概要
正式名称Bayerische Motoren Werke AG(バイエリッシェ・モトーレン・ヴェルケ・アーゲー)バイエルンエンジン製造工場はドイツのバイエルン州ミュンヘンを拠点とし、高級車メーカーとしては世界最大規模を誇る。
元々航空機向けエンジンの製造メーカーだったが第一次世界大戦後、これらが規制され、航空機エンジンをそのまま2輪車に応用するような形でオートバイ製造に転向。4輪はBMW Dixi(英国オースチン・セブンのライセンス生産)が最初。
エンブレムの円と十字は2つの説がある。1つはかつて航空機エンジンメーカーであった事に由来し、飛行機の回転するプロペラを表しているというもので、これが公式の見解とされている。一方でロゴマークの成立と飛行機事業の時系列からこの説に懐疑的な人々は多く、バイエルン王ヴィッテルスバッハ家の紋章に起源を持つ旧バイエルン王国(現在のバイエルン州)旗の青と白をデザインの観点からこのように配列したにすぎない、とする説もある。
発音はドイツ語で「ベー・エム・ヴェー」であるが一般的に日本では「ビー・エム・ダブリュー」と英語読みで呼ばれる。
傘下のブランドに、イギリスのロールス・ロイスとMINIがある。
自動車、バイク共に斬新なかつ新しい機構・機能、新機軸を良く取り入れる傾向がある。
自動車部門
デザインは例外を除き全てキドニー(腎臓)グリルと呼ばれる独特な形状のグリルとそれを中心とした斬新なデザインが特徴。バイクほどではないが先進的な機構を多く取り入れる傾向もあり、デザイナーのワルノリを感じさせるコンセプトカーも多数製作されている。多くの他社がスペースで有利なV6に転換する中で直列6気筒エンジンに強いこだわりを持つことでも知られ、その性能・サウンドは「シルキーシックス」と呼ばれ数多くの愛好家が存在する。高級車として世界的な人気は高く、2005~2015年まで11年連続で高級車販売台数首位を守っていた。
傾向は全体的にスポーティであり、駆動方式も殆どがFRもしくは4WD。ハッチバックでさえもFRというこだわりっぷり。
しかし調査の結果「エントリーモデルであるF20・1シリーズを購入しているオーナーの80%は自分の車をFFと思い込んでいた」という衝撃の結果が明らかになり、FFの研究開発も行われるようになった。2シリーズのアクティブツアラー(F45)及びグランツアラー(F46)、MINI等にその技術は生かされている。
BMWのスポーツモデルはM社、エム・有限責任会社(M GmbH )が開発、同社が開発したモデルには必ず「M」と付く(例:M3,X5M)。なお、Mスポーツといったグレードもあるがこちらは通常モデルとMシリーズの中間の立ち位置とのこと。M3、M5の完成度は非常に高く、世界中のメーカーが同クラスのスポーツセダンのベンチマークとしている。
レースでも耐久やツーリングカー、GTで幅広く活躍している。ル・マンでは1999年に総合優勝を達成、WTCCでは3回のダブルタイトルを獲得。2012年からはDTM(ドイツツーリングカー選手権)に18年ぶりに復帰し、2016年までで各3回のドライバーズタイトルとマニュファクチャラーズタイトルを獲得した。F1では1980~1987年、2000~2005年までエンジン供給し19勝、2006年~2009年にはBMWザウバーとしてワークス参戦して1勝を挙げている。
2018年にはWECのLM-GTEプロクラスとフォーミュラEにワークス参戦することが決定している。
自動二輪車部門
他社のバイクに比べテレレバーやデュオレバー、パラレバー等の独特な機構を採用することが多く、また四輪ではもはや当たり前となったABSを早くから量産車に装着するなど安全性に対するこだわりも強い。ちなみにABSはABS→ABS2→I-ABS→I-ABS2と年々進歩を続けている。I-ABSは油圧サーボがウゼェと思ったやつは後で体育館裏な。
1917年6月2日、バイエルンに本社を移転し、社名をRMWから改名したBMWはドイツの第一次世界大戦の敗戦により当時生産していた航空機の製造が規制され。その技術をバイクに生かし、オートバイの製造に目を向け、着手することになった。
