Z27とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用した1936A型駆逐艦/Z23級駆逐艦5番艦である。1941年2月26日竣工。ソ連海軍の駆潜艇BO-78と給油船ドンバスを撃沈し、敷設した機雷で破氷船ミコヤンを撃沈した他、レッセルシュプルング作戦やジトロネラ作戦に参加。1943年12月28日、ビスケー湾海戦で沈没。
概要
1938年度建艦計画で建造された1936A駆逐艦の1隻。連合軍からはナルヴィク級と呼称されていた。
前級1936型駆逐艦との最大の変更点は主砲の口径を12.7cmから15cmに拡大した事である。船体構造は1936型を流用しているが、主砲口径の大型化に伴う変更や、生産性向上の目的で簡略化等が行われている。本来大型艦での運用を想定している15cm連装主砲を装備したため、駆逐艦とは思えない強力な火力を付与できたが、様々な問題も残されていた。まず主砲の生産に手間取った影響でZ27を含む前期型には2門搭載のところを1門に減らされ、高圧蒸気エンジンの信頼性の低さ、新設計の艦首や主砲の重量で凌波性の低下等が足を引っ張る。またせっかく15cm口径にして上げた火力も敵軽巡相手にはあまり通用せず、砲の大型化に伴う給弾速度の低下も手伝って次級からは12.7cmに戻している。
諸元は排水量2600トン、全長127m、全幅12m、喫水4.65m、出力7万馬力、最大速力37.5ノット、乗組員220名。武装は15cm単装砲4基(後に1門を連装砲に換装)、37mm対空機関砲4基、20mm対空機関砲8基、四連装53.3cm魚雷発射管4門、爆雷投射機4基、機雷60発。
戦歴
1938年4月23日にデスキマーグ社に発注され、1939年12月27日にヤード番号W961の仮称を与えられてブレーメン造船所で起工。1940年8月1日に進水式を迎えたが、前部に装備する2門の15cm単装主砲の生産が遅れ、急場を凌ぐため1門だけ装備した。そして1941年2月26日に竣工。初代艦長にカール・スミット中佐が着任する。竣工したものの戦闘準備が整っていなかったのでしばらく造船所内で工事を受ける。
1941年
1941年6月22日、ドイツ軍はバルバロッサ作戦を開始し、独ソ戦が始まる。レニングラードに拠点を置くソビエト艦隊を監視するため、ドイツ海軍は戦艦ティルピッツを基幹としたバルチック艦隊を編成。Z27はその護衛戦力に選ばれた。9月23日、ティルピッツ、重巡アドミラル・シェーア、軽巡ケルン、ニュルンベルク、エムデン、ライプツィヒ、駆逐艦Z25、Z26、魚雷艇T2、T5、T8、T11とともに出撃。10月1日までオーランド海に進出し、ソビエト艦隊のフィンランド湾脱出を防ぐべく圧力をかけた。既に袋小路に閉じ込められていたソビエト艦隊は戦争が終わる直前まで身動きが取れなかった。作戦後、ゴーテンハーフェンに帰投。
独ソ戦勃発に伴ってバレンツ海には連合軍が運航する援ソ船団が往来し始めた。ヒトラー総統は援ソ船団撃滅のため「艦隊をノルウェーへ派遣せよ」と命じるも、レーダー提督はドイツ空軍の偵察力の低さを理由に反対。というのもノルウェー方面担当のドイツ空軍第5航空軍の大部分が対ソ戦に抽出されていたのだ。またドイツ海軍が誇る大型艦はブレストや本国に分散配置されていて、すぐに艦隊をノルウェーへ派遣するのも困難だった。11月中旬、15cm主砲を搭載した優秀な独駆逐艦5隻を北方海域へ派遣したのを皮切りに、ゆっくりとだが戦力増強が始まる。
