U-652単語

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U-652とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したVIICUボートの1隻である。1941年4月3日工。グリア号事件に遭遇したUボートとして有名。通商破壊駆逐艦2隻を含む6隻(1万4073トン)撃沈の戦果を挙げた。1942年6月2日地中海にて触して自沈。

概要

米艦艇に怒りの一撃を放った最初のUボート

第二次世界大戦開戦直後の1939年10月9日ハンブルクのホヴァルツヴェルAG発注してヤード番号801の仮称が与えられる。1940年2月5日に起工し、1941年2月7日に進3月10日に17名の技術士官と乗組員が招集され、4月3日工を果たす。初代艦長にはゲオルク・ヴェルナー・フラッツ中尉が着任するとともに訓練部隊の第3潜隊群に所属して慣熟訓練に従事する。

1回目の戦闘航海

1941年6月19日キールを出港して最初の戦闘に出発。翌20日にドイツ占領下ノルウェーのホルテン軍港へ到着し、オスロフィヨルドで潜航訓練を実施。6月29日にホルテンを出発して狩り場の大西洋をそうとするも、濃霧に阻まれてコペルヴィクに一旦退避。オーレスンを経由して7月3日トロンヘイムへ移動した後、7月4日から16日まで第25潜隊群と共同で魚雷発射訓練を行い、ロフィヨルドで残工事着手。

7月17日トロンヘイムを出撃。6月22日に勃発した独ソ戦によりソ連船舶も標的に加えられ、これを撃滅すべく翌18日にU-81とともにムルマンスクのコラ湾へ向かうよう命される。7月22日コラ湾に到着して翌日より狩りを開始。氷とが支配する極寒を行く。

8月6日19時、ムルマンスク東方約50kmのテリベルスキーを単独航行していたソ連の対潜PS-70カピタン・ヴォローニン(558トン)はU-652から撃を受ける。カピタン・ヴォローニンの見り員は400m先に潜望を発見したが回避するには全てが遅く、左舷後方に1本の魚雷が命中。体はあっと言う間に左側へと傾いていき、1分もかからずに尾から沈没した。乗員57名中45名が死亡。この戦果は北極における最初の戦果であった。8月7日キルネスへ帰投。2日間の寄港を経て出港し、8月13日トロンヘイムの造所へ戻った。

2回目の戦闘航海

8月23日トロンヘイムを出港し、21隻からなるウルフパック「グロウランド」に参加。アイルランド南西の北大西洋で遊する。8月25日、U-652とU-570は南西への移動を命じられる。

8月26日午前0時44分、南南東へ向かっている敵団に3本の魚雷を発射し、機敷設艦サザンプリンセスに1本が命中して洋上に停止させる。実は敵は輸送団ではなく、ノーザンバラージでの機敷設任務から戻って来た敷設部隊の一部であった。午前0時53分にも別のを狙って撃したが、こちらは外れている。撃破されたサザンプリンセスは英駆逐艦ライトニングラマトン航されていった。8月27日に「グロウランド」は解散。戦果を挙げられたのはU-652、U-38、U-202、U-568の4隻のみだった。そして同日から新たに編制されたウルフパック「マルクラーフ」に参加。15隻が加わった。

9月4日午前8時40分、アイスランドに向けて郵便物や乗客を運んでいた駆逐艦グリアはイギリス爆撃機から「付近にUボートがいる」との警告を受け取った。午前9時20分にレイキャビクの200km合いで正面の域で潜航しているU-652を捕捉。訓練のつもりでソナーを使用し、位置情報イギリス艦艇や航空機に発信し続ける。その情報によって導かれたイギリス軍機からU-652は4回に渡って爆雷攻撃を受けるが幸い損傷はかった。やがてイギリス軍機は燃料の都合で引き上げていったが、今度はグリアに追い回され、爆雷を投下される。当時のアメリカはまだ参戦していない中立であり、その中立の艦艇が自分から攻撃を仕掛けるのは国際法違反である。U-652側はグリアを「イギリスに向かっている50隻の駆逐艦のうちの1隻」と判断、怒りの反撃として1本の魚雷を発射した。跡を確認したグリアは速を上げて回避し、U-652へ接近。続いてU-652は2本魚雷を発射するが命中せず、グリアも投じた爆雷8発全てが命中しなかった。その後、戦闘2時間に渡り、両艦ともに損かったが、ルーズベルト大統領は参戦したいがために「U-652から先に攻撃を仕掛けてきた」と事実を捻じ曲げて表。民の反独感情を煽りまくった。後の世に言うグリア号事件である。

9月10日午前4時52分、ケープフェアウェル北東でSC-42団に2本の魚雷を発射し、英商ターチーバロンペントランドを撃破。護衛艦艇に見つかったため結果を確認する前に潜航しなければならなかった。ターチー火災により一度は放棄されたものの戻って来た乗組員が復旧。バロンペントランドはを折られて大破漂流状態だったが木材を積んでいたため沈まず、9日後にU-372撃で撃沈された。9月18日16時15分、ロリアンに帰投。

U-625は9月20日から10月19日までロリアンのドックへ入渠し、その間に乗組員はカルナック・プラージュで休養した。10月26日からディーゼール試験を開始。10月28日と翌29日は消磁、上試運転、トリムテストを行った。

