ムッソリーニ
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181
ななしのよっしん
2013/06/13(木) 09:58:59 ID: 9F9lr4XED2
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182
ななしのよっしん
2013/06/13(木) 11:01:46 ID: EVDJg9zHIS
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>>117あたり
ウアル・ウアル事件について少し聞きたいのだけど、アビシニア人が要塞に押しかけたのはイギリス・エチオピア合同委員会だったと思うのだけど。
この近くにはイギリスの植民地もあったし、井戸の管理をイギリス・アビシニア人に認めていなかったことに対する抗議が動機であったように記憶しています。
そこへイタリア人が空軍を動員し、イギリス人は抗議して去っていき、アビシニア人が残る。
衝突の結果はイタリア人死者20人、アビシニア人死者300人。
外交ルート通じて解決すればいいものを、ムッソリーニは演説で、
「我々は第一次世界大戦で67万人も死者を出してエチオピアを手に入れたのに、イタリアには植民地の戦利品のかけらしか回ってこなかった。われわれはエチオピアに対し40年間我慢してきた。もうたくさんだ。人類にとって最も偉大な成果を獲得してきたこの国民に対して、数多くの詩人、芸術家、英雄、成人、航海者、旅人を生み出したこの国民に対して制裁措置を持ち出そうとは何たることか」
と言って戦争を始める。
かなりムッソリーニに詳しい方のようだけど、ここでムッソリーニは明らかに「植民地的性格しか帯びていないこの衝突」と言っている以上、植民地戦争を仕掛けるつもりだったという意図は否定できないのではないでしょうか?
あと、1996年になってエチオピアにおいて毒ガスを使っていたことがようやく政府に認められたけど、それに対するコメント(これまで隠蔽されてきたことについて)があればお聞きしたい。
またバルカン半島でのイタリアの強制収容所についても、それなりの虐殺などを行って、だからほとんどパルチザンになったと思うけれど。 -
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183
ななしのよっしん
2013/06/13(木) 11:17:53 ID: EVDJg9zHIS
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184
ななしのよっしん
2013/06/18(火) 10:24:22 ID: 0JiNVT2iO6
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>>182
それ全部語っても良いんだけど「長文」「連投」になるからねぇ……
約一名、政策の諸々を語るのに「長文連投するな」とか勝手な自分ルールを押しつけてくるお人が居ますからねぇ
ま、求められたのでお答えしましょう。
>エチオピア戦争について
まず第一次世界大戦にまで話はさかのぼります。
第一次世界大戦が始まった当初、イタリアはドイツとオーストリアと三国同盟を結んでいた同盟国側陣営でした。
しかしオーストリアとの間には「未回収のイタリア」問題があり、そもそも古代ローマ帝国の御代からずっとイタリア人は「ゲルマン民族」が嫌い。
神聖ローマ帝国や、オーストリアに北部イタリアが占領されていた時もあったし、国民感情としてドイツ、オーストリアには親しみを感じないと考えるイタリア人が多かったわけです。
結局世界大戦にはドイツやオーストリアの味方をする事なく、「中立」を宣言しました。
しかし、イギリスやフランスは「今は一国でも多く味方が欲しい」「ドイツとオーストリアに第三戦線を作って疲弊させよう」と考え、イタリアに味方して参戦するよう働きかけました。
無論ドイツもオーストリアもイタリアの敵対を避けるために外交攻勢に出ますが、英仏がイタリアに約束した「分け前」の方が良かったわけです。
結局、これを根拠にイタリアは「ロンドン密約」ないし「ロンドン秘密協定」と呼ばれる条約を英仏と締結。
オーストリアに向かって宣戦を布告しました(ドイツには宣戦しなかった)
ロンドン秘密協定でイタリアに約束された分け前は次の通りです。
1、フィウメ港を含むイストリア半島(オーストリア領)
2、トレントを含む未回収のイタリア(オーストリア領)
3、アドリア海沿岸のダルマツィア(旧ヴェネツィア共和国領)
4、アルバニア
5、ギリシャ、トルコ沿岸の諸島
6、ニース、サヴォイ、コルシカ、チュニスといったフランスに「強奪された」イタリア領土
7、エチオピア
8、イタリア領リビアとイタリア領エリトリアを結ぶ回廊のような植民地
9、ドイツが海外に持つ植民地やオスマン帝国が中東に持っている利権など
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185
ななしのよっしん
2013/06/18(火) 10:46:30 ID: 0JiNVT2iO6
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見て解るように、ロンドン秘密協定でエチオピアはイタリアへの「分け前」として英仏によって保障されています。
無論この国は英仏の植民地ではなく、一応「独立国」だったのですが、当時は帝国主義が当たり前の時代です。力なき有色人種の国は欧米先進国の植民地になるのが当たり前だったのです。
そもそも、東南アジアのタイと同じく、英仏の緩衝地帯として「お情け」で生かされていたのがエチオピアですし。帝国主義真っ盛りの時代は生きるも死ぬも英仏の胸先三寸次第だったわけです。
しかしこの秘密協定に則ってイタリアは参戦したのに、ここにアメリカのウィルソンという頭のおかしな大統領が現れます。
「無併合」「無賠償」で有名なウィルソンですが、もう一つ「秘密外交の無効」という旗も掲げていました。
当然、ロンドン秘密協定をウィルソンは認めるはずもなく、ドイツの海外植民地もオスマン帝国の中東の領土も、全て英仏に分配されました。イタリアはフィウメ港すらウィルソンの反対に遭って獲得できませんでした。
これがイタリア人を憤激させ社会主義化し、そして今度はファシズム化するに至った原因ですが、このロンドン秘密協定の一件はイタリアが英仏の「弱み」を握る事を意味しました。
英仏も少しくらいは「イタリアに悪いことをしたな」と思うところが在ったわけです。
この後、ワルワル事件まで時代は飛ぶのですが、ここで指摘しておかねばならないのは、前にも書きましたが、
「ムッソリーニはエチオピア征服の意欲など持ってなかった」
という事です。これは強調の為に何度も書いておきますし、わざわざ改行とカッコまで使って強調しておきます。
英仏の緩衝地帯でまともな国家として認められていなかったエチオピアを国家として「承認」し、公使館を「大使館」に格上げしたのはムッソリーニのイタリアです。
エチオピアの国際連盟への加盟を推薦したのもムッソリーニのイタリアです。
数あるエチオピア皇族の一人に過ぎないハイレ・セラシエを後押しして即位させたのもです。
ムッソリーニは非常にエチオピアに友好的に接してきており、それは当時の日本人も認めるところでした(澤田謙の『ムッソリニ傳』)
