vanitas vanitatum, et omnia vanitasとは、旧約聖書「伝道の書/コヘレトの言葉」1章2節のラテン語表記である。
概要
上記の通り、旧約聖書「伝道の書/コヘレトの言葉」1章2節の言葉の、トリエント公会議で認められた伝ヒエロニムスによる「ウルガタ」版聖書の表記。それで結局なんやねんこの単語ということになりそうなので、まずは新共同訳で1章2節の全文を見て、日本語の意味を取りたい(2行目がこの語)。
コヘレトは言う。なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。ーー新共同訳旧約聖書「コヘレトの言葉」1章2節
ちょっとわかりづらいので、より最新の聖書協会共同訳も併記したいのだが、実は、新共同訳は正直ネガティブ寄りの意訳に感じたため、聖書協会共同訳はもっと前の口語訳聖書に先祖返りしたかのような、中立的な訳にとどめた、という話らしいので、逆に抽象的になっていたりする(3行目がこの語)。
言葉の意味
とりあえず日本語訳を見たところで、まずはラテン語それぞれの意味を見ていく。
まずvanitasはラテン語の空虚、嘘、偽りなどを指す、第3変化の女性名詞である。なお、発音は以下の2通り(雑に書くとウァーニタースとヴァニタス)があり、今回の場合は聖書の文言なので慣例的に後者とする(本当はaはどちらも長母音ではある)。
1つ目のvanitasは単数主格、2つ目のvanitatumは複数属格、なので最初のvanitas vanitatumは後ろのvanitatumが前のvanitasにかかり、空虚(カテゴリー)の中の空虚(もの)と解すことができる。
etは要するにただのandなので、ここで一度文が切れる。続いて、omniaは全部という意味の第2変化の中性名詞の複数主格。ここで最後にまた単数主格のvanitasが来ているが、要するにこれは英語のbe動詞に当たるコピュラ動詞が省略されてるだけで、A=Bの文。このため、おおよそ、すべてのものは空虚、という意味と解することができる。
参考までに近世イギリスのドゥアイ・リームズ聖書や、ジェイムズ王訳こと欽定訳聖書版の表記を記す(正直この個所は標準英語訳聖書でもあんまり変わってないので特に併記はしない)。
vanity of vanities, and all is vanity
ーードゥアイ・リームズ聖書
なお、この記事名に使っているバージョンの「ウルガタ」とは、トリエント公会議を受けて、シクストゥス5世を経てクレメンス8世の時代の1592年にできた「シクストゥス・クレメンティーナ版」であり、ヒエロニムスのオリジナルそのものではない(そもそもオリジナル現物は存在しないのだが)。その証拠に、中世の「ウルガタ」の写本では、微妙にバリエーションがあり、この個所に関しては、ヒエロニムスのオリジナルには、「et」はなかったのではないかともいわれていたりしなくはない(実際なくても意味は通じる)。
vanitas vanitantium omnia vanitas
uanitaſ uanitatum et omnia uanitaſ
ーーギガス写本
ちなみに、20世紀にパウロ6世の命によって再作成された「新ウルガタ」版聖書では、コンマが抜けた程度である。
vanitas vanitatum et omnia vanitas
ーー新ウルガタ
本来の表記
と言ってきたところで、最大のツッコミどころなのだが、これは旧約聖書の文である。つまり、原文は、ラテン語ではなく聖書ヘブライ語なのだ。
ということで、ヘブライ語で書くと、こうなる
הֲבֵ֥ל הֲבָלִ֖ים הַכֹּ֥ל הָֽבֶל
הבל הבלים הכל הבל
ーーアレッポ写本
雑にカタカナ表記をすると「ハベル・ハバリーム・ハ・コール・ハーベル」となる。
さらに、これをコイネーこと聖書ギリシア語で表すと、以下になる(厳密にいえば七十人訳聖書は誤訳がどうとかいろいろあるのだが、この部分に関しては特に問題ないとされている)。
ματαιότης ματαιοτήτων, τὰ πάντα ματαιότης
ーー七十人訳聖書
ματαιοτηϲ ματαιοτητων · τα παντα μανταιοτηϲ
ーーシナイ写本
ματαιότηϲ ματαιοτήτων τὰ πά-τα ματαιότηϲ
ーーヴァチカン写本
一番一般的な七十人訳聖書を雑にカタカナ表記をすると、「マタイオテース・マタイオテートーン・タ・パンタ・マタイオテース」となる。
その他この箇所
古代からある諸教会の訳とされるもの
シリア正教会で使われている、シリア語のいわゆるペシタ訳聖書では以下になる。
ܗܒܠ ܗ̈ܒܠܝܢ ܟܠ ܡܕܡ ܗܒܠܐ
ーーペシタ訳聖書
西洋での刊行自体は19世紀だが、アルメニア使徒教会で古代から用いられていたであろう古典アルメニア語の聖書では以下になる。
Ունայնու(թ)ի(ւն) ունայնութեանց ամ(ենայն) ինչ ընդունայն է
西洋での刊行自体は20世紀だが、グルジア正教会で古代から用いられていたであろう古典グルジア語の聖書では以下になる(バカル写本版聖書は文字化けの関係で載せられなかった)。
ამაოებაჲ ამაოთაჲ, ყოველივე ამაო
ამაოება ამაოთა, ყოველივე ამაო
西洋での刊行自体は19世紀だが、コプト正教会で古代から用いられていたであろうコプト語の聖書では以下になる。
