音を探知。3隻のフランス駆逐艦に護衛された2隻の大型輸送船を発見し、3本の魚雷を発射したが命中せず。4月28日、ケープ沖を通過する敵大型船団の情報を受け取り、迎撃すべく移動を開始。途中で3機の敵哨戒機が飛んでいるのを確認した。
最期
5月2日夜、数時間後に控えた敵船団攻撃に備えてバッテリー充電の目的で浮上。ところが獲物の敵船団が眼前まで迫っている事に気づき、急いで深度100mまで潜航。約1時間後に再浮上し、船団を追いかけたところで米護衛駆逐艦メンデスに捕捉されてしまう。フェンスキー艦長は充電が完了するまで水上航行で逃げようとし、彼我の距離が3000mに縮まるまで潜航しなかった。潜航後、すぐに音響魚雷を発射して100mまで沈降。翌3日午前1時42分、メンデスは艦尾に魚雷を受けて大破させられ、乗員31名が死亡。曳航されて戦線を離脱した。爆発音を探知したU-371は追手の駆逐艦を撃沈したと考えたが、逆に決して逃れられない包囲網の中に閉じ込められていた。不運な事に、U-371は連合軍が編み出した対潜水艦戦術「沼」の最初の犠牲者となった。敵はU-371がいると思われる場所に大量の哨戒機と駆逐艦を配備し、浮上できない状態に追いやられる。
米護衛駆逐艦プライド、ジョセフ・E・キャンベル、自由フランス駆逐艦ゼネガリス、ラルシオン、英駆逐艦ブランクニーに攻囲され、対潜攻撃を受ける。至近弾により電力を喪失するとともにトリムタンクが破裂し、絶体絶命の窮地に陥った。時間の経過とともに敵の爆雷投射が正確になっていき、更なる損傷と浸水被害を負う。敵が去るのを待つべく、5月3日午前6時に水深240mの海底に沈座。バッテリーを節約しながら
ずっと息を潜める。しかし敵の攻囲は執拗を極め、夜になっても推進音が聞こえ続けた。無理に続けた潜航により艦内の空気は悪化し始め、補助電源は喪失、流入した海水は15トンに及んだ。このままでは全員窒息死してしまう。一か八か、一縷の望みをかけて浮上を試みる。乗組員は艦の端から端まで往復して前後に艦体を上げ下げし、人力で浮き上がろうとする。浮上後、敵艦と刺し違える覚悟で発射管には魚雷を詰め、砲手がすぐに甲板砲を操作できるよう待機。浮上に成功したU-371は全力で逃走を図るが、待ち構えていた敵艦との砲撃戦を強いられる。質・量ともに圧倒的に不利なU-371の敗北は火を見るより明らかだった。交戦開始から15分後、乗組員は艦を放棄して次々と海へ飛び込む。
だが機関科と魚雷科は艦に留まり続け、最期の抵抗で艦尾魚雷発射管から音響魚雷を発射。照準など合わせていない発射だったが、5月4日午前4時4分にゼネガリスへ命中させて撃破。鹵獲を防ぐため自沈処理を施され、U-371は沈没していった。乗員3名が死亡し、49名の生存者はジョセフ・E・キャンベルに救助され、捕虜となった。
関連項目
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