丁奉
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ななしのよっしん
2014/01/22(水) 01:39:30 ID: lLLRK3p+vV
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ななしのよっしん
2014/03/20(木) 05:06:06 ID: uVWrexWNU/
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ななしのよっしん
2014/04/21(月) 21:00:42 ID: z0lYXf4Dz+
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ななしのよっしん
2014/08/30(土) 07:15:39 ID: EQcK5MST6K
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35
ななしのよっしん
2014/12/31(水) 16:02:10 ID: KhZtn1mEMo
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36
ななしのよっしん
2015/03/19(木) 17:57:47 ID: i96HWaXIPb
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37
ななしのよっしん
2015/04/26(日) 23:10:26 ID: iHvO+nQH0n
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38
ななしのよっしん
2015/04/27(月) 11:39:22 ID: A2uwMZuCgw
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実績があって逆らえないからこそ老害なのだ
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39
ななしのよっしん
2015/07/03(金) 01:06:30 ID: fFerzPFeBG
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40
ななしのよっしん
2015/09/08(火) 12:57:49 ID: iHvO+nQH0n
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>>39
合肥を攻めた時に大軍率いてるはず。
ニセ手紙で敵将を免職に追い込んでる。
次に穀陽を攻めた時にも大軍を率いてるけど、
その住民が逃げちゃったので、そのまま引き返してる。
蜀救援以外では大軍を率いた記述はこんな感じかな?
2番目の穀陽攻めの時の事は、
丁奉死後に孫皓にわざわざ蒸し返されて
一族が臨川に移住させられてる。
後年丁奉が傲慢になった事の腹いせとされてるけど、
孫皓みたいな暴君の腹いせとしては一族皆殺しとかじゃなくて、
比較的軽い処置って感じだよねえ。
さすがにそれ程の罪でもなかったから、(そもそも丁奉の軍は
損害受けてないので、罪と言えるかも疑問だけど。)
このくらいの処置が限界だったのか。孫皓も自重したのか。 -
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41
ななしのよっしん
2015/12/17(木) 22:48:56 ID: fFerzPFeBG
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42
ななしのよっしん
2016/06/17(金) 18:52:06 ID: hfSXXXBRBl
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43
ななしのよっしん
2016/07/04(月) 04:04:32 ID: iHvO+nQH0n
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44
ななしのよっしん
2016/07/16(土) 17:59:39 ID: RMsHJxR3lP
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45
ななしのよっしん
2016/07/27(水) 14:46:57 ID: iHvO+nQH0n
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>>44
いやー、それらの時代って悪政が発生した、とされてる時代なのに
そんな事を言われてもねえ?と。
呂興の乱なんかすぐに、本人が暗殺されてるし、鎮圧自体も
晋軍が来てる状況なのに関わらず、
呉側が一年くらいで勝利してるし、
そもそも反乱がどうとか言うなら、
魏自体が曹操時代から反乱祭りだろう、と。
魏は君の理屈ならもうボロボロって事になるんじゃないかい。
そもそも君が言ってる孫峻などをはじめとして、呉の皇族が
国政を統括する事が続き、結局皇帝孫休が皇族の権臣を粛清し
国政を統括したけど、しばらくして急死したので、
その息子が幼年では無理だろうから、成人してて英明な君主を、
という事で孫皓が即位したわけだし、
孫策の後で孫権が即位したのと基本的に理屈は変わらない。