ⲟⲩⲡⲉⲧϣⲟⲩⲉⲓⲧ ⲛⲙⲡⲉⲧϣⲟⲩⲉⲓⲧ ⲡⲉ ϩⲱⲃ ⲛⲓⲙ ⲉⲡⲉⲧϣⲟⲩⲉⲓⲧ ⲡⲉⲧⲛϩⲏⲧⲟⲩ
西洋での刊行自体は19世紀だが、エチオピア正教会で古代から用いられていたであろうゲエズ語の聖書では以下になる(追跡調査中だが、16世紀の写本とほぼ同じ文言で、文字3つのかたまりがひたすら続くので、多分アムハラ語やティグリニャ語ではなくゲエズ語のはず…)。
ከንቱ ፡ ከንቱ ፡ ኵሉ ፡ ከንቱ ።
もうすでに18世紀のテキストだが、ロシア正教会で使われていた教会スラヴ語の聖書では以下になる(本当はオストロク聖書などもっと前の古代教会スラヴ語に近しいテキストのほうがよかったのだが、そもそもグラゴル文字ではないし中世キリル文字の手打ちは心が折れかけたので断念した)。
суета суетствий, всяческая суета
中世~近世期の展開
プロテスタント圏等も含めた中世から近世にかけての訳(ほぼ現代語ではない)も上げておく。
vanite of vanytes, and alle þingus vanyte
það er allt saman fánýtur hégómi
باطل الاباطيل الكل باطل
vanità delle vanità; ogni cosa è vanità
ijdelheid der ijdelheden, het is al ijdelheid
alt är icke annat än fåfängelighet
marnost nad marnostmi, [a] všecko marnost
vanidad de vanidades, todo vanidad
Det er altsammen idel forfengelighed
felette nagy hiábavalóság! Minden hiábavalóság!
se on suuri turhuus, ja kaikki mitä on, se on turhuus
vanité des vanités, tout est vanité
vaidade de vaidades! É tudo vaidade
marność nad marnościami, i wszystko marność
deşărtarea deşărtărilor toate-s deşărtare!
суета сует, --всё суета!
この言葉の文脈
それで、全てが虚しいのがこの伝道の書全体にどう関わるのかという話に移りたい。
この伝道の書を述べたコヘレトとは、人名ではなく、伝道者を指す名詞である(なお、女性名詞なのが、伝統的な解釈で余計混乱を巻き起こしていた)。このコヘレトが誰かについては、冒頭で自分をダビデの子と称しており、素直に読めばソロモン王しかいないのだが、文章が明らかにエピクロス学派の哲学などを受けており、成立は紀元前3世紀まで遡る程度とされるので、はっきり言ってソロモン王を騙ったそこそこ後世の存在ということである。
ただし、少なくとも、『死海文書』には4Q109 Qoheleta、4Q110 Qoheletbの2つの伝道の書の断片のかたまりが残っている(前者が5章14-18節、6章1節、3章8節、12節、7章1-10、19、20節で、後者が1章10-14節なので、この文言自体はない)ので、キリストが生まれる前くらいにはこの書が確実に存在したのは確からしい。
このコヘレトの言葉は、旧約聖書のうち知恵文学に属するものとなっており、筆者はソロモン王であるかのように、努力は無意味、人生は虚無、世界は不条理なものであり、世界がそうなので人間は世界に執着すべきではなく、かと言って世界から逃避すべきでもなく、神を畏れつつ適度に慎ましく生きることが本分である、ということをメッセージとして発するのである。
ということで、色々考えた末に、程々に現世を過ごそうぜ!というものなので、明らかに色々影響を受けて書かれたものなのだが、一義的に要約するのは難しい。一般的な説法レベルでは、こんな感じのふわっとした理解でも大丈夫だと思うが、結局このかつてはソロモン王とされてきた筆者が言いたいこと何か問題は、この「コヘレトの言葉」が愛されてきたのと比例するかのように、正直なところずっと多くの人間を悩ませてきた。
とはいえ、この文言が、冒頭で叩きつけるかのように、全部が空!と突きつける文言なこともあり、極めて有名な一節となっている。
実際、実はこの文言はこの伝道の書の最後である、12章8節で、もう1回念押しのように作者が述べる。要するに、冒頭で一度発言したことをもう1度最後に繰り返す挟み込みの構造になっているのである。このため、この自称ソロモン王の作者にとっては、結構このことを特に伝えておきたかったのだろう。
なお、当然こんな文言なので、すべてのキリスト教徒が折り合いをつけてきたわけではなく、かの有名なトマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』という注釈書では、「神を愛し、神だけに仕えることを除いて」と余計に付け加えている。
【※飛ばしていいよ】
込み入った神学方面への回り道
【解釈が雑ー!?という人向け】
「空の空」という古典的な和訳から、日本でも「色即是空」などの仏教思想との連想などもあって割と親しまれてきたような気がするこの『伝道の書/コヘレトの言葉』。とりあえずこの書は、『ヨブ記』とともに後期知恵文学とされ、『ルツ記』、『雅歌』、『哀歌』、『エステル記』と合わせてユダヤ教では「メギロート」として扱われている。のだが、上記『七十人訳聖書(※聖書ギリシア語)』の段階で、「コヘレト」を「Ἐκκλησιαστής」、すなわち「集会者」と翻訳し、キリスト教ではソロモン王の記したものとして『蔵言』と『雅歌』の間に配置したというわけである。
