vanitas vanitatum, et omnia vanitas単語


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vanitas vanitatum, et omnia vanitasとは、旧約聖書「伝道の書/コヘレトの言葉」1章2節のラテン語表記である。

百科事典としてこの文言を様々な角度から検討するために、大体ざっくり以下の構成でいく。

  1. 文言そのものについて
  2. コヘレトの言葉での文脈について
  3. この文言の諸文化への広まりについて

概要

上記の通り、旧約聖書「伝道の書/コヘレトの言葉」1章2節の言葉の、トリエント公会議で認められた伝ヒエロニムスによる「ウルガタ」版聖書の表記。それで結局なんやねんこの単語となりそうなので、まずは新共同訳で1章2節の全文を見て、日本語の意味を取りたい(2行目がこの語)。

コヘレトは言う。なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。

——新共同訳旧約聖書「コヘレトの言葉」1章2節

ちょっとわかりづらいので、より最新の聖書協会共同訳も併記したい。ただし、新共同訳は正直ネガティブ寄りの意訳に感じたため、聖書協会共同訳はもっと前の口語訳聖書に先祖返りしたかのような、中立的な訳にとどめた、という話らしい。ということで、逆に抽象的になっていたりする(3行目がこの語)。

コヘレトは言う。
空の空
空の空、一切は空である。

——聖書協会共同訳旧約聖書「コヘレトの言葉」1章2節

文言そのものについて

言葉の意味

日本語訳を見たところで、まずはラテン語の意味を見ていく。

vanitasはラテン語の空虚、嘘、偽りなどを指す、第3変化の女性名詞である。発音は以下の2通り(雑に書くとウァーニタースとヴァニタス)があり、今回の場合は聖書の文言なので慣例的に後者とする(本当はaはどちらも長母音ではある)。

1つ目のvanitasは単数主格。2つ目のvanitatumは複数属格。なので最初のvanitas vanitatumは、後ろのvanitatumが前のvanitasにかかり、空虚(カテゴリー)の中の空虚(もの)と解せる。

etは要するにただのandなので、ここで一度文が切れる。続いて、omniaは全部という意味の第2変化の中性名詞の複数主格。最後にまた単数主格のvanitasが来ており、これは英語のbe動詞に当たるコピュラ動詞が省略されてるだけで、要するにA=Bの文。なので、おおよそ、すべてのものは空虚、という意味と解することができる。

参考までに、近世イギリスのドゥアイ・リームズ聖書や、ジェイムズ王訳こと欽定訳聖書版の表記を記す(この個所は標準英語訳聖書でもあんまり変わってないので、特に併記はしない)。

vanity of vanities, and all is vanity

——ドゥアイ・リームズ聖書

vanity of vanities; all is vanity

——欽定訳聖書

ラテン語の表記ゆれについて

ただし、この記事名に使っているバージョンの「ウルガタ」とは、トリエント公会議を受けて、シクストゥス5世を経てクレメンス8世の時代の1592年にできた「シクストゥス・クレメンティーナ版」である。なので、ヒエロニムスのオリジナルそのものではない。

その証拠に、中世の「ウルガタ」の写本では、微妙にバリエーションがある。

表記 出典
vanitas vanitantium omnia vanitas

※近代の『コーデックス・ディプロマティクス・カヴェンシス』ではこちらを採用

vanitas vanitatum et omnia vanitas

※近世の『シクストゥス・クレメンティーナ版』ではこちらにコンマをつけたものを採用

おそらく、上記を見ると、世界史のカロリングルネサンスでおなじみのアルクインあたりが決めたラテン語の表記ルールが踏襲されて、宗教改革の時代に今のものに統一されたように思われる。よって、おそらく古代末期~中世期には「et」を入れるか入れないかの二流派があったと思われる。

このため、例えば日本で簡単に手に入る、ロベルト・ウェーバーとロジャー・グライソンの校訂版では、「et」の無い「vanitas vanitatum omnia vanitas」を本文として記載している(おそらくオリジナルに近いと判断したため)。つまり、おそらくetは、確かにオリジナルのテキストそのものは既に存在しないのだが、ヒエロニムスの頃には存在せず、後から生やされたとみなし得るようだ。

なお、Brespolが収集したウルガタ以外の聖書の写本のDBである『Vetus Latina Database』には、この節の表記が79例ヒットする。例えばかの有名なアウグスティヌスの遺された著作だけ見ても、表記ゆれがすごい。

表記 出典
vanitas vanitatum, et omnia vanitas
vanitas vanitatum et omnia vanitas
vanitas vanitantium, omnia vanitas
vanitas vanitantium et omnia vanitas
vanitas vanitantium, et omnia vanitas

アウグスティヌス以外もあげると、以下のようになる。

表記 出典
vanitas vanitatum et omnia vanitas
  • 4世紀の教父アンブロシウスの表記

ちなみに、20世紀にパウロ6世の命によって再作成された「新ウルガタ」版聖書では、コンマが抜けた程度である。

vanitas vanitatum et omnia vanitas

——新ウルガタ

本来の表記

と言ってきたところで、最大のツッコミどころなのだが、これは旧約聖書の文である。つまり、原文は、ラテン語ではなく聖書ヘブライ語なのだ。

ということで、ヘブライ語で書くと、こうなる。

הֲבֵ֥ל הֲבָלִ֖ים הַכֹּ֥ל הָֽבֶל

——ウェストミンスター・レニングラード写本

הבל הבלים הכל הבל

——アレッポ写本

雑にカタカナ表記をすると「ハベル・ハバリーム・ハ・コール・ハーベル」となる。

さらに、これをコイネーこと聖書ギリシア語で表すと、以下になる(七十人訳聖書は誤訳がどうとかいろいろあるので、あくまでも参考用)。

なお、正直言うと聖書ギリシア語はちゃんとしたテキストの成立が早かったので、シナイ写本、ヴァチカン写本、アレクサンドリア写本の3大写本で書いてあることが大きく違うなどはあんまりない(よく使われるアルフレード・ラールフルスとロベルト・ハンハルトの校訂版では、この節にバリエーションの記載はない)。

ματαιότης ματαιοτήτων, τὰ πάντα ματαιότης

——七十人訳聖書

ματαιοτηϲ ματαιοτητων · τα παντα μανταιοτηϲ

——シナイ写本

ματαιότηϲ ματαιοτήτων τὰ πά-τα ματαιότηϲ

——ヴァチカン写本

七十人訳聖書を雑にカタカナ表記をすると、「マタイオテース・マタイオテートーン・タ・パンタ・マタイオテース」となる。

その他この箇所

古代からある諸教会の訳とされるもの

シリア正教会で使われている、シリア語のいわゆるペシタ訳聖書では以下になる。

ܗܒܠ ܗ̈ܒܠܝܢ ܟܠ ܡܕܡ ܗܒܠܐ

——ペシタ訳聖書

西洋での刊行自体は19世紀だが、アルメニア使徒教会で古代から用いられていたであろう、古典アルメニア語の聖書では以下になる。

Ունայնու(թ)ի(ւն) ունայնութեանց ամ(ենայն) ինչ ընդունայն է

——ゾラーブ版聖書

西洋での刊行自体は20世紀だが、グルジア正教会で古代から用いられていたであろう、古典グルジア語の聖書では以下になる(バカル写本版聖書は文字化けの関係で載せられなかった)。