ムッソリーニはエチオピアを「経済的に支配」できれば満足で、領土は必要ないとさえ豪語していた時期があったのです(ヒューストン・チェンバレンの回想)
その友好関係をぶち壊したのがエチオピア側だった事も、既に書いた通り。 -
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186
ななしのよっしん
2013/06/18(火) 11:14:06 ID: 0JiNVT2iO6
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エチオピアにはナイル川の源流が在る。水の取れないイタリア領エリトリアはエチオピアから水を買っていたが、その水こそがこのナイル川源流。
エチオピアは昔からエリトリアを領土要求しており、イギリスが後押ししてくれる事で強気になった。
ナイル川源流にイギリスの援助で簡易ダムを作る事を発表する。このダムが完成したらイタリア領エリトリアは干し上がる。イギリスはエジプトにイギリス向けの綿花を大量生産させるためにこんなダムを必要としただけの話。
当然、言われるまでもなくムッソリーニもイタリア政府も外交によって抗議した。しかしエチオピア政府は「アドワの戦いで勝ってる」という慢心からかイタリア政府を軽く見ており、イギリスの後ろ盾を過信していた。
こんな時にワルワル事件が起こる。
そもそもイタリア領ソマリランドとエチオピアの間にはまともな国境も無く、ワルワルの帰属も不明。一応現在の地図ではエチオピア領内に位置しているが、イタリア人としては苦労して作り上げたこの近代的な町は、当然イタリア領土という思いがあった。エチオピア政府は、首都から遠く離れたワルワルの辺りなど無視して省みていなかったのだ。
具体的な衝突の経緯は>>182が書いてくださった通りで、イギリス人がエチオピア側に居たのも事実。国境の無いエチオピアとイタリア領ソマリランドの国境を策定する国境画定委員会みたいのが活動しており、ワルワルに軍事要塞のような物が築かれているのを見て、
「ここはエチオピア領土だからイタリアは軍事要塞を撤去せよ」
と抗議したのが衝突の発端だった。
元々「イタリア人が苦労して築き上げたワルワルはイタリアの領土」と思っていたのに、イギリスやエチオピアから居丈高に言われれば腹も立つのが人間だろう。
まして「イギリス人はロンドン秘密協定を破った嘘つき」という話は、イタリア人なら誰でも知っていた。
それにワルワルに「軍事要塞」が存在したのは事実だが、これは何もエチオピア帝国を狙い撃ちにした要塞ではない。エチオピア帝国の警察権が及ばないワルワルでは、当時の中国大陸で言う「馬賊」「匪賊」のような犯罪者、盗賊集団があちこちに存在していた。彼らは機関銃も持っていれば大砲も持っており、砂漠の真ん中のオアシスというワルワルなどは、格好の的だったのだ。
だからイタリア人たちは自衛のために要塞を築いた。
その辺りの仕方のない事情を無視したのがイギリス人とエチオピアだったわけ。 -
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187
ななしのよっしん
2013/06/18(火) 11:33:54 ID: 0JiNVT2iO6
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そして、ワルワル事件の後から約一年間、言われずともムッソリーニは外交によってイギリスとフランスにエチオピアの軍事制裁の許可を求めている。
「英仏の許可さえ得られれば帝国主義は認められる!」
そういう時代感覚のままだったムッソリーニにも、確かに時代の流れについていけない「限界」があったのだろう。
しかし、第一次世界大戦が終わった瞬間に、
「今まで広大な植民地を作った英仏は問題ない。これから植民地を築こうとするのはダメー」
なんて一方的に英仏やインディアンの土地を侵略して広大な領土を持ったアメリカには言われたくは無かろう。
結局、フランスはラヴァル外相を派遣してムッソリーニの行動を承認。
イギリスは言を左右にして確答を避けたが、ムッソリーニは娘までロンドンに派遣してイギリスの情勢を探らせていた。
そして何度も公式非公式問わず「エチオピアに攻め込むぞ」と色々な人々に打診したのだが、国王、首相、外相、チャーチルなど誰一人イタリアの行動に反対の姿勢を示した者は居なかった。
(ただ一人、青年代議士のイーデンだけは反対したが、彼は当時無位無冠の一代議士でしかない)
これで「英仏の承認は得られた」と判断したから、最終的にムッソリーニは戦争に踏み切ったわけだ。
ずっと後年、イタリア社会共和国時代の話だが、
「イギリスがエチオピア戦争開戦前に反対の姿勢を強固に見せていたなら、決して攻め込むことはなかった」
とムッソリーニ自身が述べている。
ムッソリーニは元々「イギリスのスパイ」と呼ばれるほどの親英家で、己の機関誌”ポポロ・ディタリア”の創刊を資金面で手助けしたのもイギリス人だったし、その後も事あるごとにイギリスに友好姿勢を見せていた。
チャーチルやケインズと文通友達なのはあまりにも有名な話だし。
そして、「英仏の許可さえ得られれば帝国主義戦争は認められる」という、第一次世界大戦前ならば常識であった思想に、強く囚われていた。
これを批判するのはたやすい。が、第一次世界大戦前は、実際にそういう時代だったのだ。
で、実際に>>182の書いた通り、ムッソリーニは「帝国主義戦争」としてエチオピア戦争を捉えていたのも事実だろう。
でも、何度も言うが「英仏に黙認された植民地戦争は許される」という時代がすぐ過去に存在していた。
その時代の感覚で居続けていた事こそが問題だと言えば問題だと言えるだろう。
しかし英仏の態度の方が問題多すぎだが。 -
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188
ななしのよっしん
2013/06/18(火) 11:48:32 ID: 0JiNVT2iO6
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>毒ガス使用について
これは(残念ながら)全く以てイタリアに罪はない。
国際連盟でイタリア代表(外相も勤めた事のある)アロイージ男爵が、
「エチオピア人は文明人として認められないから毒ガス使用は許される」
と言ったという俗説があるが、これが残念ながら「正しい」のである。
当時の戦時国際法である”ハーグ陸戦法規”というのが在る。
http://homepage1 .nifty.c om/SENSH I/data/h aug.htm
この中の第23条の1項と5項に次の一文があるのはあまりにも有名だろう。
>第二三條
>特別ノ條約ヲ以テ定メタル禁止ノ外、特ニ禁止スルモノ左ノ如シ。
>(イ)毒又ハ毒ヲ施シタル兵器ヲ使用スルコト
>(ホ)不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器、投射物其ノ他ノ物質ヲ使用スルコト
文面通り読めば「毒ガスの使用は許されない」事になり、イタリアの行動は弁護の余地のない悪事になってしまう。
が、ちょっと待ってほしい。
ハーグ陸戦法規前文の第二条に次のようにはっきりと書いてある。
>第二條
>第一條ニ掲ケタル規則及本條約ノ規定ハ、交戰國カ悉ク本條約ノ當事者ナルトキニ限締約國間ニノミ之ヲ適用ス。
これが解るだろうか?
