会津
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ななしのよっしん
2018/11/13(火) 18:28:00 ID: sw0OJ6gQWa
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ならぬものはならぬのです!→ぐえーしんだンゴw
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ななしのよっしん
2018/11/13(火) 21:47:21 ID: hvq8ZlAmRs
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いい加減諦めてほしいんだが
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ななしのよっしん
2018/11/13(火) 22:02:19 ID: VbmDOtaFDs
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ななしのよっしん
2018/11/18(日) 13:02:52 ID: lvm1MfN/KB
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ななしのよっしん
2018/11/20(火) 00:01:15 ID: WW5/VqRSok
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ななしのよっしん
2018/11/20(火) 20:54:58 ID: tmPH9l9Rj5
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ななしのよっしん
2018/11/21(水) 12:48:00 ID: GGm4RdxfON
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ななしのよっしん
2018/11/23(金) 20:28:50 ID: IFyq5GDzqe
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ななしのよっしん
2018/12/09(日) 16:10:08 ID: AOYH2ygsJt
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ななしのよっしん
2019/01/06(日) 14:37:56 ID: DP7xyHjLY8
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ななしのよっしん
2019/01/22(火) 21:17:47 ID: 4txsn+IBkF
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ななしのよっしん
2019/01/31(木) 21:54:49 ID: sw0OJ6gQWa
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ななしのよっしん
2019/01/31(木) 22:13:05 ID: l2Tq52ilfa
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ななしのよっしん
2019/02/03(日) 22:12:39 ID: tmPH9l9Rj5
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ななしのよっしん
2019/02/06(水) 22:33:27 ID: R+pXEk4Xws
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ななしのよっしん
2019/02/07(木) 13:48:54 ID: l2Tq52ilfa
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ななしのよっしん
2019/02/08(金) 18:23:36 ID: QR0r+7gmLL
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ななしのよっしん
2019/02/08(金) 20:11:50 ID: l2Tq52ilfa
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ななしのよっしん
2019/02/08(金) 21:32:50 ID: g0AEJFOLWB
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ななしのよっしん
2019/03/08(金) 18:20:09 ID: 4txsn+IBkF
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ななしのよっしん
2019/03/09(土) 10:16:37 ID: 2fJUze2V1W
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>>118
江戸時代は武士だけが政治に携われました
そのため藩内で起きる出来事はすべてその藩の武士に責任が有るとされました
それは善政も暴政も増税も交通事故も台風も旱魃も流行り病も地震も大雪もありとあらゆること全て同じで、防衛が可能か否かは関係ない、他の藩に攻められたら悪いのは攻められて自分たちに迷惑をかけた藩の侍たちだと庶民は考える時代でした
それぐらい政治と庶民とは切り離されている体制の時代だったのです
だから例えば赤穂浪士の討ち入りの時なんかは、庶民は「なんか浪士が吉良邸に討ち入ったらしい」と気付いていながら吉良邸関係者と火事になったら困るすぐ近所の住民しかそのことを届け出ませんでした
なのに話は積極的に広めて討ち入りの後の浪士の帰路を大勢で見物したり、敵討ちの敵討ちを自重した米沢藩の邸などに石を投げて腰抜けと煽って楽しんだりしました
また幕末に黒船がやってきた時も、大砲の射程内の陸上どころか黒船のすぐそばにまで大勢の庶民が群れるように小舟を出し、取り囲むようにして見物を楽しみました。
中には芸者や幇間まで引き連れて黒船の足元でどんちゃん騒ぎしていたお金持ちもいたそうで、流石のペリーも軍艦で乗り付けたらその銃先で宴会を始めた日本人の反応があまりにも理解しがたく率直に驚いたことを書き残しています
このように庶民のほとんどにとっては「戦争は政治の一部なのだからもし戦争が始まるとしてもそれは武士と武士(や外国)の間で起きるのであって自分たちには関係ない」であり、時には高みの見物の対象ですらあったのです
なのに幕末の会津藩は京都警備などのため他の藩と同様に高い税額を庶民に課し、更にそのうえ領内で戦争を行い言葉も通じ難い他藩の者たちを常駐させ好き勝手行動させるとは何事かと。
それを税が高いと怒ったと言えば現代人には理解が難しいですが、当時としてはそのような感覚を庶民が持っていたことは全く普通であり、原因が新政府軍、会津藩、不可抗力の何れでも不満の責任は全て会津藩やそのお殿様(松平容保)に求められたのです
新潟県の長岡市において(殿ではないが)河合継之助が維新後の一時非難の対象になったのもこの庶民と政治の乖離が原因です
こうした状態が転換し庶民と為政者の間で同郷人意識を共有するようになったのは、日本が一体性を重んじる中央集権国家へと転換しそれを支える皇民教育が国中に浸透した明治後期から大正頃にかけての事です -
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ななしのよっしん
2019/03/10(日) 12:18:36 ID: euB1b8muSl
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会津の国境の攻防戦で、官軍勝利の決め手になったのが石筵村の住民による道案内だし、地元の領民=味方というわけではないわな。といっても石筵村としては会津軍に村を焼かれてるから敵になって当然だろうが。
あと領民が怒ったのは重税以外にも会津藩の不甲斐なさにもあったと思うわ。
勝敗は兵家の常というけど、会津軍は地元の戦いなのに抗戦を続ける伝習隊を置き去りにして逃げ出したり、猪苗代城では籠城も試みずにそそくさと撤退したり、なぜかアウェーであるはずの官軍よりも全体的に行動が遅かったりと「?」と思う行動が多い。あの会津大好きの星亮一ですら苦言するレベルで。
当時の会津の領民としても「こっちは重税を払ってきたのにこの負け方はねえだろ」と思うところはあったと思うし、会津藩としても敗戦後に官軍から提示された地元の猪苗代転封を蹴って斗南転封を選んだあたり、郷土からの風当たりが強いのを実感してたと思う
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