ハインリッヒ・シュリーマン(Heinrich Schliemann)とは、19世紀の考古学者・実業家である。
概要
幼い頃トロイア戦争の伝説に夢中になり、長じてロシアで藍の商売を手がけ、その類稀な商才と語学力によって一代にして大富豪となるが、ある時期を境に事業を中断し、それまでに溜め込んだ資金を費やして世界旅行に出掛ける。
その後、考古学を学び、1871年(明治4年)、子供の頃夢に見たトロイア遺跡の発掘に成功。1890年に68歳で死去。というのが通説である。
その他、シュリーマンの主な経歴、人格、評価などについては、他サイト参照。
シュリーマン旅行記
1865年6月4日(慶応元年5月11日)、シュリーマンは事業を中断しての世界旅行の途上、清国を経由して東の果てにある謎の群島国・日本を訪れた。
到着後間もない6月10日(5月17日)に将軍・徳川家茂の上洛があり、これを見学。25日には米国代理公使ポートマンに働きかけ、当時困難だった江戸見学を実現。
上陸後1ヶ月ほど旅行し、7月4日(閏5月2日)、横浜からサンフランシスコへ出航。
1ヶ月という短い期間の旅行であったが、この間の事を書きとめ、後日旅行記として出版した。以下はその抜粋である。
(横浜上陸時)
「二人の官吏がにこやかに近付いてきて、オハイヨ〔おはよう〕と言いながら、地面に届くほど頭を下げ、30秒もその姿勢を続けた。次に、中を吟味するから荷物を開けるようにと指示した。荷物を解くとなると大仕事だ。できれば免除してもらいたいものだと、官吏二人にそれぞれ1分(2.5フラン)ずつ出した。ところがなんと彼らは、自分の胸を叩いて「ニッポンムスコ」〔日本男児?〕と言い、これを拒んだ。日本男児たるもの、心づけにつられて義務をないがしろにするのは尊厳にもとる、というのである。おかげで私は荷物を開けなければならなかったが、彼らは言いがかりをつけるどころか、ほんの上辺の検査で満足してくれた。一言で言えば、たいへん好意的で親切な応対だった。彼らはふたたび深々とおじぎをしながら「サイナラ」と言った 」
「『なんと清らかな素朴さだろう!』初めて公衆浴場の前を通り、三、四十人の全裸の男女を目にしたとき、私はこう叫んだものである。私の時計の鎖についている大きな、奇妙な形の紅珊瑚の飾りを間近に見ようと、彼らが浴場を飛び出してきた。誰かにとやかく言われる心配もせず、しかもどんな礼儀作法に触れることなく、彼らは衣服を身につけていないことに何の羞じらいも感じていない。その清らかな素朴さよ!オールコック卿の言うとおり、日本人は礼儀に関してヨーロッパ的観念をもっていないが、かといって、それがヨーロッパにおけると同様の結果を引き起こすとは考えられない。なぜなら、人間というものは、自国の習慣に従って生きているかぎり、間違った行為をしているとは感じないものだからだ。そこでは淫らな意識が生まれようがない。父母、夫婦、兄妹―すべての者が男女混浴を容認しており、幼いころからこうした浴場に通うことが習慣になっている人々にとって、男女混浴は恥ずかしいことでも、いけないことでもないのである。」
(横浜・豊顕寺にて)
「境内に足を踏み入れるや、私はそこに漲る(みなぎる)このうえもない 秩序と清潔さに心を打たれた。大理石をふんだんに使い、ごてごてと飾り立てた中国の寺は、きわめて不潔で、しかも頽廃的だったから、 嫌悪感しか感じなかったものだが、日本の寺は、鄙びたといっても いいほど簡素な風情であるが、秩序が息づき、ねんごろな 手入れの跡も窺われ、聖域を訪れるたびに私は大きな歓びを おぼえた。 (中略) どの窓も清潔で、桟にはちりひとつない。老僧も子坊主も親切さと この上ない清潔さがきわだっていて、無礼、尊大、下劣で汚らしいシナの坊主たちとは好対照をなしている」