ハーグ陸戦法規をお互いに締結し合った交戦国同士にしか、このハーグ陸戦法規は適用されないとはっきりと明記してあるのである。
そして、エチオピア帝国はハーグ陸戦法規を 締 結 し て い な か っ た
この意味では確かにハーグ陸戦法規も結んでない「未開の野蛮人」という事にならざるを得ないのである。
こういう相手に対する毒ガス使用は「合法」なのである。残念ながらと言うか何というか。
まあ、でもこれは当たり前の理屈だろう。もしもどっかの悪い宇宙人が地球人を征服しようと侵略戦争を起こし無差別虐殺してきたとしても、地球人の側はハーグ陸戦法規を律儀に守って、宇宙人の人権を最大限に尊重しないといけないのだろうか?
そんなわけはないだろう。こんな問答無用で無差別攻撃してくる悪い宇宙人相手なら、毒ガスだろうが原爆だろうが使用しても構わないはずだ。それと同じ理屈である。 -
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189
ななしのよっしん
2013/06/18(火) 12:02:59 ID: 0JiNVT2iO6
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そしてここが重要なのだが、
エチオピア人も使用が禁止されている「毒」や「不必要に苦痛を与える兵器」をしようしていた
これまた改行してカッコを付けて強調させていただく。
エチオピア人は機関銃や爆撃機を大量に保有するイタリア軍の侵略に、「弓矢」や「槍」で果敢に立ち向かったと言われているが、
その弓矢や槍の穂先にはたっぷりと「毒」が塗り込んであった。
当然ハーグ陸戦法規違反である(エチオピアは参加してないから関係ないが)
また、当時既に使用が禁じられていた「ダムダム弾」を使ってイタリア軍を攻撃していた証拠もある。ダムダム弾とは、第一次世界大戦や日露戦争よりも昔の1899年には使用禁止になっていた程の極悪非道な兵器であり、当然ハーグ陸戦法規に違反する「不必要に苦痛を与える兵器」に他ならない。
また「イタリア軍」と言えば”ヘタレ”で、すぐに白旗を揚げ、捕虜になりたがるという有名な話があるが、
このエチオピア戦争でもやはり白旗を掲げてエチオピア軍に投降したイタリア軍人も少なからず存在した。
しかし、そのほとんどはイタリアに生きて帰る事は無かった。
エチオピア人が見るも無惨な猟奇的なやり口で殺害したからである。
このような未開、原始的、非道、極悪な相手に対して毒ガスを使用する事は、国際法上でも心理上でも充分に許される事であろう。
エチオピアは善良な被害者でも何でもない。
やられるだけの事はきっちりやっているからこうなったわけだ。 -
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190
ななしのよっしん
2013/06/18(火) 12:04:52 ID: 0JiNVT2iO6
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191
ななしのよっしん
2013/06/18(火) 12:25:27 ID: 0JiNVT2iO6
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ああ、今日ここに来た肝心な事を書くの忘れてた。
昭和17年10月25日印刷、昭和17年10月30日発行という奥付の書いてある本を買った。
タイトルは『ファシズモ研究』
「イタリア友の會」という所が出版社となっており、執筆者陣は次の通り。
大原明敏(イタリア友の會理事長)
船田享二(京城帝国大学教授)
米谷隆三(東京商科大学教授)
大岩誠(京都帝国大学助教授 満鉄東亜経済調査局)
和田小次郎(早稲田大学教授)
中村修(外務省調査部)
下條雄三(同盟通信社)
柏熊達生(東京外国語学校教授)
佐藤武夫(早稲田大学教授 工学博士)
楢崎敏雄(中央大学教授 経済学博士)
深澤理三郎(肩書き不明)
この本はいわゆる「太平洋戦争」の開戦後の出版だが、意外な事が前書きに書いてある。
前書きを書いたのは、イタリア友の會の理事長である大原明敏。
以下引用(ただし原文は旧仮名、旧漢字)
【引用開始】
首班ムッソリーニ氏の活躍とその数奇なる半生は、夙に我が国にも伝えられ既に伝説的にすらなりつつある程にも拘らず、彼の主要なるファシズモの原理、特に政策の内容に到っては未だ甚だ論ぜらるること少なきを惜む。
【引用終了】
日米戦争が始まって昭和17年にもなって、日独伊三国軍事同盟が結ばれてから2年経つにも関わらず、
意外にも当時の日本人はファシズムの中身やその政策についてほとんど理解していなかったらしい。
戦前戦時中ですらこうなのだから、戦後の今では、もうなおのことファシズムの理論や政策の中身についての理解なんてできるはずもないな。 -
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192
ななしのよっしん
2013/06/18(火) 12:26:35 ID: 0JiNVT2iO6
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193
ななしのよっしん
2013/06/18(火) 18:11:58 ID: 9F9lr4XED2
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194
ななしのよっしん
2013/06/18(火) 20:36:13 ID: EVDJg9zHIS
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>>191>>193
日本の文芸にはある一時期ヒトラーよりはるかにムッソリーニの登場が多かった。高畠素之は映画でムッソリーニを見て、政策は評価しないが人物は感銘を受けたという感想を残している。否定派よりは肯定派が多かったのはそのとおりだけど、やはり両翼どちらを問わず戯曲とか政策でなく人間味を語る文献が多い気はするな。