3回目の戦闘航海

11月1日16時12分、ロリアンを出港。先に出撃したU-561の背中を追い、途中まで仮装巡洋艦コメートの護衛を行った。翌2日午前0時46分、イギリス軍機の襲来を警してビスケー湾で急速潜航。13時50分に南西方向を飛ぶ敵機と水上機を確認したため潜航退避し、16時に2発の爆雷が投下されたが被害く、19時50分に浮上。11月3日午後12時40分、北東にブリストルブレニムを確認して潜航退避。11月5日20時、気観測用の気球を打ち上げる。得られた情報を送信しようとしたが故障により3回失敗。翌6日午前1時43分にようやく送信成功した。その後、しばらく気観測として活動。11月16日、アゾレス北方に到達。11月18日13時、U-561との会合場所に到着するが姿はく、15時になってようやく後方にU-561が現れた。両艦とも1500mまで近づいた後、にわかに打たれながら物資を交換。11月20日13時43分、敵機が急速接近してきたため潜航退避。ところが16時に相手は味方のFw200コンドルだと判明した。

11月23日20時ロリアンに向けて帰投中、ビスケー湾で部からロリアン入港の取り止めを命じられ、代わりに地中海への進出を速引き返して大西中部を南下する。11月27日13時4分、数隻のトロールを発見して潜航退避。19時50分に浮上した後、北路を通って中立スペインカディスに入り、23時15分に停泊。独補給タリアから燃料補給を受ける。翌28日午前3時に補給を了し、送ホースを外して午前5時12分に出港。

11月29日午前3時45分、イギリス軍の牙ジブラルタル海峡の入り口に差し掛かる。前方に3隻の巡視船を確認したためが隠れるまで潜航待機。10分後、陸上から飛び立ったソードフィッシュらしき複葉機が100m上を通過していった。見つかったら一巻の終わり。強い緊の中、午前8時10分に峡を突破。地中海に入った後は東へグングンと進んでゆく。11月30日、蒸気を発見。籍を確認すると中立スペインのものだったため見逃す。12月7日午後12時15分、スペイン南方スウェーデンの汽を攻撃すべく潜するも、赤十字塗装された病院だったので素通りさせた。19時には西方より来るスペインと遭遇している。

12月9日午後12時42分、バレアレス南方で浮上したU-652は国旗を掲げていない不審を発見。14時1分、U-652は魚雷を発射したが命中せず、10分後にトドメの魚雷1本を撃ち込んで沈没させた。不審の正体はヴィシーフランスサン・ドニ(1595トン)だった。12月11日14時39分、距離1000mから敵の撃を受け、U-652掛けて伸びて来る2本の魚雷を回避。7分後、回避された魚雷が起爆した。15時22分には敵機が急速接近してきたため潜航退避している。

12月12日午前7時、ヴルカーノを一周。午前8時15分にイタリア軍飛行艇と接触するが識別信号の交換に失敗し、艦艇認識信号で代用。水先案内人に誘導されて午前8時30分にメッシーナ基地へ入港した。入港後、イタリア軍士官2名がU-652に乗艦する。本来であれば間に出発する予定だったのだが、を損傷して出発が遅れる。12月13日14時から17時にかけて簡単な修理を行う。

4回目の戦闘航海

12月14日18時15分に出港するはずがコンプレッサーの故障により20時に遅れる。メッシーナを出発したU-652はギリシャを回ってエーゲに向かう。

12月19日21時20分、トルコのチャナッカレ県ババカ2.5マイルソ連ヴァルラム・アヴァネソフ(6557トン)を捕捉。21時34分に魚雷3本を発射したが命中せず、21時50分に4本を放って命中させる。ヴァルラム・アヴァネソフは約2時炎上したのち沈没生存者は救命艇に乗って脱出していった。1942年1月1日、ラ・スペツィア入港。第29潜隊群へ転属となった。

5回目の戦闘航海

1942年2月5日、配属先のギリシャに向かうためラ・スペツィアを出港。中の2月7日メッシーナへ寄港し、トブルで遊した後、2月17日ギリシャ南部サラミスに入港した。

6回目の戦闘航海

2月21日サラミスを出撃し、トブルとキレナイカを遊したが獲物を発見できず、3月1日サラミスへ帰投。3月12日に再度サラミスを出港するも、乗組員2名が発病したため2日後にサラミスに戻り、ついでに潜望修理を実施。

7回目の戦闘航海

3月18日サラミスを出港して北アフリカのシディ・バラニ沿に向かう。

3月20日午前10時54分、バルディアの北東約40マイルにてハント級駆逐艦イスロップ(1050トン)に4本の魚雷を発射し、うち1本が命中して撃破。駆逐艦エリッジに航されてトブルクに向かうも、5時間後に沈没した。3月26日午前2時27分、ソラム北東でJ級駆逐艦ジャガー(1690トン)に4本の魚雷を発射、うち2本が艦首に命中して沈させる。沈没まであまりにも短かったためか全乗員246名中53名しか生き残らなかった。同日午前4時10分、敵を発見して追跡開始。29分後に2本の魚雷を扇状に放ち、1本が英商スレーブ(2623トン)の右舷に命中。一沈みかけたが踏みとどまったため、午前4時53分にトドメの撃を行って爆発、撃沈。乗員36名が死亡した。3月31日ポーラ入港。

5月25日ポーラを出港して北アフリカ方面に向かう。

最期

1942年6月2日午前2時30分、ソラム湾にて英第815飛行隊のソードフィッシュに襲撃され、大破航行不能に陥る。U-652は緊急電を打ち、U-81が救援に現れたが、既に艦尾が沈みかけているため自沈を決意。乗組員46名全員がU-81に移乗した後、艦尾発射管から放たれた魚雷が艦中央部に命中、っ二つに折りながら自沈した。

グリア号事件に巻き込まれた事は論、1年程度の活動期間ながら北極大西洋、地中海で活躍し、入港先もころころ変えた希有なUボートと言える。総戦果は6隻撃沈(1万4073トン)、3隻撃破(2万835トン)。

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