輝きと熱さと
拮抗する星たち
せめぎあう魂たち
小さな油断と躊躇が
たちまち劣勢を招く
ヤエノムテキとは、1985年生まれの日本の競走馬である。府中2000メートルでの異常な強さと、シヨノロマンへの片思いが有名である。
主な勝ち鞍
1988年:皐月賞(GI)、京都新聞杯(GII)、鳴尾記念(GII)
1989年:産経大阪杯(GII)
1990年:天皇賞(秋)(GI)
この記事では実在の競走馬について記述しています。 この馬を元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するキャラクターについては 「ヤエノムテキ(ウマ娘)」を参照してください。 |
※本馬の活躍した時代に合わせて馬齢を特に断りがない場合数え年表記(現表記+1歳)とする。
デビュー前
父はマルゼンスキーの代替種牡馬として人気だったヤマニンスキー、母ツルミスターは未勝利のさえない馬だが、母の父はイエローゴッドで、地味に血統がよかったので繁殖入りできた馬である。
宮村牧場という浦川の小さな牧場で生まれたヤエノムテキは栗東の荻野光男厩舎に入厩。しかし気性難でデビューは遅れ、4歳の2月にやっとデビューした。
この頃同期のシヨノロマンに出会い、ひとめぼれしたが、まったく相手にされなかった。栗毛の四泊流星で格好いいのに
向かうところ敵なし
前述のとおりデビューは4歳の2月と遅れたが、ここの阪神の新馬戦を圧勝し、次走400万下沈丁花賞でも12馬身差もの大差で勝利した。
あまりに強いので陣営は皐月賞を狙ったが、条件戦を2勝しただけでは賞金が全く足りなかった。
そこで沈丁花賞から連闘で毎日杯に出走。さすがに無茶だったらしく、ここは4着に敗れている。1着は後にライバルとしてヤエノムテキの前に立ちはだかったオグリキャップであった。
連闘の甲斐なく賞金は足りないままだったが、ヤエノムテキは運よくに抽選をモノにして皐月賞に出走できた。さらにこれまた運よく大内1番枠を獲得。しかもこのシーズン中山競馬場のコース改修の影響で皐月賞は府中開催であった。
このうように幸運に恵まれまくったヤエノムテキだったが、実力も十二分に持ち合わせていた。道中不利を受けながらも好位でレースを展開し、最後の直線でぐんと伸び、3/4馬身差で見事に勝利。単勝25倍の大穴を開けた。
次走日本ダービーは距離の壁にぶつかり4着、続く中日スポーツ賞4歳Sはサッカーボーイに次ぐ2着と連敗で休養に入ったものの、9月に復帰するとUHB杯、京都新聞杯と連勝。菊花賞は10着だったものの、次走鳴尾記念を制し、10戦6勝、2着1回と素晴らしい成績で4歳のシーズンを終えた。
向かうところ敵だらけ
ここまで快調に飛ばしてきたヤエノムテキは、5歳初戦の日経新春杯を2着とすると、次走大阪杯を制し、5歳シーズンも順調な滑り出しをみせた。
能力に恵まれ、運にも恵まれていたヤエノムテキだったが、ついていなかったのはライバルにも恵まれまくっていたことであった。
オグリキャップ、イナリワン、スーパークリークの三強を中心に綺羅星のごとく現れる強力なライバルを向こうに回してヤエノムテキはよく走ったが、この大阪杯以降は勝ちきれないレースを続けることになった。
宝塚記念はイナリワンの7着、その後休養を経て秋の天皇賞はスーパークリークの4着、有馬記念もイナリワンの6着と、負け続きで5歳シーズンも終わった。
ムテキの舞い
東京の
二千に咲いた
ムテキの舞い
6歳になったヤエノムテキは、着は2着3着にまとまったものの、G2で惜敗を繰り返した。
しかし、安田記念からそれまでの主戦の西浦騎手から岡部騎手に乗り替わると、オグリキャップの2着と健闘。宝塚記念も3着とし、以前よりは成績を向上させた。
さらに続く秋の天皇賞、最後の直線で中団から抜け出したヤエノムテキはメジロアルダンの必死の追撃を振り切り、1分58秒2のコースレコードで優勝。悲願のGI2勝目を達成した。
その後ジャパンカップでは見せ場なく敗退し、ラストランとして有馬記念に出走した。