昭和17年の時点でムッソリーニブームから15年近く経っているのか。やはりそれ以前は英雄としての語り方が多かったということだと思います。
船田享二はある意味傑物で、ナチス法学にはかなり批判的でありながらイタリアは肯定していた人だな。戦後は協同主義を唱えていたが、そこにもファシズモの影響を受けて国会議員をやっていた。まぁその末裔が政界失楽園で憲法改正のトップな現状が悲しい。もし可能なら、そのうち彼の部分の感想聞かせてくれると嬉しいな。
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195
ななしのよっしん
2013/06/18(火) 20:37:42 ID: EVDJg9zHIS
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>>184-187
ウィルソンを頭おかしい、とは言い切りませんが、サイクス・ピコ協定なども攻撃しまくったことからイスラエル問題のある意味元凶ではあり、マクマホンなどを一概に責める論調には賛同できない程度にはやらかした人ですね。この後ろめたさが実際に国際社会を動かしていた事実はやっぱり重要であると思います。
個人的な評価は、ムッソリーニはやはり先に挙げた演説のような、「扇動的な論理」が少し鼻につきますし、ヒトラーと違い軍人よりは政治家であり、英仏の宥和を見極めて行動をしていたと考えています。
軍事においてはやはりエチオピアもそうですが、少し詰めが甘いところを配下のファシストが補っており、だから戦争の悪面を実行者に(ある程度正当に)帰して、擁護することはヒトラーよりはるかに容易であり、事実歴史修正主義者によって繰り返し唱えられてきました。
歴史修正主義が、やはりその都度否定されるのはムッソリーニが「戦後秩序の破壊者を謳った」というWW1戦勝国の論理と、ナチスに接近ののち利用されてしまったという、外的要因だろうと考えます。
ファシスト党がその後形を変えても国家運営に戦後も残ったことは、やはり日本とどこか親和的に語ることはできるのかとも思います。
その上で、やはりムッソリーニがエチオピアを経済目的に支配しようとした、しかし結果的に経済支配が占領なくしてできなかったからだ、という意見と解釈します。
占領に対するコストが英仏の弱みを握り、そろばん弾いた結果、占領を決断し、穏健派の尻を叩いて速やかな戦争終了を命令した。
その視線は冷徹で、エチオピア征服を希望しない(膨張のメリットを高くは評価しない)、ことがエチオピアへ友好的だったかが違和感を覚え、お聞きしました。
(おっしゃるとおり狂った時代の一国の指導者の言動から心情を知ることなどできないとは思うのですが)
失礼ながら、彼の「植民地観」について当時の価値観であれば肯定すべき、というような修正主義的観点からの擁護かと思ったのですが、そうではないとわかりました。
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196
ななしのよっしん
2013/06/18(火) 20:51:38 ID: EVDJg9zHIS
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>>188-189
毒ガスについては、残念ながら意見が対立します。上げない方が良かったかもしれません。
実際に、毒ガスの戦略的意義はほとんどなかったと考えています。軍務に関わる末端は毒ガス使用を否定し、しかし上層部が毒ガス使用を目論んだという通俗的な理解から始めさせてください。ムッソリーニ自身が電報で命令をしています。
しかし、単に毒ガスなど役には立たなかったというのが僕の評価です。おそらく軍事経験の少ない彼が毒ガスの効果を過大に評価して使用したのだと思うのですが、やはりそこには残虐さの意図があったと思います。
エチオピア軍にはダムダム弾という最近禁止された兵器をなくして戦う選択肢はなかった。
しかしイタリアには毒ガスを使わずに戦争を終わらせる選択肢はあり、軍人は使おうとしていなかったにもかかわらず、ムッソリーニが使用を決断した。これはめくそはなくそとは言えない違いと思います。
イタリア軍に対し、エチオピアゲリラが去勢しているというニュースがタブロイドに載ったことはありました。
しかし事実ではありませんでした。イタリア兵が虐待を受けている、というニュースがヨーロッパに流れたのは事実ですが、エチオピアでのイタリア人戦死者はごく少なかったように思います。また、現地の傭兵を除き、イタリア人はあまり虐待されていなかったと思っていたのですが、違うのでしょうか。(もし文献があれば教えてくれると嬉しいです)
デマにより、毒ガスを使うことを余儀なくされたというのは理解できても、それがデマであったことが判明していたなら擁護はできません。
このレスについては通俗的な理解から書いている面が多く、毒ガス使用については文献はイタリア右派からは出されないため、偏りは否定できず、ツッコミどころは多いかと思います。
できたらお手柔らかに。 -
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197
ななしのよっしん
2013/06/19(水) 11:21:05 ID: 0JiNVT2iO6
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>>196
ちょっと待って欲しい。私は
「イタリア軍がエチオピア軍に対して毒ガスを使用した事は是か非か」
についてしか書いていない。”戦略的意義”については一言も書いていない。
『戦時国際法上、毒ガス使用は許される』とお答えしただけだ。
で、「戦略的意義が有ったか?」「毒ガスを使用しなければ勝てなかったのか?」という質問に対する答えとしては、
「使用しなくても勝てた」と答える他は無い。でも「戦略的意義はあった」んだけどね。
一つ勘違いしているが、ムッソリーニが毒ガス使用を命じたのは事実だけど、それはあくまでも現地軍司令官のバドリオ(のちに首相)が「お願いしてきたから許可を出した」だけだからね?