ამაოებაჲ ამაოთაჲ, ყოველივე ამაო

——オシキ・エルサレム写本版聖書

ამაოება ამაოთა, ყოველივე ამაო

——ムツヘタ写本版聖書

西洋での刊行自体は19世紀だが、コプト正教会で古代から用いられていたであろう、コプト語の聖書では以下になる。

ⲟⲩⲡⲉⲧϣⲟⲩⲉⲓⲧ ⲛⲙⲡⲉⲧϣⲟⲩⲉⲓⲧ ⲡⲉ ϩⲱⲃ ⲛⲓⲙ ⲉⲡⲉⲧϣⲟⲩⲉⲓⲧ ⲡⲉⲧⲛϩⲏⲧⲟⲩ

——ランスロット・チャールズ・リー・ブレントン編纂コプト語版七十人訳聖書

西洋での刊行自体は19世紀だが、エチオピア正教会で古代から用いられていたであろう、ゲエズ語の聖書では以下になる(追跡調査中だが、16世紀の写本とほぼ同じ文言で、文字3つのかたまりがひたすら続くので、多分アムハラ語やティグリニャ語ではなくゲエズ語のはず…)。

ከንቱ ፡ ከንቱ ፡ ኵሉ ፡ ከንቱ ።

——アウグスト・ディルマン編纂ゲエズ語聖書

もうすでに近世以降のテキストだが、ロシア正教会で使われていた、教会スラヴ語の聖書では以下になる。

сꙋе сꙋетьствїа всѧчьскаѧ сѫета

——ゲンナディ聖書

сꙋета сꙋетствїи, всѧческаѧ сꙋета

——オストロク聖書

суета суетствий, всяческая суета

——エリザヴェータ聖書

中世~近世期の展開

プロテスタント圏等も含めた、中世から近世にかけての訳(ほぼ現代語ではない)も上げておく。

vanite of vanytes, and alle þingus vanyte

——ウィクリフ聖書:英語

es ist alles ganz eitel

——ルター訳聖書:ドイツ語

það er allt saman fánýtur hégómi

——グズブランド聖書:アイスランド語

باطل الاباطيل الكل باطل

ーーファン・ダイク版聖書:アラビア語

vanità delle vanità; ogni cosa è vanità

——ディオダーティ版聖書:イタリア語

ijdelheid der ijdelheden, het is al ijdelheid

——国訳聖書:オランダ語

alt är icke annat än fåfängelighet

——カール12世聖書:スウェーデン語

marnost nad marnostmi, [a] všecko marnost

——クラリッス聖書:チェコ語

vanidad de vanidades, todo vanidad

——レイナ・ヴァレラ版聖書:スペイン語

Det er altsammen idel forfengelighed

——クリスチャン3世聖書:デンマーク語

felette nagy hiábavalóság! Minden hiábavalóság!

——ヴィジョイ聖書:ハンガリー語

se on suuri turhuus, ja kaikki mitä on, se on turhuus

——1776年聖書:フィンランド語

vanité des vanités, tout est vanité

——ルイ・スゴン訳聖書:フランス語

vaidade de vaidades! É tudo vaidade

——アルメイダ版聖書:ポルトガル語

marność nad marnościami, i wszystko marność

——ヤクブ・ヴイェク版聖書:ポーランド語

deşărtarea deşărtărilor toate-s deşărtare!

——ブカレスト聖書:ルーマニア語

суета сует, --всё суета!

——シノド聖書:ロシア語

空之又空、虛之又虛

——宣教師会議版旧約全書:中国語

空の空なる哉 都て空なり

——明治元訳旧約聖書:日本語

コヘレトの言葉での文脈について

この言葉の文脈

それで、全てが虚しいのがこの伝道の書全体にどう関わるのかという話に移りたい。

この伝道の書を述べたコヘレトとは、人名ではなく、伝道者を指す名詞である(なお、女性名詞なのが、伝統的な解釈で余計混乱を巻き起こしていた)。このコヘレトが誰かについては、冒頭で自分をダビデの子と称しており、素直に読めばソロモン王しかいない。のだが、文章が明らかにエピクロス学派の哲学などを受けており、成立は紀元前3世紀まで遡る程度とされる。ので、はっきり言ってソロモン王を騙ったそこそこ後世の存在ということである。

ただし、少なくとも、『死海文書』には4Q109 Qoheleta、4Q110 Qoheletbの2つの伝道の書の断片のかたまりが残っている(前者が5章14-18節、6章1節、3章8節、12節、7章1-10、19、20節で、後者が1章10-14節なので、この文言自体はない)。このため、キリストが生まれる前くらいにはこの書が確実に存在したのは確からしい。

このコヘレトの言葉は、旧約聖書のうち知恵文学に属するものとなっている。筆者はソロモン王であるかのように、以下のようなことをメッセージとして発する。努力は無意味、人生は虚無、世界は不条理なものである。世界がそうなので人間は世界に執着すべきではなく、かと言って世界から逃避すべきでもなく、神を畏れつつ適度に慎ましく生きることが本分である。

ということで、色々考えた末に、程々に現世を過ごそうぜ!というものである。なので、明らかに色々影響を受けて書かれたものなのだが、一義的に要約するのは難しい。正直、一般的な説法レベルでは、こんな感じのふわっとした理解でも大丈夫だと思う。しかし、結局このかつてはソロモン王とされてきた筆者が言いたいこと何か問題は、この「コヘレトの言葉」が愛されてきたのと比例するかのように、正直なところずっと多くの人間を悩ませてきた。

とはいえ、この文言が、冒頭で叩きつけるかのように、全部が空!と突きつける文言なこともあり、極めて有名な一節となっている。

実際、実はこの文言はこの伝道の書の最後である、12章8節で、もう1回念押しのように作者が述べる。要するに、冒頭で一度発言したことをもう1度最後に繰り返す、挟み込みの構造になっているのである。このため、この自称ソロモン王の作者にとっては、結構このことを特に伝えておきたかったのだろう。

当然こんな文言なので、すべてのキリスト教徒が折り合いをつけてきたわけではない。かの有名なトマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』という注釈書では、「神を愛し、神だけに仕えることを除いて」と余計に付け加えている。

【※飛ばしていいよ】
 込み入った神学方面への回り道
 【解釈が雑ー!?という人向け】

「空の空」という古典的な和訳から、日本でも「色即是空」などの仏教思想との連想などもあって割と親しまれてきたような気がするこの『伝道の書/コヘレトの言葉』。とりあえずこの書は、『ヨブ記』とともに後期知恵文学とされ、『ルツ記』、『雅歌』、『哀歌』、『エステル記』と合わせてユダヤ教では「メギロート」として扱われている。のだが、上記『七十人訳聖書(※聖書ギリシア語)』の段階で、「コヘレト」を「Ἐκκλησιαστής」、すなわち「集会者」と翻訳した。そして、キリスト教ではソロモン王の記したものとして『蔵言』と『雅歌』の間に配置したというわけである。

