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この記事はボーイング社がFAAの勧告による改修責任を負う戦闘機について扱ってます。藤原とうふ店の配達車両はハチロクを はらぺこのサーヴァントについては、セイバー(Fate/stay night)およびセイバー(Fate/Zero)を、その他のセイバーについては該当項目を参照 |
F-86セイバーとは、ノースアメリカン社(現:ボーイング)が開発した第1世代のジェット戦闘機である。
派生型としては、海軍や海兵隊で使用された艦上攻撃機であるFJ-2/3フューリー、全天候要撃機のF-86Dセイバードッグ等がある。
開発
ノースアメリカン社は艦上ジェット戦闘機として開発していたXFJ-1の陸上型を陸軍航空隊に提案し、1945年に試作機XP-86を3機受注していた。XP-86はFJ-1と同様に直線翼の平凡な機体だったのだが、モックアップ審査をパスした頃に敗戦国ドイツから後退翼に関する風洞試験のデータとMe262の現物がもたらされた。これを受けてXP-86も後退翼機に変更され、試作1号機は1947年10月に初飛行した。その後改修を加えたF-86A-5(1948年6月からP→Fに改称。521機生産)が事実上初の実戦配備型となり、朝鮮戦争にも投入された。[1]
詳細
ナチスの科学は世界一チイイイイ!!
1944年の夏ごろから西部戦線に出没していたナチスドイツのMe262や、イギリスがV1迎撃に投入したグロースターミーティア等の「ジェット戦闘機」は、アメリカ陸軍航空隊にとって衝撃であった。
アメリカは、レシプロ機においてはP-47やP-51と言ったレシプロ機の性能を限界まで引き出した機体を開発していたものの、ジェットエンジンの開発では大幅に遅れていた。
すでにテスト飛行の始まっていたロッキードのXP-80ではイギリス製のジェットエンジンを採用していたし、パブリック社のXP-84や、マクドネル社のFHファントム、グラマン社のF9Fでは、GEが開発していたアメリカ製の軸流ターボジェットエンジンTG-180(のちのアリソンJ35)を採用する前提で開発を始めていたとは言え、軍用機のジェット化において、アメリカがイギリスとドイツに年単位で遅れているのは事実であった。
アメリカ陸軍航空隊にP-59と言うジェット戦闘機もあったが、性能的にアレなんで無かったことにしよう。
幻の海軍型P-51とXFJ-1
その一方で、P-40やP-51を開発・生産していたノースアメリカン社も独自にTG-180を使用する戦闘機の研究を開始し、NA-134と呼ばれる設計案が誕生した。これは、P-51の主翼をより高速向きに変更し、吸気ダクトからTG-180エンジン、排気ダクトまでの一直線の筒を機体に押し込んで、その上にコクピットを乗せたようなデザインで、アメリカ海軍はこの機体をXFJ-1として採用した。
この採用は、P-51Hの不採用(艦上戦闘機としての運用試験では性能的には問題はなかったものの、海軍には航空機に液冷エンジンを使用しないという伝統があったので、結局採用しなかった)への補償と言う側面があった。
NA-140とナチスの遺産
予想外の形でNA-134は海軍に採用されたが、その後も設計は続き、NA-140と呼ばれる設計案が出来上がった。
1945年5月18日に、陸軍航空隊はこのNA-140をXP-86として採用し、試作機の納入を命じた。このXP-86は、すでに量産が始まっていたP-84に対して設計上の最高速度で劣っており、これは改善する必要があったが、それ以外の部分では陸軍航空隊を満足させる性能であっため、開発を継続することになった。
ここに降って湧いたのがナチスの敗北とドイツ国内で接収された各種研究のレポートであった。