BMWとしての自動二輪第1号車は1923年12月に生産が開始されたR32であり、今日まで受け継がれることとなる水平対向エンジン(ボクサーツイン)はこの第1号車より採用されている。そのためBMW=ボクサーツインという意識がユーザーの間では根強く(特に日本市場)、並列2気筒エンジンのFシリーズや直4のKシリーズがなかなか売れないよママンとディーラーの中の人が毎夜枕を濡らしているとかいないとか。
2000年に乗車用ヘルメットなしでの安全性を確立させた画期的なスクーターのC1(日本市場未導入)を爆誕させたり、2011年には四輪譲りの直6エンジン搭載のK1600GTLとK1600GTをデビューさせたり、2012年にはまさかのビッグスクーターC600SPORTとC650GTを投入したり、意外にチャレンジフルなモデル展開をする。そして90周年の節目を迎える2013年には今まで空冷一筋だった伝統のボクサーエンジンがついに水冷化! ちなみに水冷R1200GSの日本市場導入は・・・すまん、まだ発表できないんだお。
MotoGPには参戦したことは無く、市販車両を改造するWSBKやWSSでもタイトルを獲ったことは無いが、市販車ほぼ無改造のスーパーストックだと強さを発揮していることから、市販車の素性はいいようだ。
航空機部門
BMWは元々、RMW(Rapp Motoren Werke)ラップエンジン製造会社という航空機・船舶用エンジンの製造会社にBFW(Bayerische Flugzeug Werke)バイエルン航空機製造会社が合併、航空機用のエンジンを提供・製造してきた。
1926年にBFW社として分離(後のメッサーシュミット)するがその後、第二次世界大戦時も航空機向けエンジンを作り続け、そのエンジンは「フォッケウルフFw190」に搭載された。世界初のジェット戦闘機「メッサーシュミットMe262」向けのジェットエンジンの開発なども手がけるが、こちらは採用されず「ハインケルHe162」に積まれる。
歴史
ここで、BMWの歴史について書いてみよう。
と言っても、同社は非常に複雑な紆余曲折を経た会社である。いくつかの企業を買収して事業の手を広げたかと思えば、第二次世界大戦敗戦のあおりで工場が東側の手にわたってしまい、殆ど一からやり直す羽目になったりしている。
編集者の拙い文ではとても全貌は伝えきれないと思うので、興味をもった読者は是非とも専門書を紐解いて欲しい。
創業期
1913年にミュンヘン郊外で航空機や船舶のエンジンを作る会社、ラップ・モトーレン・ヴェルケが設立された。当初は近所の航空機メーカーにエンジンを卸していたが、やがて大手航空機メーカーのアウストロ・ダイムラー社の下請けをすることになり、急速に成長していくことになる。この頃にBMWに名が改まり、例のエンブレムが作られたという。
エンジニアの一人、マックス・エルンスト・フリッツは、タイプIIIaと言うエンジンを開発する。これは、直列6気筒、シリンダーヘッド上の1本のカムシャフトでバルブを駆動する、つまりSOHCエンジンであった。当時としては極めて先進的なメカニズムだったのである。
しかし、ドイツは第一次世界大戦に敗北。飛行機を作れなくってしまった。やむなくトラック用のエンジンを作ったりして食いつなぎ、やがてフリッツが水平対向2気筒のエンジンを作り上げる。これは最初は他の会社のモーターサイクルに搭載されたが、エンジンを横に積んだ(チェーン駆動なら当然であるが)ため、バランスや冷却性が劣悪であり、全然売れなかった。そこで逆に考えるんだとばかりにエンジンを縦積みし、シャフトが車輪に対して垂直になるのは傘歯車で方向を変えることで解決。こうして、上記のR32モーターサイクルが誕生。今日まで続くフラットツインのBMWモーターサイクルの基礎となった。