が、上に書いた通り、この「vanitas vanitatum, et omnia vanitas」に代表される、簡単に言うとそこそこ当時としてはやべー思想と、伝統的な「神を畏れなさい」めいた思想がまぜこぜになっている。このため、要するに全体的に何が言いたいのか一貫性がよくわからん書として、1980年代くらいまでは思われてきた。

とはいえ、1990年代ごろから、編集者の手がある程度入っているとはいえ(この辺は、1人称の発言と3人称の発言が混ざっているなどの問題があり、例えばこの「vanitas vanitatum, et omnia vanitas」はコヘレトがこんなこと言ったという書き方なのだが、本筋では普通に1人称でべらべら喋る)、この本は意図的に統一的なことを書いた書物ではないか?という話になる。

まず、「本」はあるので書いた「誰か」はいるのだろうという話において、適当に言葉を繋げただけなのか、ちゃんと特定個人が「本」として書いたものなのかという問題がある。これに対し、大部分は「本」として書いたんじゃないかなぁ?という見解が共有された大前提となったということである。

解釈として、「宗教批判」の本だとしたノルベルト・ノーフィンク、ヘレニズムの修辞学の構成に則っているとしたルージャー・シュビーンホルスト=シェーンベルガーやフランツ・ジョセフ・バックハウスらドイツ語圏の解釈、省察を行う前半と倫理を展開するチョン・レオン・シアウを中心とした英語圏の解釈の3タイプある。ただしどの立場であれ、このよくわからん本はちゃんと一体性のある本だとおおむねみなされつつあるのである。

しかし、もう一個の問題として、このコヘレトことソロモン王っぽい雰囲気を醸し出している作者は、悲観論者なのか、楽観論者なのかよくわからん。

前者に関しては、このラテン語訳にある「vanitas」にあたる、ヘブライ語の「הֶבֶל」を『旧約聖書』全体でも過半数の用例と言っていい38回も使っているようなことなどが典拠となる。つまり、これは明らかに『旧約聖書』から浮いているので、そもそもこのコヘレト自身が聖書に入るとは思っていなさそうという話にもなる。後者については、ユダヤ教などの伝統ではなく、オリエント世界やギリシア世界などの視点から見ていくものなのだが、こちらはやや少数派な解釈となっている。

この問題に関しては、コヘレトを名乗る著者が、この本で誰と戦いたかったのかというアプローチが主に行われている。ただし、その相手というのは研究者によって分かれている。「伝統的な知恵」、「ヘレニズム哲学」、『ダニエル書』などを筆頭にした「黙示思想」など様々なのだ。はっきり言ってロジックは一貫しているのだが、それを使って何を伝えたかったのかは、まだよくわからないのが、現在の研究トレンドだったりする。

ということなので、実のところ、この自称ソロモン王が一番言いたかったことは、「はあ…世界つら…」なのか、「人生がつらいと思っているおまえらに、これから俺が克服するためのいいことを教えてやろう!俺の言葉を聞けえ!」なのか。はっきり言おう。誰もわかってない。

なので、ここを開いた人間にこのオチなのは非常に心苦しいのだが、まあ…そのなんだ…とりあえずこの記事を読んだことで、明日いいことあるよ、多分。

コヘレトの言葉の受容史・研究史

だいたい雑な理解で行くと、以下のようである。

時代 動向
紀元前 旧約聖書の中ではかなり最後の方に成立した。しかし『死海文書』や旧約聖書外典時点ですでに聖書扱いされてはいるので、何かしら理由があってすぐに地位を確立した
古代 他の聖書の教えとはかなり異なるので、読む人間としてはいまいち釈然としない。が、聖書に括られるからには聖なる教えの本であるのだろうとする葛藤
90年代 とりあえずヤムニア会議で、ユダヤ教で正典になったとされる
553年 とりあえずコンスタンティノープル公会議で、キリスト教で正典になったとされる
古代~中世 ユダヤ教徒内でのヒレル派とシャンマイ派の対立に象徴される、次の論争があったとされる
  • 確かにソロモン王の書いた本ではあるらしいし、何かしら理由があって正典に入ったのだろうけども、なんでこれが正典になっているか
近世初期 マルティン・ルターなどがソロモン王の著作であることを否定した。ただし、要するにこの本はこの世はむなしいのだから、みんな天上のことに関心を持とうぜ!と言っているのだろうとした、宗教改革者たちの主張
19世紀くらいまで 学術的な聖書の研究史において、おおよそソロモン王を名乗る単一の著者が、心の中でああでもないこうでもないと思考が揺れ動いている様子を書いたとする、伝統的な見解
19世紀末から1910年代くらいまで コヘレトの言葉は、複数の著者の手によるものだとした議論
※ただし、20世紀中ごろの解説書ではすでに過去の世代の手によるものとすら回顧されている
1920年代~40年代くらいまで 以下の言語学的論争

※ただし、20世紀中ごろの解説書ではすでに結局いろいろ論じたけど今一つ証拠がないというオチをつけている
1950年代~80年代くらい 色々あって、まあほとんど一人の著者の手によるものではあるのだろうという前提を共有。しかし、きちんと統一性のある首尾一貫とした本なのか、結局ばらばらの言葉のまとめなのかという両極端な主張と、その中間派への分極化
1990年代~2000年代 現代的にこう読もうぜという動きと、コヘレト書全体に統一性があるという前提に基づく、『コヘレトの書』解説書の乱立

