概要
1981年結成。
リーダーでありメインソングライターであるベーシストの柴田直人を中心に活動。
レコーディング、リハーサル、ライブにおける柴田の一切の妥協を許さない鬼指導により
かの某音楽誌の編集部内で「加入したくないバンドNo.1」と言う名誉を得るほどの硬派なバンドとして知られている。
バンドメンバー
年代 | ボーカル | ギター | ベース | ドラム |
第1期 1981~1983 |
前田敏仁 | 小柳彰史 | 柴田直人 | 大内貴雅 |
第2期 1983~1985 |
- | 福田洋也 | - | - |
第3期 1985~1987 |
坂本英三 | - | - | - |
第4期 1987~1990 |
森川之雄 | - | - | - |
第5期 1990~1991 |
- | 中間英明 | - | - |
第6期 1991~1992 |
- | 清水昭男 | - | - |
第7期 2000 |
グラハム・ボネット | - | - | - |
第8期 2001~2013 |
坂本英三 | - | - | 本間大嗣 |
第9期 2013~2014 |
- | - | - | - |
第10期 2014~ |
森川之雄 | - | - | 田丸勇 |
サポート&レコーディング参加メンバー
第1期ANTHEM
1981年、元十二単の小柳彰史(ギター)と大内貴雅(ドラム)が元ブラックホールの柴田直人(ベース)を誘い、
その後、前田敏仁の加入により結成。
結成当時はコピーバンドであったが、柴田以外はほぼ素人で構成されており、気が付けば柴田がバンドのリーダーとなっていく。
1983年には後のデビューアルバムのプロデュースを務めるジョージ吾妻率いる5X、44MAGNUM、MARINO、EARTHSHAKERらと共演。
この後、バンドは小柳のギターの実力不足に疑問を感じるようになり、話し合いの結果、小柳は脱退。
後任に元アンサーの福田洋也が加入。同時期に伊藤政則の事務所に加入。
第2期ANTHEM
1984年、約1年間全国ライブハウスツアーを行うが、この過酷なツアーが原因で今度は前田が精神的なプレッシャーに押し潰された形で1985年、メジャーデビュー直前で脱退。
1985年、前田の後任に坂本英三が加入。
第3期ANTHEM
1985年7月、キングレコード(ネクサスレーベル)より『ANTHEM パワーメタル戒厳令』でメジャーデビュー
1986年4月、2ndアルバム『TIGHTROPE』発売。
1986年11月2日、日本大学理工学部901講堂で行われた学園祭に参加。主催者である学生が会場の扉をや窓を完全に閉め切った状態でガソリンが入った発電機を使った事が原因で40人以上の学生が酸欠で倒れる事件が発生。
この事件は後に“酸欠GIG”と呼ばれるようになり、新聞でも大きく取り上げられ、良くも悪くもANTHEMの知名度を上げる事となった。
1987年3月、プロデューサーにクリス・タンガリーディスを迎えた3rdアルバム『BOUND TO BREAK』発売。
1987年6月、初のLA公演を行う。
1987年9月、LA公演を収めたライブアルバム「THE SHOW CARRIES ON」をリリースするが、同年10月に坂本英三の脱退が発表される。
以前から英三はANTHEMと言うバンドで活動をしていくうちに巨大なプレッシャーに押し潰されており、「TIGHTROPE」のレコーディング中にも突然失踪してメンバーや社長である伊藤政則を心配させたことがあった。
「BOUND TO BREAK」のレコーディング中にリーダーである柴田だけに「脱退します」と告げていたのである。
英三は柴田に一言「日本一の眼鏡屋になります!」と言い残しANTHEMを脱退。脱退後、眼鏡屋に就職するも、数年後には「練馬マッチョマン」と言うバンドを結成。1996年にアニメタル結成に伴い再デビューした。
坂本英三の後任に選ばれたのは“沼津のグラハム・ボネット”こと沼津の老舗トンカツ屋「こがね」の息子である森川之雄が選ばれる。
森川は英三と同時期にANTHEMのオーディションを受けた人物であったが、当時の森川のルックスがパンチパーマにヤクザみたいな服装だった事が原因だったのか落選している(実際は英三の方がANTHEMの楽曲を理解していたからとの事。パンチパーマの件は近年柴田が言うジョークであるが、パンチパーマ姿の森川の写真はアルバム「OFFICIAL BOOTLEG」のブックレットに収録されている)。
第4期ANTHEM
1988年4月、森川を迎えた新生ANTHEMの4thアルバム「GYPSY WAYS」を発表。
ツアーも順調で様々なロックフェスに出演し、更なる飛躍を期待されたものの翌年1989年、デビュー以前から在籍していた