今度は四輪車の世界に踏み込もうとしたBMW。そこへ渡りに船とばかりにディクシー・アウトモビル・ディルケという会社の身売り話が持ち上がった。ディクシーは大衆車オースチン・セブンのライセンス生産を行っており、アイゼナハという町に工場があった。BMWはこれをそのまま受け継いで、いよいよ1928年に四輪車の市場に打って出た。やがて初のオリジナルモデル、303を開発。この車から伝統のキドニーグリルがはじまった。そして直列6気筒、FRというレイアウトもである。
1936年、突如BMWは一台のプロトタイプスポーツカーを作り、ニュルブルクリンクサーキットのレースにデビューさせた。ブッチギリで勝利を収めたその車は話題沸騰となり、やがて328として翌年に市販されることになる。その直列6気筒エンジンは、バルブ駆動こそOHVながら、バルブ配置をクロスフロー型として非常に高性能であった。
一方で、二輪車の方でもR32に続くモデルを次々と生み出していった。1926年にはR32の8.5psから12psに大幅パワアーップしたR42が作られ、さらなる好評を得る。これらをベースにエンジンをサイドバルブからOHVにチューンした初のレーシングバイク、R37、R47も作られた。1928年には750ccモデルのR62、翌年にはR16、R11を販売した。当時、世界は経済恐慌のただ中にあったが、性能面で定評を得たBMWのモーターサイクルは堅実に売れ続けた。
そして、1935年にはR12が登場。これはモーターサイクルの世界に画期的な変革をもたらしたモデルであった。それというのも、前輪を支えるサスペンションに、スプリングを内蔵したテレスコピック・フォークを初めて採用したのである。それまでの車軸をリンクで釣って、前輪の上に取り付けた板バネを逆U型のアームで駆動するという旧式なサスペンションに比べて、格段に軽量化と路面追従性と操縦性の向上を両立してみせたこの機構は、現代に至るもモーターサイクルの前輪サスペンションの大半で採用され続けている。このモデルは、他の部分はR11の発展型であったため安価ですみ、1942年までに36,000台も売れるベストセラーとなった。
しかし、軍拡に突き進むドイツの国内情勢はすでに、スポーツバイクの生産を許さない方向に傾きつつあった。航空機エンジンの生産にも復帰していたBMWはやがて戦争の暗雲が垂れこめる中、軍需車両や航空機エンジンを作り続ける。中でも、1941年に作られた軍用サイドカーのR75は、側車側の車輪にも駆動力を与える機構によって悪路の走破性に優れ、3輪ともタイヤのサイズを統一したり、砂漠での耐久性を高めるためにエアクリーナーをタンクの上に配置、バッテリーもなくして戦地での運用に適する機構にするなど、極めて実用性と整備性に優れた設計になっていた。
だが、やがて第二次世界大戦が起こり、御存知の通りドイツはまたも敗北したのである。
戦後復興
敗れたドイツは、悲劇にも2つの国に別れることになってしまった。西ドイツと東ドイツにである。そして、BMWの工場のあるアイゼナハは東ドイツ側であった。つまり、同社は生産拠点を喪ってしまったのである。
東ドイツに残った工場は皮肉にもそのままソ連の管理下で自動車を生産、やがて元のBMWから文句を言われたのでEMW(Eはアイゼナハの頭文字)と名前を変えて存続するのであるがそれはまた別の話である。
さて、BMWはR24というモーターサイクルを作り始めて出直しを計った。しかし、何の勘違いか四輪車の復帰モデルは高級車を選んでしまい、当然敗戦国で貧乏なドイツ国民にウケるわけもなかった。これが501である。米国市場を睨んだ2座席スポーツカーの503や507も作ったがいずれも商業的には爆死であった。
借金まみれになってしまったBMWに思わぬ救世主が現れる。イタリアのイソ社が開発したイセッタというマイクロカーである。地元では販売不振であったこの屋根付きスクーターというべきものを、BMWは工作機械ごと買い取り、エンジンを自社のモーターサイクル用を改造して積み替えて販売した。とにかく移動できればいいという足を求める国民の需要に一致したこのイセッタはかなりのヒットとなり、ひとまず命脈をつないだBMWはこれをベースに4座席化して、メカ的には遥かに普通の車に近いものとしたタイプ600を開発する。
