富貴でありながら卑賤の者にも謙り、賢明でありながら愚かな者に頭を下げることを実行できたのは信陵君だけであった。ゆえに『魏公子列伝 第十七』を作る。
「信陵君」(しんりょうくん ? ~ BC244) とは、春秋戦国時代の魏の公子であり、戦国四君の一人である。氏は魏で諱は無忌で本来の名は「魏無忌」だが、信陵君の名の方が有名である。彼の出演する『魏公子列伝 第十七』は名文であるといわれ、晏嬰や楽毅、田単などと並んで司馬遷の愛されキャラである。
食客を三千人以上養い、その知略と軍略によって、秦の侵略により滅亡寸前の趙および魏を救ったが、その器量を自らの兄でもある安釐王に恐れられ失脚、最後は酒毒にあたり死去した。
エピソード1:主を震わせる者
信陵君が兄の安釐王と双六に興じていたときのこと、北方から狼煙が挙がり、趙国が侵略軍を起こしたという知らせがあった。王はすぐに大臣を呼んで協議に入ろうと思ったが、信陵君は、
あれは趙王が狩りに出ただけです。侵略ではありません。
といって、双六を続けた。果たして事実であることが分かり、王は驚いてなぜ分かったのかを問うと、
私の客分に趙王に通じている者がおりまして、異変があればすぐに知らせてくれます。
それで存じておりました。
と答えた。王は却って信陵君を恐れ、国政に参加させることは無かった。
エピソード2:公子と侯嬴
ある日、信陵君は城の門番をしている侯嬴が賢人だと聞いて、会いに行き、贈り物をしようとした。しかし侯嬴はこれを固辞した。そこで信陵君は酒宴を開き、侯嬴を自らの馬車で迎えに行った。
侯嬴は無礼にも信陵君の上席に座り、さらに途中で車を止めさせ、友人である肉屋の朱亥と世間話をしていた。その間、信陵君は嫌な顔一つせず、待ち続けていた。侯嬴は信陵君の顔色が変わらないのを見届けてから話を切り上げ、やがて一向は屋敷に着いた。
宴も酣となり、客の一人が侯嬴に、
あのような世間話などは、いつでもできるのではないか?
と質問した。それに対し侯嬴は、
あれは公子様への恩返しなのです。あれを見ていた人々は、私のことを、無礼にも上席に座り、どうでもいい用事で公子様を待たせる、失礼な爺とさげすんだことでしょう。一方、そんな私を、嫌な顔一つせず待ち続けた公子様はなんと素晴らしい方であるのだと、その名声は国中どころか、他国にも伝わりましょう。
と答えたという。 その後、侯嬴は信陵君の上客となり、侯嬴は肉屋の朱亥が賢人であることを伝えた。信陵君は朱亥にも礼を尽くしたが、朱亥はそれに返礼をしなかった。信陵君はそれを気にしていた。
エピソード3:趙の危機
紀元前258年、趙は趙括大先生(笑)の大失策により長平にて大敗北、さらに(白起が罷免された後)、秦軍は進撃して首都邯鄲は包囲され、趙は絶体絶命であった。
信陵君の姉は趙王の弟・平原君の夫人であったので、たびたび魏王と信陵君に書簡を送り、魏からの救援を求めた。魏王は将軍・晋鄙を派遣するが、その直後に秦から、
という脅しを受け、晋鄙に軍を留める命令を出し、静観の構えを取った。
信陵君は何度も軍を進めることを進言するが容れられず、やむなく食客3000人のみで救援に向かおうとした。
いざ出発の時になって、城を振り返ると門前に侯嬴がいた。信陵君は自分が死地に赴くのになぜ侯嬴が何も献策しないのかを訝り、出発を留めて侯嬴の元に寄った。そして侯嬴は次のように言った。
きっと公子様はお戻りになるだろうと思い、門前にて待っておりました。今、策も無く出撃するのは、飢えた虎の前に肉を置くようなもの。魏の国軍を動かさない限り、勝利は有り得ないのでございます。
聞くところによりますと、晋鄙の軍令の割符は、いつも王様の寝所に置かれておりますとか。王の寵姫・如姫様ならばそれを盗み出すこともできましょう。如姫様は以前、あなた様が敵討ちを手伝ったお方。必ずこれを快諾なさると思います。
公子はそれに従い如姫に頼んで軍令の割符を手に入れた。そして出発のとき、侯嬴は、
もし晋鄙が君命を受ければそれでよいが、君命を受けないようなことがあれば打ち殺してしまいなさい。肉屋の朱亥は強力の男。あの男を使いなされ。
公子は殺されるであろう晋鄙のために涙し、朱亥のもとに行った。朱亥は、
私は単なる肉屋ふぜい。しかし公子様は何度も私を尋ねてくださった。あえて返礼しなかったのは、小さな礼儀など役に立たないと思ったからです。この度の公子様のご難儀、これこそ私の命の差し出すときです。
そう言って信陵君に付き従った。果たして晋鄙は軍を明け渡すのを拒否したが、朱亥はこれを打ち殺した。
公子は軍を率いて秦軍を撃破した。その後軍を魏に返させ、自らは魏には帰れないとして趙にとどまった。趙王は信陵君に城を五つも与えようとしたが、公子は、自分には魏に対して罪は有るが趙に対して功は無いと言ってこれを固辞した。
エピソード4:公子と博徒
ある日公子は、趙国の賢人である毛公と薛公が浪人して博徒に落ちぶれていると聞いて、二人に会いたいと思い使者を出したが断られたので、自らの足で二人に会いに行った。三人は意気投合し、大いに盛り上がった。
それを聞いた平原君は夫人に対し、
そなたの弟はかねてより名士と聞いていたが、博徒と付き合うなど、だらしない人間なのではないか?
平原君はまことの士を求めていないのですか。私は兼ねてより魏にいた時分からあの二人の賢者の名を聞いていた。趙に来ても会えないかと恐れていました。私が出向いても会えまいかと気遣っていたほどでありました。
と反論して、趙を出奔しようとした。秦が趙を攻めないのは信陵君を恐れてのことであったので、平原君は冠を外して信陵君に詫びた。これを聞いた平原君の食客の半分は信陵君に鞍替えしたという。
エピソード5:諸国連合軍盟主
紀元前248年、魏国は秦の侵略を受けて滅亡寸前であった。魏の安釐王はたびたび信陵君に、以前の罪は許すので魏国に戻るようにと言う書簡を出したが、信陵君は後難を恐れて帰らなかった。そこに、先の毛公と薛公がやってきて、こう言った。
公子様が趙国で重んじられ、御名が諸国に聞こえておりますのは、魏国あってのことでございます。もし秦が魏を滅ぼし、先祖の宗廟が破壊されたとすれば、公子様はどの顔を下げて天下に向かわれるのでございますか?
これを聞いて信陵君は魏に帰国し、自分が魏の上将軍になったことを諸国に通達した。諸国は信陵君が軍を率いると聞いていっせいに救援軍を魏に送り、信陵君は5カ国連合軍を率いて黄河にて秦軍を撃破、追撃を与え、函谷関まで秦軍を押し返すという大戦果をあげた。
これにより信陵君の威名は天下に轟き、秦の中華統一事業は大きく衰退したかに思われた。
終章:離間の策
信陵君が生きている間は秦の中華統一は望めないかに思われたが、秦は晋鄙の遺族を食客だったものを探し出し、信陵君を中傷させ、さらに信陵君が王位を簒奪しようとしているといううわさをばら撒き、それを信じた魏王は信陵君を罷免させてしまった。
信陵君は失意のうちに世を去った。それは魏国滅亡の足音であった。
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