31 ななしのよっしん
2011/03/10(木) 18:27:00 ID: sxZsoW5VB8
戴冠式で冠を頂いた王は
プロイセンと言うが形骸化すると恐れて戴冠には否定的だったって聞いたよ。

…残っててほしかったなぁ
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32 ななしのよっしん
2011/05/01(日) 15:26:47 ID: CIG3bIFs1q
中二病というか、中世ヨーロッパモデルにしたような作品の中で、
プロイセンはそのなかでも特にモデルにしやすいのがあるじゃん。

世界史の授業で聞いた事あるけど、何かフィクショナリー」っていう感じ(文字ったような架空の国として使われるせいだけど)。
まあそんな事言ったらゲルマン移動後のどのが何かしらそういう創作の対にはなってるんだろうけどさ。

>>30
中国史ってより人のが見ていて楽しいんだよな。紀伝体のせいだけど。
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33 ななしのよっしん
2011/08/02(火) 18:05:54 ID: ry0HDV+4xp
>>24
プロイセンで生きていった人達に全で謝ってくればいいと思う。
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34 ななしのよっしん
2011/08/14(日) 15:35:29 ID: 9SBJcDw+4a
プロイセンって高校世界史だと
なんか突然現れてヨーロッパ中にちょっかいかけまくった挙句
いつのまにか消えていた入者みたいなイメージだった

世界史ってイギリスフランス中心だからプロイセンすごい唐突に感じる
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35 ななしのよっしん
2011/10/21(金) 15:56:05 ID: Mv2Ww02l9d
>>28-29
戦争けるプロイセンの態度(ビスマルクの意図とは別に)はフランス念を蓄積し、第一次世界大戦後のベルサイユ体制による戦後処理の流となったが、
戦争戦後処理の様に『戦勝としての寛大な姿勢よりも、戦勝として敗戦国叩きのめす戦後処理を重視する姿勢』がトレンドだったのも事実だよね。
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36 ななしのよっしん
2011/10/27(木) 03:01:49 ID: O3jzh5hoyu
フリードリヒ大王の戦歴とかすげえ燃える
周囲からは迷惑だったんだろうけど
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37 ななしのよっしん
2011/11/06(日) 15:54:12 ID: mpydSHyVnv
自軍が劣勢の時、自ら旗振りながら「ごろつき共よ、永遠の生を得たいか!」って言ったらしいね。
しかも同じ行動を何度かやって、その度に負傷してるっていうのがおもしろい。
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38 ななしのよっしん
2012/04/05(木) 02:17:11 ID: Z9R0yym9lY
ユールヒェンちゃんマジ女神
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39 ななしのよっしん
2012/06/13(水) 22:50:48 ID: AS0K0blCOc
国旗カッコよさは異常
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40 ななしのよっしん
2012/08/03(金) 01:58:36 ID: ia2V68sUID
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41 ななしのよっしん
2012/08/03(金) 17:23:51 ID: YVrneTUNFL
>>40
神聖ローマ帝国の記事もあるから余計に書かれづらいのかも
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42 ななしのよっしん
2012/11/09(金) 17:31:13 ID: YgAWAcs3SS
>>39
何年か前から国旗グッズを良く見かけるようになったが、プロイセン国旗グッズマジかっこいいよな。もっと増えてほしい。
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43 ななしのよっしん
2012/11/22(木) 18:39:56 ID: FcUhLhL2t0
>>34
七年戦争ドイツ統一辺りはともかく、発祥と終焉はちょっと西洋史攫った程度だと分かりにくいよなあ。
まあ歴史は学ぶこと多いしそこまでフォローしてられないのかもしれないが。
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44 ななしのよっしん
2013/01/16(水) 16:09:14 ID: DbgPpfDTJ3
飛び地って魅かれるものがあるよな
カリーニングラードは最初に地図上で見つけた飛び地だったな
(ロシア)ってなんだよ…って思ってた
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45 ななしのよっしん
2013/04/17(水) 14:11:51 ID: wkyGEnDr/f
とある小説で「ヴィルヘルム一世がドイツ帝国じゃなくて、強引にでもプロイセン帝国って名前にしときゃ、第二次世界大戦ヒトラーの野望もなかった」ってあったんだけど、そんな重要なトコだったのかいプロイセンってのは。
帝国になる前もドイツ人が多かったけど、住んでた人も「別にここドイツじゃなくてポーランドだけど」みたいな認識だったとかなんとか
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46 ななしのよっしん
2013/06/02(日) 10:09:37 ID: eVG4OrWd7f
>>45 ドイツ人としてのまとまりの盟になってしまったからね。
プロイセンはそりゃ大半みればドイツだけど認識の話もあるように、本当そこらへん自由だったのよ宗教に関しても、それの臣下として他のドイツ諸王がつくわけになるからそういう効果はあったのでは?ってことじゃないかな
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47 ななしのよっしん
2013/06/02(日) 10:32:16 ID: w6HBiNrRgr
>>44
最初に見つけた飛び地和歌山県北山だったには
ロマン欠片もなかった
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48 ななしのよっしん
2013/09/14(土) 19:02:52 ID: na24dvQ8pT
>>45
その場合のプロイセンは「プロイセン王国」じゃなくて、元「王領プロイセン」か「バルト沿地方プロイセン」のことだと思うぞ。
プロイセンってのは「プロイセン王国」だけじゃなく色々あるが、説明しようとしたら長くなったんでウィキでも見てくれ。