が、上に書いた通り、この「vanitas vanitatum, et omnia vanitas」に代表される、簡単に言うとそこそこ当時としてはやべー思想と、伝統的な「神を畏れなさい」めいた思想がまぜこぜになっているため、要するに全体的に何が言いたいのか一貫性がよくわからん書として、1980年代くらいまでは思われてきた。
とはいえ、1990年代ごろから、編集者の手がある程度入っているとはいえ(この辺は、1人称の発言と3人称の発言が混ざっているなどの問題があり、例えばこの「vanitas vanitatum, et omnia vanitas」はコヘレトがこんなこと言ったという書き方なのだが、本筋では普通に1人称でべらべら喋る)、この本は意図的に統一的なことを書いた書物ではないか?という話になる。要するに、「本」はあるので書いた「誰か」はいるのだろうという話において、適当に言葉を繋げただけなのか、ちゃんと特定個人が「本」として書いたものなのかという問題に対し、大部分は「本」として書いたんじゃないかなぁ?という見解が共有された大前提となったということである。
かくして、「宗教批判」の本だとしたノルベルト・ノーフィンク、ヘレニズムの修辞学の構成に則っているとしたルージャー・シュビーンホルスト=シェーンベルガーやフランツ・ジョセフ・バックハウスらドイツ語圏の解釈、省察を行う前半と倫理を展開するチョン・レオン・シアウを中心とした英語圏の解釈の3タイプあるが、要するに、このよくわからん本はちゃんと一体性のある本だとおおむねみなされつつあるのである。
しかし、もう一個の問題として、このコヘレトことソロモン王っぽい雰囲気を醸し出している作者は、悲観論者なのか、楽観論者なのかよくわからんというものがある。
前者に関しては、このラテン語訳にある「vanitas」にあたるヘブライ語の「הֶבֶל」を『旧約聖書』全体でも過半数の用例と言っていい38回も使っているようなことなどが典拠となり、これは明らかに『旧約聖書』から浮いているのでそもそもこのコヘレト自身が聖書に入るとは思っていなさそうという話にもなる。後者については、ユダヤ教などの伝統ではなく、オリエント世界やギリシア世界などの視点から見ていくものなのだが、こちらはやや少数派な解釈となっている。
この問題に関しては、コヘレトを名乗る著者がこの本で誰と戦いたかったのかというアプローチが主に行われている。ただし、その相手というのは研究者によって分かれており、「伝統的な知恵」、「ヘレニズム哲学」、『ダニエル書』などを筆頭にした「黙示思想」など様々であり、はっきり言ってロジックは一貫しているのだが、それを使って何を伝えたかったのかは、まだよくわからないのが、現在の研究トレンドだったりする。
ということなので、実のところ、この自称ソロモン王が一番言いたかったことは、「はあ…世界つら…」なのか、「人生がつらいと思っているおまえらに、これから俺が克服するためのいいことを教えてやろう!俺の言葉を聞けえ!」なのか、はっきり言おう。誰もわかってない。
なので、ここを開いた人間にこのオチなのは非常に心苦しいのだが、まあ…そのなんだ…とりあえずこの記事を読んだことで、明日いいことあるよ、多分。
コヘレトの言葉の受容史・研究史
だいたい雑な理解で行くと、以下のようである。
時代 | 動向 |
---|---|
紀元前 | 旧約聖書の中ではかなり最後の方に成立したが、『死海文書』や旧約聖書外典時点ですでに正典扱いされてはいるので、何かしら理由があってすぐに地位を確立した |
古代 | 他の聖書の教えとはかなり異なるので、読む人間としてはいまいち釈然としないが、聖書に括られるからには聖なる教えの本であるのだろうとする葛藤 |
90年代 | とりあえずヤムニア会議で、ユダヤ教で正典になったとされる |
553年 | とりあえずコンスタンティノープル公会議で、キリスト教で正典になったとされる |
古代~中世 | ユダヤ教徒内でのヒレル派とシャンマイ派の対立に象徴される、確かにソロモン王の書いた本ではあるらしいし、何かしら理由があって正典に入ったのだろうけども、なんでこれが正典になっているかの論争 |
近世初期 | マルティン・ルターなどがソロモン王の著作であることを否定などしたものの、要するにこの本はこの世はむなしいのだから、みんな天上のことに関心を持とうぜ!と言っているのだろうとした、宗教改革者たちの主張 |
19世紀くらいまで | 学術的な聖書の研究史において、おおよそソロモン王を名乗る単一の著者が、心の中でああでもないこうでもないと思考が揺れ動いている様子を書いたとする、伝統的な見解 |
19世紀末から1910年代くらいまで | コヘレトの言葉は複数の著者の手によるものだとした議論 ※ただし、20世紀中ごろの解説書ではすでに過去の世代の手によるものとすら回顧されている |
1920年代~40年代くらいまで | そもそもコヘレトの言葉はヘブライ語ではなく、もっと昔のアラム語や北方のセム語に近い、純然たるヘブライ語ではないのだから、こんなわかりづらいという、言語学的な論争 ※ただし、20世紀中ごろの解説書ではすでに結局いろいろ論じたけど今一つ証拠がないというオチをつけている |