11月24日、Z5や姉妹艦Z23とともにキールを出港してオーフスに回航し、ここで機雷を搭載する。11月29日、Z5、Z23、Z25、高速護衛艦艇タンガと本国を出発し、12月6日にドイツ占領下ノルウェーのトロムソに到着。第8駆逐艦戦隊に編入される。続いて12月16日にZ23、Z24、Z25とともに出撃。バレンツ海へ進出してコラ半島沖で連合軍の商船を探し求める。バレンツ海にはソ連の港であるムルマンスクやアリハンゲリスクに向かう連合軍の船団がうようよしており、東部戦線で戦う味方を支援するためUボートだけでなく水上艦も駆り出されていたのだ。戦場となるバレンツ海は両軍にとって悪夢のような環境と言えた。しばしば台風のような強風が吹き荒れ、波は20mの高さに及び、デッキ、主砲、スタンションはたちまち分厚い氷に覆われる。冷たい北極海の氷と暖かいメキシコ湾流によって霧が発生し、降雪も確認されるなど視界は最悪。ドイツ側にとって唯一の利点は夏のみ白夜となって一日中太陽が空で輝く事だった。これは襲撃者にとって有利ではあったが、あいにく今は夏ではなかった。
12月17日、Z25のレーダーが37.5km先の濃霧に潜む2隻の敵船を探知。独駆逐艦群は相手をソ連船と認識していたが、実際はイギリスの掃海艇ハザードとスピーディーで、QP6船団と合流する目的で疾走している途上であった。4隻の駆逐艦は獲物を仕留めるべく砲撃を仕掛ける。しかし濃霧と着氷により正確な発砲が妨げられ、Z25とZ27は11本の魚雷を放とうとしたがそれぞれ1本しか発射できず、掃海艇からの反撃で4発被弾。致命傷には至らなかったものの敵を取り逃がした。12月18日、オフォトフィヨルドへ帰投。
12月26日、オフォトフィヨルドを出発してロフォーテン諸島沖を遊弋したのちトロムソへ移動。
1942年
1942年1月3日から翌4日にかけてアドルフ・リューデリッツをトロムソからキルケネスまで護衛した後、推進軸の問題を解決するべく1月5日にZ26と出発。ところがZ26はエンジンの損傷で造船所に逆戻りしてしまったため、1月10日に単独でドイツ本国へ帰投。長らく修理を受ける。
5月15日、重巡洋艦リュッツォウをドイツからノルウェーに移送するヴァルツァートラウム作戦に参加。夕刻、キールの沖合いで出港してきたリュッツォウ、Z29、護衛艇F1のグループと合流。グレートベルト、カテガット海峡を通過して5月17日にクリスチャンサン東方のクヴァレネス沖まで送り届けた。その後は休む間もなくZ27は僚艦3隻とともにユトランド半島沖で機雷敷設作業を実施。5月18日にクヴァレネスに戻ってリュッツォウの護衛に復帰し、5月20日23時45分にトロンヘイムへ寄港。5月24日、リュッツォウをノルウェー北部ナルヴィクのボーゲン湾に移送させるローエングリン作戦に参加。無事5月27日にノルウェー北部ナルヴィクへと進出して作戦を成功させた。
6月27日、36隻の輸送船、3隻の救難船、2隻の給油艦で編成されたPQ17船団がアイスランドを出発したとドイツ軍スパイからもたらされる。これを迎撃するべくレッセルシュプルンク作戦が発動され、7月2日深夜に重巡リュッツォウ、アドミラル・シェーア、Z24、Z27、Z28、Z29、Z30の7隻はナルヴィクを勇躍出撃。アルタフィヨルドにいる戦艦ティルピッツのグループと合流する予定だったが、翌3日午前2時45分に潮流が速く霧も出ていたチェルズン川河口でリュッツォウが座礁中破する事故に見舞われてナルヴィクに引き返す。Z27はアルタフィヨルドへの航海を続けてティルピッツのグループと合流。7月5日午前11時、ティルピッツ、シェーア、ヒッパー、駆逐艦7隻、魚雷艇T7、T15がアルタフィヨルドを出撃。17時2分にソ連海軍潜水艦K-21よりティルピッツが雷撃を受けるも被害は無く、21時30分に作戦中止命令を受けて撤退。PQ17船団への攻撃には参加出来なかったが、Uボートや空軍機の猛攻により22隻の商船を撃沈。210機の航空機、3350台の軍用車両、9万9000トン以上の物資を極寒の海に沈めて連合軍・ソ連ともに大損害を与えた。7月8日、オフォトフィヨルドのボーゲン湾へ帰投。
8月、二代目艦長にギュンター・シュルツ中佐が着任。9月10日、アドミラル・ヒッパー、シェーア、ケルンをZ23、Z29、Z30とともに護衛してボーゲン湾を出発し、アルタフィヨルドへ回航。
