U-546単語

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U-546とは、ドイツ海軍が建造・運用したIXC/40Uボートの1隻である。1943年6月3日工。B-24を撃墜し、エドソール級護衛駆逐艦フレデリック・C・デイビス(1253トン)を撃沈する戦果を挙げた。1945年4月24日北大西洋で撃を受けて沈没

概要

IXC/40は、ただでさえ長大な航続距離を誇るIXC良し、更なる航続距離を獲得したタイプ。外殻径とバラストタンクを拡充して燃料搭載量を6トン増加している他、3本の潜望が取り除かれている。発注数は164隻だが、1940年から44年にかけて就役したのは87隻で、以降はXXI型生産のため打ち切られた。

燃料不足に陥った際、エンジンを停止して潮流に任せて進むという奇抜なアイデアIXC/40の長大な航続距離により、一度の戦闘で約5ヵという全Uボート最長の航記録叩き出す。またU-546が挙げたフレデリック・C・デイビス撃沈は欧州戦線におけるアメリカ海軍最後の喪失艦となった。

諸元は排水量1144トン、最大速18.3ノット(水上)/7.3ノット(水中)、安全潜航深度100m、燃料搭載量214トン、急速潜航時35、乗員44名。兵装は53.3cm魚雷発射管6門(艦首4門、艦尾2門)、魚雷22本、10.5cm単装1門、37mm単装機関1門、20mm連装機関2~3基。U-546は右側にFuMO 61レーダー送信機を装備した数少ないUボートであった。ただ潜航の際に折りたたんで艦内に収納する手間がある。また艦には敵のレーダー波を吸収して警告を出すFuMB-26チュニスアンテナを装備している。

U-546には軍医が乗っておらず、薬剤師が医務を代行するというしい体制が取られていた。

戦歴

1941年6月5日、ホヴァルツヴェルケ・ドイツハンブルク所に発注され、ヤード番号367の仮称を与えられる。1942年8月6日に起工、1943年3月17日に進し、同年6月3日工を果たした。艦長にはポール・ジャスト中尉が着任。訓練部隊の第4潜隊群に編入され、慣熟訓練と試験を開始。

6月3日から9日までハンブルクで残工事を行い、6月11日から27日にかけてキールで試験を実施、6月29日から2日間シュヴィーネミュンデの対学校で対射撃を学ぶ。7月5日から8日までダンツィヒで試験し、7月9日から8月8日までヘラ半島前線に即した訓練に従事。この訓練が終わる頃に空気圧縮機が故障したため、8月9日にゴーテンハーフェンへ回航されて造所で修理8月18日から25日までダンツィヒのホルム造所でオーバーホールを受ける。

8月26日ヘラへ戻って急速潜航訓練を開始。8月29日から9月19日までピラウで第26潜隊群のU-547、U-945、イタリア製のVIIC潜水艦魚雷発射訓練を、9月21日から10月1日までゴーテンハーフェンで第27潜隊群と戦術演習を行う。10月3日にシュテッティンの造所で小さな工事を行い、10月11日からはハンブルク所で体の拡工事を行って37mm単装機関を搭載。12月6日キールへ回航されて艦の消磁と急速潜航の訓練を実施。12月12日から15日までシュヴィーネミュンデで対教練するがコンプレッサー異常が生じて交換を強いられている。12月17日から19日までヘラで潜航訓練し、12月22日からシュテッティンで工事。

1944年

1944年1月1日大西洋での戦闘任務のためロリアンに本拠を置く第10潜隊群へ転属。1月14日にシュテッティンを出て翌日キールに回航され、1月21日まで工事と物資の積み込みを行う。