【※飛ばしていいよ】
 もうちょっと詳しく追いたいなあ…的な人向け

時期 人物 内容 出典
紀元前2世紀半ば 死海文書 コヘレトの言葉はこの時点でもう正典扱いされてた
紀元前190年頃 ベン・シラ 特に断りなく引用しており、すでにコヘレトの言葉は正典扱いされている 『シラ書』
紀元前1世紀 シメオン・ベン・シェタ コヘレトの言葉を聖句引用の形式で引用する
紀元前1世紀 サンヘドリンのババ・ベン・ブッタ コヘレトの言葉を聖句引用の形式で引用する
1世紀ごろ ラビ・ベン・アッサイ・シメオン コヘレトの言葉は聖なる本だが、かつてシャンマイ派とヒレル派の間で論争があったと主張 ミシュナー『ヤダイム』
1世紀ごろ フラヴィウス・ヨセフス コヘレトの言葉は正しい信用を得ている正典の一つ 『アピオンへの反論』
1世紀ごろ 旧約聖書外典 コヘレトの言葉は正典の一つ 『第4エズラ記』
4世紀 ニュッサのグレゴリオス このソロモンはソロモン王とは異なる別のソロモンである
4世紀 盲目のディディムス この本は複数著者の手によるものではないか?
4世紀 ヒエロニムス この世のことは皆棄て去るように勇気づけるために使える
4世紀 モプスエスティアのテオドロス コヘレトの言葉は他の聖書の部分より劣っている
5世紀 アウグスティヌス コヘレトの言葉を引用している 『神の国』
5世紀頃 ラビ・イェフダー・ベン・ラビ・サムエル・シラト 聖書にコヘレトの言葉を加えることに異議がある ミシュナー『シャバット』
中世前期 雅歌、蔵言、コヘレトの言葉はソロモン王の生涯に沿って書かれたので、同一著者であるのに文体から何まで異なっている 『コヘレト・ラッバー』
10世紀 ソロモン・ベン・ジェロハム コヘレトが女性名なのは、女性が子供を産み育てるかのように知恵を明らかにし系統立てたから。 『コヘレトの言葉注釈』
10世紀 イェフト・ベン・アリ コヘレトは自分の活動を知恵に帰し、知恵とは女性名詞なので女性名を名乗った
1230年頃 サミュエル・イブン・ティボン 冒頭の1章は、枠物語における枠を提示する話者の言葉で、さらに言えば末尾も後で加筆されている。
13世紀 イザヤ・ディ・トラーニ コヘレトは女性のように弱った老年期にこれを書き、それゆえコヘレトという女性的な名前をつけた 『コヘレトの言葉注釈』
13世紀後半 トマス・アクィナス コヘレトの言葉のうち、愚か者の数は無限大であるを、要約に使っている 『神学大全』
13~14世紀 ニコラス・デ・リラ この世の空しさを示すことによって、人々の心を天上の事柄へと引き上げることが目的だ
15世紀 トマス・ア・ケンピス 地上のすべてを軽蔑し、ただ天にあるものだけを欲しがるようにという手招き
1525年 マルティン・ルター コヘレトの言葉は自由意志の否定 『奴隷意思論』
16世紀 フィリップ・メランヒトン コヘレトの言葉は神の摂理というメッセージ
16世紀 ヨハネス・ブレンツ コヘレトの言葉は正当化のメッセージ
1644年 フーゴー・グローティウス 後世のダニエル書やエズラ記にしか見られないヘブライ語の単語がみられ、ソロモン王の著書とは考えられない 『旧約聖書注解』
1764年 ヴォルテール コヘレトは、エピクロス派の哲学者めいたもので、壮大さの物語にうんざりし、快楽にうんざりし、科学にもうんざりしている 『哲学辞典』
19世紀 ハイム・ヨセフ・ダビド・アジサイ コヘレトの言葉が言った通り、すべては空である
1875年 フランツ・デリッチュ この本のヘブライ語はディアスポラ以後のもので、ソロモン王のころのものではない 『雅歌と伝道の書』
1898年 カール・グスタフ・アドルフ・ジークフリード この本は9人の手によるものである 『伝道の書と雅歌』
1904年 アラン・ユーグ・マクニール vanitas vanitatumの部分は編集上の加筆で、そのほかにもある賢者やある敬虔なユダヤ人に書き加えられた箇所がいくつかある 『伝道の書への導入』
1905年 ポール・ハウプト コヘレトの言葉の半分は本来あったものではない 『伝道者の書』
1908年 ジョージ・アーロン・バートン 敬虔なものと知恵の編集者による細工の跡と、最終編集者も存在する 『伝道の書』
1912年 エマニュエル・ポデシャール コヘレトの言葉は4分の3はコヘレトによるものだが、どんどんそこからつぎ足しされている 『伝道の書の本の構成』
1915年 内村鑑三 神を離れて人生に真の幸福の無き事を教えるに於いて天下唯一の書 『伝道之書 研究と解釈』
1923年 デイビッド・サミュエル・マルゴリウース コヘレトの言葉のヘブライ語は、域外ヘブライ語ほど後代のものではない 『ユダヤ辞典』
1925年 ハリー・ランストン コヘレトの言葉は、テオグニスとヘシオドスからの影響がみられる 『伝道の書と初期ギリシャ知恵文学』
1943年 小池辰雄 ユダヤ教の伝統的思想に懐疑的になり、煩悶した結果がこの本である 『旧約聖書略解』
1945年 フランク・ツィンマーマン コヘレトの言葉の原文はヘブライ語ではなくアラム語原典からの翻訳 『コヘレトの言葉のアラム的来歴』
1946年 ヘンリー・ウィーラー・ロビンソン この書はまさしく墓の匂いがしている 『旧約聖書における霊感と啓示』
1949年 関根正雄 コヘレトは、ユダヤ教とギリシア思想のはざまで格闘している 『旧約聖書』
1950年 アーレ・ラウハ

目的は二つ

  1. 世俗主義による人生の概念が、絶望的であり批評に耐え得ないものであることを明らかにすること
  2. それによって、神の生けるリアリティを明らかにし、信仰には個人的闘いが欠くことができないものであることを間接的に宣言すること
『旧約聖書の補注』
1952年 ヴィクトール・エマニュエル・ライヒェルト この本の敬虔と懐疑主義の並立は、祭典などを通してユダヤ人に健全さのバランスをとる役割を果たした アブラハム・コーエン編『5つのメギロート』より
1952年 ミッチェル・ダフッド コヘレトの言葉はフェニキア語の正字法で書かれている 『コヘレトの言葉へのカナン語・フェニキア語の影響』
1955年 ロバート・ゴーディス 喜びをたたえ、分を楽しむように人々を励ます書 『コヘレト:人とその世界』
1956年 矢内原忠雄 コヘレトは、すべては空だから、快楽に生きるか造物主を信じるかの二択を迫っている 『伝道之書講義』
1960年 フレデリック・L・モリアーティ コヘレトが懐疑論者でありことは言うまでもない 『旧約聖書の紹介』
1961年 クルト・キュール コヘレトは、旧約聖書の敬虔からかけ離れた陰鬱な亜流キリスト教のような態度だが、彼の神はそもそもイスラエルの神ではなく、人が神を恐れるためにあらゆる矛盾や精神的緊張をもたらす神なのである 『旧約聖書の起源と世界主義』
1963年 ハンス・ヴィルヘルム・ヘルツバーグ 旧約聖書が成果を上げず終わろうとした象徴こそがコヘレトの空の思想であり、新約聖書がそれを引き継ぐという、引き立て役とも予告ともいえる本である 『コヘレトの言葉注解』
1963年 ドミニク・バルテレミー 七十人訳聖書のコヘレトの言葉の翻訳は、実は2世紀のシノペのアクウィラの手による訳である 『アクウィラの先人たち』
1964年 オズワルド・ローレッツ コヘレトの言葉は、成立後まもなく知恵文学としての地位を確立し、それ故に正典に属している本というところは後世疑われることもあまりなかった 『神の言葉と人間的な経験:ヨナ書、ルツ記、雅歌、コヘレトの解釈』
1965年 ロバート・バルガーニー・ヤング・スコット 聖書の中で最も奇妙な文書 『蔵言、伝道の書』
1970年 ゲルハルト・フォン・ラート コヘレトの言葉は古代エジプトなどに見られる王の遺言的なジャンルである 『イスラエルの叡智』
1972年 山内六郎 人々をよりよい生活に教導するために、時代の気休め的な正統主義を離れ、新しいものを目指した人間的な本 『信徒のための聖書講解』13巻
1974年 ワルター・ツィンマリ コヘレトの言葉は箴言を集めたものではなく、きちんとドラマツルギーがある 『コヘレトの言葉―文のかたまり、あるいはコレクション?』
1975年
(邦訳1981年)
ウェスリー・J・フェアースト 人間は人生を楽しむことができるが、そのことが世界の空しさを軽減したり、未来の不安を軽減したり、また死の終局性を弱化したりすることはないことを、打って出る本 『ケンブリッジ旧約聖書注解』11巻
1977年 マイケル・V・フォックス コヘレトの言葉はすべて一人の手によるもので、単一の「物語」として成立するものである 『コヘレトの言葉における枠物語と構成』
1980年 ノルベルト・ノーフィンク コヘレトの言葉には構造化できる構成がきちんとあるし、宗教批判を目的としているマニフェストである 『コヘレトの言葉』
1981年 フランシスコ会聖書研究所 ある程度の論理のつながりと調和がみられる、一人の著者による知恵を教える本 『原文校訂によるコヘレト(伝道の書)・雅歌』
1981年 メリル・フレデリック・アンガー