1950年代~80年代くらい | 色々あって、まあほとんど一人の著者の手によるものではあるのだろうという前提を共有しつつも、きちんと統一性のある首尾一貫とした本なのか、結局ばらばらの言葉のまとめなのかという両極端な主張と、その中間派への分極化 |
1990年代~2000年代 | 現代的にこう読もうぜという動きと、コヘレト書全体に統一性があるという前提に基づく、『コヘレトの書』解説書の乱立 |
【※飛ばしていいよ】
もうちょっと詳しく追いたいなあ…的な人向け
時期 | 人物 | 内容 | 出典 |
---|---|---|---|
紀元前2世紀半ば | 死海文書 | コヘレトの言葉はこの時点でもう正典扱いされてた | |
紀元前190年頃 | ベン・シラ | 特に断りなく引用しており、すでにコヘレトの言葉は正典扱いされている | 『シラ書』 |
紀元前1世紀 | シメオン・ベン・シェタ | コヘレトの言葉を聖句引用の形式で引用する | |
紀元前1世紀 | サンヘドリンのババ・ベン・ブッタ | コヘレトの言葉を聖句引用の形式で引用する | |
1世紀ごろ | ラビ・ベン・アッサイ・シメオン | コヘレトの言葉は聖なる本だが、かつてシャンマイ派とヒレル派の間で論争があったと主張 | ミシュナー『ヤダイム』 |
1世紀ごろ | フラヴィウス・ヨセフス | コヘレトの言葉は正しい信用を得ている正典の一つ | 『アピオンへの反論』 |
1世紀ごろ | 旧約聖書外典 | コヘレトの言葉は正典の一つ | 『第4エズラ記』 |
4世紀 | ニュッサのグレゴリオス | このソロモンはソロモン王とは異なる別のソロモンである | |
4世紀 | 盲目のディディムス | この本は複数著者の手によるものではないか? | |
4世紀 | ヒエロニムス | この世のことは皆棄て去るように勇気づけるために使える | |
4世紀 | モプスエスティアのテオドロス | コヘレトの言葉は他の聖書の部分より劣っている | |
5世紀 | アウグスティヌス | コヘレトの言葉を引用している | 『神の国』 |
5世紀頃 | ラビ・イェフダー・ベン・ラビ・サムエル・シラト | 聖書にコヘレトの言葉を加えることに異議がある | ミシュナー『シャバット』 |
中世前期 | 雅歌、蔵言、コヘレトの言葉はソロモン王の生涯に沿って書かれたので、同一著者であるのに文体から何まで異なっている | 『コヘレト・ラッバー』 | |
10世紀 | ソロモン・ベン・ジェロハム | コヘレトが女性名なのは、女性が子供を産み育てるかのように知恵を明らかにし系統立てたから。 | 『コヘレトの言葉注釈』 |
10世紀 | イェフト・ベン・アリ | コヘレトは自分の活動を知恵に帰し、知恵とは女性名詞なので女性名を名乗った | |
1230年頃 | サミュエル・イブン・ティボン | 冒頭の1章は、枠物語における枠を提示する話者の言葉で、さらに言えば末尾も後で加筆されている。 | |
13世紀 | イザヤ・ディ・トラーニ | コヘレトは女性のように弱った老年期にこれを書き、それゆえコヘレトという女性的な名前をつけた | 『コヘレトの言葉注釈』 |
13世紀後半 | トマス・アクィナス | コヘレトの言葉のうち、愚か者の数は無限大であるを、要約に使っている | 『神学大全』 |
13~14世紀 | ニコラス・デ・リラ | この世の空しさを示すことによって、人々の心を天上の事柄へと引き上げることが目的だ | |
15世紀 | トマス・ア・ケンピス | 地上のすべてを軽蔑し、ただ天にあるものだけを欲しがるようにという手招き | |
1525年 | マルティン・ルター | コヘレトの言葉は自由意志の否定 | 『奴隷意思論』 |
16世紀 | フィリップ・メランヒトン | コヘレトの言葉は神の摂理というメッセージ | |
16世紀 | ヨハネス・ブレンツ | コヘレトの言葉は正当化のメッセージ | |
1644年 | フーゴー・グローティウス | 後世のダニエル書やエズラ記にしか見られないヘブライ語の単語がみられ、ソロモン王の著書とは考えられない | 『旧約聖書注解』 |
1764年 | ヴォルテール | コヘレトは、エピクロス派の哲学者めいたもので、壮大さの物語にうんざりし、快楽にうんざりし、科学にもうんざりしている | 『哲学辞典』 |
19世紀 | ハイム・ヨセフ・ダビド・アジサイ | コヘレトの言葉が言った通り、すべては空である | |
1875年 | フランツ・デリッチュ | この本のヘブライ語はディアスポラ以後のもので、ソロモン王のころのものではない | 『雅歌と伝道の書』 |
1898年 | カール・グスタフ・アドルフ・ジークフリード | この本は9人の手によるものである | 『伝道の書と雅歌』 |
1904年 | アラン・ユーグ・マクニール | vanitas vanitatumの部分は編集上の加筆で、そのほかにもある賢者やある敬虔なユダヤ人に書き加えられた箇所がいくつかある | 『伝道の書への導入』 |
1905年 | ポール・ハウプト | コヘレトの言葉の半分は本来あったものではない | 『伝道者の書』 |
1908年 | ジョージ・アーロン・バートン | 敬虔なものと知恵の編集者による細工の跡と、最終編集者も存在する | 『伝道の書』 |
1912年 | エマニュエル・ポデシャール | コヘレトの言葉は4分の3はコヘレトによるものだが、どんどんそこからつぎ足しされている | 『伝道の書の本の構成』 |
1915年 | 内村鑑三 | 神を離れて人生に真の幸福の無き事を教えるに於いて天下唯一の書 | 『伝道之書 研究と解釈』 |