ドイツ銀行からある程度の融資を受けられたので、それを元手に新型車を開発。これは600のシャシーを流用したものの、完全にまともな乗用車のスタイルになった。これが700シリーズであり、同車がヒットしたことでBMWは持ち直すことが出来た。
2輪車の方は、1951年までに連合軍による生産規制が解除され、次第に戦前の生産ペースを取り戻してゆく。上記R24をベースに後輪に初めてサスペンションを搭載した(それまでのモデルは後輪は自転車並みのサスペンション機能のないリジッドフレームだった!)ものであるR25がデビュー。さらには、これも現代の一般的方式となったスイングアーム式サスペンションとしたR26に発展した。この頃にはテレスコピック・フォークもスプリング内蔵からダンパー内蔵というより現代的なものに進化している。
ノイエ・クラッセの登場、新展開
1959年、融資元のドイツ銀行が経営先行き不安を理由にダイムラー・ベンツ社との合併を要求。最大の経営的ピンチを迎えた。しかし、投資家のクアント兄弟によって株式を買い取られた社は存続の危機を脱した。この頃には上記700シリーズがヒットして経営は安定し、クアント兄弟が無類のカーマニアであったことも幸いし、新モデルの開発にはずみが付くことになった。
こうして、ノイエ・クラッセ(=ニュー・クラス)と呼ばれたプロジェクトは、ミドルクラスセダンの1500となって結実した。この1500は名前通り1500ccの直列4気筒SOHCエンジンを新開発。シャシーも全く新しくなり、フロントサスペンションは現代の車では一般的な存在になったマクファーソン・ストラットを先駆けて採用。リアサスペンションは600・700シリーズで実績のあったトレーリングアーム形式のアレンジであるセミトレーリングアームとなる。これも後のFR乗用車では1980年代に至るまで盛んに採用された形式である。
この1500シリーズの大ヒットにより、ミドルクラスメーカーとしての地位を固めたBMWは、よりコンパクトでスポーティーな2ドアセダンである1600を開発、これをベースにパワーアップを進めて決定版の2002を1968年にデビューさせた。そして、モータースポーツの世界で台頭しつつあったターボエンジンを市販車に初めて搭載することになる。これが、2002ターボである。1973年9月に登場したこの車は、当時の車好きをして「後ろから蹴っ飛ばされたみたい」と言わしめた加速性能を見せ、ターボの威力を世に広める切っ掛けとなった。さらに、オーバーフェンダー・スポイラーなどによって武装されたその姿は現代に至るエアロチューンのはしりといえるものである。
さらに、1958年に501シリーズのモデルが生産中止となって以来途絶えていた直列6気筒もついに復活する。これが1968年の2500と2800、そして1971年の3.0CSである。そのエンジンこそが現代に続く「シルキー・シックス」の始まりであり、これによって、BMWはメルセデス・ベンツの一強であった高級サルーンの市場にも入り込んでいくことになる。
さて、2輪車の方では、1955年のR50、R69で前輪にアールズフォークと呼ばれる機構が採用された。これは、前輪の後ろ側に伸ばしたフレームから前輪を支えるリンクを付けて、フォークの部分はダンパーとしての役目に徹するという方式である。一見テレスコピックから時代に逆行するかのような機構だったがこれにはワケがあった。上記のイセッタでわかるように、当時のドイツにはまだ立派な乗用車を買える国民は少なく、バイクを足としてサイドカーで多人数乗車をカバーするという人が多かったのだ。そんな中で、側車搭載時に合わせてセッティングを簡単に変えられるアールズフォークは理にかなった機構だったのである。
そして60年代後半に至ると、なんとモーターサイクル部門は存亡の危機に立たされる。皮肉にも、4輪車によるモータリゼーションの発展によってバイクは必ずしも生活必需品ではなくなり、趣味の乗り物に追いやられつつあったのだ。BMW社内でもモーターサイクル部門の存廃が議論されるに至ったが、社の下した決断は「続行」であった。そこで、全く新たな魅力のスポーツバイクを作る必要に迫られ、新世代の「/5」シリーズがリリースされる。伝統のフラットツイン、シャフトドライブは守りつつも、新世代に突入したのだ。