以下の3点で難解な本

  1. 絶望感に満ちている
  2. 賛美や心の平安がみられない
  3. キリスト教的常識に反すると思えるようなところがある
『アンガーの旧約聖書注解』
1983年
(邦訳2004年)
マイケル・A・イートン 寛容な神への信仰による人生とは正反対の人生の不気味さを指摘することによって、信仰の人生を擁護する弁証論的エッセー 『ティンデル聖書注解』
1984年
(邦訳1994年)
ジェイムズ・アルフレッド・ローデル これまで人々を悩ませてきたコヘレトの言葉内の数々の矛盾は、緊張関係の解消をもくろんだテキストではなく、対句を多用した詩ともいうべきジャンルだからである 『TETコンパクト聖書注解』
1985年 中沢洽樹 「人生とは要するに労苦の連続で、いっさいは空である」という虚無感の中で、神を認めつつも創造世界の意味をついに悟りえなかった旧約聖書の限界を示す書 『「空の空」―知の敗北』
1986年
(邦訳1996年)
ロバート・デヴィドソン この本は聖書の中でもとりわけ「文学」であり、聖書の魅力を増す存在として、「文学」全体を味わう読みをしなければならない 『デイリー・スタディー・バイブル』16巻
1986年 いのちのことば社 徹底して人間の知恵を、人間の観点から探求した本 『ソロモンの人生論:伝道者の書』
1988年 熊谷徹 神なき人生はむなしい、神否定の人生は空の空なので、「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」という人生の目的を探す本 「新聖書講解説」シリーズ旧約13巻
1989年
(邦訳2013年)
ロジャー・ノーマン・ワイブレイ
  1. 別に成立したvanitas vanitatumの部分ときちんと一人が書いたそれ以外の本文の配列のみ、編集者の手によるもの
  2. コヘレトは様々な格言や意見をそれぞれある程度は真実であると認めつつ、それぞれを対比させてその一定程度真実である格言同士に緊張関係が絶えず生じ続けることを見出し、そんななかでも信仰を保つ方法を教えている
『ニューセンチュリー聖書注解』
1991年 ハンス・ウルス・フォン・バルタサル コヘレトは、そのような言葉が生まれる前に存在した批判的超越主義者であり、彼の神は世界から遠く隔たれ、彼にとってのカイロス、すなわち時はそれ自体が意味のないものである 『主の栄光』
1992年 ローランド・エドムント・マーフィー コヘレトの言葉を何とか解釈しようとするこれまでの努力こそが、コヘレトの言っている無意味なものの一つの例に追加できる 『伝道の書』
1994年 関根清三 コヘレトは、ニーチェやハイデガーに近しいニヒリスト 『旧約における超越と象徴』
1994年 アントニオ・ボノラ この本は、人間が神と違って死が存在する有限性を認めるための本 『旧約聖書の霊性に関するガイド コヘレトの言葉』
1995年 藤田英夫 若い人に対し、「若いときこそ自分の分をわきまえ、与えられたことで満足することを学びなさい。それが神の意志にそうことなのだ」という、老人の忠告 『大森講座』10巻
1997年 チョン・レオン・シアウ これは古代オリエントの碑文に由来する、遺言ともいうべき自伝である 『コヘレトの言葉』
1997年 ルージャー・シュビーンホルスト=シェーンベルガー コヘレトの言葉はヘレニズム時代のダイアトライブという形式の構造に近しい構成となっている 『コヘレトの言葉:研究の現状と展望』
1997年 フランク・ローター・ホスフェルト コヘレトの言葉は、神との関係を維持しつつも、分をわきまえた距離感を保つことを勧めている 『コヘレトの言葉の神学的関連性』
1998年 トレンペル・ロングマン
  1. たとえ「架空の」という但し書きがつくかどうかは別としても、自伝という書き方そのものがコヘレトの生きた時代特有の文化的背景を映し出している
  2. コヘレトは、全力で伝統的知恵と戦ったが、解決できなかった引き立て役に過ぎない
『コヘレトの言葉』
1998年 勝村弘也 ヨブ記と同じく伝統的な知恵に戦いを挑んでいるが、ヨブとは異なり神への信頼がコヘレトにはない 岩波書店『旧約聖書』解説
2000年
(邦訳2003年)
ウィリアム・Pブラウン
  1. コヘレトの言葉は、徹頭徹尾イスラエルの伝統の延長線上にあり、確かにコヘレト自身の思想と、編集者の思想が区別されるが、その双方が「生涯続くあちこち行ったり来たりする知恵の探求」めいた、完成された文学作品を作り出している
  2. コヘレトの思索は、ヤコブやパウロといった新約聖書の時代の人々にも、きちんと引き継がれている
『現代聖書注解』
2000年 トーマス・クリューガー
  1. コヘレトの言葉は、比較的歴史の浅い若い知恵ではなく、伝統的な知恵を役に立つものとしている
  2. ただし、それらは個人の経験をあまり重んじていなかったので、確実な成功をもたらすほどではないとしつつも、アップデートすることで現代に通用するものにしようとしている
  3. 宗教的実践において、批判的に参加し続けることに意義がある
『コヘレトの言葉』
2002年 鎌野直人 コヘレト書は一貫して教育的な意図で書かれている 『コスモロジーとキャラクター:修辞学的で批判的観点から見たコヘレトのペダゴギー』
2004年 ヨハネ・パウロ2世 コヘレトは、古代の賢人で、この世のものにしがみつくことを無意味にする 演説
2012年 西村俊昭 コヘレトの思想構造は、ダニエル書と対照的である 『「コーヘレトの言葉」注解』
2012年 カイル・R・グリーンウッド コヘレトの言葉は、異なる役割を与えられた声同士の対話として読むべきジャンルである 『議論する知恵:伝道の書における声の役割』
2013年 上村静 コヘレトの思想は徹底して此岸的であり、現世肯定である 『キリスト教の自己批判』
2020年 小友聡 彼岸に価値を見出し現世を否定的に見ようとするという、ダニエル書的な黙示的な世界観に対立して、現実肯定を語る本 『VTJ旧約聖書注解』