オグリキャップにとってもラストランであり、中山競馬場には多くのミーハーファンが詰めかけていたが、ヤエノムテキは気性の荒さがもろに出て本場場入場直後になんと放馬。レースも7着と見せ場なく終わり、現役を引退した。
ちなみにGI2勝の実績から引退式が検討されたが、余りに気性が悪いので陣営が断ったという逸話も残っている。
その後
引退後は種牡馬になり、5億円ものシンジケートが組まれたが、産駒が全く走らず、さらに安いシンジケートが組みなおされたが、やっぱり産駒は走らず、このシンジケートも解散してしまった。
当時は名馬の老後についての意識が低く、肉屋送りの危機に瀕したが、ファンの働きかけによってヤエノムテキはなんとか命拾いし、種牡馬を続けることができた。
その後2003年を最後に種付けはなく、2010年に種牡馬を引退。その後は日高スタリオンステーションで功労馬として余生を送った。2014年3月28日、腸閉塞により死亡。享年満29歳。
競馬ブームを彩った個性派、ヤエノムテキ。最後まで運に恵まれた馬であった。
血統表
ヤマニンスキー 1975 栗毛 |
Nijinsky II 1967 鹿毛 |
Northern Dancer | Nearctic |
Natalma | |||
Flaming Page | Bull Page | ||
Flaring Top | |||
*アンメンショナブル 1970 鹿毛 |
Buckpasser | Tom Fool | |
Busanda | |||
Petticoat | Palestinian | ||
Sabana | |||
ツルミスター 1980 鹿毛 FNo.1-o |
*イエローゴッド 1967 栗毛 |
Red God | Nasrullah |
Spring Run | |||
Sally Deans | Understanding | ||
Mountain Flower | |||
フジコウ 1964 黒鹿毛 |
*ソロナウェー | Solferino | |
Anyway | |||
ハマミドリ | トサミドリ | ||
フジサカエ | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Nearco 5×5(6.25%)、Menow 5×5×5(9.38%)
父ヤマニンスキーは持込馬として日本で走り22戦5勝の条件馬だったが、すでに種牡馬として成功していた同父・同母父マルゼンスキーの代替種牡馬として繁殖入りした。産駒にはヤエノムテキのほかオークス馬ライトカラーなど。
母ツルミスターは中央で3戦0勝。
母父イエローゴッドはジムクラックS・2000ギニートライアルS優勝のほか英2000ギニー2着など12戦5勝。産駒には英国に残してきた中に英2000ギニー馬が、また日本でも日本ダービー馬カツトップエースなど多くの活躍馬を輩出した。
関連動画
関連コミュニティ
関連項目
外部リンク
JRA賞最優秀父内国産馬 | ||
優駿賞時代 | 1982 メジロティターン | 1983 ミスターシービー | 1984 ミスターシービー | 1985 ミホシンザン | 1986 ミホシンザン |
|
JRA賞時代 | 1980年代 | 1987 ミホシンザン | 1988 タマモクロス | 1989 バンブービギン |
---|---|---|
1990年代 | 1990 ヤエノムテキ | 1991 トウカイテイオー | 1992 メジロパーマー | 1993 ヤマニンゼファー |1994 ネーハイシーザー | 1995 フジヤマケンザン | 1996 フラワーパーク | 1997 メジロドーベル |1998 メジロブライト | 1999 エアジハード |
|
2000年代 | 2000 ダイタクヤマト | 2001 該当馬無し※1 | 2002 トウカイポイント | 2003 ヒシミラクル | 2004 デルタブルース | 2005 シーザリオ | 2006 カワカミプリンセス | 2007 ダイワスカーレット |
|
※1.該当馬無しを除く最多得票馬はナリタトップロード。 | ||
競馬テンプレート |
- 8
- 0pt