そして1月22日キールを出撃。最初の戦闘に向かう。翌23日にノルウェークリスチャンサンに寄港して燃料と食糧を補給するが、悪のせいで出発が遅れる。1月26日にようやく出発し、アイスランドフェロー諸島間を通過して北大西洋に進出する。2月3日スコットランド北西で15隻からなるウルフパック「ヘッジホッグ」に加わり、北大西洋で通商破壊を行う。2月16日午後12時49分、U-546はイギリス空軍201飛行隊所属のサンダーランド飛行艇に襲撃され、乗組員のヴィルヘルム・ファン・デ・カン伍長死亡した他、ディーゼルエンジンに軽微な損傷が見受けられたが、ジャスト艦長は継続できると報告した。2月17日に「ヘッジホッグ」は解散となったが、戦果は一切挙げられず、U-283、U-545、U-666の3隻を失った。同日16時25分、味方の航空機団を発見したため新たなウルフパック「ハイ」が編制され、U-546を含む16隻が参加。2月20日、U-546はサンダーランドに攻撃されるが37mm機関により撃退。2月22日に「ハイ」は解散。戦果はU-256が挙げた1隻撃沈のみで、U-264、U-386、U-406、U-603、U-709の5隻を失う大打撃を受けた。その後、U-546はアイスランド方面の気報告を担当。4月中旬頃にロリアンへの帰投命を受領、北大西洋を通ってフランス方面に向かう。

U-546は難所のビスケー湾に差し掛かった。ここの制権はイギリス軍に握され、加えてU-546のナクソスは故障という最悪に近い状態で突破しなければならなかった。、リー・ライトを装備した敵機に奇襲されるが、幸い敵機は爆弾を投下せずに去っていった。4月17日午前4時53分、フィニステレ北方ビスケー湾にてリー・ライトを装備した英第53飛行隊のB-24から攻撃を受ける。HX-278団の南東海域を前もってしていた機であった。右舷に2発、左舷に6発の爆雷を投下されたが軽微な損傷だけで済み、敵機が突撃してきたところを37mm単装機関により撃墜に成功。500m先の墜落してパイロット全員死亡した。4月20日にもモスキート戦闘機夜襲を受けて電気モーターが損傷、潜航不能になる。もはや半身不随の状態であり、幾度となく敵機の奇襲を許す羽になった。4月21日16時30分に再び敵機の襲撃を受けたため、U-546は戦闘機の護衛を要請したがドイツ空軍からの援護を受けられず、翌22日午前3時フランスを出発してきた掃海艇4隻と合流。彼らに護衛されて4月23日ロリアンへ何とか入港出来た。体の修理シュノーケル装備のための工事が行われ、その間乗組員には休暇が与えられた。

6月15日ロリアンを出撃してアフリカ西ギニア湾へと向かうが、6月18日ウシャント南西でアメリカ軍サンダーランド飛行艇に見つかり、機弾を撃ち尽くすほどしく応戦。撃退こそ成功したもののシュノーケルを損傷して戦闘を中止。6月22日ロリアンへ一度戻り、甲弾を補充して6月25日に再度出港した。しかしフランスは既に連合軍のノルマンディー上陸を受けており、いつまでロリアンブレストを維持できるか不安視されるような状況下であったため、海軍部からはドイツへ帰投するよう命じられた。幸運にもU-546は航空レーダーに見つからないシュノーケルを持っており敵哨戒機にさほど悩まされる事く活動できた。

7月20日、フンシャル西方護衛空母ボーグを基幹としたハンターキラーグループに捕捉され、U-546はボーグに向けて1本の魚雷を放ったが失敗。3時間に渡って護衛駆逐艦から爆雷攻撃を受けたものの辛くも脱出に成功。その後、ダカールカーボベルデ通商破壊を行い、敵輸送団に向けて3本の魚雷を発射したが戦果はかった。9月4日前後にダカールから退却。9月26日午前4時30分、アゾレスで敵哨戒機に潜望を発見されている。10月2日、後退するU-245に代わってU-518とともに気観測となり、10月5日より1日2回の気報告を送信。ちょうどU-546がいる域は他の気観測Uボートがおらず、非常に価値があるとして燃料切れギリギリになるまで留まるよう命される。10月8日23時30分、西方にリー・ライトを備えた敵哨戒機撃。