この文言の諸文化への広まりについて

西洋文化とヴァニタス

ヴァニタスという語は、当然ラテン語なので、ラテン語文化圏に語として広まっていった。

このような単語なので、西洋文化とヴァニタスは特に切り離せないものとなっている。

その最たる例が、近世のバロック期におけるヴァニタス絵画である。このジャンルはオランダなどの北西部低地で主に流行った。端的に言うと髑髏や腐りゆく静物などを描き、見るものに人生の虚しさなどを突きつけるものである。

このジャンルが興隆した経緯は、ルネサンスを経て人物画には革新がもたらされたものの、静物画に関してはどのように寓意などを盛り込むか模索していたベクトルの一つであったとされている。しかし、実際のところそれぞれの画家がどの程度意味を持ち込んでいたかは、やはり見解が分かれている。

以下、代表的なヴァニタス絵画の一覧。

人名 生没年など タイトル
ハンス・ホルバイン(子) 1497/8~1543 大使たち
ヤン・サンデルス・ファン・ヘメッセン ?~1567 ヴァニタス
バルトロメウス・スプランヘル 1546~1611 天使とヴァニタス
ヤコブ・デ・ゲイン2世 ?~1629 ヴァニタス
クララ・ペーテルス 1594~? ヴァニタス
ピーテル・クラース ?~1660 ヴァニタス、静物画など多数
ウィレム・クラースゾーン・ヘーダ 1593/4~1680/2 ヴァニタス、カキと静物画など多数
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール 1593~1652 懺悔するマグダラのマリア
セバスティアン・ストッスコップフ 1597~1657 大いなるヴァニタス
フィリップ・ド・シャンパーニュ 1602~1674 ヴァニタス
ヤン・ヤンス・トレック 1606~1652 ヴァニタス
N.L.ペスキエ ?~? ヴァニタス
ヤン・ダーフィッツゾーン・デ・ヘーム 1606~1684 ヴァニタス
ウィレム・デ・ポルター 1608~1668 ヴァニタス
ユディト・レイストル 1609~1660 ラスト・ドロップ
ヤン・ミーンセ・モレナール 1610~1668 虚栄心の寓意
アントニオ・デ・ペレーダ 1611~1678 虚栄心の寓意
ハルメン・ステーンウェイク 1612~1656 ヴァニタス
シモン・ルナール・ド・サン・アンドレ 1613/4~1677 虚栄心の寓意
ヘラルト・ドウ 1613~1675 ヴァニタス
ピーテル・ステーンウェイク ?~1666 ヴァニタス
サルヴァトル・ローザ 1615~1673 ヴァニタス
ピエルフランチェスコ・チッタディーニ 1616~1681 17世紀のイタリアの学校
ピーテル・ボエル 1622~1674 世界の虚栄心の寓意
フアン・デ・バルデス・レアル 1622~1690 栄光の終焉、束の間の命など多数
ホリス・ファン・ソン 1623~1667 ‏人生の寓意‎
カルスティアン・ルイクス 1623~? ヴァニタス
マリア・ファン・オーステルウィック 1630~1693 ヴァニタス
ゲオルグ・ハインツ 1630~1700 驚異の部屋
ジョアンネス・デ・コルドゥア ?~1702 胸像とヴァニタス
ジュゼッペ・レッコ 1634~1695 ヴァニタス
ヤン・ファン・デア・ハイデン 1637~1712 ヴァニタス
アブラハム・ミグノン 1640~1679 ヴァニタス
エドワールト・コリール 1642~1708 王冠を被った骸骨とヴァニタス
ポール・セザンヌ 1839~1906 頭蓋骨のある静物画
フィンセント・ファン・ゴッホ 1853~1890 火の付いたタバコをくわえた骸骨
以下現代人
オットー・ディクス 1891~1969 戦争
ヨーゼフ・ボイス 1921~1986 私はアメリカが好き、アメリカは私が好き
アンディ・ウォーホル 1928~1987 骸骨
ロマン・オパウカ 1931~2011 番号付き自画像シリーズ
マリーナ・アブラモヴィッチ 1946~ 骸骨のあるヌード
ヤン・ファーブル 1958~ (本当に色々あるので特に記載せず)
ジャック&ディノ・チャップマン兄弟 1962~(兄)
1966~(弟)
セックスⅢ
フィリップ・パスクア 1965~ 頭蓋骨の彫刻
ダミアン・ハースト 1965~ 神の愛のために
アンヌ・ド・カルブッチャ 1968~ 一つの惑星、一つの未来
アレクサンドル・ド・カドネ 1974~ 頭蓋骨の肖像画
マティアス・ローレンツ・グレフ 1984~ メメント・モリ

この句と文学・音楽

当然こんな句なので、近世以降になっても文学や詩歌などに引用されている。というか、後述の通りゲーテの引用のせいで、19世紀になってから急に「はー、ばにたすばにたす」などと言う存在が増えている。

以下、この句に関する引用などを行った作家や詩人を列挙する。が、ここに挙げたレベルの引用程ではないものの、ルドヴィーコ・アリオストの『狂えるオルランド』やジョバンニ・ボッカチオの『デカメロン』といったルネサンス以降の文学にもそれっぽいテーマがみられる指摘もある。

人名 生没年など タイトル
フランチェスコ・ペトラルカ 1304~1374 Vanitas vanitatum et omnia vanitas
アンドレアス・グリューフィウス 1616~1664 Es ist alles eitel
Vanitas! Vanitatum Vanitas!
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ 1749~1832 Vanitas! Vanitatum Vanitas!
ケルセイ・フェレンツ 1790~1838 Vanitatum vanitas, "Itt az íras, olvassatok, erett eszel, jozanon … "
アレクサンドル・デュマ 1802~1870 三銃士
ウィリアム・メイクピース・サッカレー 1811~1863 虚栄の市
テオドール・フォンターネ 1819~1898 Der Stechlin
Vanitas Vanitatum
クリスティーナ・ロセッティ 1830~1894 One Certainty
オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン 1838~1889 未来のイヴ(ヘブライ語版が名前の由来の、登場人物が存在)
ウォルター・ペイター 1839~1894 宮廷画家の花形
ウィリアム・アーネスト・ヘンリ 1849~1903 Double Ballade of the Nothingness of Things
ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ 1849~1912 ダマスカスへ
アルチュール・ランボー 1854~1891 地獄の季節
ジョージ・バーナード=ショー 1856~1950 人と超人
アントン・チェーホフ 1860~1904 Темпераменты
マックス・ハルベ 1865~1944 青春
ポール・クローデル 1868~1955 詩人と香炉
ロベルト・ムージル 1880~1942 徳性のない男(ゲーテの詩を皮肉る文脈)
アンドレイ・モーロワ 1885~1967 ベルナール・ケネー
モーリス・デコブラ 1885~1973 地獄輪舞
生田春月 1892~1930 一詩人の言葉
イスラエル・ジョシュア・シンガー 1893~1944 ‏די ברידער אַשכּנזי‎
高見順 1907~1965 天の笛
アルカジイ・ストルガツキー 1925~1991 Понедельник начинается в субботу
ボリス・ストルガツキー 1933~2012
ルーサー・ブリセット(仮名) 不明(右の著作自体は1999年発表) Q