1923年 | デイビッド・サミュエル・マルゴリウース | コヘレトの言葉のヘブライ語は、域外ヘブライ語ほど後代のものではない | 『ユダヤ辞典』 |
1925年 | ハリー・ランストン | コヘレトの言葉は、テオグニスとヘシオドスからの影響がみられる | 『伝道の書と初期ギリシャ知恵文学』 |
1943年 | 小池辰雄 | ユダヤ教の伝統的思想に懐疑的になり、煩悶した結果がこの本である | 『旧約聖書略解』 |
1945年 | フランク・ツィンマーマン | コヘレトの言葉の原文はヘブライ語ではなくアラム語原典からの翻訳 | 『コヘレトの言葉のアラム的来歴』 |
1946年 | ヘンリー・ウィーラー・ロビンソン | この書はまさしく墓の匂いがしている | 『旧約聖書における霊感と啓示』 |
1949年 | 関根正雄 | コヘレトは、ユダヤ教とギリシア思想のはざまで格闘している | 『旧約聖書』 |
1950年 | アーレ・ラウハ |
目的は二つ |
『旧約聖書の補注』 |
1952年 | ヴィクトール・エマニュエル・ライヒェルト | この本の敬虔と懐疑主義の並立は、祭典などを通してユダヤ人に健全さのバランスをとる役割を果たした | アブラハム・コーエン編『5つのメギロート』より |
1952年 | ミッチェル・ダフッド | コヘレトの言葉はフェニキア語の正字法で書かれている | 『コヘレトの言葉へのカナン語・フェニキア語の影響』 |
1955年 | ロバート・ゴーディス | 喜びをたたえ、分を楽しむように人々を励ます書 | 『コヘレト:人とその世界』 |
1956年 | 矢内原忠雄 | コヘレトは、すべては空だから、快楽に生きるか造物主を信じるかの二択を迫っている | 『伝道之書講義』 |
1960年 | フレデリック・L・モリアーティ | コヘレトが懐疑論者でありことは言うまでもない | 『旧約聖書の紹介』 |
1961年 | クルト・キュール | コヘレトは、旧約聖書の敬虔からかけ離れた陰鬱な亜流キリスト教のような態度だが、彼の神はそもそもイスラエルの神ではなく、人が神を恐れるためにあらゆる矛盾や精神的緊張をもたらす神なのである | 『旧約聖書の起源と世界主義』 |
1963年 | ハンス・ヴィルヘルム・ヘルツバーグ | 旧約聖書が成果を上げず終わろうとした象徴こそがコヘレトの空の思想であり、新約聖書がそれを引き継ぐという、引き立て役とも予告ともいえる本である | 『コヘレトの言葉注解』 |
1963年 | ドミニク・バルテレミー | 七十人訳聖書のコヘレトの言葉の翻訳は、実は2世紀のシノペのアクウィラの手による訳である | 『アクウィラの先人たち』 |
1964年 | オズワルド・ローレッツ | コヘレトの言葉は、成立後まもなく知恵文学としての地位を確立し、それ故に正典に属している本というところは後世疑われることもあまりなかった | 『神の言葉と人間的な経験:ヨナ書、ルツ記、雅歌、コヘレトの解釈』 |
1965年 | ロバート・バルガーニー・ヤング・スコット | 聖書の中で最も奇妙な文書 | 『蔵言、伝道の書』 |
1970年 | ゲルハルト・フォン・ラート | コヘレトの言葉は古代エジプトなどに見られる王の遺言的なジャンルである | 『イスラエルの叡智』 |
1972年 | 山内六郎 | 人々をよりよい生活に教導するために、時代の気休め的な正統主義を離れ、新しいものを目指した人間的な本 | 『信徒のための聖書講解』13巻 |
1974年 | ワルター・ツィンマリ | コヘレトの言葉は箴言を集めたものではなく、きちんとドラマツルギーがある | 『コヘレトの言葉―文のかたまり、あるいはコレクション?』 |
1975年 (邦訳1981年) |
ウェスリー・J・フェアースト | 人間は人生を楽しむことができるが、そのことが世界の空しさを軽減したり、未来の不安を軽減したり、また死の終局性を弱化したりすることはないことを、打って出る本 | 『ケンブリッジ旧約聖書注解』11巻 |
1977年 | マイケル・V・フォックス | コヘレトの言葉はすべて一人の手によるもので、単一の「物語」として成立するものである | 『コヘレトの言葉における枠物語と構成』 |
1980年 | ノルベルト・ノーフィンク | コヘレトの言葉には構造化できる構成がきちんとあるし、宗教批判を目的としているマニフェストである | 『コヘレトの言葉』 |
1981年 | フランシスコ会聖書研究所 | ある程度の論理のつながりと調和がみられる、一人の著者による知恵を教える本 | 『原文校訂によるコヘレト(伝道の書)・雅歌』 |
1981年 | メリル・フレデリック・アンガー |
以下の3点で難解な本 |
『アンガーの旧約聖書注解』 |
1983年 (邦訳2004年) |
マイケル・A・イートン | 寛容な神への信仰による人生とは正反対の人生の不気味さを指摘することによって、信仰の人生を擁護する弁証論的エッセー | 『ティンデル聖書注解』 |
1984年 (邦訳1994年) |
ジェイムズ・アルフレッド・ローデル | これまで人々を悩ませてきたコヘレトの言葉内の数々の矛盾は、緊張関係の解消をもくろんだテキストではなく、対句を多用した詩ともいうべきジャンルだからである | 『TETコンパクト聖書注解』 |
1985年 | 中沢洽樹 | 「人生とは要するに労苦の連続で、いっさいは空である」という虚無感の中で、神を認めつつも創造世界の意味をついに悟りえなかった旧約聖書の限界を示す書 | 『「空の空」―知の敗北』 |
1986年 (邦訳1996年) |
