朝鮮半島においては、日本の侵略から朝鮮の危機を救った"救国の英雄"とされている。
概要
生年は1545年~1598年、漢陽(現在のソウル特別市)の生まれといわれている。22歳の頃に兵士となるための科挙「武科」を受験し始めて32歳で合格、下士官として登用された。
豊臣秀吉によって行われた文禄・慶長の役においては水軍の司令官に任命される。甲板部分を覆って武装した船「亀甲船」を開発したとされ、海戦・近接戦闘を得意とする日本軍を苦戦させた。また、日本軍の補給路を狙うなど、戦術指揮は優れていたと考えられている。しかし、様々な要因から実際はそこまで戦況に影響を及ぼしてはいなかったとされる(詳細は後述)。
慶長の役において、撤退する日本軍の追撃中に戦死したとされている。「流れ弾が当たった」「島津の鉄砲に狙われた」などとも言われているが、史実は不明のままである。[1]
後に日本からの侵略を防いだ功績をたたえて「李舜臣」像が建立された。その目線は日本の方角を向いて睨みをきかせているという。
また、2002年に韓国で建造された駆逐艦には「忠武公李舜臣」の名前が与えられ、李舜臣級駆逐艦の1番艦として韓国海軍に就役している。詳しくはこちらの記事を参照。 → 忠武公李舜臣級駆逐艦
人物像
一言で言えば不遇の武将と言える。
戦術的な面では才能にも部下的にも恵まれていたが、若い頃より血気盛んで攻撃的な部分があり、日本軍との戦いでは、その積極的に打って出る姿勢が逆にマイナスとなることもあった(ただし戦闘においては相手の強さを分析し慎重に戦っていたともされる)。
特に政治的な部分の方でだいぶ苦しめられていた(敵は身内にあり)。上司に恵まれず上司になった者とは何度も争うことがあり、本人にも問題があったが上司たちにも足を引っぱられていたせいで、まともに戦えているとは言いがたい状態だった。
- 上司になった者と何度もいさかいを起こしており、武将になったり、一兵卒に落とされて最前線送りにされたり、また武将に復帰したりと浮き沈みが激しかった。
- 昇進と栄転はだいたい幼なじみ(首相である柳成龍)のコネ。他の武将からはそれで恨みをかっていた。
- スンシンの才能と不遇を見ていた地方知事が推薦してくれたおかげで一兵卒から士官に復帰するが、知事がよりによって幼なじみの政敵だったため、のちにそれを知った知事からは距離を置かれ、後ろ盾を一つ得たと思ったら後ろ盾を一つ失う。
- 昇進のおかげでかつての上司(元均)を指揮する立場に。上司は自分の元・部下であったスンシンに部下扱いされるのを嫌がってスンシンとケンカばかりしており、のちに赴任地変更を中央へ願い出て勝手に異動してしまう。[2]
- 血気盛んな性格が災いし、宗主国である明と日本との休戦期(停戦・講和交渉の時期)においても「日本殺すべし。慈悲はない。」と戦う姿勢を変えず日本軍の拠点を攻撃していたため、宗主国からも「お前戦うな(オメーのせいで交渉ダメになるかもしれねーんだよ)」と怒られる。
- 休戦期に着々と集まってきていたスンシンアンチ(元・上司も参加)から誹謗中傷を宮廷内に広められており、中央からの使者によって査問にかけられる。とりあえず留任にはなったけど精神的に疲れてくる。
- 日本側の使者(小西行長)が日本から武将が来ることを漏らす。中央はそれを信じて「上陸したとこを潰せ」と指示が出るが、スンシンは「待て あわてるな これは日本軍の罠だ」と判断して動かなかったため、反逆罪で死刑にされかける。囲いからのとりなしをうけて減刑されたがまた一兵卒に。
- スンシンに代わり司令官についた元・上司が戦死したことで一兵卒から司令官にまた復帰(特進)する。でも上司は戦死ついでに大敗もしていたため、やばい状態でそのまま司令官を引き継がされる。
中央「がんばってくれ。残りの艦もう12隻しかないけど。」
スンシン「Σ(゜Д゜)!?」
→結果、何とかがんばって日本軍の戦力を削りました。 - 講和がまとまったため日本も宗主国側も両方が撤退しているのに、これを拒絶して無理に追いかける。
「何だっていい!日本にとどめを刺すチャンスだ!」 → 結果、追撃中に戦死する。 - 戦死した後にようやく中央から「忠武公」の称号とともに英雄として賞賛される。しかし幼馴染が失脚すると当の自国民にすら忘れられる。日本に対し逆ネジをかましたという話は、日本統治時代になってから発見され、ようやくその功績が再評価され、本格的な研究が行われたという。[3]
- 「天才的に指揮に優れ日本軍の行動を全て読み切っていた最強無敵のヒーロー」として自国民にとても良く知られ愛されている。 ←今ココ [4]
戦闘
- 【攻撃的だが慎重】
- 日本軍は海上での戦闘において、多数の船による敵船への接舷、そこに乗り込んでの近接戦闘をメインとしていた。スンシンは「あいつらに近づかれたらヤバい」ということを知っていたため、弓矢および敵船への放火による遠距離攻撃に徹していた(スンシン自身が常に弓術を練習しており、部下にも「敵の頭を斬るより射殺する方が大事」と教えていた)。