例えば、アルチュール・ランボーは、『地獄の季節』で原文を引用せず、『今のコヘレトの言葉は「空しいものなんてない、科学へ進め」なんて言ってる』などと、知ってて当然みたいなスタンスである。

また、ゲオルグ・ビュッヒマン(1822~1884)の「翼のある言葉」シリーズなどを筆頭に、名言としてもしきりに引用されている。

加えて、西欧圏では音楽でも引用されている(ただし明らかにグリューフィウスやゲーテの詩を歌にしたものもあるがちゃんと調べられてないので分けない)。

Naxos Music Libraryで試しに検索してみると数十件見つかるが、その中でも最も有名なのはロベルト・シューマンの作品番号102番「民謡風の5つの小品」の第1曲「フモールを持って」の副題である。

他にとりあえず見つけたものを、時代順に並べると、こうなる。

人名 生没年など タイトル
作者不詳 中世フィンランドの教会音楽 Vanitatum vanitas
作者不詳 中世チェコの歌曲 Vanitas vanitatum
クラウディオ・メールロ 1533~1604 Sapientia aedificavit. Coeli enarrant. Vanitas vanitatum. Intium sapientiae. Versetto 5
ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンク 1562~1621 作品番号199番、200番「Vanitas vanitatum, et omnia vanitas」(※どちらも同名)
ジャコモ・カリッシミ 1605~1674 2声のモテット「Vanitas vanitatum」
カスパー・フェルスター 1616~1673 Vanitas vanitatum
クリストフォロ・カレザーナ 1640~1709 Vanitas vanitatum
ルイ・シュポア 1784~1859 作品番号41番「6つの歌」第6曲「Vanitas! Vanitatum vanitas」
カール・レーヴェ 1796~1869 作品番号4番「ヘブライの歌」第4曲「Alles ist eitel, spricht der Prediger」
ラディスラフ・ヴィスパーレク 1882~1969 作品番号24番「チェコ・レクイエム 「死と贖い」」第一部
エルンスト・トッホ 1887~1964 作品番号79番「Vanity of vanities」
ヴィルヘルム・キルマイヤー 1927~2017 5つのロマンス「Vanitas Vanitatum」
エイノユハニ・ラウタヴァーラ 1928~2016 「人生の書」第4曲「Vanitas! Vanitatum vanitas (Turhuuksien turhuus)」
スヴェン=ダーヴィド・サンドストレム 1942~2019 3つの小品第1番「Och ater tomhet (Vanity of Vanities)」
リチャード・バーレット 1959~ Vanity
ダン・フォレスト 1978~ 「生ける者のためのレクイエム」第2部「Vanitas vanitatum」

また、当然ポップカルチャーでもこの句を題材にした楽曲はあり、とりあえず適当に調べた中ではフォークシンガーのアンジェロ・ブランドゥアルディ、グルーヴ・メタル・トリオ「Devine Era」やブルータル・ブラックメタル・バンド「MARDUK」、エクストリーム・メタル・バンド「Anaal Nathrakh」などが曲名につけている。

この句と近代以降の思想界

あまりにも西洋人にとっても有名だったので、非文学畑でも、とりあえず引用したりひっかけたりする文言として、この句も使われているのをたまに見ることがある。ただし、確かにどちらかというと、イエズス会士であったフェリックス・ソワニョン、ペドロ・アルペなどの完全に宗教家だったり、ルドルフ・オットーといった宗教学者だったりが使いがちであるが、実はそれにとどまらない。

例えば18世紀人としては、歴史家のエドワード・ギボンが『ローマ帝国建国史』の第3巻41章で、以下のシチュエーションで用いている。ギボンによると、ベリサリウスに討伐されて捕虜として534年秋にコンスタンティノープルに連れてこられたヴァンダル王ゲリメルが、ユスティニアヌス夫妻の前でソロモンの言葉の引用として"VANITY! VANITY! ALL IS VANITY!"と言ったらしい(ギボン自身の出典は不明で、そもそも本当に言ったかは不明)。

19世紀人としては、歴史学者のヤーコプ・ブルクハルトやマックス・シュティルナーといった事例が見つかる。他にもよく引用されるものとして、カール・マルクスがフリードリヒ・エンゲルスに1854年10月20日に送った手紙に、フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンを馬鹿にする枕詞にこの文言を使っていたりする。ので、インテリが引用しても簡単に通じる文言の一種ではあったようだ。

ただし、後世のカール・レーヴィット曰く、彼ら19世紀人の使う「vanitas vanitatum」とは、おそらく『コヘレトの書』からではない。前述したゲーテが影響元である。

やがて、実存主義などが勃興すると、ニヒリズム的にこの語を解釈する流れが出てくる。例えば、セーレン・キルケゴールは、日記を読むと、間違いなくゲーテに感化されて「vanitas vanitatum」を使いたそうにしており、『あれか、これか』の中で、陽気になって「vanitas vanitatum」などと幸せそうに唱えている人間を、悲観的に見ている。

この流れとして、フリードリヒ・ニーチェは、『人間的、あまりに人間的』で、第二部の12番目のアフォリズムで「Vanitas vanitatum homo」という表現を用いている。これはラテン語的にはVanitas vanitatum=homoという構造である。よって、やや意訳気味だが、ニーチェは「空の空、それは人間」と言っている。この個所はヘーゲルといった伝統的な思想での人間の取り扱われ方を、徹底的に皮肉る箇所なので、おそらくこれも近世~近代ドイツ的な、つまりゲーテ的な文脈の可能性もある。

以後、vanitas vanitatumという文言は、キリスト教的価値観、ゲーテ的なドイツロマン主義とは別に、こうしたニーチェ的な思想を象徴する文言と化していった。例えば、三木清は、ニーチェ思想を語るうえでvanitas vanitatumを引用している。また、実存主義に傾倒した後のシモーヌ・ド・ボーヴォワールも『実存主義と常識』でこの文言を引用している。

おそらく、若者が思想にかぶれてこの「vanitas vanitatum」などと唱えていたのは、20世紀初頭の世界的な現象だったらしい。例えば、1951年に発行された日本の雑誌「近代文学」8月号では、回顧されているある時期の若者の形容として、「vanitas vanitatum」と唱えたり、急に社会主義思想にかぶれたり、といった具合に扱われている。つまり、当時においてはそういう感化されがちな思想の一つとして扱われているのだ。