バルト沿地方プロイセン」の「王領プロイセン」はポーランド分割までポーランドだったし、「プロイセン公国」は17世紀に独立するまではポーランド属していた。
しかし首都ベルリンとかのブランデンブルクの方は「ブランデンブルク選帝侯領」だったから、ポーランドだったことはないはず。もちろん独立の「プロイセン王国」がポーランド属していたことはない。
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49 ななしのよっしん
2013/09/14(土) 19:04:33 ID: na24dvQ8pT
元々のプロイセン地域とか元ポーランド領に住んでてポーランド人の認識保ってる人ならまあそんな認識なのかもしれないが、ポーランドに属していたことのないブランデンブルクの人や、プロイセン王国で全体的にそんな認識だったってことじゃないと思うぞ。
まあベルリンも元はスラブだかの異民族がいたとか、フランス移民が多かったとかで、元は神聖ローマ帝国でも辺地域、色々な民族入り混じった地域らしいから、ドイツ人としての認識についてはどうか知らんけど

でもドイツ帝国じゃなくプロイセン帝国だったら、他のドイツ諸侯の反発があって統一が難しかったんじゃないかね。
特に反プロイセン意識が強かったというバイエルン
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50 ななしのよっしん
2013/09/14(土) 19:41:31 ID: na24dvQ8pT
>ドイツ騎士団領~プロイセン公国
>グルンヴァルト(タンネンベルヒ)の戦いで敗戦、以降ポーランド邦臣プロイセンとして命脈を繋ぐ。