新世代登場~現代へ
1972年9月、新たなシリーズである「5シリーズ」が立ち上がった。これは、4気筒エンジンながら新設計の4ドアセダンボディをまとい、かつての車種名の法則を復活させていた。3桁の数字で、一桁目をシリーズ名、残る二桁でエンジンの排気量を表している。最初のモデル520iを皮切りに、6気筒エンジンを積んだ525、オイルショックに対応した燃費モデル518、北米市場向けの530iなどがバリエーションとなった。
1975年には、2002の後継となる「3シリーズ」が立ち上がる。これは2ドアセダンであり、この頃には日本でも輸入車が目立つようになり始めた。
続いて、6気筒クーペ及びセダンをそれぞれ「6シリーズ」「7シリーズ」としてデビューさせ、現代に至るラインナップの基礎が出来上がった。
1986年には新型7シリーズにV12エンジンを積んだモデルが登場。いよいよ高級サルーンメーカーとしてもBMWは確固たる地位を築いた。1988年には2座席オープンカーであるZ1が登場、これも現代までZシリーズとして続いている。6シリーズは一旦より高級なパーソナルクーペとなった8シリーズに移行したが、2006年に復活している。
2000年に入ると、北米市場に向けたSUVであるXシリーズを投入。これには、下記のローバーグループ買収によって得た4WDクロスカントリー車のノウハウが活かされている。
一方、20世紀末に経営が傾いたイギリスのローバーグループを1994年に買収、あのローバー・ミニをBMWミニとして生まれ変わらせた(後にミニを残してローバーグループは売却)。そしてロールス・ロイスのブランド名も買い取り、新世代のロールス・ロイスをイギリス現地で生産している。
2輪車の方は、上述の「/5」シリーズにはじまって、「/6」「/7」と洗練がなされ、1976年には量産市販車として初めて空気抵抗を防ぐフルフェアリングを標準装備したR100RSが登場する。アウトバーンを時速200km/hでクルーズしながらもライダーの快適性を確保したこのマシンは、後のグランドツアラーバイクの基本形となる。
1983年には、直列4気筒エンジンを横倒しにして進行方向に直列で搭載するという、まったくの新世代モーターサイクルが登場した。これがKシリーズである。これはボクサーツインのRシリーズと共に、現代のBMWモーターサイクルの2枚看板をなすようになった。
Mシリーズ
BMWは「スポーツカーと互角以上に速いハコ車」が大きな売りの一つだが、それを体現しているのが「Mシリーズ」である。それを生み出しているのが、BMWのモータースポーツ部門、BMW M GmbHである。
悲劇のスーパースポーツカー、M1
BMWがグループ5、つまりシルエットフォーミュラによって争われる世界選手権を制するために、ミッドシップレイアウトの新型車を作ることになった。これは当時すでにイタリアのスーパーカーにおいて世に出ていたスタイルだが、創業以来特殊なレース用モデルを除いてずっとFRレイアウトだった同社にとっては初めてづくしの車となった。おまけにグループ5参戦の前提となる、グループ4のホモロゲーションを得るには年間400台生産の実績が必要になるが、当時たった8人で始まったモータースポーツ部門にそんなことはとうてい無理であった。
そこで、ランボルギーニと提携。エンジンをBMWが作り、シャシーとボディをランボルギーニとその下請けが製作、最終組立も同社で行うというものであった。
M-88と呼ばれたエンジンは、ETCで活躍していた3.0CSLのものをベースに開発され、直列6気筒DOHC24バルブ、3453ccの排気量からロード・バージョンで277ps、グループ4用のレーシング仕様で470馬力を発生。さらにグループ5用の最終仕様はターボ付きで850馬力に達する予定だった。