燃料不足が深刻化するまで情報を送信し続けたU-546は帰路に就くが、普通に航行すれば味方の港まで辿り着けないため、全てのエンジンを停止して潮流に身を任せて進むという大胆な方法で燃料を節約する。スコットランド西方北上してアイスランドフェロー諸島間を通り、ノルウェー西に沿って南下。11月10日ロリアンの失陥と部の脱出によって第10潜隊群が解隊してしまい、U-546はフレンブルクを拠点とする第33潜隊群へ転属。燃料30トンを残して11月11日フレンブルクへ帰投して奇跡の生還を遂げた。実に航時間約5ヵという全Uボートの長期航に耐えており、航続距離の長いIXC/40でなければU-546は辿り着けなかったと言える。

その後、修理のためキールに入港したが、襲と人手不足により修理不能と分かり、シュテッティンに回航。14日間のオーバーホールを受けるとともに新しい対兵器と逆探装置を装備し、キールへ戻ってオーバーホール作業を再開。

1945年

ドイツの敗色が濃くなり、各地で熾爆撃が行われていた1945年3月初旬にオーバーホール了。

3月11日、U-776、U-881、U-1103とともにキールを出港し、ホルテン軍港を経由して3月18日クリスチャンサンに入港。シュノーケルレーダーの試験を実施した。そして3月21日クリスチャンサンを出港して最後の戦闘に向かう。敵機に気付かれないよう長時間の潜航を行い、3月23日アイスランドフェロー諸島間を通過。出撃後U-546が初めて浮上したのは4月7日の事だった。そこから8時間バッテリー充電を実施。以降、毎晩3時間浮上してバッテリー充電した。

4月14日、U-518、U-546、U-805、U-880、U-858、U-1235の6隻で最後のウルフパックとなる「シーウルフ」を結成。パウケンシュラーク作戦以来のアメリカ東海での大規模通商破壊を行ってイギリス沿域から対潜掃討部隊を遠ざけ、被害増大で3月下旬から中止となっていたイギリス周辺での通商破壊を再開する意図があった。「シーウルフ」の狩り場はニューヨーク南方に定められた他、「シーウルフ」とは別にU-530とU-548がカナダ方面に向かう。しかし連合軍はエニグマ解読により「シーウルフ」の的地を把握していた。4月16日、2隻の駆逐艦に護衛された1隻の空母を発見して撃するも不成功。

その頃、連合軍の諜報機関では去年9月に撃沈されたU-1229から救助したドイツスパイの偽情報に踊らされ、「ドイツ潜水艦によるV1号飛行爆弾またはV2ロケットによる米国本土攻撃を企図している」と解釈し、出撃してくるUボートを迎撃するティアドロップ作戦を開始。護衛空母2隻と護衛駆逐艦22隻からなるハンターキラーグループを送り込んだ。しかし実際は本土攻撃など企図しておらず、当然「シーウルフ」のUボートは何も知らなかった。通信解析によりハンターキラーグループは「シーウルフ」の位置を突き止め、1隻ずつ仕留めてゆく。

この時の大西洋は酷い悪に見舞われており両軍の行動に悪を及ぼしている。Uボートの襲撃と荒を避けるため連合団の航路を南へ移動させたため「シーウルフ」は獲物を発見できず、しいは護衛空母からの艦載機発進を妨げてUボートの捜索を不全なものにした。4月20日、U-546は護衛駆逐艦に向けて撃を行うも外れる。既にこの時点でU-1235、U-518、U-880が沈められており、4月22日ドイツ海軍部は「シーウルフ」で生き残っている3隻のUボートニューヨークハリファックスの間に向かうよう示を出す。同時に別行動中のU-881、U-889もニューヨーク・ハッテラス間の域を向かわせた。これらの通信も連合軍に傍受されたが、逆に本土攻撃に説得を持たせて危機感を抱かせている。

4月23日正午頃、敵護衛空母ボーグ艦載機がアゾレス北西137kmにて浮上中のU-546を発見。急速潜航した直後に爆弾が投下されたが損傷はかった。これがティアドロップ作戦最初の航空攻撃となった。