この中には、Me262(重量バランス改善の苦肉の策として、ゆるい角度の後退翼を採用していた)の発展型として、Me262HGと呼ばれる、性能向上のために後退翼の角度を35度から45度に変更した設計案や、後退翼を採用した場合に発生する、低速域での安定性の低下を改善させるのに前縁ストラットを使用すると言った研究データも含まれていた。
これら、ナチスの遺産をXP-86の設計に活用するという決定は、資料調査に参加していたラリー・グリーンから、当時ノースアメリカンの社長であったジェーム”ダッチ”キンデルバーガーと技術担当副社長のレイモンド・ライスに提案されたもので、当初はドイツの技術を使用することに社内から反対があったが、風洞実験で性能向上が確認されると反対派は自然と消えていった。
直線翼から後退翼を採用した機体設計の変更により、半年ほど開発に遅れが出ることが予想されたが、陸軍航空隊の開発部門は1945年11月、この後退翼への設計変更を承認、1946年6月には戦時発注ではなく、正式な発注としてXP-86の研究開発契約が結ばれ、同年12月には実用試験機をすっ飛ばしエンジンをJ47に変更したP-86A-1の発注が行われた。
XP-86やYF-93と辞めてやるよ陸軍なんか
1947年8月に試作機は完成、一旦分解した上で同年9月にミルロック基地(現エドワーズ空軍基地)に運び込まれた。同年9月18日にアメリカ陸軍航空隊からアメリカ空軍が独立したことで、この戦闘機の管轄も空軍に移管された。
初飛行は1947年10月1日に行われたが、当初30分前後の予定であったものが、前脚のダウンロックが正常に作動していないことに気が付き、さまざまな手段によるダウンロックの作動を試みた後、胴体着陸を前提とした着陸を試みたが、主脚が接地したショックで前脚のロックが掛かったため事なきを得た。前脚のトラブルはF-86の数字には表れない弱点のひとつで、F-86Dの試作機でも同じようなトラブルで損傷した機体が出たほか、前脚のトラブルで損傷し、修理不能と判断された機体も多いと言われている。
YF-93
P-86が初飛行を行った10月にはP-86Bの発注も行われたが、12月になってからP-86A-5と長距離護衛戦闘機P-86Cの発注に切り替えられた。P-86Cは燃料タンクの大型化やインテークの位置変更などでP-86と別物と言ってもよい機体へと変化したため、YF-93と形式名が変更された。さらに1948年6月のアメリカ空軍の戦闘機の形式名が従来のP(追撃機)からF(戦闘機)へと変更が行われたため、1948年10月にF-93Aと言う形式名になり、量産機の発注が行われたが、1949年1月に発注は取り消され、すでに製造が始まっていた2機のYF-93は、空軍が引き取った上で、1950年代後半まで各種実験に使用された。
メジャーアップデートとカナディアによるライセンス生産
1949年2月に航空機産業の中心地であるカルフォルニア州マーチ空軍基地に駐留していた、第1戦闘航空群傘下の94戦闘飛行隊にF-86Aがデリバリーされたのを皮切りに、ワシントンDCの防空を担当していた第4戦闘航空群、核開発施設が存在するニューメキシコ州に駐留する第81戦闘航空群といった、重要拠点の防衛を目的とした部隊から配備が進んだ。
F-86Aの部隊配備が進む一方で、カナダ空軍もNATOへの参加と空軍の近代化を目的にF-86を採用、1949年8月にノースアメリカンとカナディア社でF-86のライセンス生産契約が結ばれたほか、11月に遷音速領域での運動性改善を目的に、水平尾翼の全遊動翼化を目的とした改良型の設計が始まり、F-86Eの形式名で1950年1月に111機の発注が行われた。しかし、アメリカ空軍が本命としていたのは、エンジンを出力を強化したJ47-GE-27を搭載したF型で、-27の量産が遅れた事から、本来はF型で発注する予定であった1951年4月発注分のE-10(132機)やF型の生産が始まってからありあわせの部品で作ったE-15(93機)と言った、イレギュラーな形で製造されたE型も存在する。