(江戸見学にて)
「商業地域に入ってからは、じっくり見ることが出来るよう馬の速度を落とした。どこを見渡しても、肉屋も牛乳屋も、バターを売る店も、家具屋もない。日本人は肉も牛乳もバターも食べず、また家具の何たるかもまったく知らないからである。一方、金で模様を施した素晴らしい、まるでガラスのように光り輝く漆器や蒔絵の盆や壺等を商っている店はずいぶんたくさん目にした。模様の美しさといい、セーブル焼き(フランスの代表的な陶器)に勝るとも劣らぬ陶器を売る店もあった 」
「国産の絹織物を商う店が多いのには驚いた。男女百人を超える店員が働き、どの店も大きさといい、品数の豊富さといい、パリのもっともおおきな店にもひけを取らない」
「このほか、たくさんの下駄屋、傘屋、提灯屋、いろいろな教養書や孔子、孟子の聖典を売っている数件の本屋の前を通った。本は実に安価で、どんな貧乏人でも買えるほどである。さらに、おおきな玩具屋も多かった。玩具の値もたいへん安かったが、仕上がりは完璧、しかも仕掛けがきわめて巧妙なので、ニュルンベルクやパリの玩具製造業者はとても太刀打ち出来ない」
「日本の首都で外国人を目にすることは一大事件であり、私が道を通っている時も、人々は好奇心をあらわに唐人!唐人!(トウジン!トウジン!)と叫んだ。公衆浴場にさしかかると、喚声はいちだんと高くなった。運の悪いことに、風呂屋の前を徒歩で通りかかるたびに、横浜で遭ったような光景が繰り返された」
(浅草観音寺にて)
「左側のお堂には仏像の傍らに、優雅な魅力に富んだ江戸の「おいらん」の肖像画がかけられている。肖像画は絹布や紙に描かれ、どれも額縁に収められている。日本でもっとも大きくて有名な寺の本堂に「おいらん」の肖像画が飾られている事実ほど、われわれヨーロッパ人に日本人の暮らしぶりを伝えるものはないだろう。他国では、人々は娼婦を憐れみ容認してはいるが、その身分は卑しく恥ずかしいものとされている。だから私も、今の今まで、日本人が「おいらん」を尊い職業と考えていようとは、夢にも思わなかった。ところが、日本人は、他の国々では卑しく恥ずかしいものと考えている彼女らを、崇めさえしているのだ。そのありさまを目のあたりにして-それは私には前代未聞の途方もない逆説のように思われた-長い間、娼婦を神格化した絵の前に呆然と立ちすくんだ 」
「日本の宗教について、これまで観察してきたことから、私は、民衆の中に真の宗教心は浸透しておらず、また上流階級はむしろ懐疑的であるという確信を得た。ここでは宗教儀式と寺と民衆の娯楽とが奇妙な具合に混じり合っているのである。浅草観音の広い境内には、ロンドンのベイカーストリートにあるマダム・タッソーの蝋人形館によく似た生き人形の見世物や茶店、バザール、十の矢場、芝居小屋、独楽廻しの曲芸師の見世物小屋等々がある。かくも雑多な娯楽が真面目な宗教心と調和するとは、私にはとても思えないのだが」
(封建制度について)
「国元では大部分の土地を領有し、そこに絶対権力を振るっている大名たちは、二つの権力の臣下として国法を遵守しながらも、実際には、大君と帝の権威に対抗している。好機到来と見るや、自己の利益と情熱に従って、両者の権威を縮小しようと図るのである。これは騎士精度を欠いた封建体制であり、ヴェネチア貴族の寡頭政治である。ここでは君主がすべてであり、労働者階級は無である。にもかかわらず、この邦には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕された土地が見られる。」
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