概要
M4シャーマン系の戦車ではドイツ戦車群に対抗するには力不足であると認めざるをえない状況になった米軍が、第二次世界大戦末期に戦力化させた重戦車である(ただし大戦終結後に中戦車に再分類されている)。朝鮮戦争まで現役を務めたが、その後の「パットンシリーズ」や米軍重戦車等すべての母体となり戦後米軍戦車の系譜の始祖となったことのほうがはるかに戦車史上重要な車両である。ちなみに「パーシング」は米軍がはじめて自国戦車に正式につけた愛称であり、これ以前の戦車の愛称は英軍が勝手につけたものである。
開発の経緯
突然の話ですが、アメリカはカネがあります。国力も人材もあります。長砲身の75ミリ砲を装備した戦車をWW2の主力とすべしという方針でM3中戦車、M4中戦車を開発・生産しつつ、その裏でより重装甲かつ大型の歩兵支援戦車(1942年、M6重戦車)を制式化してみたり、チュニジアでドイツ軍が投入した重戦車「ティーガー」対策としてより対戦車戦闘を重視した重戦車(T26重戦車、1944年1月)を試作してみたりする余裕があったのであります。この「対戦車戦闘を重視した重戦車」、これが後のM26パーシングに繋がります。もともとM4中戦車の後継戦車として考えられていた計画をティーガー出現の報によって火力・装甲ともに強化した、実に順当かつ妥当な開発経緯です。何も語ることはありません。
ここまでは。
配備と運用
……が。
これがドイツなら総統閣下大喜び、速攻で最優先量産命令が下ったことでしょう。イギリスやソ連でも問題なく量産開始されたはずです。ところが世界一の金持ち国・アメリカでは、何故かそうはなりませんでした。
理由は2つ。ひとつめの理由は、「対戦車戦闘は戦車ではなく戦車駆逐車が行う」という、大戦初期に策定されたドクトリンがあったためです。ふたつめの理由は、「遭遇する敵戦車のほとんどはⅢ号・Ⅳ号で、M4中戦車で対抗不能な戦車は少数のはず。仮にあっても76.2ミリ砲装備のM4中戦車で充分で、そんな例外的事例のためにわざわざ対戦車戦闘向けの重戦車なんか作れるか」という反対論でした。大量に作って大量に前線に送り込み、大量の戦力と大量の補給資材と大量の人員で相手を押しつぶす。金持ち国ならではの戦争のやり方においては前線における装備はなるべく統一されてるほうが都合がよいのです。これらの理由で米陸軍の装備関連の総元締めである陸軍地上軍管理本部(AGF)は、T26重戦車の配備を拒否し続けました。
しかし、現実はそうはなりませんでした。ドイツ軍の戦車の主力はⅢ号戦車からⅣ号戦車へ、そしてⅤ号戦車パンターへとはっきりと移り変わっており、ノルマンディーから欧州の地を踏んだ米軍戦車兵たちのかなりの人数が、圧倒的に優秀なドイツ戦車の前に無駄に命を落としていったのです。
「M4は最高の戦車で、他の戦車を量産する必要はない」と言い張っていたAGF。それが嘘だったという現実の前に、前線の戦車兵たちも、そしてAGFの主張を真に受けてた連合国軍最高司令官・アイゼンハワーも激怒しましたが、AGFはそれでもなお抵抗を続け、T26重戦車の主砲をM4中戦車の76.2ミリ砲に換装させたものを配備させようとするなど悪あがきを続けました。その間にも前線の兵士たちのドイツ重戦車への恐怖は高まるいっぽうでした。
そして1944年12月。ドイツ軍の大攻勢、「バルジの戦い」が始まります。既に兵士たちの間で高まり放題に高まっていたドイツ重戦車への恐怖は、ここで爆発します。戦いこそ最終的には連合国軍の勝利で幕を閉じたものの、従軍記者たちはこの戦いの初期の混乱ぶりを「ドイツ重戦車軍団の進撃の前になすすべもなく米軍戦車は蹂躙された」と書き立てました。米本土でも軍の無能を批判する声は湧きあがり、その声に押されるかたちでようやくT26重戦車はヨーロッパに「実戦テスト」の名目で配備されることが決まりました。