この設計変更は、カナディア社のライセンス生産機にも適応されたため、カナディア社がノースアメリカンから供給された部品で製作したセイバーの1号機、カナディアCL13セイバーMk.1はF-86A-5規格で製作されたが、本格的な量産型であるCL13セイバーMk.2は当初のF-86E後期型(E-5)として生産され、1951年の初めから1952年8月に製造された350機のうち、120機をアメリカ空軍が引き取り、前線の部隊やNATO参加国へ供給された。
1950年6月に極東の一角で発生した事態は、アメリカ空軍が外国産セイバーや有り合せの部品で製造した機体も必要とする事態へと発展していた。
???「War,War never changes.(戦争、戦争は変わらない。)」
余談であるが、在来型とD型の生産や両者の部品不足にくわえ、海軍型セイバーであるFJ-2フューリが採用されたことも有り、混乱状態にあったイングルウッド工場だけではなく、アメリカ軍の管理下でカーチスが使用していたオハイオ州コロンバスの工場を借り、航空機の製造ラインを構築したが、肝心のFJ-2は開発が遅れ、朝鮮戦争中に海軍に殆ど供給されなかったため、あちらこちらの航空母艦で、「FJ-2?いえ、知らない子ですね」「フューリとクーガー、この編隊を見たかったな。」等と言う、ボヤキが聞こえたとか聞こえなかったとか。
朝鮮戦争
1950年6月25日に北朝鮮の奇襲攻撃により朝鮮戦争が勃発し、アメリカ軍は国連軍の中核としてこの戦争に参戦したが、開戦当初は北朝鮮側の戦力を低く見ていた上、主戦場はヨーロッパであると言う認識だったため、五月雨式の地上部隊投入を行い、先遣部隊であるスミス支隊や第24師団が敗北、一度は釜山まで追い詰められたが、空では北朝鮮空軍の航空戦力が貧弱であったことから、早期に朝鮮半島全域で航空優勢を確立(制空権を獲得)していた。
1950年8月から9月に掛けて行われた釜山橋頭堡の戦い、クロマイト作戦とスレッジハンマー作戦以後、撤退する北朝鮮軍を追う形で国連軍は北上を続け、同年10月には韓国軍の先方集団が鴨緑江の中朝国境に到達するなど、西側諸国は北朝鮮の消滅による戦争終結が見えてきた判断していたが、アメリカによる中国東北部(旧満州国)侵攻を恐れた中国が参戦しすると同時に、南満州を根城に中国の防空と言う名目で派遣されていたソビエト人パイロットの手で戦線に投入された……早い話、ソビエト空軍が中国の空軍に化けて参戦していたのである。この手の同盟国に化けたソビエト空軍の参戦は、ベトナム戦争や中東戦争でも行われており、第三次~第四次中東戦争間の消耗戦争では、イスラエル空軍が軍事顧問の操縦するMigを誘い出して袋叩きにしてあえて黙っていた物を軍事顧問団の横暴な態度に思うところのあったエジプト空軍が暴露したと言う事件も起こっている。
朝鮮半島に出現したMiG-15は、1950年11月1日にF-51を撃墜(ソビエト側の記録ではこの日、MigによるF-80の撃墜も記録しているが、アメリカ側では対空火器による損失として記録している。)した後、11月8日にはF-80と交戦、この戦闘では、F-80とMiG-15の性能差をアメリカ側パイロットの技量で凌ぐ事が出来たが、アメリカ空軍は朝鮮半島での制空権を死守するため、同じ日にF-86を装備していた第4戦闘航空団の派遣を決定し、護衛空母に貨物として搭載され、太平洋を横断した第4戦闘航空団は、12月13日にK-14基地(現:金浦国際空港)に展開、4日後にMig-15と交戦した。
