U-565とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造したVIIC型Uボートの1隻である。1941年4月10日竣工。地中海方面の通商破壊で軽巡ナイアドと駆逐艦パートリッジを含む5隻(1万8337トン)を撃沈し、ロッキード・ハドソンを撃墜する戦果を挙げた。1944年9月30日、空襲で大破したためサラミス島で爆破処分。U-565の喪失により地中海からUボートが消えた。
概要
1939年10月24日、ブローム&ヴォス社のハンブルク造船所に発注され、ヤード番号541の仮称が与えられる。1940年3月30日に起工し、1941年2月20日進水、同年4月10日に竣工した。初代艦長にヨハン・イェプゼン中尉が着任、竣工日から訓練部隊の第1潜水隊群へ編入された。5月16日から20日までダンツィヒで第25潜水隊群と射撃訓練を行い、5月21日から25日までゴーテンハーフェンで第27潜水隊群と戦闘演習を行った。6月16日、キールを出港してトロンヘイムに回航。6月24日から7月3日まで第25潜水隊群と魚雷の訓練を実施し、以降はノルウェーを拠点に訓練や整備を受けた。
1941年
1941年7月8日、トロンヘイムを出港して最初の戦闘航海に赴く。イギリス軍の警戒を突破して狩り場の北大西洋に進出するが、敵船舶を発見できないまま8月6日にロリアンへ入港した。9月1日に出港して二度目の戦闘航海を実施。ノース海峡西方の北大西洋を遊弋するも今回も戦果を得られず、輸送船団を発見する機会に恵まれながら濃霧に阻まれて取り逃がした。10月5日午前11時2分、ロリアンを目指してビスケー湾を航行中にイギリス軍機の襲撃を受ける。このイギリス軍機はU-563を探しており、U-565が発見されたのは不運な偶然だった。投弾された爆弾は司令塔に直撃。あわや撃沈と思われたが、幸運にも不発弾だったため難を逃れた。敵パイロットはUボートの撃沈を主張したが、実際は無傷で逃走に成功していた。10月7日、ロリアンへ帰投した。
地中海へ
11月3日にロリアンを出港したが、冷却水パイプの故障が発覚して僅か2日で帰投しなければならなかった。修理を行ったのち北大西洋で遊弋。11月5日から18日までウルフパック「アルノー」に参加した。ドイツアフリカ軍団が戦う北アフリカ戦線を支援すべく、3隻のUボートとともに地中海進出を命じられ、イギリス軍の牙城ジブラルタルを11月16日に突破。アレクサンドリア沖とトブルク沖を遊弋した後、11月22日にイタリア海軍が領有するメッシーナへ寄港。ここで食糧と燃料の補給を受け、12月5日にラ・スペツィアへと到着した。
12月末の時点で地中海方面には21隻のUボートが進出しており、イタリア北西のラ・スペツィア港とギリシャのサラミス島を拠点に活動。地中海の海は大変透き通っていて上空からでも見える事、陸地に近いので敵機の飛来率が高い事がUボートの活動を難しくしていた。
1942年
1942年1月1日、第29潜水隊群に転属。1月21日にラ・スペツィアを出港したが戦果を挙げられず、艦首のGHG修理のため2月23日にメッシーナへ寄港。2月25日に再出発し、地中海東部で戦闘航海を実施。3月9日、イタリアの巡洋艦が雷撃で損傷したとの報告を受け、アレクサンドリアから軽巡洋艦ナイアド(5600トン)を旗艦とした英艦隊が出撃。しかし誤報だった事が判明し、ナイアドは英駆逐艦クレオパトラとキングストンを連れてアレクサンドリアに引き返した。3月11日20時1分、エジプトのシディバラニ北方でU-565は1本の魚雷を撃ち、ナイアドを撃沈。乗員82名が戦死した。長らく戦果に恵まれなかったU-565だったが、ようやく敵巡洋艦撃沈の誉れを得た。メッシーナを経由して3月17日にラ・スペツィアへ帰投した。帰投と同時にヴィルヘルム・フランケン中尉が二代目艦長に就任。
4月11日、ラ・スペツィアを出港。メッシーナでダイビングバンカーを修理した後、トブルク沖で遊弋。4月23日午前2時55分、シディバラニ東北東約35海里でTA-36船団に向けて2本の魚雷を発射。4分15秒後に爆発音が聞こえ、その後に大爆発の音が聞こえたためフランケン艦長は2隻撃沈を報じたが、実際は英商船
カークランド(1361トン)を撃沈しただけだった。同日中に英軍機から3発の爆弾が投下されたが、わずか損傷しか受けなかった。4月30日、サラミス島に入港。5月7日にサラミスを出港し、トブルク沖で遊弋。この戦闘航海でも敵船を仕留める事が出来ず、6月10日にラ・スペツィアへと帰投した。
7月9日に出撃し、今度は西地中海やパレスチナ沖で遊弋。7月28日にエジプト国籍の帆船を、翌29日に漁船2隻を、8月1日にベイルート北西部でエジプト帆船セントサイモン(85トン)を撃沈。2万7000ガロンのガソリンが海に飲み込まれた。8月4日、サラミスに帰投。
8月上旬、イギリス軍の大船団がジブラルタルを出港し、マルタ島に向かい始めた。これを妨害するべく8月16日にサラミスを出撃するU-565だったが、敵機の空襲で損傷して早々に帰投しなければならなくなり、8月25日にサラミスへ戻った。9月4日、ラ・スペツィア入港。