伊藤政則の事務所「マリオネットミュージック」を離れ、新たに個人事務所を設立。
同年、5thアルバム「HUNTING TIME」をリリースするが、この頃よりリーダーである柴田と福田の関係が徐々に悪化しており、1990年には次回作のレコーディング中に完全に関係が悪化。
1990年2月3日の浜松でのライブを最後に福田は脱退。この時のライブの一部は「OFFICIAL BOOTLEG」に収録されているが、柴田と福田はお互いがそっぽを向いたまま演奏ししている。
同年3月に6thアルバム「NO SMOKE WITH OUT FIRE」をリリース。
また、「即戦力が必要」と言うことで福田の後任には元HURRY SCUARYの中間英明が加入。
加入の決め手は「ルックスも良くメロディアスなプレイをする」とのことだった。
第5期ANTHEM
中間を加えたANTHEMは1990年4月2日よりツアーを開始、14、15日には初の韓国公演を行う。
他方、1990年と言えばバンドブームが起こっていたが、ANTHEMの人気は少しずつ下がっており
バンドメンバーと中間の相性も決して良いとは言えず、特に中間のギタープレイは原曲を無視した速弾きに走る事が多く、リーダーである柴田は後にBURRN!誌のインタビューで「弾けない癖に速弾きをやりたがる」など中間の姿勢にストレスを感じるようになり、また、個人事務所を設立してからバンドを運営しながらマネージメントに近い仕事もこなしている為、精神的な疲労を蓄積するようになったのもこの頃である。
中間は後のインタビューでANTHEMのバンドに対する姿勢に関して「会社的な部分があって、自分は根っからのロック・ギタリストで、サラリーマン的なミュージシャンじゃないから枠に収まるのが大変だった」と回想している。
同年11月11日、札幌ペニーレインで行われたイベント「HARD SHOCK 90」に参加はしたものの、数日前から機材に関するトラブルが発生し、ライブ当日に現地で機材をレンタルする以外に手が無く、主催者側である「ランダム」に機材を調達するように依頼をするが、届いた機材はアマチュアクラスの機材ばかりで、この事を知ったマネージャーは門馬氏は「これではプロとしてお金を取って演奏は出来ない」と主催者側に文句を言ったが、主催者側の返答は「プロの癖に自分たちの機材や楽器でないとまともに演奏も出来ないのか!」と逆ギレする始末であり、ANTHEM側は数年ぶりの北海道公演と言うことで仕方なく受け入れたが、ANTHEM側のスタッフやメンバーが怒り心頭であった事は言うまでもなく、特に柴田は当時のファンクラブの会報誌で「ランダム」のいい加減な仕事ぶりに怒りをブチ曲げた程である。
悲劇は更に起こり、今度は中間がバイク事故によりバンドの活動が一時休止。
その中間は1991年5月のライブを最後に脱退(実質解雇)した。
第6期ANTHEM
1991年、ANTHEM解散を決意しかけていた矢先、森川の知人の勧めにより清水昭男と出会うことになり、軽くオーディションをしたところ、即決で清水の加入が決まる。
その後新作のレコーディングの為に渡英。
1992年、7thアルバム『DOMESTIC BOOTY』をリリース。3月にはツアーを行うも、時代は既にジャパメタ氷河期に突入し始めた頃であり、また、加入して間もない清水以外は蓄積した精神的疲労によりバンドのテンションは相当ダウンしており、5月には森川の脱退と同時に解散が発表される。
この解散の裏には柴田がマネージャーから
マ「森川がANTHEMを抜けたがっている」
柴「じゃあ俺も(疲れたから)やりたくない」
マ「メディアにはどのように公表するんだ?」
柴「好きにしてくれ」
とのような会話がなされ、柴田曰くマネージャーに好きにやらせたら「森川が脱退したから解散」って事になっていたとの事である。
そして1992年7月11日、今は亡き新宿日清パワーステーションにて解散ライブを行い、ANTHEMは解散した。
しかし、キングレコードとのアルバム契約は残っており、解散後にベストアルバム、解散ライブアルバム「LAST ANTHEM」がリリースされた。
2枚ともキングレコードの独断で発売されたものであり、メンバーは制作に一切関わっていない。
第7期ANTHEM(企画)
1999年、当時LOUDNESSのベーシストとして活躍していた柴田はビジネスパートナーでありアニメタルのプロデューサーである久武頼正と飲みに行った際、柴田が冗談で「ANTHEMの曲をグラハム・ボネットに歌ってもらいたい」と語ったところ、真に受けた久武は本当にグラハムに交渉に向かい、グラハム側は暇だったのかあっさり承諾。
企画とは言え、ANTHEM復活のアルバムを制作するに当たって、レコーディングメンバーにはギターに清水昭男、ドラムは大内貴雅が選ばれ、(サポート)キーボードには三国義貴を向かえ制作。