ソビエト側が当初送り込んだ第151戦闘機師団の技量は、Migの性能と数的な優位、安全地帯の基地の目の前と言う地理的な利点を生かしきることが出来ず、第二次世界大戦のエースパイロットが多数所属する、第4戦闘航空団が戦線に投入された後は、ほぼ完全に活動を押さえ込まれた(この部隊の戦果よりPo-2の嫌がらせで爆撃で破壊されたF-86のほうが多い)形となり、1951年4月に戦線を去った。この部隊と入れ替わる形で第二次世界大戦のエースが多数在籍する第303と第324、二つの戦闘機師団が配備されると共に、本物の中国空軍のMiGも戦線に現れるようになったため、アメリカ側が数的な劣勢下での戦闘を強いられ、前線部隊はF-86の増援を本国に要望したが、兵站上の理由を口実に増援の要請は却下された。
1951年6月、悪天候により一時中断されたアメリカ軍の爆撃の隙を付く形で修復された基地から飛び立った、Po-2による夜間攻撃に対して、即座に報復攻撃を行い、北朝鮮国内での航空基地修復作業を放棄させるに至ったが、9月頃からMiGによる国連軍機への迎撃活動が活発化し、国連軍による南下する航空機へのパトロールと、北朝鮮側による迎撃の激しかった北朝鮮北西部の平安北道と慈江道一帯は、ミグ回廊(MiG Alley)と呼ばれるようになっていった。
1951年9月下旬、平安南道新安州周辺に複数の飛行場の存在が確認された。アメリカ軍はこの基地からMiGが活動することを阻止するため、少数のB-29による夜間爆撃を行ったが、滑走路に大きな損害を与えることは出来なかったため、10月下旬に大規模な白昼爆撃を行い基地の破壊に成功したが、MiGの激しい迎撃により多くのB-29が撃墜された事で、アメリカ空軍は10月末をもって白昼爆撃を中止し、少数機による夜間爆撃へと戦術を転換した。
このような状況を覆すため、1951年11月に第51戦闘航空団をF-80からF-86に機種転換しての増強を行ったが、1952年2月頃から北朝鮮空軍のMiGも出没し始め、一時的に縮まった手数の差は再び開いた状態となり、ミグ回廊(MiG Alley)で死闘は53年7月27日の停戦まで続いたが、お互いに太平洋戦争や後の湾岸戦争のように、航空戦力で相手側に決定的な打撃を与えることが出来なかった。
北朝鮮側の攻撃的な航空作戦は、開戦直後の北朝鮮空軍を除けば、1951年6月から始まったPo-2を使用した安眠妨害爆撃や1951年11月の大和島空襲、1952年の空母オスカニー強襲のような例外の除いて殆ど見られなかった。
これは、事が露見した場合に第三次世界大戦に発展することを恐れたソビエト側が、黄海と平壌-元山ラインから南へMigの出撃を禁止したり、無線交信で殺せ、ロシア人だという命令を出していた為であったが、ロシア語でルビを振ったロシア訛りの中国語による意思疎通に問題が生じたことから、殺せ、ロシア人だの命令は早期に有名無実化し、ソビエト空軍のパイロットが中国や北朝鮮のMiGを操っていると言う情報は、前線で戦うパイロットたちに周知の事実であったが、アメリカ側もうかつに指摘した事で、第三次世界大戦に発展することを避けたかったためか、ソビエト空軍のパイロットが朝鮮戦争に参戦していたと言う情報をソビエト崩壊まで公式には認めていなかった。
左は朝鮮戦争を題材にPC用フライトシムIl-2を使用して製作されたマシニマ、右のものは実際の戦闘中に撮影されたガンカメラ映像
インターネット上の一部ではE型やF型のセイバーは、Migへの対策で製作されたとも取れる記述を行っている例もあるが、Mig対策で行われた改造や改修は、従来はプロペラ機が主体であった偵察機のジェット機化(ハニーバケット/アッシュトレー改修)、枢軸国側の航空機を屠るには十分だったが、航空機の高速化それに伴う機体構造の強化により、威力不足が目立つようになった機銃の大口径化(GUNVL計画)などである。
バリエーション
ノースアメリカンだけではなくカナディア(加)やコモンスウェル(豪)、三菱重工、フィアットでもライセンス生産された上、供給先による現地改修機も存在する。