ムッソリーニには、軍の作戦指揮に対して命令する権限など無かったんだよ。統帥権はイタリア国王であるヴィットリオ・エマヌエーレ3世が握っていたんだから。ここで作戦指揮の端々にまで口を挟んだヒトラーと、ムッソリーニとを混同されてしまうと困ってしまう。
ムッソリーニが毒ガス使用に許可を出した理由も明らかになっていて、エチオピア戦争をさっさと終結させるために他ならない。攻勢作戦に消極的だったデ・ボーノ将軍(ローマ進軍四天王)を更迭して、先述のバドリオ将軍を総司令官に任命したのも、「さっさと戦争を終わらせる」為に他ならない。
国際連盟でイタリアへの経済制裁が発動されたが、このまま長期戦を続けていると、今は制裁品目に含まれていない「石油」なども制裁に含まれると判断したからだ。石油がストップしたら、最早イタリア軍は活動できなくなるわけである。
だから「戦略的意義はあった」とは言える。「戦”術”的意義」が有ったかどうかなら、「無かった」「使わなくても勝てた」と言えるだろうが。
そして、これは何度でも指摘するけど、イタリア軍が毒ガス使用する事は「合法」であった。少なくとも何も悪い事は無かった。
この事は何度でも指摘しておく。
エチオピア軍がイタリア人捕虜を虐殺して首を切り取って槍の穂先にくくりつけて弄んでいた事例などは写真付きで残されているし、ダムダム弾というハーグ陸戦法規にもダムダム弾禁止条約にも違反していた事実は消せるものじゃない。
エチオピア側はいくらでもハーグ陸戦法規違反の犯罪行為を繰り広げても構わないが(結んでないしね)、イタリアが反撃で毒ガス使用するのは非難すると言うのは公平な態度ではないね? -
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198
ななしのよっしん
2013/06/19(水) 11:40:57 ID: 0JiNVT2iO6
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ついでに、エチオピア相手の時には毒ガスを使用したけど、スペイン内戦の時や第二次世界大戦の時には、イタリア軍は毒ガスを使用してないんだけど……
もしもムッソリーニが『毒ガスを過大評価していた』のであれば、スペイン内戦でも第二次世界大戦でも同じような光景が出てきたはずだよね?
それこそ国際連盟でイタリア代表だったアロイージ男爵が言ったとされる「俗説」通りだよ。
『エチオピア人は文明人として認められないので毒ガス使用は許される』
ハーグ陸戦法規を結んでいない相手には、こちらがハーグ陸戦法規の条項を守らなければならない理由も意味も義務も何一つ無いわけ。
こちらが戦時国際法で攻撃戦法を制限されているのに、エチオピア側は無差別に何でも使って攻撃してくるなんて、明らかにおかしな話だよ?
>>195を先に答えるべきだったね、ごめんなさいね
>英仏の宥和を見極めて行動をしていたと考えています。
これもヒトラーの話。ムッソリーニはこうじゃなく、本気で英仏と親しくなろうとしていたし、英仏によって許されると信じていた。
ヒトラーみたいに「英仏の隙を窺ってた」とか「英仏の弱腰姿勢を舐めていた」なんて事は、少なくともムッソリーニには無い。
もしお説の通りなら、エチオピア戦争だってあらかじめ英仏になど打診せず、黙って決行しただろう。
君はどうも「ストレーザ戦線」についても知らないらしい……
ムッソリーニはチャーチルと同じく、ナチスドイツを軍事力の整っていない初期の段階で「武力で叩き潰せ!」と主張していた反ナチス、反ドイツの政治家だった。
ドイツ語の読めたムッソリーニはヒトラーの『我が闘争』も原著で読んだが、
「時間の無駄だった。壮大なホラ話とくだらない夢物語ばかり書いてある駄本にすぎない」
と吐き捨てている。我が闘争の中で、ヒトラーはイタリアを高く評価しているにも関わらず、である。
ムッソリーニはオーストリアの独裁者だったドルフス(反ナチス)と親友であり、家族ぐるみの付き合いがあった。
そのドルフスがオーストリア・ナチス党によって暗殺された事を知った時、涙を流して激怒し、イタリア軍にオーストリア国境まで進撃させてもいる。これによってヒトラーはオーストリア併合を一時的に諦めざるを得なかった。
ムッソリーニはこの頃はむしろ英仏寄りの立場を取っており、反ナチス、反ドイツの急先鋒だったのだ。
ストレーザ戦線とはその集大成である。 -
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199
ななしのよっしん
2013/06/19(水) 11:57:07 ID: 0JiNVT2iO6
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http://j
a.wikipe dia.org/ wiki/%E3 %82%B9%E 3%83%88% E3%83%AC %E3%83%B C%E3%82% B6%E6%88 %A6%E7%B 7%9A
ムッソリーニはナチスドイツのオーストリア併合を阻止しようと軍隊を国境に送った上で、イギリスやフランスの首脳も呼んで反ナチス、反ドイツの宣言を行っている。
この英仏伊の協調関係をぶち壊したのは、Wikipediaにも書いてある通り「イギリス」なんだけど?