1945年1月、「実戦テスト」開始。4月、「M26重戦車パーシング」として制式化。5月8日、ドイツ降伏。
既に倒すべきドイツ軍戦車はほとんど見つからず、終戦時に200両ほどが実戦配備されていたM26パーシングのうち実際の戦車戦を経験したのは「実戦テスト」初期に送り込まれた車両だけだったとか。
その頃、地球の裏側……沖縄では、陸軍のM4中戦車と日本軍の歩兵部隊による激しい戦闘が繰り広げられていました。沖縄戦に米軍が持ち込んだM4中戦車は400両弱、そのうち半数が日本の歩兵部隊との戦闘で失われるほどの激しい戦いとなりました。これに驚いた米軍は、欧州で結局使いどころがなかったM26を沖縄戦に投入することを決定しました。
しかし、M26が沖縄に届いた頃には沖縄戦は終了していたのでした。結局、M26パーシングはほとんど何もしないまま1945年8月を迎えることとなったのです。開発も問題なく終了し、前線からも待ち望まれ、いつでも大量生産を開始できる状況にありながら、金持ち国ならではの巨大官僚組織のメンツのために何もできないままに終わったのでした。
(一説では硫黄島の戦いにも投入されたという説もありますが、この説でもあまり活発な運用はなされておらず遠距離からの支援砲撃に徹していたようです)
1950年、朝鮮戦争勃発。M26はようやく戦いの場を得ました。北朝鮮軍が運用するT-34/85に対しては火力と装甲で上回り、戦車戦そのものでは期待通りの戦果をあげています。しかしここで露呈したのがアンダーパワー、エンジン馬力の不足で、山がちな地形の朝鮮半島では重大な問題でした。北朝鮮軍の戦車が尽きてしまうと「M4のほうが役に立つ」とまで酷評されてしまう始末。
米軍戦車としてはあんまりツイてなかったM26ですが、そういうわけで諸外国への販売もほとんど実績は残せませんでした。M26を母体とした戦車群を購入する国へ練習用として少数が渡った程度で、生産された2200両のうちM46に改造された1200両以外はほぼ全てがスクラップとしての末路を迎えました。
ひとつだけ救いがあるとするなら、M26を母体に強力なエンジンと新型ミッションを積んだM46が優秀な戦車として認められたことくらいでしょうか。その末裔はM60系へとつながり、米軍からは退役したもののはるかなる子孫たちは今も世界各地で活躍を続けています。
構造
主砲は高射砲転用の90ミリ砲で、威力としてはティーガー1の88ミリ砲をやや凌ぐ程度のもの。開発当時の米軍戦車が装備していた主砲はM4中戦車の75ミリ砲・76.2ミリ砲であり、後者の対戦車戦における切り札である高速徹甲弾がWW2中はあまり供給されなかったことを踏まえると、米軍における最強の戦車砲と言ってもほぼ間違いはないだろう。
装甲は前面100ミリ、側面75ミリが基本となっており、車体前面はさらに傾斜装甲として装備されることで高い防御力を持っている。単純な装甲においてはシャーマン・ジャンボ(M4を母体にした着膨れデブ重装甲タイプ」には一歩譲るが、WW2後半の戦車としては充分な装甲といえよう。
機動力については評価が芳しくないが、これは搭載エンジンがM4のものをそのまま使っていたことに起因する。重量30トンちょいのM4用の500馬力エンジンを重量40トン越えのM26に用いたことで、路上最高速度こそさほど変わらなかったものの戦車として肝心の不整地機動性が不足してしまい「M4が登れる坂を登れない」という屈辱を味わうこととなってしまった。
概してM26パーシングは「アメリカ版ティーガー1」といった感じの能力を持たされた車両であり、これが戦後米軍戦車の基本形として後の礎となっている。
関連動画
M26パーシングに関するニコニコ動画の動画を紹介してください。
関連商品
関連コミュニティ
関連項目
- 4
- 0pt