- XP-86…3機製造された試作機で、T-180(J35)を搭載する点が生産型との大きな相違点
- P(F)-86A…最初の生産型でエンジンをT-190(J47)を変更したほか、他の形式との違いとして、キャノピー正面が曲面で、MK18ガンサイトのみを搭載するA-1(33機製造)と、キャノピー正面がV形防弾ガラス、A-1Bガンサイトとレンジレーダーを追加したA-5(188)のほか、初期型のガンサイトをA-1CMに乗せ換え、レンジレーダーを追加したA-6やA-7が存在する。
- P-86B…計画のみに終わった不整地着陸能力向上型、190機の調達が予定されていたが、A型のブレーキとタイヤを交換する事で、同様の効果が得られることが判明し、発注はA-5(188機)とYF-93A(F-86C)2機に切り替えられた。
- YF-93A(P-86C)/F-93A…戦略爆撃機の護衛を目的に開発されたが、ジェット戦略爆撃機B-47を配備した事による護衛の必要性が薄れた事や戦略爆撃機の調達に予算を取られたことから採用されなかった派生型、原型機2機のみ製造。
- F-86E…開発経緯はメジャーアップデートとカナディアによるライセンス生産を参照、当初発注されたA型と共通点の多いE-1(60機)やE-5(51機)と、F型のエンジンダウングレード版といえる、E-10(132機)やE-15(132機)、供給数を増やす目的で逆輸入されたカナディアCL13セイバーMk.2に割り当てられたE-6-CAN(120機)も存在する。
F-86D セイバードッグ[2]
セイバー・シリーズのもう一つの系統であるF-86Dは、F-86にアフターバーナー付きのJ47エンジンを搭載した全天候要撃戦闘機で、当初はYF-95Aとして開発されていた。
機首に捜索レーダーのレドームを装備、ヒューズ社製のFCSを載せ、固定機銃は廃止して胴体下面に引き込み式ロケット弾架を搭載した。F-86Dは2506機生産されて一部は航空自衛隊にも供与された。
後に武装をロケット弾から20ミリ機関砲4門に変更したF-86K、データリンクシステムを搭載したF-86Lも作られた。F-86Lでは地上レーダー(SAGE)からの情報を自動的に受信してFCSが目標への衝突コースを自動計算して表示できるようになり、1950年代のADC(防空軍団)の主力となった。
参考文献/HP等
- 文林堂 ノースアメリカンF-86セイバー 世界の傑作機 NO. 93
- 光人社 F-86セイバー空戦記: 朝鮮上空の死闘 (ダグラス・K. エヴァンズ)
- 光人社 クリムゾンスカイ ― 朝鮮戦争航空戦 (ジョン・R. ブルーニング)
- 朝日ソノラマ イスラエル空軍 (H・ハルペリン/A・ラビドット編)
- Wikipedia英語版 MiG Alley
関連作品
動画
静画・MMDモデル
関連商品
関連コミュニティ
関連項目
- 戦闘機
- アメリカ
- ノース・アメリカン・アビエーション
- アメリカ軍/ドイツ連邦軍/イタリア軍/航空自衛隊/中華民国国軍/韓国軍
- 軍用機の一覧
- Me262 / FJフューリー
- F-104 スターファイター:制空戦闘機F-86の思想的な意味での後継機
航空自衛隊の戦闘機
脚注
- *「アメリカ空軍戦闘機1945-1993 ミリタリーエアクラフト1994年1月号」 デルタ出版 1994 p.42
- *「アメリカ空軍戦闘機1945-1993 ミリタリーエアクラフト1994年1月号」 p.45
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- ページ番号: 5078477
- リビジョン番号: 3246490
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