しかし、肝心のランボルギーニでの作業が大幅に遅れ、1978年初頭の発表には間に合わなかった。BMWはランボルギーニそのものを買収してまでプロジェクトを進めようとしたが、これもランボルギーニ側の抵抗に会い断念。結局提携は解消された。BMWは諦めずにボディ・シャシーの製造元に作業を続けさせ、それをドイツに持ち込んでBMWの抱える組み立て業者に委託。モータースポーツ部門自らで最終調整を行うことにした。だが、この二度手間、三度手間としかいいようがない方法によって価格は当時のポルシェ911の2倍に高騰。生産も遅延し、これでは年間400台の達成は困難だった。BMWはグループ4仕様を使ったワンメイクレース「プロカー」シリーズをF1グランプリの前座として開催し、なんとか話題をつなぎながら生産台数を稼いだ。他にも様々なレースやラリーに挑戦し、1979年のル・マン24時間レースでは総合6位入賞の成績も残した。そして、1980年の終わりに400台を作って「年間」の部分は大目に見てもらい、翌年からのグループ4レースへの参戦が実現。だが、時すでに遅しだった。スポーツカーレース界は1982年に始まるグループCの話題で持ちきりであり、グループ5は時代遅れとなってしまった。BMW自体もF1用のターボエンジン開発に忙殺され、M1はいらない子になってしまった。
ワークスとしてのグループ5仕様は幻に終わり(シュニッツァーのプライベート参戦のみあった)、生産台数447台をこの世に残して、M1はその悲劇の経歴を終えた。
M535i、そしてM6、M5
M1プロジェクトは満足な実を結んだとはいえないが、決して全てが無駄になったわけではなかった。
1979年9月にM535iが発売された。これはM1のようなレース用スポーツカーではなく、セダンである5シリーズをベースにした、メーカー公式チューンドカーと言うべきものであった。
続いて、1983年9月にM635CSiが発表。これは、M1用のエンジンを286psまで高めたもので、動力性能は当時の4人乗り4ドアセダンとしては驚異的な最高時速255km/h、0-100km/h加速6.4秒というもの。足回りとブレーキ系は当時のグループAマシンを参考に大幅に強化されていた。それでいて、外観は小さなエアロパーツが取り付けられて「M」のエンブレムが付いた以外はノーマルと同じ。まさに「羊の皮を被った狼」だったのである。
さらに、今度は同エンジンを5シリーズに搭載した「M5」がデビュー。後にM635CSiも「M6」と改められた。
M3登場
BMWモータースポーツは、本格的なモータースポーツ参戦を前提にしたモデル開発を計画した。3シリーズをベースに、直列4気筒2302cc、200psのエンジンを搭載。これまでの「羊の皮を被った狼」ではなく、見るからに戦闘的なエアロパーツとブリスターフェンダーで固められたボディは威圧感満点であった。グループAのホモロゲーションを得るための5000台生産をクリアするため、エンジンユニットのみBMWモータースポーツで生産。車体と最終組立は本社が担当する体制が組まれた。かくして、1987年からグループAレースに参戦を初め、2500cc以下のクラスであるディヴィジョン2を完全制覇してしまった。
現代のMシリーズ
それからというもの、MシリーズはBMWの看板となり、開発をBMWモータースポーツが行い、生産を本社が行う体制が確立された。1993年にBMWモータースポーツ社はBMW M GmbHと名を改めたが、21世紀の今もMシリーズは代替わりを繰り返しつつ広くラインナップされ、SUVのXシリーズにまで広がっている。
モータースポーツ
BMWは同じドイツのメーカーであるポルシェと並んで、モータースポーツとの関わりが深いメーカーとして知られている。