そもそも交州戦役は普通に呉の勝利で終わってるし、命令違反多発、
と呼べるほどの状況でもないと思うんだけど。
君の言い方で論じるなら、魏なんかとっくに世紀末だろ。 -
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46
ななしのよっしん
2016/07/30(土) 21:13:45 ID: RMsHJxR3lP
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交州騒乱は1年なんてもんじゃなくて263年に独立、その後準備と外交工作期間を経て、完全鎮圧(というか晋に取られてたから奪還というべきだが)できたのは271年で、8年間にわたる大動乱だよ。この規模の大反乱なんて魏でも蜀でもないよ。
さらにいえば鎮圧できたから大したことじゃない、なんてのはありえない。起きるという時点で既にそれなりの原因があるということであり、この場合それは呉の伝統的な中央統制力の低さに他ならない。
あと孫権は「孫策の指名で」次の君主に指定されたのであって、権臣から擁立され皇帝になった孫皓とは全然意味が異なる。魏でいえば曹叡と曹奐ぐらい違う。そちらの状況で考えればその意味はわかるはず。
命令違反に関しては李勖の例が顕著だが、「作戦の途中で君命を無視して独断で帰還し、しかも反対した同僚を勝手に殺害している」んだから、これをナメられてるといわずに何というのか。
孫皓が強固な独裁制を敷いたのは間違いないが、それはこういった状態から剛腕で無理やり独裁体制にもっていったからで、まあそのせいで各地でその反動として反乱や造反が続発することになったわけだけども。 -
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47
ななしのよっしん
2016/08/02(火) 16:45:55 ID: iHvO+nQH0n
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>>46
実際に、君曰く最悪状態になってる呉ですら
普通に鎮圧できちゃってるわけだしなあ。
>さらにいえば鎮圧できたから大したことじゃない、
>なんてのはありえない。
>起きるという時点で既にそれなりの原因があるということであり、
>この場合それは呉の伝統的な中央統制力の低さに他ならない。
これってモロに曹操陣営及び魏に対するブーメランだよね。
曹操時代から、魏の時代に至るまで、何度中央転覆計画や
領内反乱がおきまくった事か、数えるのも馬鹿らしいと思うんだけど。
いや、幼君はダメだから、成人したまともな君主に譲る、ってのは同じじゃないか。孫策の場合は、重傷を負ってからしばらく生きてて
孫権に譲る時間を持てたけど、孫休さんは急にしゃべれなくなって
そのまま死亡、だからそんな事できるわけもないし。
なんか結論ありきすぎないかい。
魏では曹爽が皇帝ないがしろにしてるし、司馬一族が皇族を
軟禁しまくってるけどねえ。
さらには地方官達も独自に勢力の扶植に努めてるしねえ。
孫休時代には結構政治的に安定してる状態だったし、
孫皓のは中央独裁体制にもってったも何も、病死した重臣の
遺族を迫害しようとしたり、
そもそも同族の皇族を迫害しまくってたり、
やたらと自身の血統を正統化しようとしたり、と
なんかやってる事が明らかに君の言ってる事と違うだろう。
中央独裁体制も何も、皇族を迫害しまくってどうすんだよ。
結局、当時の呉では皇族というか、孫一族の権威と権力が高くて
地方豪族の連合体制、というのとは違ってる状態になってるだけだろうに。 -
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48
ななしのよっしん
2016/08/04(木) 14:12:15 ID: RMsHJxR3lP
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丁奉の記事だからもう大概にしとくが、俺は呉の豪族の強さと孫家の権力の弱さについては認めるけども、魏がそれの真逆だなんて一言もいってないよ。
歴史の流れで言うと後漢~西晋時代は後の貴族性への過渡期にあたり、土地を実効支配する豪族が強いのは呉も魏も同じこと(蜀はやや例外的だが)。「皇帝一族が最も強大な豪族である」というのと、「豪族連合体制である」というのは別に矛盾してない。
そしてこの在地豪族の強さ自体は孫権のころから孫皓に至るまで、いやそれどころか東晋の時代まで変わってない。
そして中央集権化に対して、各地に封じられた皇族は(場合にもよるが)むしろ邪魔な存在。呉楚七国の乱に至る経緯とそれからの漢の対策、またこの後の八王の乱を見てもわかるでしょう。迫害も自身の正当化=権力強化もそりゃするよ。 -
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49
ななしのよっしん
2016/08/18(木) 18:46:53 ID: iHvO+nQH0n
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悪い、中々書き込みできなかった。
>>48
呉楚7国の乱とか、漢の政策とかは、天下や自分達の権威が
安定してきてから起こったものだと思うんだけど。
漢は当初は異姓王を次々に倒してその領土を一族に分け与え、
各地の王に封じて、それぞれの地域の差配と安定を任せた。