ロバート・デヴィドソン | この本は聖書の中でもとりわけ「文学」であり、聖書の魅力を増す存在として、「文学」全体を味わう読みをしなければならない | 『デイリー・スタディー・バイブル』16巻 |
1986年 | いのちのことば社 | 徹底して人間の知恵を、人間の観点から探求した本 | 『ソロモンの人生論:伝道者の書』 |
1988年 | 熊谷徹 | 神なき人生はむなしい、神否定の人生は空の空なので、「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」という人生の目的を探す本 | 「新聖書講解説」シリーズ旧約13巻 |
1989年 (邦訳2013年) |
ロジャー・ノーマン・ワイブレイ | 『ニューセンチュリー聖書注解』 | |
1991年 | ハンス・ウルス・フォン・バルタサル | コヘレトは、そのような言葉が生まれる前に存在した批判的超越主義者であり、彼の神は世界から遠く隔たれ、彼にとってのカイロス、すなわち時はそれ自体が意味のないものである | 『主の栄光』 |
1992年 | ローランド・エドムント・マーフィー | コヘレトの言葉を何とか解釈しようとするこれまでの努力こそが、コヘレトの言っている無意味なものの一つの例に追加できる | 『伝道の書』 |
1994年 | 関根清三 | コヘレトは、ニーチェやハイデガーに近しいニヒリスト | 『旧約における超越と象徴』 |
1994年 | アントニオ・ボノラ | この本は、人間が神と違って死が存在する有限性を認めるための本 | 『旧約聖書の霊性に関するガイド コヘレトの言葉』 |
1995年 | 藤田英夫 | 若い人に対し、「若いときこそ自分の分をわきまえ、与えられたことで満足することを学びなさい。それが神の意志にそうことなのだ」という、老人の忠告 | 『大森講座』10巻 |
1997年 | チョン・レオン・シアウ | これは古代オリエントの碑文に由来する、遺言ともいうべき自伝である | 『コヘレトの言葉』 |
1997年 | ルージャー・シュビーンホルスト=シェーンベルガー | コヘレトの言葉はヘレニズム時代のダイアトライブという形式の構造に近しい構成となっている | 『コヘレトの言葉:研究の現状と展望』 |
1997年 | フランク・ローター・ホスフェルト | コヘレトの言葉は、神との関係を維持しつつも、分をわきまえた距離感を保つことを勧めている | 『コヘレトの言葉の神学的関連性』 |
1998年 | トレンペル・ロングマン | 『コヘレトの言葉』 | |
1998年 | 勝村弘也 | ヨブ記と同じく伝統的な知恵に戦いを挑んでいるが、ヨブとは異なり神への信頼がコヘレトにはない | 岩波書店『旧約聖書』解説 |
2000年 (邦訳2003年) |
ウィリアム・Pブラウン | 『現代聖書注解』 | |
2000年 | トーマス・クリューガー | 『コヘレトの言葉』 | |
2002年 | 鎌野直人 | コヘレト書は一貫して教育的な意図で書かれている | 『コスモロジーとキャラクター:修辞学的で批判的観点から見たコヘレトのペダゴギー』 |
2004年 | ヨハネ・パウロ2世 | コヘレトは、古代の賢人で、この世のものにしがみつくことを無意味にする | 演説 |
2012年 | 西村俊昭 | コヘレトの思想構造は、ダニエル書と対照的である | 『「コーヘレトの言葉」注解』 |
2012年 | カイル・R・グリーンウッド | コヘレトの言葉は、異なる役割を与えられた声同士の対話として読むべきジャンルである | 『議論する知恵:伝道の書における声の役割』 |
2013年 | 上村静 | コヘレトの思想は徹底して此岸的であり、現世肯定である | 『キリスト教の自己批判』 |
2020年 | 小友聡 | 彼岸に価値を見出し現世を否定的に見ようとするという、ダニエル書的な黙示的な世界観に対立して、現実肯定を語る本 | 『VTJ旧約聖書注解』 |
西洋文化とヴァニタス
ヴァニタスという語は、当然ラテン語なので、ラテン語文化圏に語として広まっていった。
- アストゥリアス語: vanidá
- アルーマニア語: vãnãtati
- カタルーニャ語: vanitat
- 英語: vanitas
- 古フランコ・プロヴァンス語: vanitá
- 古フランス語: vanité
- フリウリ語: vanitât
- イタリア語: vanità
- ピエモンテ語: vanità
- 古ポルトガル語: vãydade, vãidade
- ポルトガル語: vanidade
- ルーマニア語: vântă
- ルーマニア語: vanitate
- 古スペイン語: vanedad
- スペイン語: vanidad
このような単語なので、西洋文化とヴァニタスは特に切り離せないものとなっている。
その最たる例が、近世のバロック期におけるヴァニタス絵画である。このジャンルはオランダなどの北西部低地で主に流行ったが、端的に言うと髑髏や腐りゆく静物などを描き、見るものに人生の虚しさなどを突きつけるものである。
このジャンルが興隆したのは、ルネサンスを経て人物画には革新がもたらされたものの、静物画に関してはどのように寓意などを盛り込むか模索していたベクトルの一つであったとされている。しかし、実際のところそれぞれの画家がどの程度意味を持ち込んでいたかは、やはり見解が分かれている。
以下、代表的なヴァニタス絵画の一覧。
人名 | 生没年など | タイトル |
---|---|---|