記事のここ、端折り過ぎて1410年から1525年の年以上のドイツ騎士団領がプロシア領と混同されないか?
1410年のグルンヴァルト(タンネンベルヒ)の戦いで敗戦以降もドイツ騎士団領はドイツ騎士団領。
次の戦争の敗戦で1466年にポメリアなど西地域を失ったが、(ポーランド王領プロシア)、残った地域はそれ以降もドイツ騎士団領として存続しているし、ポーランド王を宗にはしたが、まだ「邦臣」にはなっていない。
この地域がプロシア領になったのは、37代ドイツ騎士団総長アルプレヒト・フォン・ブランデンブルクが初代プロイセンとしてポーランド王の臣従の誓いをした1525年。
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51 ななしのよっしん
2013/09/28(土) 17:14:50 ID: x2UbZZsPTd
ドイツ統一した軍事の印あったから民義的ななんだと思ってた
でも大日本帝国大和民族以外入れてたし、軍事的な帝国はかえってそうなのかもしれんな
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52 ななしのよっしん
2013/10/08(火) 16:39:33 ID: na24dvQ8pT
>>51
プロイセン軍事として発展したのは軍人王と呼ばれた2代目国王、そして大王と呼ばれた3代国王、かのフリードリヒ2世による所が大きいが、それ以前からフランスの新教徒移民を受け入れていたためプロイセンにはフランス系が多く、建初期でも首都ベルリンの3人に1人はフランスというほどだった。教会学校フランス人用のものがあった。
むしろ軍事がかかる=経済発展の必要=移民ウェルカム!で軍事だから多民族国家になった一面もある。
元々のプロイセン地域もフリードリヒ2世の時代に手に入れたシレジアも色んな民族入り混じりだったし、ポーランド分割ポーランドプロイセン人も増えたしな。
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53 ななしのよっしん
2013/10/08(火) 16:59:43 ID: na24dvQ8pT
当時のフランス面積だけじゃなく技術者や知識人など人材面でも優位にあり、その上新教徒に属する人材は多かった。
フランス新教徒の移民の増加はそういう高い知識や技術を取り入れ、文化経済を発展させる効果があった。
スイス時計もこの頃にスイスフランスから受け入れた新教徒の時計工から発展したもの。
後進国だった北ドイツの発展はフランス移民の大量移民からという説もあるほど。

……フランス視点だと人材の大量流出だけどな。ルイ14世ェ…
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54 ななしのよっしん
2013/11/05(火) 14:49:19 ID: zQe95FgCaj
>>53
アレナントの勅止したルイ14世自業自得と言うか、今まで許可してたものを急に締め付けだしたらそりゃ流出も起きるというもので。

あと、プロイセン王国と言う名称は「ブランデンブルク辺境伯が王号を名乗るのは駄だけど、神聖ローマ帝国の外にあるプロイセン公国公爵が王を名乗るのは認めよう」って神聖ローマ皇帝(=ハプスブルク)が認めたからなんだよね。
当然、ブランデンブルク辺境伯プロイセンだったので名実ともにブランデンブルクの中心都市だったベルリン首都とするプロイセン王国が建っちゃったわけだが、この時期の「建前重視」の考え方はそのすぐ後のフリードリヒ2世時代の「が総て」的な考え方と面いくらいに対をなしてる気がする。
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55 ななしのよっしん
2013/11/05(火) 14:54:05 ID: zQe95FgCaj
因みにあんまり関係ないかもしれないがトリビア一つ。

ハプスブルクの初代皇帝ルドルフ1世神聖ローマ皇帝となれるように最も尽し、即位後っ先に臣従を誓ったのは、
後にプロイセン王国してハプスブルクドイツから叩き出したホーエンツォレルンに所属するニュルンベルク伯だった。

因みに二人は旧知の仲だったそうな。
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56 ななしのよっしん
2013/11/06(水) 00:32:29 ID: 0BInmBVFy1
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57 ななしのよっしん
2014/04/18(金) 12:50:09 ID: s80fFfSaFy
>>56
構文化や芸術科学などでの功績も多いよ
フリードリッヒ大王芸術を好んだし、江戸時代日本画にも使われたプルシャブループロイセン王国開発されたものだし、内産業の育成などでも軍事以外の面にもを入れていた
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58 ななしのよっしん
2014/05/11(日) 15:22:53 ID: x/1ZtbD1G0
フリードリヒ2世フルートたしなんでたしね
ドイツに行ってお墓の前でフルート演奏………は、止めとこう、うん

なんかの拍子に名前だけでも復活してくれたら泣いて喜ぶわ
ヨーロッパ歴史って血生臭くて敬遠してたけど
何か分からんが好きなんだよこの
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59 ななしのよっしん
2014/05/11(日) 19:14:51 ID: ZjIEOjrwHX
カリーニングラードとかいうスターリン腰巾着名前を付けた地名いい加減なんとかしてくれよロシアさん。
ケーニヒスベルクに戻せとは言わんからさ
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60  
2014/06/25(水) 19:59:31 ID: Z9VVHzIo2v
>わざわざ敗戦国フランスヴェルサイユ宮殿ドイツ皇帝戴冠式が行われ

これってもしかして壮大な嫌がらせ
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