10月13日から15日にかけて、Z4、Z16、Z30と協同でカニン半島沖の河口に機雷を敷設。この機雷原に引っかかってソ連の破氷船ミコヤンが撃沈した。11月5日、4隻の駆逐艦からなる第5駆逐艦戦隊はアドミラル・ヒッパーとともに、ソ連の港を出た連合軍の商船を攻撃すべくバレンツ海へ進出。Z27は哨戒線の端を遊弋する。11月7日、ヒッパーの水上機からタンカー発見の報がもたらされて迎撃に向かう。まず最初にソ連の駆潜艇BO-78を撃沈、次に西方へ向かうソ連石油タンカードンバス(8000トン)を追跡して雷撃で撃沈した。戦闘後、両船から生存者を救助。
12月2日、修理を行うべくノルウェーを離れ、ブレーメンに入港。しばらく戦線より離脱する。
1943年
1943年6月15日、ノルウェーへと舞い戻る。しかし1942年末から続く深刻な燃料不足はドイツ艦隊の手足を拘束し、活発な動きを困難なものにしていた。6月19日から28日までノルウェー南部で数回の機雷敷設任務を実施。バレンツ海海戦での失敗以降、ヒトラー総統は水上艦隊にいたく失望し、隙あらば解体しようと息巻いていた。更迭されたレーダー提督に代わって司令官の座に就いたデーニッツ提督は総統に水上艦隊の価値を知らしめ、乗組員の士気を上げるための計画と舞台を欲した。それがスピッツベルゲン島砲撃――ジトロネラ作戦であった。
9月6日、戦艦ティルピッツ、シャルンホルスト、Z27を含む駆逐艦9隻はスヴァールバル諸島を目指して出撃。Z27はティルピッツの左舷側を警戒する。9月8日午前3時、シャルンホルストに率いられてアドベント湾に侵入。現地のノルウェー軍が発したと思われる「3隻の巡洋艦と7隻の駆逐艦が出現した」との通信を傍受し、ティルピッツの通信妨害むなしく午前4時にレイキャビクの連合軍が受信したため、ティルピッツの砲撃で送信機を破壊。シャルンホルストと要塞群へ砲撃を仕掛けている間、独駆逐艦群は便乗の第349投擲兵連隊、第230歩兵師団大隊を上陸させる。上陸部隊は首尾よくバレンツブルクの施設を占領し、ノルウェー軍守備隊は投降するか壊走の二択を迫られた。午前8時、守備隊は武装解除される。しかしレイキャビクの連合軍に襲撃を察知された事から英本国艦隊が既に出撃している可能性があり、午前11時までに退却しなければならないとドイツ艦隊は考えていた。午前11時、湾外へ脱出した艦隊は餞別としてティルピッツの主砲弾8発を郊外の弾薬庫と燃料投棄場へ叩き込み、水上機を回収したのち正午頃に離脱。19ノットで走り去った。本国艦隊はドイツ艦隊の捕捉に失敗してむざむざと取り逃がしている。
ジトロネラ作戦はドイツ水上艦隊最後の勝利を飾り、上陸部隊が食糧庫から糧食をかすめ取って来た事で一時は士気向上にも繋がったが、とある駆逐艦の水兵長が戦わずに艦に隠れていた抗命の容疑で軍法会議にかけられ、シャルンホルスト艦上で処刑。またシャルンホルストには鉄十字勲章160個が授与されたのに対し、ティルピッツは400個授与される不公平感から争いが起き、士気を下げてしまった。
9月23日夕刻、修理のため本国に戻る重巡リュッツォウを警護するハンザ・ヘルメリン作戦に参加。第5駆逐艦戦隊の僚艦Z5、Z14、Z15とともにアルタフィヨルドを出港して南下。9月25日午後、ナルヴィク近郊のスクヨメンフィヨルドに停泊する。9月27日にスタドランデット南方でイギリス軍の偵察機に発見されたため、クリスチャンサン沖でZ14を分離し、9月29日20時にレーゲン島沖でバルト海方面に向かうリュッツォウと別れてキールへと向かった。
10月31日、駆逐艦ZH1とともにキールを出発し、ロッテルダムとダンケルクを経由しながら新たな任地であるドイツ占領下フランスのル・ヴェルドン・シュルメールを目指す。しかし目的地に到達するには敵国イギリスの眼前であるイギリス海峡を突破しなければならない試練が待ち受けていた。狭き海峡を通過中、沿岸砲からの砲撃を受け、至近弾から生じた破片によって僅かな損傷を負う。11月5日、キャプ・ダンティファー沖で敵魚雷艇群の襲撃を受けるが機銃で反撃して逆に損傷を与え、無事撃退。ボルドーに到着したZ27はハンス・エルドメンガー大佐が乗艦する第8駆逐艦戦隊の旗艦となる。