10月25日、ラ・スペツィアを出港。11月8日、アメリカ軍がモロッコ沿岸に上陸したとの報告を受け、デーニッツ提督はカーボ・ヴェルデ諸島とジブラルタル付近にいる全Uボートに現場へ急行するよう命令。U-565も呼応し、アルジェリア沖に移動。敵の上陸地点付近に集まったUボート群は2つのウルフパックを形成し、U-565は11月10日よりウルフパック「ヴァール」に加わって7隻のUボートとともにオラン方面の敵上陸船団を迎え撃った。しかしU-516は戦果を得られず、U-259とU-660が撃沈された。その後、イギリス空軍第233飛行隊のロッキード・ハドソンと交戦して撃墜。天敵の航空機にUボートが勝利した希有な例となった。11月13日、ラ・スペツィアに帰投。北アフリカに敵が上陸するという危機的状況のため、急いで整備を行って11月23日に出撃。U-565は戦わずに逃げようとするヴィシーフランス艦艇の撃沈任務を帯びており、根拠地トゥーロンの眼前で見張っていた。12月18日午前8時6分、オラン沖で英地中海艦隊の対潜掃討を担っていた敵駆逐艦パートリッジ(1510トン)に1本の魚雷を発射し、撃沈。3名の将校と35名の乗組員が死亡した。パートリッジは竣工から約10ヶ月の新鋭艦だった。立て続けにUボートの天敵に勝利を収め、1943年1月1日にラ・スペツィアへ帰投。
北アフリカに上陸したアメリカ軍は飛行場を建設し、より多くの対潜哨戒機を投入。補給線のある西地中海を重点的に防御する。敵の対潜警戒システムを分散させるべく、ドイツ海軍は東のサラミスを堅持する方針を固めた。
1943年
1943年2月14日、ラ・スペツィアを出撃してアルジェリア沖に向かう。2月24日13時54分、オラン北東でMKS-8船団に3本の魚雷を発射し、米商船ナサニエル・グリーンの右舷に2本が命中して撃破。2月27日午前9時10分、TE-16船団に3本の魚雷を発射して英貨物船セミノールの右舷後方に命中させる。1万トン級の船体は中々沈まず、午前11時12分に甲板砲を撃ち込んだが、それでも沈まなかった。手間取っていると敵護衛駆逐艦リデスデールが急行してきたため、逃走せざるを得なかった。3月5日、ラ・スペツィアに帰投。
4月8日、ラ・スペツィアを出港して西地中海を狩り場に行動。4月20日午前7時52分、オラン西方60海里でUGS-7船団に魚雷を発射し、フランス商船シディ=ベル=アベ(4392トン)と米蒸気商船ミシガン(5594トン)をまとめて撃沈。5月12日、ラ・スペツィアに帰投。6月17日に出撃して西地中海で遊弋するも、戦果を得られず7月23日にフランス南部のトゥーロンへ入港。しかし、この時に得た戦果がU-565最後の栄誉となってしまう。8月1日、第29潜水隊群は本拠地をラ・スペツィアからトゥーロンに移す。
9月7日にトゥーロンを出港するが、故障が認められたため翌日帰港して修理を行っている。9月9日に再出発したのも束の間、同盟国のイタリアが降伏した事で南部に連合軍が上陸。これを阻止するため揚陸地点となっているサレルノ沖を遊弋するも、連合軍の警戒が厳しくて近寄れず、またしても戦果無しで10月1日に
トゥーロンへ戻った。10月23日にトゥーロンを出港し、11月4日にサラミスへ進出。そして11月6日より戦闘航海を始め、シチリア島やエーゲ海の南方を哨戒する。11月10日に爆雷攻撃を受けて潜望鏡が大破してしまったため帰路につき、11月23日にサラミスに帰港した。
12月12日にサラミスを出港したが、もはや地中海は連合軍の箱庭だった。東地中海で爆雷を受けて損傷したU-565は早々に退却を強いられ、12月27日にサラミス帰投。
1944年
1944年2月13日にサラミスを出撃してキレナイカ沖を警戒、しかしシリンダーヘッドに亀裂が入っている事が確認されて3月7日にサラミスに帰投。4月1日からの出撃では東地中海とシチリア島東方を遊弋、手ぶらで5月2日に帰投した。地中海方面の戦況は日に日に悪化の一途を辿り、連合軍の対潜戦術「沼」により被害が拡大。8月15日にはトゥーロンが陥落して港内のUボートが全滅した。戦果を得られない不運と引き換えに、U-565は生き延び続けた。8月29日、サラミスを出港してクレタ島北方を警戒。最後の航海でも戦果を挙げられず、9月13日にサラミスへ帰投した。
最期
1944年9月19日、サラミスがアメリカ軍の空襲を受ける。この時の空襲は乗り切ったが、続く9月24日の空襲で被弾し、U-565は大破。乗員5名が死亡した。もはや作戦に耐えられないとして、9月30日にスカラマンガ湾内で3発の爆雷で爆破処分された。同じく損傷したU-566も爆破処分されており、2隻の喪失により地中海方面のUボートは全滅。第29潜水隊群は全てのUボートを失って解隊となった。U-565は最初期から地中海に投入され、そして一番最後に力尽きたのだった。
戦果は5隻撃沈(1万8337トン)、2隻撃破(1万7565トン)だった。
関連項目
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