最期

1945年4月24日艦載機から報告を受けた第22.3任務部隊がU-546を仕留めようと動き出す。U-546はボーグを発見して潜望深度へ潜航。午前8時35分、護衛駆逐艦フレデリック・C・デイビス(1253トン)が潜航中のU-546をソナー探知して攻撃準備を整える。敵艦に発見された事を悟ったジャスト艦長は距離590mから艦尾魚雷発射管よりT5音響魚雷を発射。伸びて来る跡に気付いたデイビスは「魚雷発射音が鋭く鋭敏に捉えられた」「魚雷が左舷側を高速で通過した」と僚艦に打電しながら対音響魚雷デコイ「フォクサー」を放って囮とするも効果はく、午前8時40分に左舷前方の機関室に直撃。わずか5分で体をっ二つに折った。艦尾側の方に多くの生存者が乗っていたが、浮の維持に失敗したためへ飛び込まなければならず、乗員192名中115名が死亡した。

駆逐艦を撃沈したのも束の間、これが原因で第22.3任務部隊異常を知らせる事となり、午前8時53分にボーグ魚雷攻撃を受けた旨を揮下の護衛駆逐艦群に伝達。フラハティ、ノインザー、シャテラインバリアン、ハバード、ヤンセン、ピルズベリーキースの8隻から一斉に捜索を受ける。午前9時20分頃にデイビスが全に沈没午前10時35分、デイビスの沈没地点に第22.3任務部隊が到着し、漂流中の生存者を駆逐艦オターが拾い上げる。バリアンは最後にU-546が確認された場所を起点に捜索するよう命午後12時5分、護衛駆逐艦ラハティ180mに潜航中のU-546を捕捉。午後12時51分よりハバードとヤンセンが爆雷投下を始める。ジャスト艦長は経験豊富な指揮官だったためジグザグに動きながら音響魚雷を囮にして包囲網の脱出を試みる。13時42分からはフラハティ、ハバード、ノインザーから同時に爆雷攻撃を受け、徐々に追い詰められるがもそれでも16時頃に行方をくらます事に成功。

しかし依然として敵の包囲網は分厚く、17時31分に護衛駆逐艦バリアンに捕捉され、18時10分に爆雷攻撃が再開。4分後、小さな膜が面に出始めた。18時28分、今度はフラハティが2回ヘッジホッグ攻撃を行い、大破。損傷して潜航できなくったU-546は10分後に面へ浮上。そこへ包囲網を形成していた護衛駆逐艦8隻から一斉に撃を受ける。まず最初にピルズベリーが発、それに倣うように他の護衛駆逐艦撃し、く間にが破壊されて炎上。乗組員は撃を受けながらディーゼルハッチから脱出して33名が外へと出られた。その約10分後の18時44分、バッテリーが原因と思われる大爆発が発生して艦首から沈んでいった。しい攻撃だったにも関わらず艦長と乗組員の大半はバリアンとハバードに救助され、戦死者は24名に留まった。ニューファンドランドアルジェンティア海軍基地に連行されて捕虜となる。

デイビスは欧州戦線で失われた最後のアメリカ軍艦艇となった。

その後

U-546は「シーウルフ」で4番に失われた艦となり、沈没の様子はU-805に観測されていた。ポール・ジャスト艦長と士官はボーグに移送されて尋問を受けたが、ジュネーブ条約で要されている情報以外は何も喋らなかった。

4月27日、ジャスト艦長を含む8名は他の乗組員25名と隔離され、捕虜収容所へと送られる。そこで彼らは独房に収監され、尋問と称して殴打や拷問を受けた。4月30日に行われた2回の尋問ではジャスト艦長が気絶し、意識が戻った後に「シーウルフ」の編成と任務内容について喋った。本土が攻撃される焦りから詳細な情報を聞き出そうと暴行に至ったと考えられている。ジャスト艦長たちは本当に何も知らず、またバリアンが回収した生存者の日記からU-546が魚雷しか装備していない事が判明、尋問に召喚されたバリアンレオナルド・A・ミルラ艦長が捕虜への暴行に反対したにも関わらず移送先のバージニアフォーハントでも暴力が振るわれている。むごい仕打ちは、終戦後の5月12日にU-546の艦歴を記す事にジャスト艦長が同意するまで続けられた。尋問終了後は他の捕虜と同じ収容所へと送られた。

歴史フィリップ・K・ランデバーグは「特異な残虐行為」と評している。

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