そして劉氏たらずば王たらず、というのを国定にまでした。
でも、皇帝の地位や権力が安定してくると、
そういった同姓王達の存在も中央集権には邪魔になってくる。
そして同姓王達の領土を削っていこうとしたら、反乱された、と。
このように、まだ皇帝の地位や権力が安定してない状況では、
むしろ一族を優遇したり、差配を任せたりして、
助け合っていく、というのは基本的なパターンで、
それを必要としない程に皇帝権力や地位が安定すれば、
今度は一族の勢力削減に、という感じで移行していく。
そう考えれば、孫皓のやってる事は、自身の権力が少なくとも
配下からは脅かされない(実際に脅かされなかった)状態にまで
なってる事からの、一族の勢力削減・迫害行動へのシフト、
であって、これは当時の呉の皇帝権力の強さを示すと
思うんだけどなあ。実際に孫皓の様々な行いに、豪族達は
悲鳴をあげたけど、結局内部から打倒も掣肘も出来なかったわけで。 -
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50
ななしのよっしん
2016/08/23(火) 21:17:08 ID: hfSXXXBRBl
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51
ななしのよっしん
2016/09/05(月) 09:41:46 ID: iHvO+nQH0n
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52
ななしのよっしん
2017/01/26(木) 16:50:19 ID: cEbGs3UA4j
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53
ななしのよっしん
2017/04/26(水) 23:58:07 ID: hfSXXXBRBl
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>>51
散々ID: RMsHJxR3lPが書いてるけどそれで実際に、本当に、絶対的な権力が確立してたなら
豪族達(一人や二人じゃない)が直言したり命令違反したり
王ではなく豪族が主導の反乱が起きたりしないでしょう
権力が確立して無いのを段階を踏まず無理矢理確立するためにそうしたのではという>>46の話
というかそもそも皇帝の主導権だけじゃなくて
丁家と他の豪族との名声・利権のバランスも絡んでくる話では
丁家以外の豪族からしたら
皆で孫家を支えて成り立っている政権で
同じ支える側・同じ立場のはずが自分より明らかに権力があって上から命令してくる
なんてのは気にくわないだろう
それが孫晧の重臣粛清に対して後から散々扱き下ろされているのにも関わらず
丁奉の遺族の強制移住に一切言及が無いという行動に繋がってるのではというまあ、ただの推測 -
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54
ななしのよっしん
2017/08/06(日) 21:43:00 ID: iHvO+nQH0n
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>>53
>豪族達(一人や二人じゃない)が直言したり命令違反したり
これに関しては、魏とか反乱祭りだし、
直言に関しては、むしろそれをするのがよき名士、って感じで
やはり皇帝に対して様々な諫言をしている臣下は
魏にもたくさんいるわけですしねえ。
少なくとも、他の魏蜀と比べて劣るような権力だったとは
到底思えないように思うわけですしねえ。
その話をする場合には、丁家が果たして丁奉亡き後に
その地位を引き継ぐ予定だったのか、というのも問題な気が。
なんだかんだと丁奉死亡後の丁家に著名な人物はおらず、
丁奉生前から丁家が司馬一族がそうだったように、
各要職を抑えていたのか、というとそうでもないように
思われるわけですしねえ。 -
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55
ななしのよっしん
2017/08/06(日) 21:44:46 ID: iHvO+nQH0n
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ななしのよっしん
2017/11/11(土) 00:56:42 ID: fs//Rhn0Oi
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57
ななしのよっしん
2017/12/29(金) 23:25:10 ID: iHvO+nQH0n
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58
ななしのよっしん
2019/05/14(火) 17:20:27 ID: +LKhzU/WpO
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59
pawa
2019/10/24(木) 00:59:57 ID: RGYrartUo/
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ななしのよっしん
2020/10/03(土) 09:04:55 ID: LBBjiTnAAZ
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