先にちょっと名前挙げた、イギリスの青年代議士のイーデンという人物が居た。のちにイギリスの首相にもなった人物だ。
この人、比較的早くから「反ファシズム」「反ムッソリーニ」の立場を鮮明にしていた人物だったが、
逆にドイツに対しては過剰に甘い「親ナチス」「親ヒトラー」の政治家であった。
彼の言葉として伝えられる次の言葉がある。
『ムッソリーニは信用できないが、ヒトラーは信用できる』
ストレーザ戦線を崩壊に導いた、イギリスがドイツと結んだ海軍協定だって、イーデンは積極的に支持し、これでヨーロッパの平和は守られたかのように言っていたものだ。
こんなイーデンが、エチオピア戦争中にイギリスの外務大臣に就任し、「ムッソリーニは信用できないがヒトラーは信用できる」と言葉通りの行動を起こしはじめる。
・ムッソリーニのエチオピア戦争には国際連盟で経済制裁の旗を振ったが、ドイツのラインラント進駐に対しては経済制裁を見送った
・フランスが珍しくやる気になってドイツへ宣戦布告しようとした事もストップをかけた
・スペイン内戦の時は、ナチスドイツとファシストイタリアが揃ってフランコ支援に動いたのだが、ドイツは「共産主義の防波堤としての義務を善く果たしている」と賞賛してイタリアは「侵略者だ」と非難した
ムッソリーニをドイツ側に押しやったのは、他ならぬイギリスの責任に拠る所が大きい。
特にイーデンみたいな人物が、外務大臣とかの要職に就いてしまった事が大きい
ムッソリーニと親友だったチャーチルなどは、
「私が外務大臣だったならムッソリーニを巧く御して決して敵側には走らせなかったのに……」
と嘆いたそうだし、
退位した後のエドワード8世(ウィンザー公)なども、
「ムッソリーニは悪くない。悪いのはウチの無能のイーデンだ」
などと擁護していたらしい。 -
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200
ななしのよっしん
2013/06/19(水) 12:06:15 ID: 0JiNVT2iO6
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201
ななしのよっしん
2013/06/19(水) 22:31:32 ID: EVDJg9zHIS
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>一つ勘違いしているが、ムッソリーニが毒ガス使用を命じたのは事実だけど、それはあくまでも現地軍司令官のバドリオ(のちに首相)が「お願いしてきたから許可を出した」だけだからね?
>ムッソリーニには、軍の作戦指揮に対して命令する権限など無かったんだよ。
1936年6月8日 グラツィアーニ閣下
6595号-アンコベルの例に倣い、反逆者を一掃するには毒ガスを使え ムッソリーニ
1936年5月3日と7月8日にはアジスアベバで「抵抗するものは全て略式で銃殺せよ」「虐殺と恐怖の政策を開始し、組織的に実行して行け」と命令しています。
また、赤十字に対してはイギリスを除いて攻撃をしかけ、毒ガスについて伝えようとした二人のポーランド人を殺すように電報を打っています。(バドリオへ、1936年4月9日)
また、同様に禁止されている細菌兵器の使用を打診し、バドリオに諌められて(国際社会の批判を招く)断念した電報も残っており、化学兵器を許可するのみの立場でなかったことは言えるのではないかと思います
バドリオに諌められてやめていることから、あくまで決定者というか、意見の認可者だというのはそうでしょう。
1928年にイタリアは化学兵器及び細菌兵器の使用を禁止する条約を批准しているので、ハーグ陸戦協定ではなく、こちらを用いてイタリアの毒ガス批判をすることのほうが多いのだけれど、これは被使用国の締結の有無は問題になっていないし、イタリア政府の謝罪もこの条約をもとにしていました。(直接のきっかけは化学兵器禁止条約の批准です。)
ムッソリーニ自身も、1928年の条約との齟齬は自覚しており、「化学兵器に対する反撃としてのみ許可する」という文言を「残虐なエチオピア人」として戦争が早く終わることを目指し、事実ハイレ・セラシエの「化学兵器がなければ我々は勝っていた」という泣き言には国際社会は見て見ぬふりをしました。
戦争を早く終わらせなければ、「化学兵器の使用という罪」を国際社会に責め立てられるという危惧があったことは事実のようです。
コストの面から、ヨーロッパでガスを使用することはできなかったでしょう。一応、問いかけではバルカン半島では強制収容とのみ書いてはおります。 -
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202
ななしのよっしん
2013/06/19(水) 22:53:07 ID: EVDJg9zHIS
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>イーデンとエドワード8世
ここでまた興味深い人物が登場しますね。
イーデンは、一般的には反ドイツで、チャーチルと同じ陣営とされることの多いと説明される。ただ、一方で反ファシズムであるが、チェンバレンらの下で外相していた時は、対独融和をせざるを得ず、イタリアとドイツを天秤にかけてドイツ、そしてヒトラーをムッソリーニよりも交渉しやすいと判断したのは事実ではある。
しびしぶイタリアよりはましという評価をしたのではないでしょうか。(心情的にドイツよりであったのでしょうか?ニコラス・ファレルなんかはドイツよりに過ぎると攻撃していますが)
日本のムッソリーニブームの中でも、彼を英雄として称える者と、信頼できない者とする両派がいたのは事実ですね。
エドワード8世は人妻と結婚するために国を捨てて、ヒトラーに英国王にするといわれたある意味売国奴なので、イーデンを批判するのも当たり前ではあると思いますが、、、彼はイタリアだけでなくドイツも高評価な点がイーデンと真逆ですね。彼のサロンには、イギリス内ファシストグループが集まっており、なかなか興味深い人材がそろっていました。
非常に人気のある人物ではあり、このあたり国際評価と英国内評価、イタリアの評価は細かく錯綜しており、日本では国際評価のみが(ウィルソンのように)伝わっているのは歴史問題の根深さを思わせます。
徹底した反独のチャーチル、親ドイツから親ファシストになったエドワード8世、反ファシストから政治的に対独宥和のイーデン、チェンバレンなどなど、しかも戦争が進むにつれて立場も変わっていく。
イギリスが親独から反独政権に代わるのと同様、親伊から反伊に移り変わり、「ヨーロッパの口約束時代」から「アメリカの建前国際戦争法時代」に移り変わるなか、前時代のすぐれた理解者であったムッソリーニは最初から前時代に生きていなかったヒトラーとは違うと思います。 -
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203