二輪車のR37、R47での大活躍は、その始まりと言えた。1923年から1928年までの5年間で、実に573ものレースでの勝利を記録している。1930年代になると、当時のナチスドイツによる国威発揚の目的もあり、メルセデスの持つスーパーチャージャーの技術を応用した過給式レーシングバイクが作られた。それらは、名手ゲオルグ・マイヤーの手によって数多くのグランプリやマン島TTレースでの勝利を記録した。当然、四輪車でもディクシー社を吸収した当初から、積極的なレースやラリーへの参加を続け、上記の328のデビューによってその活躍は国際的なものとなった。
ツーリングカーレース、スポーツカーレース
第二次世界大戦終結後の暫くの間は、上記の501シリーズの失敗もあって会社が火の車で、レースに取り組む余裕はなかった。戦前から保持されてきた328によるプライベーターの活動が主なものだったのである。
状況が変わるのは700シリーズのヒットと、クアント兄弟の投資による経営の安定が図られてからである。
1960年に700のクーペモデルでワークス参戦に復帰し、1000cc以下クラスの各レースで好成績を収めた。1963年にはヨーロッパを股にかけたツーリングカーの選手権であるETCがスタート。ここでも1000cc以下クラスのランキング2位となった。そして、1964年には「ノイエ・クラッセ」のシリーズである1800TIを投入。しかし、まだライバルにはあと一歩及ばなかった。1966年、ついに2000TIでETCチャンピオンを獲得すると、翌々年には2ドアの2002tiでもって、昨年から参戦していた新たなライバルのポルシェ911に立ち向かった。しかしタイトルはポルシェのものとなり、翌シーズンに向けて、BMWは革新的なメカニズムを導入する。ターボチャージャーである。
ターボは、航空機の世界では高高度でのパワー確保のために第二次世界大戦の時点ですでに実用化されていたが、地上を走る自動車用としてはまだ大掛かりすぎた。それを同じドイツのKKK社が小型化したタービンを開発。もともと航空機エンジンのメーカーでもあったBMWは、過給器付きエンジンのノウハウに長けていた。1969年に2002tikが実戦投入され、タイトルを見事にポルシェから奪い返した。そのポルシェがターボエンジンをものにするのが1970年代半ば、そしてルノーがF1でターボマシン初勝利を上げるのが1979年であることを見ると、いかにBMWが先進的であったかがわかるだろう。もちろん、4年後に発売された2002ターボにこのノウハウが活かされたことは言うまでもない。
その後しばらくBMWはワークス活動を休止、現在でも代表的なBMWのコンプリートチューナーとして知られるアルピナがプライベーターとして参戦した。一方で力をためていたBMWは1972年にスポーツ部門であるBMWモータースポーツGmbhを設立、3.0CSクーペをベースに軽量化を施したエボリューションモデルの3.0CSLを引っさげて、1973年からETCの舞台に舞い戻った。この年と翌年を連続でETCタイトルを獲ったBMWは再びワークス活動を休止したが、その後もアルピナを始めとするプライベーターの手によってCSLは活躍を続け、ETCを7連覇することになった。
一方、1976年からはじまったグループ5、いわゆるシルエットフォーミュラによるスポーツカー世界選手権に、CSLをド迫力のオーバーフェンダーで武装したボディにして参戦した。ここではNAのマシンの他に、ターボを搭載した3.2CSLターボも投入したが、これは実験の意味合いが強く、上述のM1のグループ5ターボ仕様のためと、F1にターボエンジンをもって参戦するという野望のためだった。
あくまでハコ車のCSLでは生粋のスポーツカーであるポルシェ935に勝つのは難しいと判断したBMWは、新しい「3シリーズ」をベースに、320iのシルエットフォーミュラを開発。これは1977年の2000cc以下クラスのタイトルを獲った。
1980年代に入ると、スポーツカーレースとツーリングカーレースのクラス分けが刷新されるに及び、グループAとなったETCにBMWは参戦をし続けた。そして、1987年にM3が投入され、ディヴィジョン2クラスを席巻。グループAでの主役マシンの一つとして活躍した。