12月23日、同盟国日本が占領する東南アジアから資源を満載して帰投中の封鎖突破船オソルノを支援するべく第8駆逐艦戦隊のZH1、Z23、Z24、Z32、Z37と第4水雷艇戦隊のT5、T22、T23、T24、T26、T27を率いてボルドーを出撃。12月25日正午、ビスケー湾にてショートサンダーランド飛行艇2機に追い回されるオソルノを発見し、護衛を開始。途中から空軍のユンカースJu88が応援に加わった。連合軍機の襲撃を対空機銃で撃退した後、12月26日にジロンド河口まで辿り着く事に成功するが、入港時に機雷原突破船21号ノスターの残骸に触れてオソルノの船底が12mに渡って裂かれてしまい、物資の流失を避けるべく自ら座礁せざるを得なかった。オソルノの次は封鎖突破船アルステルウーファーがヨーロッパ大陸に近づいており、翌27日に出撃。Z27を含む駆逐艦4隻と魚雷艇6隻が援護に向かった。しかし暗号解析によりアルステルウーファーは撃沈され、イギリス海軍はストーンウォール作戦を発動して独駆逐艦群が出てくるのを待ち伏せていた。
最期
1943年12月28日未明、Z27率いる小艦隊は既にアルステルウーファーが撃沈されているとも知らずにランデブー地点に到達。朝になると哨戒中のB-24に発見され、イギリス艦隊から軽巡洋艦グラスゴーとエンタープライズが刺客として送られる。天候と海が荒れ始めた13時頃、Fw200コンドルが接近中の敵艦2隻を発見・通報。この通報を受けた第8駆逐艦戦隊と第4水雷艇戦隊は北東へ向けて逃走を始めるが、グラスゴーは独駆逐艦群の頭を押さえるべく先回りして待ち伏せ、背後からはエンタープライズが追いかけて挟撃の構えを取る。やがて海と風は完全に荒れ狂い、風速は30mに達して駆逐艦と水雷艇の航行は困難になる。
13時32分、強風と荒波の中を進むグラスゴーは16マイル先に独駆逐艦群を発見し、エンタープライズに呼びかけてフランス方面への退路を断つ。そして2隻の軽巡から一斉砲撃を受けた事でビスケー湾海戦が生起した。レーダーを以ってしても荒波は砲撃を不正確なものにし、砲弾はドイツ駆逐艦の周囲100~150mに散らばって命中弾は出なかった。彼我の距離が1万7000mまで詰まったところで最初にZ23が反撃。計6本の魚雷を一斉に発射するも全て外れてしまう。続いて主砲を発射してグラスゴーを狙い、14時5分に命中弾を与えて機銃手2名を戦死させる。エンタープライズにも砲弾が降り注ぐが全て至近弾で終わる。
不運な事に大時化の影響で独駆逐艦群は上手く照準が定まらず、数の有利を活かせずに苦戦。一方、敵艦は軽巡洋艦であるため駆逐艦より大型で艦体が安定し、また敵艦の位置では比較的波が落ち着いているという、独駆逐艦群は徹底的に天に見放される形となっていた。
グラスゴーはまず最も近い位置にいたZ27を攻撃。14時28分、Z27は4本の魚雷を発射するも全て外れる。エルドメンガー大佐は部隊を分散させる事にし、Z23、Z27、水雷艇3隻は北上、残りは西進させる。7分後、準備完了していた残りの魚雷を発射するがこれも失敗に終わってしまった。雷撃を行った直後、エンタープライズからの砲撃が第2機関室に命中して右舷の主蒸気ラインを切断、たちまち大火災に見舞われる。速力が落ちつつもエンタープライズに向けて4本の魚雷を放って抵抗したが、むなしく虚空を走り抜けた。右舷側の機関が停止した約1時間後、残っていた機関も停止して遂に航行不能に陥る。
数時間後、T25を追撃中のグラスゴーは漂流しているZ27を発見。16時41分に至近距離から砲撃を受け、弾薬に誘爆して大爆発を引き起こしたのち沈没。Uボート、スペインの駆逐艦、アイルランドの商船によって計93名が救助されたが、エルドメンガー大佐を含む約300名が死亡した。
このビスケー湾海戦でドイツ側はZ27とT25、T26を喪失している。
関連項目
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