ハンス・ホルバイン(子) | 1497/8~1543 | 大使たち |
ヤン・サンデルス・ファン・ヘメッセン | ?~1567 | ヴァニタス |
バルトロメウス・スプランヘル | 1546~1611 | 天使とヴァニタス |
ヤコブ・デ・ゲイン2世 | ?~1629 | ヴァニタス |
クララ・ペーテルス | 1594~? | ヴァニタス |
ピーテル・クラース | ?~1660 | ヴァニタス、静物画など多数 |
ウィレム・クラースゾーン・ヘーダ | 1593/4~1680/2 | ヴァニタス、カキと静物画など多数 |
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール | 1593~1652 | 懺悔するマグダラのマリア |
セバスティアン・ストッスコップフ | 1597~1657 | 大いなるヴァニタス |
フィリップ・ド・シャンパーニュ | 1602~1674 | ヴァニタス |
ヤン・ヤンス・トレック | 1606~1652 | ヴァニタス |
N.L.ペスキエ | ?~? | ヴァニタス |
ヤン・ダーフィッツゾーン・デ・ヘーム | 1606~1684 | ヴァニタス |
ウィレム・デ・ポルター | 1608~1668 | ヴァニタス |
ユディト・レイストル | 1609~1660 | ラスト・ドロップ |
ヤン・ミーンセ・モレナール | 1610~1668 | 虚栄心の寓意 |
アントニオ・デ・ペレーダ | 1611~1678 | 虚栄心の寓意 |
ハルメン・ステーンウェイク | 1612~1656 | ヴァニタス |
シモン・ルナール・ド・サン・アンドレ | 1613/4~1677 | 虚栄心の寓意 |
ヘラルト・ドウ | 1613~1675 | ヴァニタス |
ピーテル・ステーンウェイク | ?~1666 | ヴァニタス |
サルヴァトル・ローザ | 1615~1673 | ヴァニタス |
ピエルフランチェスコ・チッタディーニ | 1616~1681 | 17世紀のイタリアの学校 |
ピーテル・ボエル | 1622~1674 | 世界の虚栄心の寓意 |
フアン・デ・バルデス・レアル | 1622~1690 | 栄光の終焉、束の間の命など多数 |
ホリス・ファン・ソン | 1623~1667 | 人生の寓意 |
カルスティアン・ルイクス | 1623~? | ヴァニタス |
マリア・ファン・オーステルウィック | 1630~1693 | ヴァニタス |
ゲオルグ・ハインツ | 1630~1700 | 驚異の部屋 |
ジョアンネス・デ・コルドゥア | ?~1702 | 胸像とヴァニタス |
ジュゼッペ・レッコ | 1634~1695 | ヴァニタス |
ヤン・ファン・デア・ハイデン | 1637~1712 | ヴァニタス |
アブラハム・ミグノン | 1640~1679 | ヴァニタス |
エドワールト・コリール | 1642~1708 | 王冠を被った骸骨とヴァニタス |
ポール・セザンヌ | 1839~1906 | 頭蓋骨のある静物画 |
フィンセント・ファン・ゴッホ | 1853~1890 | 火の付いたタバコをくわえた骸骨 |
以下現代人 | ||
オットー・ディクス | 1891~1969 | 戦争 |
ヨーゼフ・ボイス | 1921~1986 | 私はアメリカが好き、アメリカは私が好き |
アンディ・ウォーホル | 1928~1987 | 骸骨 |
ロマン・オパウカ | 1931~2011 | 番号付き自画像シリーズ |
マリーナ・アブラモヴィッチ | 1946~ | 骸骨のあるヌード |
ヤン・ファーブル | 1958~ | 多数 |
ジャック&ディノ・チャップマン兄弟 | 1962~(兄) 1966~(弟) |
セックスⅢ |
フィリップ・パスクア | 1965~ | 頭蓋骨の彫刻 |
ダミアン・ハースト | 1965~ | 神の愛のために |
アンヌ・ド・カルブッチャ | 1968~ | 一つの惑星、一つの未来 |
アレクサンドル・ド・カドネ | 1974~ | 頭蓋骨の肖像画 |
マティアス・ローレンツ・グレフ | 1984~ | メメント・モリ |
この句と文学・音楽
当然こんな句なので、近世以降になっても文学や詩歌などに引用されている。
以下、この句に関する引用などを行った作家や詩人を列挙するが、ここに挙げたレベルの引用程ではないものの、ルドヴィーコ・アリオストの『狂えるオルランド』やジョバンニ・ボッカチオの『デカメロン』といったルネサンス以降の文学にもそれっぽいテーマがみられる指摘もある。
人名 | 生没年など | タイトル |
---|---|---|
フランチェスコ・ペトラルカ | 1304~1374 | Vanitas vanitatum et omnia vanitas |
アンドレアス・グリューフィウス | 1616~1664 | Es ist alles eitel |
Vanitas! Vanitatum Vanitas! | ||
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ | 1749~1832 | Vanitas! Vanitatum Vanitas! |
ケルセイ・フェレンツ | 1790~1838 | Vanitatum vanitas, "Itt az íras, olvassatok, erett eszel, jozanon … " |
アレクサンドル・デュマ | 1802~1870 | 三銃士 |