ななしのよっしん
2013/06/19(水) 23:05:54 ID: EVDJg9zHIS
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アンソニー・イーデンの外交官としての評伝
当時のイギリスのエリートとしては高い家柄でもなく、早期に父を亡くしたイーデンは、その知性と努力によって若くして政治家となり、洗練されたヨーロッパの外交世界を経験し、国際協調の精神と外交術を自らの身体に染み渡らせた。
運命の扉を開いたのは、ヒトラーのドイツとの宥和(ゆうわ)に反対し、政権を去った決断であった。その行動によって彼はチャーチルの腹心として揺るぎない立場を確立し、彼の下で枢軸国との対決を指揮した。
個人的には有能なNo.2であって、No.1の意向をヨーロッパの論理で遂行しつづけた人物と思う。無能でなかったがゆえに、チェンバレン・ボールドウィンのもとで対独宥和の象徴となり、しかしこの人辞任してチャーチルの片腕になっているんだよね。
ムッソリーニと少し似た意味で、個人的に興味深い人物です。 -
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204
ななしのよっしん
2013/06/20(木) 08:01:09 ID: 0JiNVT2iO6
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>イーデン
ずっと後年、第二次世界大戦も終わった後の話だが、イーデンはイギリスの首相に就任した。
そして、ムッソリーニのエチオピア侵略を激しく国際連盟で非難したこの御仁は、自分はスエズ動乱によってナセルのエジプトを侵略している。
その論理も全くかつてのムッソリーニと一緒であり、
「アメリカの支持を得られさえすれば帝国主義戦争は許される」
このような理屈であった。
「英仏の支持があれば帝国主義戦争は許される」と言ったムッソリーニと、「アメリカの支持があれば帝国主義戦争は許される」と考えたイーデン。
イーデンが反ムッソリーニだったのは「同族嫌悪」だったのかも知れない。
信じていた国に裏切られ、最終的には失脚にまで追い込まれた点も、ムッソリーニとイーデンは全く同じである。
仏教的に言えば「因果応報」というものであろうか
ムッソリーニが「無能だった」と言いたいのであれば、
アメリカの反応を読み違えてアイゼンハワーを激怒させた上、ポンドを大暴落させてポンド危機を引き起こしたイーデンも、同じくらい「無能だった」と言うべきではないだろうか? -
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205
ななしのよっしん
2013/06/20(木) 08:22:58 ID: 0JiNVT2iO6
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>>201
自分で書いてるけど、結局ムッソリーニは軍の作戦に対して「打診」できただけの存在で、
ヒトラーみたいに作戦のほとんど全てにまで口出ししていたわけじゃないんだけど
エチオピア戦争のあと、ムッソリーニはイタリア国王と並ぶ「大元帥」に就任し軍の指揮権を与えられたらしいが、
少なくともエチオピア戦争の時点ではそうじゃなかったし。
しかもこのエチオピア戦争後に与えられた統帥権をムッソリーニが実際に使用したのは、本人の弁では「わずか一回」であった(1943年のファシスト大評議会での発言)
その他の数多のイタリア軍の作戦を指導したのは、全部本職の軍人だったわけで、第二次世界大戦より前のエチオピア戦争やリビア戦争は当然の事ながら本職の軍人が、好きなように作戦を立てて実行していた。
この意味でも「ヒトラーとムッソリーニは違う」と言えるし、実際ヒトラーはムッソリーニが軍の統帥権を持っていない事に強い不満を表明している(1937年でのローマ会談やドイツ国内で頻繁に行われていた彼の夜の座談会など)
ついでにリビアの独立戦争は、1911年の伊土戦争から延々20年間続いており、ムッソリーニの治世下である1931年になってようやく鎮圧された。
このリビア独立戦争の鎮圧でもイタリア軍は毒ガスを使用したらしいが、全く国際社会から非難などされていない。
悪いのは「野蛮で未開のリビア人」であり、毒ガスを使用したイタリア軍ではないという論理が当時の一般常識だったからだ。
ついでに、イギリスもイラクで毒ガスを使用している(1942年のハバニヤ事件の鎮圧の際)
しかし、この件でイギリスが国際社会に非難された事は無い。
やはり悪いのは「未開で野蛮な」現地人であり、毒ガスを使用する側ではないという論理だったからだ。
ついでに、イギリスは「戦勝国」だったからだ。
これは毒ガスではないが、ドレスデンの無差別爆撃を敢行しても、誰一人イギリス軍人は裁かれる事は無かったし。
「勝てば官軍」で公平な歴史観が一向に望めない状況は問題だと思うんだけどね。 -
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206
ななしのよっしん
2013/06/21(金) 21:34:09 ID: EVDJg9zHIS
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エチオピアでの毒ガス使用については時系列の電報を追うと、毒ガス使用にムッソリーニが許可・中断の命令を下していたことがわかる。
バドリオへの電報
1934年12月30日 「砲火力と毒ガス兵器における絶対的優位をソマリアに準備すること」
1935年12月28日 「あらゆる毒ガスと火炎放射器を大規模に及ぶも使用することを認める」
1935年12月29日 「イペリットは既に使用しました」(バドリオより)
1936年1月5日 「ジュネーブ会議まで毒ガス使用を中断せよ」
1936年1月9日 「イペリットは非常に有効で、中断は不利益となるでしょう」(バドリオより)
1936年1月19日 「戦闘上のすべての手段を用いることを許可する。いいか、すべてだ。これは最高決定である」
バドリオ(北部戦線)に対しては許可を出したら、もう使っていたと答えられ、使うなといえばいや、有効だと言われています。また、国際会談の終わるまでは中止することを求めている。
これが南部のソマリア、電報好きのグラツィアーニではだいぶ異なる対応が見えます。 -
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207
ななしのよっしん
2013/06/21(金) 21:37:35 ID: EVDJg9zHIS
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グラツィアーノへの電報 (ソマリア戦線)