- 【無理せず撤退】
- 当時の日本は戦国時代であったため武士も多く実戦経験も豊富。逆に朝鮮は文官の時代で軍縮傾向にあった。そのためスンシンは全面的な真正面からの戦闘は避けている。
- 文禄の役のときには秀吉の軍勢によって朝鮮半島の南東にある慶尚道の水軍は壊滅した。しかし、スンシンはその西側の区域にある全羅道の水軍を温存しており、支配地域を作って停泊していた日本軍の船団を襲撃。その地域からの離脱中でも別の日本水軍を撃破しながらの撤退を行っている。
- 1500人から成る脇坂安治の水軍に対しては、潮流の激しい場所にオトリを使って誘いこみ撃破、サポートのため付いていた別武将の水軍もさらに撃破した。
- 慶長の役においては、かつて指揮していた全羅道の水軍も掃討されつつあり、巨済島の海戦で200隻近くあった朝鮮水軍が10隻ほどにまで減っており、残存艦隊を率いる形となったが、潮流の激しい鳴梁海峡へ日本水軍を誘導して攻撃し、自国戦力の10倍もある敵戦力130隻のうち約30隻を撃破する。しかしスンシンにはそれが限界であり、日本軍のもっと大きい後続戦力が来ることを把握していたため地域の占有に固執せずすぐ撤退している。
- 【亀甲船の開発】
- 日本が海戦で乗り込もうとしてきた時の対応として上部の甲板全体を鉄板で覆った「亀甲船」を開発。日本軍が乗り込んでも上が覆われているため入れず、鉄板の隙間から槍などで攻撃して倒し、日本の接舷を阻止したという。しかしこの亀甲船、「Civilization」「Age of Empires」などのゲームでも登場しているが、実際には資料が少なく本当にあるのかが不明とされている。後世の創作である可能性、実験船で少数配備だった可能性なども考えられるが、事実は不明のままである。
- 【兵站線の破壊】
- 日本軍の兵站を担っていた水軍や武将を倒しており、日本軍の継戦能力を削っている。
- しかし、近年の研究によると、兵站を脅かすことができていたのは文禄の役の序盤のみであり、その後はさほど大きな影響を与えられなかったようである。というのも、最初こそ護衛のない輸送船を沈めたり、水軍を率いて兵站も担っていた来島通総を撃破しているが、それを重く見た日本は護衛を増やし、海戦を避けて陸・水軍が離れず共同で防衛を固めるようになった。当時の朝鮮の船は底が平らで転覆しやすく、沿岸からあまり離れることができなかったため、途端に攻撃が困難になったのである。さらに、その打開策として日本水軍の兵站補給の重要拠点である釜山を狙い、無理をおして総攻撃しているが、敗走し撤退している。よって、日本軍が補給に困っていた主要因は、朝鮮軍の弱さに内陸部に進出しすぎ、兵站線が伸び切った上、当時不作だった朝鮮では現地調達ができなかったためとされ、実際にその対策をした慶長の役では兵站線の不具合はほぼなかったという。
関連動画
解説動画
ドラマ・映画
関連商品
商品の「乱中日記」はスンシン本人が残した日記を書籍化したものである。
関連項目
関連リンク
- 「李舜臣は世界史変えた偉大なリーダー…世界3大提督の資格充分」 (中央日報 2015.01.06)
- 李舜臣は大勝利などしていなかった…韓国歴史映画の史実歪曲を考える―中国メディア (RecordChina 2014.12.21)
脚注
- *朝鮮側の『乱中雑録』では、「アンブッシュ中だった日本兵の一斉射撃で倒された」とされており、日本側の『征韓録』では「日本軍の追撃に来た副将の鄧子龍(とうしりゅう)のピンチを救うためやって来たところを囲んでボコった」としているらしい。双方の主張が食い違っているので事実は不明。
- *スンシンが遺した日記にも「世界中どこ探したってあんなクソいねーわ(意訳)」と書かれているため、スンシンの方もだいぶ嫌っていたようである。ただ、日本軍の漏らした情報は元均もワナだと考えており、中央から命令された待ち伏せ作戦を拒否したという点ではスンシンと一致している(罰を食らったうえ無理やり行かされたが)。
- *奮闘により民心を集めていたので中央は自分たちの立場を脅かされると心配していたがスンシンが死んだことでその心配がなくなったため。また、完全に忘れられたわけではなく、約200年後に幼なじみと同じ首相(領議政)の称号を当時の中央から追加で贈られており、その間にも碑が造られたり祠が建てられたりとポツポツとその痕跡は残っている。日本統治時代の朝鮮学者による資料も残っているため、再評価は日本・朝鮮の両方で行われていたようである。
- *日本統治時代に"韓国臨時政府"が海外にて抗日の先駆者/ヒーロー像として喧伝したためその流れをくむ形で今の状態になっている。ちなみに"臨時政府"は海外に亡命した者たちが設立した独立運動組織であり、当時は国際的には何の権限も認められていなかったが、韓国国内では現在の政府の前身として扱われている。
- 6
- 0pt