ウィリアム・メイクピース・サッカレー | 1811~1863 | 虚栄の市 |
クリスティーナ・ロセッティ | 1830~1894 | One Certainty |
ウィリアム・アーネスト・ヘンリ | 1849~1903 | Double Ballade of the Nothingness of Things |
アントン・チェーホフ | 1860~1904 | Темпераменты |
イスラエル・ジョシュア・シンガー | 1893~1944 | די ברידער אַשכּנזי |
アルカジイ・ストルガツキー | 1925~1991 | Понедельник начинается в субботу |
ボリス・ストルガツキー | 1933~2012 | |
ルーサー・ブリセット(仮名) | 不明(右の著作自体は1999年発表) | Q |
また、ゲオルグ・ビュッヒマン(1822~1884)の「翼のある言葉」シリーズなどを筆頭に、名言としてもしきりに引用されている。
加えて、西欧圏では音楽でも引用されている(ただし明らかにグリューフィウスやゲーテの詩を歌にしたものもあるがちゃんと調べられてないので分けない)。
Naxos Music Libraryで試しに検索してみると数十件見つかるが、その中でも最も有名なのはロベルト・シューマンの作品番号102番「民謡風の5つの小品」の第1曲「フモールを持って」の副題である。
他にとりあえず見つけたものを、時代順に並べると、こうなる。
人名 | 生没年など | タイトル |
---|---|---|
作者不詳 | 中世フィンランドの教会音楽 | Vanitatum vanitas |
作者不詳 | 中世チェコの歌曲 | Vanitas vanitatum |
クラウディオ・メールロ | 1533~1604 | Sapientia aedificavit. Coeli enarrant. Vanitas vanitatum. Intium sapientiae. Versetto 5 |
ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンク | 1562~1621 | 作品番号199番、200番「Vanitas vanitatum, et omnia vanitas」(※どちらも同名) |
ジャコモ・カリッシミ | 1605~1674 | 2声のモテット「Vanitas vanitatum」 |
カスパー・フェルスター | 1616~1673 | Vanitas vanitatum |
クリストフォロ・カレザーナ | 1640~1709 | Vanitas vanitatum |
ルイ・シュポア | 1784~1859 | 作品番号41番「6つの歌」第6曲「Vanitas! Vanitatum vanitas」 |
カール・レーヴェ | 1796~1869 | 作品番号4番「ヘブライの歌」第4曲「Alles ist eitel, spricht der Prediger」 |
ラディスラフ・ヴィスパーレク | 1882~1969 | 作品番号24番「チェコ・レクイエム 「死と贖い」」第一部 |
エルンスト・トッホ | 1887~1964 | 作品番号79番「Vanity of vanities」 |
ヴィルヘルム・キルマイヤー | 1927~2017 | 5つのロマンス「Vanitas Vanitatum」 |
エイノユハニ・ラウタヴァーラ | 1928~2016 | 「人生の書」第4曲「Vanitas! Vanitatum vanitas (Turhuuksien turhuus)」 |
スヴェン=ダーヴィド・サンドストレム | 1942~2019 | 3つの小品第1番「Och ater tomhet (Vanity of Vanities)」 |
リチャード・バーレット | 1959~ | Vanity |
ダン・フォレスト | 1978~ | 「生ける者のためのレクイエム」第2部「Vanitas vanitatum」 |
また、当然ポップカルチャーでもこの句を題材にした楽曲はあり、とりあえず適当に調べた中ではフォークシンガーのアンジェロ・ブランドゥアルディ、グルーヴ・メタル・トリオ「Devine Era」やブルータル・ブラックメタル・バンド「MARDUK」、エクストリーム・メタル・バンド「Anaal Nathrakh」などが曲名につけている。
サブカルチャーとこの文言
当然有名な句なのでサブカルチャーでも引用されている。例えばアレハンドロ・ホドロフスキー脚本・ミロ・マナラ作画の、イタリアの漫画『I Borgia』の最終巻のタイトルは「Tutto è Vanità」である
日本でも、ぱっと思いついた例では、2013年にアニメ化した『カーニヴァル』の嘉禄(CV:保志総一朗)と黒白(CV:諏訪部順一)のキャラクターソングに「Vanitas vanitatum」というものがある。
最近では『ブルーアーカイブ -Blue Archive-』にてアリウス分校を象徴する文言として描かれ、白洲アズサや錠前サオリなど、元生徒・現役生徒などがしきりに引用している。
このため、白洲アズサには以下のような顔文字のテンプレが存在する。
(ᓀ‸ᓂ)<ばにたす ばにたーたむ
また、上記理由から、錠前サオリの音MADではこの文言がやたらと用いられている。
関連動画
真面目じゃないもの
関連項目
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