これらツーリングカーでの活躍にとどまらず、プロトタイプスポーツカーにおいてもBMWのエンジンは数々のマシンに積まれて活躍している。ル・マン24時間レースでは1995年にBMWエンジンを積んだマクラーレンF1GTRが優勝。そして、1999年にはF1進出を睨んでのV12エンジンを乗せたル・マンプロトタイプであるV12LMRでワークス参戦。トヨタのTS020との激闘の末に勝利を記録している。
さらにはドイツでのDTM、イギリスを中心とするBTCC、そしてETCC、WTCCといったレースには常にBMWの姿があった。近年では日本のスーパーGTでの、Z4のGT3仕様による「初音ミクBMW」の活躍が記憶に新しいところ。
フォミュラカー(F1,F2など)
ノイエ・クラッセにおいて開発された直列4気筒エンジンは、フォーミュラカーの世界でも活躍することになる。
1967年には、アッフェルベックというエンジニアによる独特のバルブシステムをもったエンジンを作り、F2に参戦したがさすがに懲りすぎてトラブル続出となり、翌年はもっとありきたりのバルブシステムに直して戦績は安定。何勝かはあげたがチャンピオンには至らなかった。一旦身を引いたBMWは3年後にM12/6という新しいエンジンを作り、マーチのシャシーに積んでF2のタイトルを獲得した。その後、このエンジンはカスタマー販売され、70年代のF2エンジンを事実上BMWのワンメイク状態にした。これは、1981年にホンダに敗れるまで続くことになる。
そして、今度はこのF2エンジンを1500ccに縮小した上で、ターボを付けてF1エンジンにする試みが行われた。やがてこのM12/13エンジンは熟成され、1982年にブラバムBT50に搭載されてデビューした。この年は初年度ということもあって1勝にとどまったが、翌年のBT52でネルソン・ピケが3勝を含む表彰台8回という素晴らしい成績でチャンピオンに輝いた。その後も同エンジンは数多くのチームに供給され、1988年まで続くターボF1時代を代表するエンジンの一つとなったのである。そのパワーは決勝でも1000馬力を超え、予選のフルブースト状態では1400馬力に達したと言われている。
それ以来10年に渡ってF1から離れていたBMWだが、F1で再び世界制覇を実現すべくウィリアムズF1チームとジョイント。当初はV12エンジンでテストを始めた、やがてレギュレーションの都合でV10に変更。2000年からついに復帰。翌年には早くもラルフ・シューマッハとファン・パブロ・モントーヤの二人のドライバーが勝利を挙げる活躍を見せたが、なかなかフェラーリの牙城を崩すには至らなかった。BMWは事態の打開のためにチーム自体を買収することを考えたが、ウィリアムズの首脳陣は固辞、急速にチームとの関係は冷えてしまった。結局2006年からスイスのザウバーチームを買収し、BMWザウバーとしてワークス参戦することになった。
2008年にロバート・クビサが一勝をあげたが、結局これが唯一の勝利となった。この頃起こったリーマン・ショックによる世界的な経済危機に対処するためもあって、2009年をもってBMWはF1から身を引いた。
BMWが国際的フォーミュラレースに戻ってきたのは2018年、それも電気自動車のレースであるフォーミュラEであった。アンドレッティ・オートスポーツと組んでの久方ぶりのワークス参戦となったが、2018-2019シーズンの開幕戦でいきなり優勝し、幸先のよいスタートを切ることになった。
ニコ百内に記事のあるBMW車種一覧
四輪
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関連動画
関連商品
関連コミュニティ
外部リンク
- BMW Group(英語)
- BMW automobiles - BMW自動車部門(英語)
- BMW Japan - BMWジャパン
- BMW Motorrad - BMWモーターサイクル
- BMW-museum - BMWミュージアム (ドイツ語・英語)
備考
関連項目
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