ゲストミュージシャンとして、清水加入当時のオーディションに参加していた斉藤和正(ギター)とLOUDNESS時代の盟友本間大嗣(ドラム)が参加。
柴田の話によれば当初、ギターにはジョン・ノーラム(EUROPE)を呼びたかったとの事だが、組んだ事の無い外人が二人以上いると作業が大変との事で断念した。(ついでに言えばプロデューサーも外人であるクリス・タンガリーディス)
2000年4月、こうして完成したのが『HEAVY METAL ANTHEM』である。
2000年7月には東京と大阪でライブを行うも、グラハムは相変わらずカンペを読みながら歌う、ステージから転落するなどのパフォーマンス(?)を披露。また、ゲストボーカルとして坂本英三と森川之雄も参加。特に英三はWILD ANTHEMの振り付け(イントロでメンバー全員が揃って大げさにヘドバン)を一人で披露し、柴田を苦笑させた。
第8期ANTHEM
2001年、リテイクを含むベストアルバム「ANTHEM WAYS」の発売の告知と同時に過去に無い編成で再結成を果たす。
同年夏に「SEVEN HILLS」をリリースし、ツアーを行う。
2002年には再結成第2弾「OVERLOAD」をリリースし、翌年の1月にツアーを行うがここで事件が発生する。
ツアーファイナルである河崎クラブチッタ公演で坂本は勢い余ってファンの前で夏にツアーをやる事を勝手に宣言してしまったのである。
コレにはリーダーである柴田も驚いたようで、坂本はライブ終了後に柴田に怒られたらしい。
しかし一度言い出してしまった事を断るわけにはいかず、以降「夏の陣」と題した夏のツアーが恒例となっている。
2003年5月には1月に行われたツアーの音源を集めたライブアルバム『LIVE MELT DOWN』をリリース。
このアルバムにはファンサービスの一環として各公演に置かれたノートに記入されたファンの名前を掲載しているのだが、中には「グラハム・ボネット」だとか「イングヴェイ・マルムスティーン」など、いくつかの悪戯書きまでそのまま掲載している。
これは過去に坂本がアニメタル時代に1999年の1度目の活動休止時のライブ(後に『COMPLETE LAST LIVE』として収録)で同じ事をした時に、坂本がMCで「ブレイズ・ベイリーと書いてください」と悪ノリ気味で語った事から出てしまったファンによる悪戯であると考えても良い。
2004年には『ETERNAL WARRIOR』 を発売。
2005年にはデビュー20周年に伴い前田と小柳を除く歴代のメンバーを集結させてツアーを行う事を発表。
しかし、直後に本間が長年抱えていた脚の痛みが原因で一時離脱、サポートに前ドラマーであった大内を迎え、1月のシークレットライブをこなして行った。
そして7月には本間の脚も無事完治し、デビュー20周年記念ツアーも無事に成功する。
2006年には『IMMORTAL』 をリリースし、2007年にはベストアルバム『CORE~BEST OF ANTHEM』をリリース。
2008年に「BLACK EMPIRE」リリース直後の7月、本間がバイクの走行中に接触事故に合い全治1ヶ月の重症を負う。本間は2009年3月に復帰した。
2011年、「HERALDIC DEVICE」 をリリースし、ツアーも盛況に終わった。
そして、2011年12月末に再結成後に10年以上在籍していたビクターからユニバーサル・ミュージックに移籍。
海外での活動を視野に入れることをファンに報告した。
第9期ANTHEM
2013年始め、柴田に胃がんが発見され、手術。幸いにも早期であった為健康面に影響は無かった。
再結成より10年以上に渡りメンバーチェンジは行われなかったが、体調(長年抱えている膝の不調)が悪く、
長期休養をしていた本間大嗣が2013年4月末に脱退。後任者として本間不在時にサポートドラマーとして
ANTHEMに参加していた田丸勇が正式にドラマーとして参加する事になる。
第10期ANTHEM
2014年2月、再結成より一貫してボーカルを担当していた坂本英三が脱退を表明。
後任には第3~6期までボーカルを務めた森川之雄が選出される。
ニコニコ動画におけるANTHEMの扱い
「anthem」には『賛歌・祝曲』『クラブミュージック界の定番曲』といった意味があり、一部の動画では賞賛タグとして扱われている。
また「anthem」という名のついた楽曲も少なからずあるため、バンド名だけで動画を検索するのは困難である。
おそらくメンバー名のタグで探した方が確実だろう。
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外部リンク
関連項目
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