1935年10月12日 「イタリア軍が化学薬剤を使ったと特派員が報じていますが事実ではありません。ですが有効だと思いますので毒ガス使用の許可をお願いします」
ここでデ・ボーノが許可をだし、レッソーナが「首相閣下は今のところ使用の必要はないとお考えである」と横槍。
1935年10月27日 「攻撃了解。毒ガス使用を許可する。ムッソリーニ」再度グラツィアーニから確認。
1935年12月15日 「必要とみなせば、毒ガス使用を許可する。ムッソリーニ」 12/24に爆撃。
1936年1月2日 「爆撃を全面的に支持する。ただし国際赤十字施設は避けること。」
1936年1月9日 「必要な際はいかなる手段を用いることも許可する。」
1936年4月10日 「次の指令までは化学兵器を使用してはならぬ」
1936年4月22日 「首相閣下は動機のいかんにかかわらず、化学兵器の使用を禁止しておられる。」
1936年4月27日 「ダムダム弾を使い続ける以上、化学兵器の使用を許可する。しかし、イペリットは除く」
当日最後の毒ガス攻撃。
このあと占領後の1936年6月8日 グラツィアーニにあてて、
「アンコベルの例に倣い、反逆者を一掃するには毒ガスを使え。ムッソリーニ」
独断専行のバドリオとくらべて、とにかくグラツィアーニはムッソリーニの意向によって、細かく毒ガス使用を判断している。また、ムッソリーニは国際世論を気にして使用の可否をころころ変えている。1936年4月には、一旦「化学兵器の使用全て」を否定しようとすらしている。
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208
ななしのよっしん
2013/06/21(金) 22:01:58 ID: EVDJg9zHIS
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戦後アンソニー・イーデンについてはさすがにムッソリーニのスレを超えてしまう。
まず、ムッソリーニを無能と言えるほど思い上がった人間ではない(基本的に似たようなスタンスと思うけど、なんか無能と思わせるレスしましたっけ?)。
ただ、イギリス内では彼の外交手腕が高く評価され、チャーチル政権の晩年はほとんど彼が英国を切り回していたその手腕は熱狂的な評価を受けており、チャーチルの後継となったときの支持率は非常に高かった。
アトリー労働党政権でも野党ながら外交にコミットし続けたし、チャーチル政権に戻ったときも外務省への復帰は「あらゆるところで歓迎された」らしい。彼を無能というのは、いくら彼がスエズ動乱の結果「英国20世紀最低の首相」と言われていても、不当な評価だと思う。
チャーチルと彼(とエドワード8世)の決して認められなかったこと、は英国の「日の名残り」を認められなかったことで、アメリカとソ連が正戦ではない、と乗り出したことはご指摘の通り、ムッソリーニと似た末路かもしれない。
対仏、という重要なキーワードを挙げてくれていたので、付け加えればイーデンは親仏を戦後も貫いていた人でもあり、英仏合併話が持ち上がっていたこともある。これは仏語を解さず、母がアメリカ人で親米で通したチャーチルとは違う。
しかし、ことムッソリーニの関わる問題では仏と強調しない行動が目立つ。というか、あらゆる親○、反○な人々が矛盾したように見える行動をとっている。
実際、国際連盟の一員としてイタリアのエチオピア侵攻を批判する立場であり、それがムッソリーニの反感を買っていたこともある。(あと、ムッソリーニは食卓のマナーが悪いということで嫌っていたことも事実みたい)
イーデンについては、1990年以降になっていろんな私文書が公開されるようになったこともあり、一気に再評価の兆しが出ていて、スエズの失敗差し引いても、外交指導者としての高い評価が下されるようになっています。 -
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209
ななしのよっしん
2013/06/22(土) 22:54:52 ID: 0JiNVT2iO6
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ムッソリーニは元々反ドイツ、親英仏の政治家だった。
ヒトラーの「大ドイツ主義」なんぞを認めたら、ドイツ人が数多く住んでいるイタリア領の南チロル地方をもドイツに割譲しなければならなくなる。
ヒトラーの、『我が闘争』に続く第二の著書と呼ばれるお蔵入りされた本の中では、
「南チロルはイタリアとの友好のために領有権を主張しない」
とハッキリ書いてあり、他の民族主義政党からは「売国奴!」と言われそうな事も書いてあった。
しかしながら、この本は先述の通り「お蔵入り」となったので、ムッソリーニがこの本の内容を知っているはずもなく、ヒトラーとナチスドイツは間違いなく南チロルも要求してくると見て警戒していた。
ムッソリーニの有名な言葉に次のような物がある。
『ドイツ人をよく見てみろ。アルプス山脈の向こう側に一体どんな連中が住んでいるか?ヴェルギリウスやセネカが珠玉の言葉を紡いでいた時に、連中は無知無教養で洞穴に住んでいた連中なのだ』
『ナチスの人種理論では「北方人種こそが文化の発明者である」と言う。しかしながら、エスキモーやラップランド人に見るべき文化がないのは一体どうしたことか?この事実こそ、連中の人種理論は鼻で笑い飛ばせるレベルである事を物語っているのだ』
『大体からして、彼ら(ナチス)が後生大事にしている人種理論家の殆どはドイツ人ではないのですよ。ゴビノーとラプージュはフランス人 、チェンバレンはイギリス人、ウォルトマンに至っては貴方と同じユダヤ人だ。』
ナチスドイツと提携してからも、ナチスの人種理論だけは到底受け入れられず、そもそも理解もできず、ユダヤ人の弾圧などもほとんど行われなかった。
ナチスドイツのニュールンベルク法に倣った、ユダヤ人を公職から追放する法律も制定されたものの、
・(第一次)世界大戦に従軍したユダヤ人は除外する
・社会党や共産党に加盟した経歴の無いユダヤ人は除外する
・無政府主義活動やストライキなどの反政府・反国家的運動を行った過去の無いユダヤ人は除外する
・イタリアに20年間以上住み続けているユダヤ人は除外する
・イタリアで生まれ育ったユダヤ人は除外する
などなど、例外規定があまりにも多すぎて、引っかかったユダヤ人の方が珍しいくらいであった。
当時の親ナチスで反ユダヤを標榜していたファシスト党の書記長を勤めたファリナッチにすらユダヤ人の書記兼愛人が居たくらいであった。 -
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210
ななしのよっしん
2013/07/27(土) 12:28:29 ID: AYe2Ymds6Z
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