なお、文学畑でニーチェ的な思想をこの文言で形容した、最たる例こそ、バーナード=ショーの『人と超人』だったりする。

ただし、一方でロシア革命に際し亡命した、ピティリム・ソローキンやグレゴリー・ジルボーグが用いているような、違う文脈もある。アイザック・ドイッチャーがスターリン死後のソ連の空気をこの文言で評していたり、ウィリアム・ジェイムズが『信ずる意思』で引用していたり等、他にも事例があるが、だんだんまとめきれなくなってきたので筆をおく。

日本人とこの文言

15世紀〜16世紀になると、徐々にアジアにもこの語の用例が見つかる。というのも、時は大航海時代である。 例えば、1519年のビルマのペグー朝で商館開設の協定を結んだ際に、相手方の宗教的儀礼に対抗し、ポルトガル人が教会音楽本でたまたま目についた「vanitas vanitatum」をありがたそうに唱えて、威厳を保ったなどと言う伝説が残るように、キリスト教徒が進出してきたのだ。

この結果、意外でも何でもないのだが、この流れで戦国時代にこの文言は、日本に着弾している。ただし、日本に来たのは、トマス・ア・ケンピス版の「神を愛し、神だけに仕えることを除いて」という但し書きがついたものである。

キリシタンの間に伝えられてきた、『コンテンプツスムンヂ』、あるいは『捨世録』と呼ばれる経典が、要するに彼の『キリストに倣いて』の翻訳である。この、第1巻『御主ゼスキリストを学び奉る経』に、以下の文言があるので、実際に見てみよう。

Ds御一体を思い事え奉るより外は、みな実もなき事の中の実もなき事なり。この世を厭ひて、天の御国に志すこと、最上の智慧なり。

――『捨世録』

ただし、当然こんなものが江戸時代に一般流通しているわけもなく、しばらく歩みは追えなくなる。

国会図書館を見た限りでは、1880年代より英和辞典/和英辞典や、ラファエル・フォン・ケーベルといったお雇い外国人を通して、この文言が広まっていった。

ちなみに、この向きは西洋→日本だけではなく、逆もあった。例えばお雇い外国人だったカール・フローレンツは、何らかの日本の和歌を、Vanitas vanitatumと名付けて翻訳している。

大正時代になると、文芸季刊誌「聲(こえ)」といった、キリスト教系雑誌への投稿などでも、この文言が当たり前のように出てくるなど、ある程度定着したようである。また、生田春月など、翻訳も行っていた詩人や、厨川白村といった英米文学に通じた学者が、この文言を引用するのが見て取られる。例えば工藤好美はサミュエル・テイラー・コールリッジの伝記で何の説明もなくこの文言を引用する。

昭和時代になると、確かに『大調和』といった東洋系の雑誌でも、この文言が使われる事例が見られるようになる。しかし、どちらかというとまだ熊野義孝といったキリスト教系の学者の引用の方がやはり多い。

戦後も、宗教系、西洋通の引用が主というのはあまり変わらない。例えば、平井正穂がエリザベス1世の頃のイギリス演劇をこの言葉で評していたりする例や、法学畑で日本の田村徳治が前述したピティリム・ソローキンの思想の引用をこの文言とともにしていたりする例など、やはりまれである。結局、日本においてはたまにそれっぽい思想を評して「vanitas vanitatum, et omnia vanitas」というくらいで今に至った。

サブカルチャーとこの文言

当然有名な句なのでサブカルチャーでも引用されている。例えばアレハンドロ・ホドロフスキー脚本・ミロ・マナラ作画の、イタリアの漫画『I Borgia』の最終巻のタイトルは「Tutto è Vanità」である

日本でも、ぱっと思いついた例では、2013年にアニメ化した『カーニヴァル』の嘉禄(CV:保志総一朗)と黒白(CV:諏訪部順一)のキャラクターソングに「Vanitas vanitatum」というものがある。

エロゲの『Dies irae』にも「Omnia Vanitas」という盛大にこの句をタイトルにつけたBGMがある。

また、青栗鼠の「ヴァニタス」、くろゑの「バニタス バニタス」など、ボカロ、ボイロ曲でも歌詞に引用されている。

最近では『ブルーアーカイブ -Blue Archive-』にてアリウス分校を象徴する文言として描かれ、白洲アズサや錠前サオリなど、元生徒・現役生徒などがしきりに引用している。

このため、白洲アズサには以下のような顔文字のテンプレが存在する。

(ᓀ‸ᓂ)<ばにたす ばにたーたむ

また、上記理由から、錠前サオリの音MADではこの文言がやたらと用いられている。

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vanitas vanitatum, et omnia vanitas

143 ななしのよっしん
2025/02/02(日) 22:52:11 ID: 6K77YXSsvP
9章あたりの「風呂入って飯食って嫁さんと楽しくやれ(雑理解)」が、ギルガメシュ叙事詩に出てくる女主人からのギルガメシュへのアドバイスに似てるのが面白いなあと思っている
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144 ななしのよっしん
2025/06/19(木) 02:05:06 ID: z8lLoFQORM
彩りキャンバスが
ばにたすに対する
ひとつの回答になっている気がする
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145 何処からともなく現れた暇神
2025/08/02(土) 23:34:58 ID: m30UPEIGm9
ちなみに新改訳2017、新改訳だと
「空の空。全ては空」となる。
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146 ななしのよっしん
2025/10/22(水) 02:12:28 ID: HVqYqM4+4S
アリウス新章では黙示録とvanitasをブレンドしている
黙示録に記された…いつか訪れる復讐と救済の日…ありがちな宗教観だがバニタスとつながるとすれば
そのいつかなんて決して来ないという逆説だろうか
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147 ななしのよっしん
2025/12/26(金) 05:53:35 ID: 7sYXzZ40/F
やっぱりラテン語の妙なかっこよさと曖昧さが色々めんどくさい元凶じゃないかよ!
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148 ななしのよっしん
2025/12/29(月) 05:20:56 ID: TKZM/pQARO
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149 ななしのよっしん
2025/12/29(月) 13:50:56 ID: HVqYqM4+4S
ラテン語の字面がかっこいいのよね
ばにばにしています
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150 ななしのよっしん
2026/04/25(土) 09:54:38 ID: gJtMpW30wQ
どうでもいいがラテン語もラップにはかなり向いてそうな言語だよね
主に話者数の問題かでそもそも聴く機会がないけど
👍
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151 ななしのよっしん
2026/04/25(土) 10:19:58 ID: Kh1//axK87
コロナ禍で流行った音楽ジャンル「bardcore」の一部にラテン語歌ってみたがあるので、まあやる奴はどこかにはいるだろうなという印象
https://youtu.be/GYGXYYOp4as?si=FI4qH-A5_SJgAx-Wexit

あともともと言語として詩韻規則が発達しまくってるので、労力はかかるがリリックやライムは規則的に作れると思う
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152 ななしのよっしん
2026/07/14(火) 15:19:07 ID: HVqYqM4+4S
ブルアカでは
一切皆苦や色即是空に近い使われ方を
しているように思われる

もともとのブッダの思想は概して
ノーミラクルグッドライフ
奇跡はないけれどより良く生きよ
なので
コヘレトの言葉の方向性と重なりはあるかも
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